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   自 画 像
portrait 明和3年(1766年)佐久郡臼田村北村滝五郎吉房の子として生まれる。
 幼名は小伝次、諱(いみな)を安貞また以信(ゆきのぶ)と称し、雅号を玉隆という。 
 父吉房は玉水と号して画業を好くした。小伝次も幼より父に習って絵筆に親しみ、14歳の時父に死別、その後小県郡和田村羽田燕恪(えんかく)に師事した後、天明8年23歳の時江戸に出て狩野玉栄の門に入り、刻苦勉励、その画法を学び、抜大いに進み、師玉栄より玉の一字を許されて玉隆を称し、幕命によって平安仁和寺(御室御所)の絵師となった。この間文化元年10月2日法橋(ほっきょう)位を賜り、文化10年2月22日法眼位を賜るという名誉を得ている。
 文政9年11月16日ついに病をもって没す。享年61歳。
   法名 礼章院法眼玉隆丹燕廣司以信居士
(以上 62年3月臼田町文化財調査委員会資料による)


【法橋、法眼】
 法橋、法眼はもと僧侶の位として定められた法印、法眼、法橋の三階級が後世儒者、仏士、医師、画工等にも適用された名誉称号である。