物心つく前から、僕の家では三味線と琴の音色が響いていたんだな。
   何より印象的なのが、調弦をしている姿と、いきなり唄いだす姿なんだ。

   三味線は、津軽でも沖縄でもなく、あくまで古典邦楽だが、古典には
   ロック用語で言う、ある種のダルがあって、琴に関しては、ニホンジンの
   リズムのツボをつくタイミングと、テクニックに関してはものすごい
   フィンガリング奏法なんだな。

   そしてよく「お琴をまたいじゃいけない」と怒られたもんだな。そのせいで今も
   楽器をまたぐなんてことは出来ない。これはトラウマなのだろうか。

  

    音楽の詩、また世界に限らず、「月」というモチーフはよく使われる。

   それは時にはロマンチシズムであったり、第三者的な物体であったり、
   生命体の比喩であったり、未知なる物への精神的(希望、逃避、冷徹さ・・・)
   な象徴であったり、人間以外の客観的な静物であったり・・・。

   それはそれでこれからもそうあり続けるであろう、太古よりそういった惑星だ。

   同じく太陽もまたそのように多種に渡る象徴だったりする。
   そしてそれが人間に何がしかの説得力を与えたりもする神秘の宇宙が生んだ産物だ。

 

   そんな中でもとりわけ僕の中では、日本的なというより、古典でよく恋歌というものが
   あるんだけど、いわゆる月の晩に逢引しあう男女間の心情的な歌が印象的だった。
   その中で月という位置がとても普遍的なんだな。

 

 

   日本が欧米の音楽に影響される前からの、そういった
   普遍性をもったモチーフってとても貴重だと思うんだ。
   そして同じように、海の向こうの音楽でも、月はまた同じような
   テーマやモチーフとして使われているんだ。これって人種や言語
   の壁を越えた人間としての意識の共鳴だ。

   今夜、ザ・バンドのCAHOOTS(カフーツ)の7曲目、
   The Moon struck one を聞きながら、
   対極にあるのかもしれないマーク・トゥエインか、宮沢賢治を読んで、
   ノスタルジックな気分を「月」という橋で神秘的な世界と宇宙とを
   サイケデリックな感覚で結んでみるのも、面白いのだ。

   そう、普遍的なもの、とは、21世紀を生きている僕にも、割り込む隙間があるのだ。
   それは絵画などにも通じる、いわゆる「共鳴」なのだ。

                     

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