ネットワーク探偵トロンの事件簿 7
ふたりの山科志麻哉と

ひとりのシナジイ



作:ぶんろく

目次
シナジイは魔法使い?
上から読んでも下から読んでも
探偵ヒロシへのシナジイの依頼
再会、別れ。そして再会




シナジイは魔法使い?
|目次|

     刀@2008年10月5日
ぼく――蔵ヒロシ、川辺小学校六年――は自分のパソコンの前に座って、クラスメートのちづるとチャット(みんな、知っているだろうけど、パソコンや携帯端末を使って遠くにいる人と交流することだ)の最中だった。時刻は23時12分。小学生6年生の就寝時間を過ぎているのはわかっている。明日も学校だ。でも、たまにはイイじゃない? お母さんは怒らないのかって? ぼくのお母さんがこんな時間に家にいたら、世界がしゃっくりしちゃう。残業残業残業……。代わりにイラストレータのおとうさんは頼みもしないのに、一日じゅう家にいるけどね。そのおとうさんも怒ったりしないよ。もちろん、朝、きちんと起きないと、頭を踏まれて、でこピンされて、お尻を蹴飛ばされて……。
 ま、ともかく――ぼくはそのとき、ちづるの心配ごとにつきあっていた。なんといっても彼女は、ぼくの公認のフィアンセ――というか、未来のビジネスパートナーなんだから。どうしてフィアンセになったのか? 馴れ初めは? ここで話すには恥ずかしいから、ぼくらが出会った「ネットワーク探偵トロンの事件簿 校庭からでた人骨の謎を追え」を読んでよ。
 ちづるがパソコンの画面の中でふーっと息を吐く仕草をみせた。チャットといっても文字だけじゃなくて、一昔前に「テレビ電話」と呼ばれていたようなものだ。もちろん、都合が悪ければ、画像は消すことができる。変幻自在な使い方ができる。同じプロバイダを使っていれば、通話料も無料だ。画像つきトランシーバみたいなものだ。今は夜だから、音声は消して昔ながらの文字チャットで会話していた。ぼくのハンドル名はTRON、ちづるはdollだ。

TRON シナジイの消息はわかった?
doll それがわからないのよね。もう生きてはいないと思うんだけど

ちづるの家で長いこと執事をやっていたシナジイこと山科さんが突然行方不明になったのは、1週間前のことだった。

TRON 生きていないなんて、ずいぶん簡単に言うね
doll しょうがないじゃない。そりゃわたしだってシナジイがどこかで生きていて欲しいとはおもうわよ。でも、置き手紙を見る限り、どう考えても遺書だし

置き手紙には、長い間お世話になったことを感謝する言葉に続けて、「70年前から魔法をかけて、別の姿になって生きてきました。もうすこしで魔法にかかったままで死ぬことが出来たのに、魔法が解けてしました。だから、魔法をかけた場所に行かなくてならない」と書いてあった。ようするに何ながんだかわからない。

TRON 警察からなにか連絡はないの?
doll なにも――というか、今日も電話がったみたいだけど「まだ見つかりませんか」だって。家出人捜索は余り熱心じゃないという話はどうやら本当だったみたいね。特に今回は「遺書」みたいなものがあるわけだから、そのうち必ず発見されると思っているようだわ。
TRON そのうちって、つまり、シナジイが死んだらってこと?
doll そうよ! そう言われた瞬間に、わたしは完全にキレタわ(^^ゞ そうならないように警察に届けているっていうのに。それに行き先が外国のようだから、警察では、どうにもならないなんてことまでいうのよ。アッタマキタカラ、奥歯をぐっと噛み締めながら、ソ・レ・ジャ・ド・ウ・ス・レ・バ・イ・イ・ン・デス・カッ! わたしは小学生だから教えてくださいと聞いたの
TRON 警察の人、泣きださなかった?
doll それならまだ可愛いわよ。「外務省にでも相談したら」だって。小学六年生に向かって言うこと!! 自分が代わりにやってあげようというのが「おとな」の責任でしょう。だいたい、そんなことぐらい、小学六年生ならわかるっていうのよ
TRON ちづるは並みの小学生じゃないから doll いまのはほめ言葉として受け取っておくわ。わたしは、背はまだ小さいけど顔だけは広から、入国管理局の記録とか調べてもらったけれど、それらしい人はいない。でも、偽名ってこともあるしね
TRON そんなことまでするかな
doll だって、これまでの70年ちかくをそうやって過ごしてきたのよ
TRON そうか。だけなんでいまごろ……。なにか気がつかなかったの? ちづるのところに来てから長いんでしょう、シナジイ
doll ええ。わたしが生まれる前からずっと。小さいころ、わたしが悪いことして知らん振りを決め込んでいると道のど真ん中でも、映画館でも、ディナーの最中でも、大きな声で「わたしがお嬢様のオムツを変えておりました頃には……」てやりはじめるの。まいったなァ。ふふ
TRON そりゃ傑作だ。でも困ったな
doll なにが
TRON だって、ちづるこの世の中で唯一頭が上がらなかったのがシナジイなんでしょう?
doll そうよ
TRON その人がいなくなったとしたら、放し飼いだね、ちづる
doll がるるるるるる、なんですって!!

え? 執事ってなにかって? 会社社長に秘書という人、それから、芸能人にマネージャーと呼ばれる人が付き添っているのは知っているだろう。社長や芸能人のスケジュール調整をしたりすることが仕事だ。執事は、家の秘書みたいなものだ。
 地元の資産家で駅前に20階建てのビルを所有するちづるの家に執事がいてもおかしくない。それに、ちづる自身も、小学生にもかかわらずおもちゃ会社ドールズ――「ぼくたちの南の島をとりかえせ」に書いたけど、いまはアメリカの会社に権利を売ってしまったヒット商品ネコのカポロンはちづるのデザインだった――の社長をやっていて、シナジイこと山科さんは、ちづるの影となって仕事を支えてきたんだ。
 でも普段は表に出てこないので、ちづるの家にしょっちゅう出入りしているぼくでも、シナジイには数えるほどしか会ったことがない。あまり表情のない人で、表情が動くのは、すごく怒った時と、すごく喜んでいる時の二つだけ。その中間がない人だった。わかりやすいといえばわかりやすい。同級生の啓介は、怒った顔しか見ていないから「あのじいさんは怖い」と言って、憎らしげに「シナジジイ」と呼ぶし、同じく同級生の未来人はどちらかというと「あのおじさんは優しい」という印象を持っている。
 ぼくはといえば、無表情な山科さんしかしらない。ちづるに言わせると「わたしのビジネスパートナーとしてヒロシ君がふさわしいかどうか品定めをしているのよ」というのだが――。どちらかというと、苦手だ。

