病室の入口におばあさんの気配が濃く残っていた。いましがたまで、入院中の友人を見舞っていたおばあさんが、二度三度、お辞儀をして帰っていったところだ。見送っていたもう一人のおばあさんも、ベッドの上に正座して、病室の入口をみている。
「どうしたヒロシ」
「えっ? ああぁ、いまでていったおばあさんの別れの挨拶が濃いなァーって」
「濃い?」
「うん。うまく説明できないけど、いたわりとか、名残惜しさとか、いろんなものがこめられていたような気がして……。僕たちの挨拶はバイバイ、じゃぁね、でおしまいじゃない。言葉どおりのものしかそこにないでしょう」
「そういうことか。そりゃ、ヒロシたちは、明日が必ずあるってことを疑っていないからだ。わしら年寄りには、明日は必ずしも保障されたものじゃないからな」
わし――といったのは、ヒロシのメル友の一人龍野進さんだ。八〇歳をこえるお年寄りだが、ヒロシ――蔵ヒロシが通う川辺小学校の食堂で出会って以来のつきあいだ。文字通りの生き字引でもあり、ご意見番でもある。土曜日の今日、ヒロシは入院中の龍野進さんを見舞いに来ていた。
「年寄りは、明日がないかもしれないという覚悟をしながら生きているところがあるんだ。だから、今日は会えても明日は会えないかもしれない。一週間後に会うことなど想像もできない。入院中のご婦人が退院した時に、見舞いにきたほうのご婦人が亡くなっていることだって充分にあることだ。だから、別れの挨拶も、そして、出会いの挨拶も、ヒロシのいうように濃いものになるんだよ」
「それだったら、僕たちだって同じじゃない。交通事故に遭うかもしれないし、火事に焼けだされるかもしれない」
「不慮の事故のことじゃない。予定された死のことだ。年寄りだって、明日死ぬなどとは思っていない。だけど、明日死んでもおかしくないという覚悟はどこかにあるんだ。老いるというなかには、そうした、準備もあるんだよ。ヒロシのように、ようやくジンジロゲが生えてきたばかりの子どもにはわからんだろうがな。うぉー痒い。ヒロシすまんが、左足のももの辺りをさすってくれ、痒い痒い」
ヒロシはギブスで固められている龍野進さんの左足をさすりながら、窓から見える風景を眺めていた。
窓の下半分は、太陽と雨を栄養に緑を一段と濃くした木の葉がじりじりと焼けている。木の葉が反射する光で病室の中が緑になるほどだ。上半分は夏のモクモクした雲と高くて青い空が占領している。もうすぐ夏。梅雨明けを確認したと気象庁がするのも時間の問題だ。
龍野進さんの入院の原因は、駅前の放置自転車だ。一ヵ月前、駅前に自転車を放置しようとしていたおじさんに「ここは自転車置いたら行けない場所だ。おとななんだからルールを守りな」といったら、「なにを、このくそじじぃ」と、ポカスカ殴られ、倒れたところを蹴飛ばされた。通りかかったスケボー少年が助けようとしたんだけど、いっしょに殴られちゃった。幸い、駅前派出所のはなつまみさん――本名は花菊狩人という冗談のような名前だ。はなつまみというのは、人の話しを聞くときに鼻をつまむ癖があるから、ヒロシや友達の啓介がつけたあだ名だ――がすっ飛んできてくれて、それ以上ひどいことにはならなかったけど、足の骨が折れていた。
この事件は、放置自転車に悩む全国の自治体に波紋をひろげた。そして、メディアも大きく取り上げ、政府はついに放置自転車対策を公募することにした。画期的なプランには賞金までだすというのだ。これを聞いた啓介は「そんな案があったら、ノーベル賞もんだぜ」と言い放った。たしかにそのとおりだ。
入院した直後に全身をギブスで固められ、ミイラのようになって横たわる龍野進さんの姿もメディアに流れた。怪我をしても口は達者な龍野進さんは、インタビューに「骨折はどうでもいいんじゃ! この歳になるまで、大切に大切にしてきた、わしの前歯を返して欲しい! わしを殴ったやつの前歯を引っこ抜いて、わしに移植してくれ!」と叫んだ。
放置自転車の撤去案の公募を冷ややかに見ていた世間も、続いて起こったもう一つの事件を境に変わった。それは、東京近郊の住宅密集地にある地下鉄の駅で起こった。
夕方、地下鉄の駅で火事が発生、ホームいた人たちが外に非難した。駅の上にあるスーパーの客も避難した。ところが、駅前には通勤通学、買い物の客が放置した自転車があって、駅の外にあふれ出た人が自転車にからまり、かさなり、ついに死者まででたのだ。火事では、怪我人すら出なかったのにもかかわらずだ。
この事件では、亡くなった人の家族が、駅前の放置自転車の持ち主と、それを放置していた区役所を相手に訴訟を起こした。自転車の持ち主は特定できないが、火事の翌日も性懲りもなく放置される自転車の登録番号を控えて訴訟を起こしたのだ。
