4.1 手稲鉱山

(前田北小学校 郷土史「まえだきた」、郷土史「手稲西」より)


金山について 札幌市の最も西に、金山というところがあります。金山は、江戸時代には今の星置とともに星置と呼ばれていました。開墾が始まると、星置川で砂金を取ったり、手稲山から米粒くらいの金を発見する人が出てきたのです。そのうちに、金の取れる場所を金の山、きんざんと言うようになりました。昭和17年になって、正式に金山(かなやま)と名づけられました。

金を掘った人々

明治の初めに、星置の鳥谷部弥平治(とりやべやへいじ)という人が手稲山の中に金鉱を発見しました。しかし、そのころの手稲山は原始林そのものでしたから、金を掘るのは大変なことだったようです。結果は思わしくなく、中止することになりました。

その後、ジャングルのような山で金を掘ろうとする人はいませんでした。

ところが、大正時代になって、山火事が起こったのです。そのために山はほとんどはだかになってしまいました。この時、広瀬正三郎という人が50人の人達といっしょに金を掘りました。金だけでなく、いろいろな鉱石も取れたようです。取れた鉱石は、カマスに入れて軽川駅まで5〜6人の人で運びました。それは、大変な作用でした。

手稲鉱山

昭和10年になると、三菱鉱業株式会社が手稲鉱山を開きました。金山の名にふさわしく、たくさんの金が取れるようになり、そのようすは東洋一といわれたほどです。金や銀、その他の鉱石も含めると昭和14年から16年にかけて、月に6万トンもとれたそうです。

鉱山によって栄えた金山昭和14年ころから、鉱山地域に社宅が続々とつくられました。学校(現在の手稲西小学校)や、ルカ病院、郵便局、巡査派出所、神社、劇場なども建てられました。鉱山で働いている人は、一番多い時で700人にもなりました。

手稲鉱山の閉山

こうして栄えた手稲鉱山ですが、昭和20年をむかえると、鉱山が縮小されはじめたのです。戦争中に掘りすぎたことが理由です。その後、違う会社に受け継がれましたが、金山は火の消えたようなところになってしまいました。とうとう、昭和46年に閉山することになりました。

手稲鉱山は手稲の人口にも影響を及ぼしました。

手稲鉱山が開かれた昭和10年ころから人口が増え始め、最も盛んだったころは仕事もたくさんありましたから人が集まって来たのです。それによって、商業も盛んになりました。


カマス

こくもつ・塩・石炭などを入れるための、わらむしろの袋。