     刀@2008年10月6日午後1時20分
「で、シナジジイはどこいっちゃったのかな。田舎にでも帰ったか? おい、ヒロシ寝るなよ!!」
 10月の初め、陽射しに殺人的な夏の名残はすでになく、冬到来の前に一瞬だけみせる優しさで、屋上に寝転んでいるぼくらを包みこんでいる。
 給食の後、屋上で昼寝――こんなとは、いまでは主流のネットワークを利用したバーチャルスクールでは味わうことのできない贅沢だ。川辺小学校のような20世紀スタイルの通学型学校は数が少ない。
 それはさておき――。
 昨日夜更けまでちづるとチャットしていたぼくは、朝からへまばかりしている。あやうく、お尻を蹴飛ばされる寸前で起きて、学校へ猛ダッシュしたのはいいけど、階段を踏み外して足をすりむくし、授業中は窓から差しこむ太陽に照らされてウトウトしていて、担任の〈タヌキ〉にコメカミグリグリをされるし、あくびをした口にハエは飛び込んでくるし……。昼休み、屋上へ来て寝転んでいたぼくは、お腹もいっぱいになったこともあって、このままずっといられたらシアワセなんてことをうつらうつらと考えていたところだった。起きあがってぼくを睨んでいる啓介の向こうでは、未来人が片肘をついて寝転んで、こちらを見ている。
 「なんだっけ? あ、シナジイ? 田舎ってどこだろう知らないよ、ぼく」
 「遺書があったんだろう? だから、田舎ってことはないんじゃないかな」
 眠たくてぼやーっとしている僕に代わって未来人が言う。
 「なんでだよ、未来人。知っている場所のほうがいいじゃないか」
 「そうかなぁ。啓介が自殺するとしたらこの町でするか?」
 「死ぬなんてこと、考えたこともないからな。生まれたからには死ぬまで生きてやる――という歌があってさ、おれもそう思っているからな」
 「啓介の信念はさておき、自殺しようって時には、まず、どうやって死ぬかで悩む。次は、どこで死ぬかで悩む。死んでしまえば同じだとは言えないからね。死んだ姿を人に見られたくないこともある。それがましてや、自分が好きだった人や嫌いだった人では決してあって欲しくないと思う。だからね、知らない場所へいって死ぬんだ。でも、知らない場所といったって、死ぬことに適している場所なんてそうそうないからさ、自殺の名所なんてのができるわけさ」
 「じゃ、その自殺の名所をまず、あたってみたらどうなのさ? なんか遺書に書いてなかったのか、北に行くとか海に行くとか?」
 未来人が時間を稼いでくれている間にぼくは頭がクリアになってきた。
 「書いてあった」
 「先にそれを言え!!」
 「ごめん」
 「で、なんて書いてあったんだ」
 「70年前に魔法をかけて、それから別の姿になって生きてきたんだって。もうすこしで魔法にかかったままで死ぬことが出来たのに、魔法が解けてしまったから、魔法をかけた場所に行かなくてならない――って書いてあった」
 「魔法で別の姿になった? 魔法をかけた場所? あのじいさんうさん臭いと思っていたら、魔法使いだったのか」
 21世紀の小学生とは思えないロマンチックなことを言うと、啓介は1度寝転んでから、腹筋を使ってヒョイと立ち上がった。
 「どこなんだ、その魔法をかけた場所っていうのは」
 「中国の奉天、いまは瀋陽っていう町」
 「どっかで聞いたことがあるな――」
 啓介は屋上のフェンスを両手で鷲掴みにしてワシワシ揺らしながら言った。
 「ほら、こないだ、この町にある日本の領事館が亡命者を受け入れたばかりだからね」
 「ああ、あの町か」
 「なんであんなところに行くんだ? 70年前、その町で何があったのさ。未来人、おまえ物知りだから知っているんだろう?」
 「ほめてくれるのは嬉しいけど、残念ながらぼくの守備範囲はそこまでさかのぼらないよ。そういう昔のことは龍野進さんに聞かなくちゃ」
 「あ、そうか!! いま、いるかな。メールしてみよっと」
 ぼくらの知恵袋、龍野進さんは、すぐにやってきた。屋上から見ていると、銀色のヘルメットに日を照り返しながら、エンジンつきキックボードに乗って校門を入ってきた。こないだまではスケボーに乗っていたが、さすがに娘さんに「恥ずかしいからやめて」といわれたらしい。なんといっても八〇歳を越えているんだから。
 屋上から龍野進さんに「いま降りていくから!!」と声をかけて、ぼくたちは階段を駆け降りた。
 「なんだ青少年たちよ? 借金の申し込みと恋愛の相談はお断りだぞ!!」
 「龍野進さんは70年前にも生きていましたよね」
 「失礼な奴だな。70年前といえば、わしゃ紅顔の美青年だ。コウガンは紅顔と書く。間違っても厚顔、ましてや睾丸ではない」
 「そんなことはわかってるって」
 「啓介、いつからそんなに生意気な口をわしにたいしてたたくようになったんだ、え? じゃ、聞くがな、コウガン、金玉のほうのコウガンを漢字で書けるか!!」
 「金玉とかコウガンとか、大きな声で言わないでくれよ、恥ずかしいな」
 たしかに女子もたくさん出入りしている玄関前でする話じゃない。ぼくはあわてて、龍野進さんに聞いた。
 「で、70年前というとなにが一番の思い出ですか」
 「決まっているだろうがっ!! 8月15日!! 日本が戦争に負けた日じゃ。おっと啓介、待ってくれ、日本がどこと戦争したの? なんて、純粋無垢な顔してきかんでくれよ。殴るぞ!!」
 ぷーと膨れた啓介をかばうように未来人が――
朝鮮や台湾を植民地にして、中国に攻めこんで満州という国を作って、東南アジアや太平洋の島、締めくくりが、アメリカ。明治になってから日本の歴史は戦争の歴史だった。戦争して勝つことで、ヨーロッパやアメリカといった当時の先進国にその存在を示してきた。そうした国の植民地にならないようにするための一番手っ取り早い手段が、自分を強く見せることだった。だから戦争を繰り返した。めいっぱい無理をしてでも。それしか、存在証明ができなかったのかもしれない。戦争をしかけられたほうは迷惑だけどね。その総仕上げが、大東亜戦争、太平洋戦争だよね
――などと説明した。
 「さすが未来人、よく勉強している。偉い。自分の持ち物の睾丸も漢字で書けない奴とはおつむのできが違うワイ。だいたい、お前ら――」
 龍野進さんはぼくと、啓介を指差した。
 「その頭、医者に見てもらったほうがいいんじゃないのか? 以前、HALとかいう子の学校の校庭から人骨が出たことがあっただろうが、もう忘れたのか?」
 そうだった――。
 あのとき、校庭から出てきた人骨は、70年前の戦争で東京が爆撃されて町が焼け野原になったときに亡くなった人だった。龍野進さんもその火の渦の中にいて、一緒に逃げていた妹さんとはぐれて……。
 「あ、いや、忘れてたわけじゃないよ。今度は、日本じゃないんだよ。中国なんだ。70年前の中国で何があったの?」
 「あのなぁ、青少年たちよ。ちったぁ自分たちで調べなさい。その上でわからないことがあったら聞きなさい。自分で調べれば忘れない」
 「わかりました。つぎからはそうするから、今度は教えて」
 ぼくたちは龍野進さんに頭を下げた。ちょうどそこへ、校庭で遊んでいたちづるが教室戻ろうと通りかかった。
 「あら、3人してなに謝っているの? 龍野進さんどうしたんです? なにかわるさしたんですか、ヒロシ君たち?」
 「おっ!! ヒロシのおかみさん。あいかわらずべっぴんさんじゃ! なんの悪戯などしていないさ。この3人がわしの弟子になりたいといってな、ほらこうして頭を下げている次第」
 「ちがうよ、ちづる。山科さんのことを知りたくてさ、70年前にあったことを聞こうと思っていたんだ」
 「あ、そうなの。じゃ、わたしも頭を下げなくちゃ」
 頭を下げたぼくらの上を午後の授業開始を告げるチャイムが通りすぎた。
 「続きは、放課後にぼくの家で。龍野進さん先に行っていてよ。おとうさんにはメールしておくから」
 ぼくがそういうと龍野進さんは「ほいよ」といって、ペコペコ……という気の抜けたエンジンを響かせながら学校を出ていった。