裁判はニュースになり、今も続いている。そうしたなか、意外な効果を発揮したコマーシャルが登場した。募集するだけでは無責任と批判されるのを恐れた政府が作ったものだった。男女の人気俳優を起用し、放置自転車をする人はいかに醜いかというテーマで作られたものだった。人気俳優が自転車を放置して振り向くと、なんとなく醜く感じられるように作られていた。ルールとかモラルではなくて、美醜という情感に訴えたところが良かったのかもしれない。存外の効果があり、どの駅前でも三割ちかい減少となった。
しかし、龍野進さんはまだ入院している。
病室の入り口が賑やかになったと思ったら、クラスメートの啓介と未来人が見舞いにやってきた。
「長老、おかげんはいかがですか」
啓介がおどけて挨拶をする。
「あぁ今日の回診のようすだと来週には退院できそうだ。あとは通院で、リハビリすればいいそうだ」
「えー、全治二ヵ月じゃなかったんじゃないですか? すごい回復だ。龍野進さんは若いんですね」
未来人がお世辞を言う。
「龍野進さんしては、まだここにいたいんじゃないですか」
啓介がニヤニヤしながら言う。
「そんなことないぞ。でも、美人の看護婦さんたちとわかれるのは、ちょっとつらい」。
龍野進さんは、看護婦さんのメールアドレスを片っ端から聞き出している「要注意」人物らしい。
「こうして三人揃ったところをみると、おまえさんがたは仲直りできたみたいだな。転校生のほうはどうだ?」
「さっすが、情報通の龍野進さん!」
揃って声をだしたぼくたちに向かって、龍野進さんは唇に人差し指をあてた。
「こら、そんな大きな声をだしよって。ここは病室だぞ」
ぼくらはあわてて、回りを見まわした。でも、病室はお年寄りばかりで、耳が遠い人が多いのか、だいじょうぶだったようだ。
「ちづるさんが教えてくれたんだよ。きょうは一緒じゃないのか」
「ええ、まぁ」
未来人の答えは歯切れが悪い。かれは転校生を巡って、最後までちづると敵対していたからだろう。
「まだ喧嘩しているのか」
「そういうわけじゃないけど」
ぼくらは、転校生に悩まされたこの二週間あまりを思い出して、それぞれに胸に苦い思いが沸き起こってくるのを感じていた。
それは二週間前のこと――。
「あぁヒロシ。水疱瘡なおったのか。よかったな」「小学六年生で水疱瘡なんて、幼児体質だな」などという、クラスのみんなの声に迎えられて、ヒロシは一週間ぶりに学校に出た。
ぼくは東京の東はずれにある川辺小学校の六年生だ。この学校は、ネットスクール全盛の現代にあって、数少ない「通学型」の二〇世紀スタイルの学校だった。
「なんだきたのか。あと三週間もすれば夏休みじゃないか」と啓介が声をかけてきた。
「なにいってんだよ、学校にきているから夏休みが楽しいんじゃないか」
「そんなもんかね」
「とにかく、これで、クラス全員が揃った」。担任のタヌキがそう言って、ヒロシを席に座らせる。
授業が始まった。久しぶりに生で聞く、タヌキの「ガッツだガッツだ」、啓介や未来人の横顔、クラスのみんなの話し声。何もかもが新鮮だから不思議だ。ちょっと――たかが一週間だけど――みないうちにみんな大人になったみたいだ。休んでいる間も、ネットで授業に参加していても、こうした臨場感にはかけるんだよな。教室の窓からカーテンを揺らして入ってくる風。校庭の乾いた石灰の匂い。教室の床のワックスの匂い。廊下から漂ってくる準備が始まった給食室の香り……。
「ヒロシ、なにうっとりしているんだ」
「あ、先生、あんまりひさしぶりなので、つい、教室を楽しんでました。音や匂いがすごく新鮮なんです」
「まぁ、ぼんやりしていないで授業に参加しろ」
「はーい」
なによりも教室の景色が変わった。ぼくが休んでいる間に転校生がきたのだ。それも外国からの転校生だ。あとで未来人に紹介してもらおう。
一時間目が終わり休み時間にクラス委員の未来人とちづるのところに行って、「おい、転校生を紹介してくれよ」と頼んだ。すると、未来人とちづるは困ったような顔をして互いをみて、「未来人君からどうぞ」「ちづるがやれよ」などと譲り合っている。
「どっちでもいいからさ、はやくしてくれよ、休み時間が終わっちゃう」
「じゃ、またあとにしよう、なっ? ヒロシ」
「なんなんだよ、そんなにもったいぶるなよ未来人」
「いや、ほら、まだあんまり日本語がさ、上手じゃないから、紹介に時間がかかるんだよ。次の二〇分休みにしよう」
「そう、それがいいわ、ヒロシ君」