上から読んでも下から読んでも
|目次|

     刀@2008年10月16日
山科志麻哉は瀋陽駅舎を見上げた。入口の車寄に差しかけられた軒庇が寺院のように湾曲している。中央ホールの上にあるドームも両翼に立つ塔も健在だった。70年前駅舎の2階には満鉄のホテルがあった。かつては満鉄最大だった駅舎も、いまは、膨張する中国社会に飲み込まれつつあった。中国は忌まわしい記憶につながる証拠でさえ破壊せずに、飲み込んで、消化してしまう。
 (壁はこんな色だったかな)
 山科はまぶたを閉じた。だが、見えるのはモノクロームの壁だけだった。色を思い出せないのは、あの時、降っていた雪のせいばかりではないだろう。あの頃の記憶のすべてに色がない。
 いまいちど駅舎を見上げた。そして駅前広場を振りかえる。あの日は、荷車を引くロバが一頭いた。荷車には駅舎に集まった日本人が食料と交換した所持品が山となっていた。対照的に駅舎の中には、何もなかった。希望もすらも。
 いま、広場にも駅舎のなかにも人が、色が、音が、臭いが溢れかえっていた。
 嗚咽がこぼれるのを押さえるように山科は掌で口を覆うと息を一つ吸いこんで、駅舎に入らずに建物に沿って左に回り込んだ。
 (この先だ。ここに小屋があった)
 だが、そこには、新聞売りの店が立ち、ほっぺたの赤い売り子がこっちを睨んでいる。買わないならあっちへ行けといっている。愛想のない顔だ。
 70年前――。
 そこには小さな小屋が立っていた。吹きつける雪混じりの風に粗末な戸がドタドタと鳴っていた。駅舎の入り口からわずか十数メートルにもかかわらず山科は凍えていた。逃げてくる途中でコートを食料と替えたから、夏のスーツを仕方なく重ねていた。
 山科は寒気に襲われた。目を瞑る。小屋の前に、山科がいた。伸びた足に雪が積もり始めていた。
 ぷぷぷぷーぷぷ。
 いらだたしげなクラクションに山科は我に返った。駅前ロータリーに進入してきたタクシーが歩行者を蹴散らしている。
 山科は愛想のない少女から新聞を買った。少女は山科から金を受け取ってから、嫌々といった風情で新聞を投げてよこした。釣りはいらないと身振りで示すと、ますます眉間のしわが深くなった。当然だ。10円足らずの新聞に100元札(1400円くらい)を差し出したのだから。
 さらに駅舎を回り込み、もうすぐそこが線路際だというところでようやく場所を見つけた。山科は新聞を地面に敷くとその上に腰を下ろした。

     刀@1945年11月16日
奉天駅舎裏で発見された遺体は、所持品から李智星と判明した。しかし、李の故郷、朝鮮は日本から独立を果たしたものの混乱しており、連絡の取りようがない。遺体は凍った中国の大地に埋葬――地面を掘ることができないで地面に置かれた遺体に土がかけられた。

     刀@1945年11月14日
その男は、昭和廿十年十一月十四日、満州、いや、すでにいまは中華民国奉天の満州鉄道駅舎で死んだ。死因は、疲労と栄養失調からくる心停止――男の身体を支配する精神は、生きて祖国の土を踏みたいと思ってここまでの逃避行に耐えてきた魂を押さえつけて、これ以上生きていくこと無理やりに断念させた。死に顔はその無念さを示す様に歪んでいた。駅舎にすし詰めの人間の中で男の死を看取ったのは私だけであった。
 人々は無表情に待っていた。ひたすら待つ――何を? 列車を? なぜ?
 駅舎はレールにつながり、そのレールの先には、祖国があるはずだった。
 戦争に負けたからといって、祖国に帰る必要があるのか。ここは、満州国、独立した国ではないか。ここにいて何が問題なのか。
 そんなことはどうでもよいのだ。私をふくめここにいる人々は、ここにいてはいけないという――盛者必衰の法則にしたがっているにすぎない。この国に暮らしただれもが、自分の生活が欺瞞の上に成り立っていたことを気がついていた。気がついていて、それを口にだすのが怖かったから、ひたすら中国の大地を耕した。
 しかし、満州国で生まれた子供は満州人であって、日本人ではないのではないか。疲れてうなだれている母親の背中でむずかるこどもにとって、日本は祖国であるはずがない。 それは、自分にとってもおなじことだった。わたしにとっての祖国はどこなのだろう。幼い頃に両親につれられ離れた朝鮮半島か? 記憶などほとんどないあの国が祖国だろうか。それともこの満州という場所だろうか。だが、それも怪しい。わたしはここで日本人の夫婦に育てられたようなものだった。日本語は不自由なく使える。わたしがふるさとといって思いうかべる風景は、日本人夫婦が寝物語に語ってくれた、まだ見ぬ日本の山河だ。
 私の膝に頭を預けて眠るように死んでいるこの男が最後に思い出した風景はなんだったのだろう。
 私は、男を抱えて駅舎の外に出た。そこは全てが凍っている世界だった。木も鉄も空気も星の瞬きも、全てが自分の一番鋭利で痛々しい面を見せて凍りついていた。
 わたしは駅舎の横に回り、壁にもたれかけるようにして男を安置した。上着のポケット、ズボンのポケットを探った。札入れと懐中時計、すりきれた手帳があった。山科志麻哉という名前の書かれた引き揚げ証明書が手帳に挟まれているのを確認した。指輪をしているので外してやった。どのみち中国人に指ごと切り落とされるか、日本に帰る奴が土産とばかりに剥ぎ取るに決まっている。私がはずして、手帳とともにこの男の祖国、少し前までは、私の祖国だと言われていた日本の親類に届けてやってもばちは当たるまい。
 私は自分の持ち物を男の上着のポケットに押し込んだ。父母の唯一の形見といえる一族の系図を書いた族譜も男の膝の上に置いた。私、李智星はこうして全てを捨てた。
 鼻の奥をキンとさせながら鼻をひとつすすりあげると、わたしは駅舎にもどった。先ほどまで、わたしと死んだ男が先ほどまでいた場所には、べつの人間が死んだように眠っていた。

     刀@  1946年2月
 船倉から甲板まで満載していた日本人の上陸を確認すると、船長は白い布に包まれた木箱を抱えて船を下りた。
 李智星のわずかばかりの所持品と遺髪が日本に引き揚げる人たちを乗せた奉天から大蓮に向かう列車に託された。託した人間の無知が原因だった。朝鮮と日本が陸続きだと思っていたのだ。
 差し出し人も宛て先もない、ただ、包みの表に「李智星遺髪・遺品」とだけ書かれたその包みは、奇跡的に日本の大地を踏むことになった。日本の支配から解放されて喜びに沸く朝鮮半島出身者の名前が書かれていることが幸いしたのかもしれない。
 故郷日本に帰りついた、李智星は引き取り人不明と言うことで、無縁墓に埋葬された。こうして皮肉にも山科志麻哉は祖国の土に帰った。
 同じ頃、朝鮮半島の李の出身地(本貫村)では、一族の長老が、日本人に連れて行かれたま行方が知れない李一族の名前の脇に「満州にて行方不明」と書き入れた。

     刀@  2008年9月20日午後10時
 山科は出版社から転送されてきた葉書きを読み終え、老眼鏡を外すと、冷えた茶をすすった。
 書斎の窓からは規則正しく明滅しながら眠りにつこうとする都心が見える。山科は再び葉書きに目を落とした。

前略 貴社より発行されている雑誌『DOLLs』の一読者です。2月号の特集記事「おもちゃ界のカリスマ。天才小学生社長の次の戦略」を拝読しました。さて、その記事の中に、社長に仕える山科志麻哉という方が登場しておられました。顔かたちに当時の面影はないのですが、子供自分を過ごした満州長春で、父の勤務先の満鉄社宅にいた人と同姓同名のため、おどろきました。「上から読んでも下から読んでもやましなしまや」と、自己紹介され、珍しいので一度でおぼえてしまいました。満鉄経理課に勤務されていて、父が時折口にしていた氏の豊かな才能は、天才少女の後見人として、日本の玩具界の雄を支えるお立場に通じるものがあるように思います。生年から判断しても、私の記憶の中の山科氏に違いないと思われます。ただ、経歴には満州の事が書かれていませんでした。引き揚げの時に私たち家族はなんとか無事に帰国できました。父も母も他界しましたが、生前、山科氏のことを気にかけていました。ご確認いただき、ご一報いただければ幸甚に存じます。ちなみに父の名は満鉄長春支社総務課木村充、私は一子晋です。 草々

 とろりとした都会の夜空を切り取る窓ガラスに映る自分の顔を見て「木村さん、わたしはあなたのことなど知らない」とつぶやいた。
 (あなたも、わたしのことなど知っているはずがないんです)
 (わたしの名前が上からよんでも下から読んでも同じだなんて、いまはじめて知りました)
 鼻から苦笑いを押し出すと、山科は自分が死んでいたことを、このとき突然思いだした。70年以上も忘れていた自分の死。だが、それは山科志麻哉の生であった。
 だが、この掌さえ隠し切れない葉書きが、自分の死と山科志麻哉の死を私につきつけている。
 (さて、どうすればいいのか)
 山科は生涯独身で妻もいない。窓に映る半透明の部屋には、ペットや観葉植物など山科に能天気に生命を委ねる存在も何一つない。
 (やましなしまや、か)
 ただひとつ生きている山科もまたガラス窓に半透明の姿を映している。

     刀@1946年3月5日
山科を乗せた船が接岸したのは九州の佐世保という港だった。
 目の前の日本は、外地にあった「日本」とはまったく別のものだった。
 ここの日本人は威張ってもいなければ、悲しみにひたってもいなかった。皆一様に貧しい身なりと、くたびれた軍服姿がなければ、先日まで戦争があっとは思えない。戦争で死ぬ恐れもなくなったから、生きることが前面に出ている感じだった。
 私が満州で「日本人」として受けた教育は、皇国のために死ぬ、命を捧げる、国の柱となると、死ぬことがモラルの基礎にあった。
 いまはそれがない、生き延びても恥とはされない。後ろ指も差されなければ、非国民とも言われない。
 ボロボロのくせに活気に溢れた光景は、何百万の命を犠牲にした戦争の後というよりもちょっとした地震や大きな自然災害の後といってもいいぐらいだった。
 日本への帰国は滞りなく行われた。私は晴れて山科志麻哉になった。
 そして私――山科は、自分の故郷東京に向かった。
 佐世保から東京へ向かう車窓にひろがる、色彩り豊かな山の緑と温そうな水面は、半島で生まれ中国で育った私の目を楽しませた。それはまっすぐな地平線、まっすぐ伸びる針葉樹を見て育った私にとって、すべてが曲線でできている世界だった。
 「おー、富士山だ」
 佐世保をたって数日後、向かい座席に座った女が突然窓の外を指差して、膝の上に抱いている子どもにいった。
 「ほら、あれが富士山だよ。きれいだねぇ」
 女はそういうと目のふちに溜まった涙を拭った。
 たしかに綺麗な山だ。
 奉天にくらべると、焼け野原だということを差し引いても東京は貧相な町だった。
 満州随一の商業都市として繁栄していた奉天はレンガづくりの町だった。2階建て3階建ては当たり前。それが、どうだこの町は!! トタンや木の破片で作られている。奉天の町外れにあった苦力たちが住む町でさえ、土のレンガでできていた。
 山科は引き揚げ証明に書いてある、住所――深川区三好を探した。
 そこには町ができつつあった。だがそのなかに、私が住んでいたはずの家はなかった。
 炭が積もった地面を眺めていると、女が声をかけてきた。
 「あんた。もしかしてしまちゃんかい?」
 振りかえると、人影ない。視線を落とすと、背中から顔を生やした老婆がいた。すっかり腰が曲がって、首をねじるようにして私を見上げていた。私は腰を落とし、老婆の顔を覗きこみ、無邪気に小首を傾げて見せた。
 「しまちゃんかい?」
 老婆の二度目の問いかけにうなずくと老婆は泣き出しそうな顔になった。
 「おぼえてないのも無理ないよぉ。あんたがこの家を出ていったときには、わたしもこんなに干からびちゃいなかったからね」
 老婆は自分の顔の歯のない口でフホフホと笑った。
 「あんたのおっかさんと仲良しだった豆腐屋のおばちゃんだよ。思い出してくれたかい。良く帰ってきたね。生きていて良かった。子供のころから利発そうな顔だったけど、面差しがちょっと変わったねぇ。苦労したんだね。そうに決まっているさ」
 老婆の質問には答えず、私は、焼けた地面を振り返り、背中で老婆に尋ねた。
 「僕の家は?」
 「ああ、知らないんだね。5月の空襲で焼けちまったのさ。その時にあんたのおとうさんもおかあさんも……。お骨は、あんたとこの菩提寺がわからないから、とりあえず、白河町の明心寺さんにあるからね、はやく会いに行っておあげ」
 「ありがとう」
 私は、寺の帰りによっておくれという老婆に別れを告げて、老婆に教えてもらった道を寺に向かった。
 老婆の口ぶりからすると、寺は私とは無関係のようだから、僧侶が顔を知っていることはないだろう。
 住職は、私を疑いもなく受け入れた。「引き揚げですか?」と尋ねられたので、頷くと「ご苦労されたことでしょう。お疲れさまでした」といって、庫裏へ帰っていった。
 (あなたがたの息子さんの山科志麻哉は奉天で死にました)
 小さな壷に報告をし、庫裏へ入って住職にこれまで骨を預かってくれた礼を述べ、家が焼かれたので、もうしばらく預かってくれないかというと、承諾してくれた。

探偵ヒロシへのシナジイの依頼
|目次|

     刀@2008年10月16日
山科志麻哉は、2008年10月16日、中華人共和国瀋陽駅舎裏で死んでいるのが発見された。
 とはいうものの、発見時には身元を示すようなものを所持していなかったため、身元が知れたのは二日後だった。死因は服毒死。現場の状況から自殺と見られた。みつけたのは、真っ赤なほっぺたの新聞の売り子だった。彼女は警察に「最初から怪しかった」と言った。釣り銭のことは言わなかった。
 警察は着衣から、日本人もしくは韓国人と考えたが証拠が何一つなかった。しかたなく、顔写真をそれぞれの領事館に送りつけた。同時に市内の宿泊施設にチェックアウトをせずに帰宿しない外国人がいないかどうか報告するように通達した。
 最初に気がついたのは、日本領事館にいた、ちづるの会社ドールズの社員だった。かれは、会社の裏方の山科に会ったことがないのだが、地元警察から回ってきた写真の顔から想像できる年格好は山科だと思われた。早速、携帯電話に附属しているカメラで写真を複写し、東京のちづるのもとに転送した。
 「山科――。シナジイ」
 眠っているようなシナジイの顔をみると、ちづるは自分の部屋に閉じこもってしまった。
 だが、ちづるを部屋から引きずりだしたのもまた、シナジイだった。ちづるは元気を出せといわれているような気持ちだった。
 ちづるの部屋のドアが遠慮がちにノックされ、母親が顔を覗かせた。
 「シナジイの遺書が見つかったそうよ。瀋陽にいる社員がファックスで送るかどうするか聞いてきているんだけど……」
 山科の遺書は、警察が手配していた宿泊施設のほうからの、ひとりだけ行方不明の外国人客がいるという報告だった。部屋に入ると、テーブルの上に、封筒が二つ置いてあった。一つはホテルの支払いが入っており、もうひとつは日本領事館宛てになっていた。
 遺書は、地元警察が検分した後、日本領事館へ届けられ、ちづるの部下に渡された。社員はちづるに電話で許可を得てから、ファックスで東京へ送った。
 一読したちづるは、いつも用意している出張用バッグを掴むと、山科を迎えに家を出た。

     刀@2008年10月19日
夕食を終えて宿題を片付けている時に、ちづるから中国にシナジイを迎えに行くというメールが入った。どうやら夜遅い飛行機の空席に滑りこんだようだった。うまくいけば明日の午後には、シナジイに再会しているだろう。
 ぼくの机のディスプレイにはライブカメラが捉えた瀋陽――奉天の駅が映し出されている。真っ暗だ。駅前にパチンコ屋とコンビニがないせいだろうか?
 なんで山科さんはこんなところで死んだりしたのだろう。
 残念ながら、その謎を解いたのは、ネットワーク探偵の僕ではなくて、シナジイ本人だった。

ちづるお嬢様、ご迷惑をかけます。天涯孤独のわたしは、日本で死んでもどこで死んでも、ちづるお嬢様に迷惑をかけるのに違いありません。オムツを取り替えたことに免じてお許しください。

 (ちづるは機内の小さな照明でシナジイの遺書を読み返していた。遺書は死者からの手紙とは思えないほど軽い調子で書かれている。シナジイの飄々とした生きかたそのものだ。遺書はかなりの長さがあった。それもそのはずでシナジイの一生が書かれていた。遺書の中からちづるに語りかけてくるのは、ちづるのまったく知らないシナジイだった)

なぜ、わたしが死んだのか――。ちづるお嬢様をはじめ、おそらくヒロシ君やほかの方々も首をかしげておられることでしょう。
 少々長い話になりますが、お付き合いください。
 私の本当の名前は、李智星といいます。両親は朝鮮半島の京畿道の出身で、父の名前は李範根、母の名前は金英寶といいます。
 当時の朝鮮半島は、日本の植民地でした。両親は、日本人が経営する金物屋で働いていました。その経営――たしか、高橋梅吉と奥さんがムメといいました――が、満州に移り住むのにしたがって、奉天に来たのです。
 父と母は、広い満州に点在する開拓村を回って、鋤鍬の類いの農機具を行商しておりました。わたしは、父と母が満州に移る二年ほど前に生まれました。だから、故郷の記憶はほとんどありません。物心ついたときには奉天の路地で遊んでいました。
 両親が行商で不在の間、私は、日本人の経営者夫婦に育てられました。子どものなかった二人はわたしをほんとうに可愛がってくださいました。だから、私は日本語を先におぼえてしまいました。
 日本語で母におねだりをする私を見て母は泣き笑いをしていたと後になって聞きました。
 でも、そうした無作為の傷を除けば、わたしも両親も日本人の経営者にひどいことをされて覚えなど何一つありません。
 しかし、まわりの日本人はわたしたち家族が半島の出身だと分かると、ほんのすこしだけ、態度を変えた。そのすこしが、とてつもなく痛かった。父と母が行商から帰ってきてひどく暗い顔をしているのを何度か見かけましたが、今思うと、きっと、開拓団の人に、チョウセンと罵られて、買い叩かれたか、追い返されたかしたのでしょう。
 私は小学校を卒業すると当たり前のように店の手伝いをさせられた。商売を覚えたのはこの時でした。商売は順調で私も楽しい時期でした。
 しかし、一九四五年の夏、ソ連が攻めこんできました。アジア最強のはずの関東軍はまったくあてになりませんでした。そして、奉天には多くの日本人が逃げてきました。でも、父と母は行商から帰ってきませんでした。
 金物屋の高橋夫妻は一緒に日本に帰ろうと言ってくれました。わたしもそのつもりでした。でも、はぐれてしまいました。日本に来てから、探しましたが、とうとう消息は掴めませんでした。もし、お嬢さまのお友達の「探偵」ヒロシさんにたのめるのならば、いまからでも、さがして、お礼を言って欲しいと思います。
 日本に行こうか朝鮮半島に帰ろうか迷っている時、奉天の駅でその男に出会いました。男は満鉄の社員でした。だけど、知り合って1日もたたないうちに死んでしまいました。彼の名前が山科志麻哉でした。わたしは自分の持ち物を彼にもたせ、代わりに彼の持ち物をいただきました。そうして自分を捨て山科志麻哉として日本に来ました。

 (ちづるを乗せて成田を飛び立った飛行機は、朝鮮半島韓国の上空を通過していた。ソウルだろうか、煌煌と輝やく街が見えたかと思ったら、墨を流したような海の上に出た)

日本に帰ってきて、山科さんのことを調べると、家族は皆さん戦争で亡くなっていることがわかりました。わたしは、正直なところほっとしました。でも、今考えると、あのとき、山科さんのご家族や山科さんのことをよくご存知のかたに出会っていれば、その後の人生はまったくちがったものになっていたでしょう。
 その後、私は山科さんになりすまし、私がすらすらと嘘が付ける様に、過去をちょっとだけ書き換えて、仕事を探し、ちづるお嬢様のお父様と知り合い、その後、ちづるお嬢様のお世話をさせていただいたというわけです。幸せでした。
 それならばなにも死ぬとはないではないか――そう思われることでしょう。実はわたしもそう思っていました(笑)。山科志麻哉のまま、お嬢様方に看取られて死ねるものと思い込んでおりました、あの手紙が届けられるまでは。

 (手紙、それは手がかりを探しているときに、シナジイの自宅の机の抽斗からみつかった。ドールズが発行している雑誌に対する読者からの手紙だった。みつけたとき文面を一読したが、雑誌の発行人を務めるちづるに記憶がないところを見ると、編集部の人間は直にシナジイに渡したのだろう。文面は、シナジイ――いまは別人だと知っているが――の消息を尋ねるなんの変哲もないセンチメンタルな内容だった)

手紙を読んだ時、自分――山科志麻哉が死んでいることに気がついたんです。奉天で亡くなった山科志麻哉さんが、その後の人生を認めてくれるかどうかわかりません。でも、それを報告に行かなくてはと思いました。そして、山科さんに山科さんの名前を返さなくてはならないと思いました。そしてわたしは李智星として死ななくてはなりません。
 みなさんありがとうございました。

 (シナジイの手紙はあっけなく終わっていた。理解できない、とちづるは思った。最後に遺言として、箇条書きが並んでいた)

遺言
一 齢81歳。今日に至るまでのちづるお嬢様ならびにご一家の皆様の情愛に感謝致します。
二 ちづるお嬢様のご成長を見届けることなく先立つ不幸をお詫び致します。
三 自分で自分に書けた魔法が解けた。笑って死にます。皆さんも笑ってください。
四 ヒロシ君、ちづるお嬢様のことをくれぐれも頼みます。未来人さん、啓介さん、そして龍野進様ヒロシ君のことをなにとぞお助けくださいますようお願いいたします。
五 僅かな蓄えは、葬儀の費用に。もし余ったら、わたしの故郷への連絡、山科志麻哉さんのその後の消息、もしできることならば、奉天の金物屋夫婦の消息を調べる費用に当ててください。
六 ドールズに栄光あれ!!

ちづるが窓から外を見やると、飛行機はまだ暗い海の上を飛んでいた。

     刀@2008年10月25日
シナジイはちづるに抱かれて帰国した。
 ぼくや未来人たちも出席してひっそりした葬儀が行われた。葬儀のあと、ちづるはぼくらを集めて、シナジイの手紙と遺言を読み上げた。
 「ちょっと待ってよ。なんで、僕の面倒を未来人や啓介に頼むわけ!?」
 「そんなこと知らないわよ。文句があるならシナジイに言ってちょうだい」
 「そうだそうだヒロシ。シナジイに言われなくてもおれらお前の面倒見ているじゃないか」
 「啓介っ!!」
 「怒っている暇があったら、ヒロシはシナジイからの依頼を調査することだな」
 やはり僕の後見人に指名された龍野進さんがいう。
 「本物の――」
 「ヒロシ君、その言いかたやめてくれない。ニセモノの山科さんなんていなかったんだから」
 「そ、そうだね。ごめん。えーと……じゃ、なんて言ったらいいのさ?」
 「山科さんとシナジイでいいんじゃない」
 「山科さんの消息といったって、死んじゃってんでしょうが。それから、金物屋夫婦だっけ、こっちのほうがまだ見込みがあるな。最後はシナジイの故郷か。これも探しやすいかもしれない」
 「頼んだわよ、ヒロシ探偵」
 「困ったことがあったら相談しなさい」
 ぼくはそっくり返って偉そうに言う啓介の胸を小突いてやった。
 ぼくはこの夜からさっそく調査を始めた。
 (だけど、どこから手をつけたものか……)
 動かせるものなら動かしてみなよ! と威張っているパソコンの画面に、ぼくはため息を吹き付けた。
 (シナジイにしろ、山科という人や金物屋の夫婦にしろ、みな、海外から日本に帰国している。現代だって、海外旅行の時には出国帰国時に審査があるんだから、当時だってあったはずだよな)
 ぼくはまず、戦争中に海外つまり日本が植民地や支配していた地域に住んでいた日本人が帰国したときの記録を探してみようと思った。
 検索エンジンに「満州」とか「引き揚げ」などと打ち込んだ。ヒットしたサイトをひとつひとつ開きながら、さらに有望な情報につながる単語を探した。いくつかのサイトを覗いているうちにようやく「引き揚げ者証明書」「引き揚げ者名簿」というものが存在することがわかった。
 さっそく国会図書館のデータベースにアクセスしたもののぼくはフリーズしてしまった。たしかに名簿はデジタル化されているが、それは原本のページ毎の画像であり、記載されている人名の検索などできない状態だった。画像に取りこんだついでにスキャンして文字データにしてくれてもよさそうなもんだろう。そうすれば、自分たちだって使いやすいだろうに!! 
 (どうしよう。これじゃ、とてもじゃないけど探し出せないよ)
 ぼくは、ココアでも飲んで頭を働かせようと、キッチンへいった。
 「なんだヒロシ、まだ起きていたのか? 今日はシナジイの葬式で疲れているんじゃないのか。大丈夫か」
 おとうさんがチーズを肴にワインを飲んでいる。テーブルの反対側の壁にはイラストがいくつかかかっている。どうやら、どれをクライアントに提出するか考えているようだ。もちろんぼくは、求められない限り、余計なことはいわない。相手はプロなんだから。おかあさんは今日帰りが遅いみたいだ。そういえば、ここ10日ほど顔を見ていない。さっきまでキャッキャ騒いでいた妹の楓子はとっくに寝ている。
 「大丈夫。そのシナジイがぼくに残していった宿題を解いているんだ」
 「宿題? ああ、例の遺言か。シナジイの親類探しと山科さんの消息だったな」
 「あと、シナジイが世話になった金物屋夫婦のこともだよ」
 「で、どうよ? 見つかりそうか」
 「戦争が終わって海外から帰ってきた人たちの名簿があることまではわかったんだ。でも、それが、画像ファイルで、文字の検索なんてできないんだ。引き揚げた人は何十万もいるんでしょう」
 「いや、500万人以上だよ」
 「あああー絶望的。どっちにしても無理だよ」
 「龍野進さんにも言われただろう。無理だといった瞬間に何もできなくなるって。壁にぶつかったときに乗り越えようが回り道しようが、壁を壊そうが、地面に穴を掘ろうが、とにかく前に進もうとする限り、壁はないも同然さ。なんとか探す方法はないか? それを考えるのが探偵さ。誰にでもわかることなら、探偵なんて必要ないだろう」
 「それはそうだけどさ」
 「じゃ、ヒントをあげよう。引き揚げの人たちは、ほとんど船で帰ってきた。つまり、日本のどこかの港、それも確か20くらいの決められた港から日本に上陸した。当然、記録も港ごとになっている可能性が高い。それに、引き揚げ者がもっていた証明書は、いまでいうパスポートみたいなものだろうから、日付けがスタンプされている可能性が高い。あーあ、ちょっとヒントが良すぎたかなぁ」
 ぼくは、ココアを作るのもわすれてパソコンの前に戻った。キータッチももどかしく、ちづるのアドレスを打ち込み、ライブ・チャットを申し込む。
 (頼むから、起きていてくれ!!)
 「まだ起きているの、ヒロシ君」
 (ちぇっ、母さんみたいなこと言う奴だな)
 「ちづるだって起きているんだろう。それより、教えて欲しいんだけど、シナジイの持ち物のなかに引き揚げ者証明書っていうのはなかった?」
 パソコンの画面には、遠足の時に撮影したちづるの静止画像が映し出されている。きっと、パジャマ姿だからだろう。ヒロシも慌てて自分も静止画像を映し出すようにした。いくら見えないことはわかっていても、ヒロシがライブの画面で映し出されていては、覗かれているようで落ちつかないだろうから。
 画像の後ろでガサガサ音がする。
 「あ、これね、きっと。ちょっと待って、スキャンして送るから。だけど、これが何かの役に立つの?」
 「うん、たぶん日本に帰ってきた日付けと港がわかると思うんだ」
 「なるほどね。シナジイが帰ってきた時期がわかれば、ほかの人も見当がつくものね」
 「そういうこと」
 パソコンの画面にちづるの静止画像のかわりに古ぼけた紙が映し出された。「佐世保 廿一年年三月五日」というスタンプが読める。
 (やった!!)
 「ちづる、ありがとう!!」
 「どういたしまして。じゃ、頑張ってね」
 そういうと画面が突然ライブに変わり、ネコのカポロンをあしらったパジャマ姿のちづるが投げキッスを寄越した。
 (はぁ!?)
 ちづるがチャットから落ちて、画面は古ぼけた紙のスキャン画像に変わった。
 (はっ!? なんだいまのは??)
 ぼくは気を取りなおして、引き揚げ者のデータベースにアクセスしなおした。
 海外からの帰国者たちは船で日本全国の港に帰ってきたのがわかったが、中国からの帰国者はほとんどが九州や中国地方の港で上陸していた。
 それでも100万人単位の数になる。
 (ええい、こうなったら困った時の未来人だ)
 ヒロシは、未来人をチャットに呼び出した。ついでに――本人が知ったら怒るだろうが――啓介もいちおう呼び出した。

MIRAI なんだ、こんな時間に
TRON 寝ていた? ごめんね。教えてもらいたいことがあって
MIRAI 文字チャットだと時間がかかるから、ライブ・チャットに変更しないか
TRON かまわないよ

  画面に未来人が現れた。後ろに見える部屋は暗い。でぇー!! な、なんと、未来人もカポロン柄のパジャマを着ている。ひえー。未来人って隠れ「カポラー」だったんだ。よくみると後ろに見えるベッドカバーも――。
 「で、何?」
 「あ? うん、シナジイの遺言のことなんだけどさ」
 ぼくはこれまでにわかったことを話した。
 「つまり、金物屋の夫婦と本物の山科さんをどうやって探すかということだな。ちづるが読み上げたシナジイの手紙では、金物屋さん夫婦とはぐれたあと、シナジイは日本へ行くかどうか悩んでいたようだから、金物屋夫婦が無事に日本に帰ってきているとすれば、シナジイより前だろう。それから中国で亡くなった山科さんは、遺品が帰ってきている可能性がある。それに、山科さんはシナジイとして、つまり李智星という外国人として扱われただろう。もし引き揚げ港の上陸者リストが外国人は別になっていれば、意外と早くみつかるんじゃないか。問題は後か先かだけど、遺体が発見されて、遺品が集められて、送られる。手間がかかる作業だが、生き物ではないぶん早かったとおもう。だけど、朝鮮半島に送り返されていたらみつからないだろうけど。その可能性が高いけどね」
 「なるほ――」
 「おまえら、おれをのけものにして何を話しているんだ」
 画面が半分になって啓介が割りこんできた。
 「別にのけものになんかしてないさ。寝ていたらわざわざ起こすのは悪いから声をかけなかっただけだよ。チャットの誘いは届いているだろう」
 「ふん。ま、いいや。だけど、未来人の言うことが外れたらどうするんだ」
 話の流れに乗っているところをみると、だいぶ前からチャット空間にいたみたいだ。未来人との話に夢中で啓介がチャット空間に入ってきたことに気がつかなかった。
 「そんなこといったらきりがないだろう啓介。なんといっても五〇〇万人もいるんだ。帰ってくる途中で亡くなった人もいるはずだ。啓介のような心配していたら、途中で亡くなったかもしれないから探すのは無駄だということになる。それじゃ意味ないだろう。ぼくたちの使命は探すことなんだ。そのためには、効率を考えなければだめじゃないか。啓介の言うように外れているかもしれない。でも、次に探すときには、対象となる人数は確実に減っている」
 「未来人、お前って奴はポジティブなのかネガティブなのかわからんやっだな。おまけに夜の夜中だというのに、なんだってそうやって理路整然としているわけ? 信じられないぜ。ま、ようするに文句を言わずに探せということだ」
 「その、とおり」
 「で、おれは何を手伝えばいいんだ」
 「手伝ってくれるの? 啓介」
 「あたりまえだろう。シナジイにお前のことをヨロシクと頼まれてんだからな」
 啓介の恩着せがましい言いかたにはちょっとカチンときたけど、いまは猫の手も借りたい状況だからおとなしくすることにした。
 「それじゃ、啓介には、シナジイが入れ替わった人、つまり、山科さんのことを調べてもらいたいんだけど」
 「わかった。それじゃ、中国からの帰国者が上陸した港のリストを送ってくれ。俺はもう寝る、それじゃ」
 ブチッという音とともに啓介はチャット空間から落ちた。
 「口は悪いが頼りになるよ、啓介は」
 「わかっているさ、でも言いかたがいちいちしゃくにさわる」
 「ふふふ。あれで、お前の役に立ちたくて張り切っているのさ」
 「そうかねぇ」
 「ところで、僕は何を手伝えばいいんだい]
 「そうだな。未来人には、金物屋さんのその後を現代で探して欲しいんだ」
 「なるほど。中国で金物屋さんをやっていたから、日本に帰ってきてからも金物屋さんをやった可能性がある。だからそれを探せというんだね。そういえば、シナジイのことばに関西地方のイントネーションが混じっていたって龍野進さんが言ってたね。シナジイは金物屋の夫婦に日本語を教えられた。ということは金物屋さんは大阪を中心とした関西出身と思って間違いないだろう。大阪を中心に探してみる」
 「よろしく」
 「まかしとけ。それじゃお休み」
 未来人もチャット空間から落ちた。

     刀@2008年10月27日
捜索は時間をかければ必ず見つかる――その保障だけはあった。あとは幸運が少しあれば良い。
 最初の幸運に恵まれたのは、啓介だった。
 港のリストを前にした啓介は、港の名前の上にあみだくじを書いて、自分でくじを引いた。選んだ港は下関だった。
 しかし啓介が運を天に任せたのもここまで。その後は満州からの引き揚げ者を乗せた船の名簿を地道にひとつひとつ調べていった。李智星の名前を見つけたのは四冊目の名簿だった。調査開始から二日がたっていた。
 先を越されたぼくとしては、中国それも満州からの引き揚げ者がまだ少なく時期だったこと、それに、外国人、遺品の欄を捜すだけで良かったのだから――と負け惜しみのひとつも言いたいところだったが、とにかく見つかったことは、膨大なリストを前に途方にくれていたぼくの気分をかなり明るくさせてくれた。
 啓介はその後も調査を進め、李さんの遺品が市内の法印寺に葬られていることもつきとめた。
 ぼくがシナジイが奉天で働いていた金物屋高橋夫妻の名前を見つけたのは、未来人と啓介に協力を依頼してから四日が経っていた。
 金物屋の高橋夫妻は山口県徳山港に上陸していた。未来人の推理通り、シナジイよりも二ヶ月早く帰国していた。名簿には本籍地・大阪とだけある。
 早速、未来人にメールを入れた。
 未来人からすぐに調査の進行状況についての返事があった。
 「まず高橋梅吉商店とか高橋商会を探したけれど見つからなかった。大阪とわかったなら、大阪の金物商組合に照会してみる。古いことを知っている人もまだいるだろう」
 未来人の調査結果がわかるまでさらに三日かかった。照会はすぐに受け入れられたが、現在の会員には該当者がいなかった。昔のことを知る長老に問い合わせてもらうのに時間がかかったようだ。なんといっても、世の中のおじいちゃんおばあちゃんのすべてが、龍野進さんみたいにメールやチャットをやるわけではないから。
 大阪の金物商組合からの未来人の手元に届いた報告では――。
高橋梅吉商店は残念なことに30年前に廃業していた。ご主人が亡くなって、奥さん一人では商売を続けられなくなったらしい。家業を継ぐ子どもがいなかったので、その後のことはわからない。ただ、生前の高橋夫妻と交流の会った同業者の話では、中国で商売していたときに一緒に暮らしていた少年の話を良く聞かされたこと。帰国するとき少年とはぐれてしまったことをとても悔やんで、少年の消息を探していたという。
――とあった。
 こうして第一段階の調査が終わったところで、ちづる、未来人、啓介がぼくの家に集まった。
 「すごわね、みんな。シナジイも驚いているわよきっと」
 お父さんがつくったおやつの豆腐ハンバーグガーリック風味を頬張りながらちづるが言った。
 「おとうさまは、これ、すっごくおいしいですぅ」
 「いいねぇ、そのおとうさまっていう言い方、もう一回いってくれるかい?」
 「なにばかなこといってんだよ、とうさんは。運が良かったんだよ。シナジイが見守ってくれたのさ。それに、未来人と啓介が手伝ってくれたから」
 二人をみると、啓介は鼻の穴を広げて自慢気に、未来人は当然だという涼しい顔をしていた。
 「つぎはどうするの?」
 「金物屋さんは2人とも亡くなっているんだから、調査はお終いだな。あとは、シナジイこと李智星さんの親類探しだろう? 未来人」
 李さんの消息をつかんだ啓介が言う。
 「そうだね」
 「シナジイの出身地はどこなの?」
 「たしか京畿道だった」
 ぼくは本棚から世界地図帳を引っ張り出してきて机に広げた。京畿道――キョンギドは、韓国のソウルを取り巻く地域だった。
 「北朝鮮じゃなくて良かった。韓国なら、WEBの尋ね人サイトの掲示板に載せればみつかるよきっと」
 「未来人がいうと簡単に聞こえるけどさ、どうやって、掲示板に書きこむのさ。日本語じゃだめでしょう?」
 「ハングルに翻訳するなんていまどき簡単だよ」
 未来人はエディタで書いた「桜が咲いた」という日本語の文章をWEBのハングル翻訳サイトに貼り込んで――
 「ほらできた」
 未来人が掲示板に載せる文章を作っている間に、啓介は、韓国の尋ね人サイトを検索した。
 いくつものサイトがヒットした。タイトルがハングルで表示されているので、まとめてオンライン翻訳ロボットで翻訳した。
 「どれがいいんだろう」
 「これがいいんじゃないか」
 ぼくのお父さんが、戦時行方不明者捜索専門というタイトルのサイトを指差した。
 「シナジイが苦労した戦争の後に起こった朝鮮戦争の結果、北朝鮮と韓国にわかれわかれになった人たちがいるから、こういうサイトが成立するんだろうな」
 「でもすぐに見つかるかな? 韓国で李という名字は多いでしょう? この尋ね人欄にも、ひとつふたつ……」
 「そうだね。でもここまで頑張ったんだもの、あきらめるのはやめようよ。李という名字は確かに多いけど、生まれ故郷、たしか本貫というらしいけど、それもわかっていることだから、なんとかなるよ。韓国は族譜とい家計図を大切にする土地柄だから、当時の関係者が亡くなっていても、その家計図を引き継いだ人がみてくれれば、みこみはある」
 掲示板に未来人が作った文章をペーストして作業は終わった。返事は、メールで直接来る仕組みになっているから、待てば良い。

     刀@2008年11月
ぼくらの掲示板の書きこみ対して一番多くよせられた情報は、「なんで日本人が、韓国同胞を探しているんだ? わたしたちの親族が行方不明になっているのも元を質せばおまえら日本人のせいだ!!」というお怒りのメールだった。
 最初は無視しようとおもったけれど、「無視するのは良くない。こちらの考えをきちんと伝えるべきだ。そのうえで、相手がまだ怒るのならしかたないさ。それに日本人のせいかもしれないけれど、ぼくらのせいじゃない。それはきちんと言うべきだ。言われっ放しじゃ気分悪いよ」という未来人の意見にしたがって、ぼくらがどうしてシナジイこと李智星さんの親族を探しているのか、順序だてて説明したメールを書き送った。
 僕らのメールのほとんどは無視されるか、配達できないというメッセージが戻ってきた。それでもなかには「そういう事情なら」と協力を申し出てくれる人もいて、ありがたかった。
 そうした人たちの協力があっても、有力情報が見つかるまで数日かかった。それでも、70年という月日と考えれば十分早いと言えるかもしれない。
 京畿道の松原という村がシナジイこと李智星の故郷だった。今も親類が住んでいるという。
 さっそく、ちづるが事の次第を書いた手紙を書き送ると、遺骨を引き取りたいという返事が来た。
 冬休みを利用して李智星さんを故郷に連れていくと連絡すると、李智星がお世話になったかたがたも是非一緒においでくださいとあったから、ぼくたちは、ちづるにくっついて韓国へ出かけることにした。
 ぼくたちがやれパスポートだ、簡単なハングルを覚えようなどと浮かれているあいだも、ちづるは大忙しだった。
 山科さんとして死亡届けを出した人が実は李智星で、李智星として下関の法印寺に埋葬されているのが山科さんだということを役所に説明して、李さんつまりシナジイの遺骨を、韓国に埋葬したいと願い出たのだ。
 かなり面倒な手続きの末――一度聞いたんだけど、ぼくは記憶するのをあきらめた――、許可が出た。
 ところがだ――。
 「大変よヒロシ君。まだ、調査は終わりじゃないのよ」
 「なんだよ。もう調べることなどないはずだよ」
 「それがね、山科さんって、本当はシナジイとおなじ韓国の出身だったのよ。正確にはおじいさんがそうなのね。だから、今風に言うと在日三世ということかしら。明治時代におじいさんが山科さんのお父さんを連れて日本に来て定住したのね。そのとき国籍も変えたのよ。本当に親類がいないかと思って、悪いとは思ったんだけど、シナジイの戸籍をさかのぼって調べたらわかったの。こないだの掲示板、また使ってくれない?」
 「そうだね。それが一番だ。それじゃ山科志麻哉は日本名ということ?」
 「山科さん本人はもう、日本国籍を取得していたから、必ずしもそう言うわけじゃないだろうけど。おじいさんは、済州島からやってきた高貞臣という人」
 「わかった。こないだシナジイを探しているときに、たしかその島の高さんという人がいたから、もしかしたら一族かもしれない。ここまで、幸運が続いたんだからもう一回ぐらいあってもいいと思うよ」
 ぼくは高さんにメールを送った。調べてみるという返事が来たと思ったら、数時間後にふたたび高さんからメールが届いた。メール到着を知らせるアイコンが忙しなく赤旗を振っている。緊急度の高いメールのしるしだ。
 「みつかったよ。なんと我が一族さ。まさかと思ったけど、うちの族譜を調べたら、ビンゴ!! 驚いた。詳しい話を送ってくれるかい。頼むよ。100歳になるじいさんがいて、覚えていると言うんだ」
 幸運のかけらはまだ残っていた。
 ちづるとぼくは、山科さんについてわかっていることを高さんに書き送った。ちづるは山科さんが埋葬された下関の寺にも連絡して遺品がどうなっているか尋ねたが、残念ながら、無縁仏にまとめられたため、不明だという返事だった。住職に事情を話して、「せめてその墓の写真だけでも、親族のかたに送りたい」と無理をお願いして、デジタルカメラで撮影して送ってもらった。

再会、別れ。そして再会
|目次|

     刀@2008年12月26日
そして、冬休み――。
 ぼくたちは韓国にいた。空港からちづるの会社のソウル支社員の原口さんが運転する車でシナジイの故郷へ向かっていた。松原村はソウルから南へ40キロほどのところにある。途中首都ソウルの街中を通りぬけた。舗道を行く人たちの顔はぼくら日本人と変わらない。それでも、目が慣れてくると、日本人よりもバリエーションが少ないように感じた。それから、日本人よりもめがねをかけている人が多い!! 皆同じように、楕円形のレンズのめがねをかけている。それも、印象を似通ったものにしているのかもしれない。
 ついたところは農村地帯だった。日本の農村と変わらない風景だった。
 通り掛かりの村人に道を尋ねながらシナジイの親戚の家を探す。
 土で作った塀に囲まれたその家の前で、日に焼けたおじいさんと小太りのおばあさんがぼくらを迎えてくれた。
 ちづるが、車から降り、車の中で原口さんに教えてもらった韓国語で「長い間李智星さんをお預かりしたままにしていて申し訳ありませんでした。智星さんをお連れしました」といいながら、小さな箱をおじいさんにさしだした。
 おばさんがちづるを抱きしめて背中をとんとんと叩きながら何か言っている。きっと「気にしなくていいのよ。よく来てくれた」とで言っているのだろう。
 ぼくたちは、屋敷の中に招き入れられた。地面より一段高くなった石段の上に、太い木の柱の間を白い土壁で塗りこめた家があった。
 家の中ではたくさんの人がぼくらを迎えた。みな、シナジイの親類にあたるのだという。おじいさんがちづるを紹介し、ちづるがぼくらを紹介した。
 ちづるはシナジイの生前の様子をみんなに話した。目の前にいる人は、誰一人、シナジイのことを知らないはずなのに、涙ぐんで聞いている。
 ちづるの話が終わるとおじいさんが何か言った。
 「智星が名前を借りていた日本人はその後どうなった、といっておられます」
 原口さんが通訳してくれる。
 「それが、不思議なこともあるものですね――」
 ちづるの口から出た不思議な話にその場にいたみんな目を丸くしていた。
 話が終わって、山科さんの墓の写真をおじいさんにみせると、おじいさんはそれをシナジイのお骨の入った箱に入れて、ふたをした。そして、ちづるの顔を見てにっこりと頷いた。
 シナジイと山科さんの二人は70年を経て再開した。シナジイは波瀾に満ちた「山科さんの人生」を語って聞かせているに違いない。
 ぼくたちは、泊まっていけというありがたいお誘いを断り、ソウルにもどらずにそのまま南下して、プサンという都市に出た。韓国ではソウルについで大きな街だ。海の向こうは日本だ。
 ここでぼくらは、山科志麻哉の親族の済州島の高さんと落ちあうことになっていた。プサンから下関に船が出ている。その船で一緒に下関の山科さんのお墓参りをしようということになっている。
 ぼくらはプサンの高台にあるプサンタワーで待ち合わせた。高さんはぼくらを見つけると――小さい子どもがぞろぞろ歩いているのだから一目瞭然だ――、駆け寄ってきて、ぼくらひとりひとりの肩を叩きながら「良く来た良く来た」と言って、喜んでくれた。
 展望台に登って、日本方をながめながら、シナジイが山科さんと一緒のお墓に入ったことを伝えると「アイゴー」と大声で泣き出してしまった。

     刀@2008年12月31日
韓国、そして、下関への旅行から帰ったちづるのもと一枚の葉書きが届いた。差し出し人は木村晋とある。
 (ああ、シナジイを山科さんと思って消息を尋ねてきた人だわ)
 「先日テレビでニュースで、山科志麻哉さんが、中国で亡くなったと知りました。再会ができずに残念な思いです。心よりご冥福を祈ります。木村晋」
 ちづるは葉書きを破り、デスクサイドのゴミ箱に投げ捨てた。
 (あなたのせい!!)
 (あなたが手紙をシナジイに出さなければ、魔法が解けなかったのに!!)
 唇を噛み締め、涙をこらえたちづるの視線の先に、壁にかかったシナジイの写真があった。
 「めッ、お嬢様」
と言っているようだった。【終わり】




5号店メニュー