「なんだよ、さっきまでは譲りあっていたくせに急に意見を一致させて。じゃぁ、いいよ、自分で自己紹介するから」と、ヒロシが転校生に近づこうとしたら、次の時間の予鈴がなってしまった。転校生を見ると、クラスのみんなに囲まれて楽しそうにしている。
「未来人、なにが日本がうまくないだよ。あれみろよ。みんなと楽しそうに話しているじゃないか」
「うん、まぁな。わかる言葉もあるんだよ」
結局、未来人はうそをついていることがわかった。二時間目の授業の国語の音読は正確だし、意味を答えるのも的確だ。なんか怪しいぞ――。
二時間目が終わると、もう未来人やちづるにたよらずに自分でさっさと転校生に近づいていった。二人の転校生は、男子と女子なので、レディファーストで行くことにした。
「やぁ。はじめまして。ぼくは蔵ヒロシです。ここのところ病気で休んでいたから、挨拶が遅くなっちゃて」
「こんにちは。わたしはナスターシャ・ブゴウスキです。よろしくね。わざわざ、ご挨拶いただいてありがとう。ほんとは、こっちが新人なんだからこっちから挨拶に行かなくちゃいけないのにね。水疱瘡はもういいの」
「うん。もうだいじょうぶ」
ナスターシャは、亜麻色の髪を肩で切りそろえ、白くてふっくりとしたほっぺたの上には、グリーンの眼があった。はっきりいって「きれい」な子だ。
「よろしく、ナスターシャ。どこからきたの? 日本語がとても上手だけど」
「ユーゴ」
「ユーゴってどこだっけ」
そういうとちょっと悲しそうにして、「ヨーロッパ」とだけ答えた。
「ごめん。ちゃんと場所が言えなくて」
「ううん。いいの。わたしだって、日本がどこにあるのかもわからずにきたんだから。日本はハワイの近くだと思っていたのよ」
「ははは。それじゃいい勝負だ。まぁ、これから、なかよくしようね」
グリーンの眼に見つめられているとドキドキしちゃって、なんていっていいかわからないので、男子の転校生に挨拶しに行くことにした。でもそのときに、みょうにクラスが静かなことに気がついた。みんな外に遊びに行ってしまったのかと思ったが、みれば、みんな教室いる。おまけに、ぼくの動きをじーっとみている。
それでいてぼくが「なに?」っていう表情をすると、あわてて目をそらす。そんなに珍しいのかな? 一週間休んだだけじゃないか。
「あのー、ちょっといいかな」
男子の転校生は、窓から校庭を眺めていた。「自己紹介する。蔵ヒロシだ。よろしく。ようこそこのクラスへ」
男子は振り向いたけど、返事をしない。
「日本語わかるんだろう」
「あぁ、ぼくはビスカトール・スコモ。なんで、あいつのほうに先に挨拶に行ったんだ」
ぼくがなんのことかわからずにきょとんとしていると、ビスカトールは吐き捨てるようにいった。
「お前も他の男子と一緒なのか?」
「なんのこといっているんだ。あいつって、ナスターシャのことかい」
「へっ、ナスターシャ。もう呼び捨てとは、仲のおよろしいことで。挨拶がすんだらさっさとあっちへ行ってくれよ」
「なんだよ。失礼な奴だな。ナスターシャに挨拶にいったのはレディファーストだ。それのどこがいけないんだ。じゃぁ、最後に聞くけど、どこからきたの」
「それを聞いてどうする。おまえとなにか関係あんのか」
「別に関係ないけど、教えてくれてもいいでしょう。いやならいいけどさ」
「教えてやるよ。ユーゴだよ」
「じゃぁ、ナスターシャと一緒なんだ。君たち親戚かなんかなの」
「これだから、日本人のデリカシーのなさにはあきれるんだ。あいつのユーゴとぼくのユーゴは別のユーゴだ。さぁ、用事がすんだら、さっさと行ってくれ」
なんだなんだ、なんなんだ。な・ん・な・ん・だっ!
ドスドスと足音を立て、ガシャギシと机を蹴散らしながら自分の席に戻るぼくを見て、啓介と未来人は「だから、いわんこっちゃない」と、首をすくめてみせた。
「どうだった?」
一部始終を見ていたくせに、未来人が聞いてくる。
「ビスケットスモモのやつはなんなんだ。むかつくやつだぜまったく。ずっとあんなにひねくれているのか?」
「そんなことないよ。ヒロシはトラの尻尾を踏んだのさ」
「トラの尻尾てなにさ」
「ナスターシャさ。ビスカトールにとって、ナスターシャは敵なんだ。その敵に、おまえは先に挨拶に行った。それがお気に召さないのさ」
「それはやつにもいったけど、レディファーストだからで……」
「そんなことは知ったこっちゃないのさ」
「だいたい敵ってなんなの。なぁ、未来人どういうことなのさ。説明してよ。なにか隠しているんだろう」
「うーん。昼休みでもいいだろう。こみいっててさ、すぐには説明できないんだよ」
@
そして昼休み。
ぼくたちの学校の給食は、子供が減って余った教室を三つぶち抜いて作られたレストランでとる。生徒や先生はもちろんのこと、近所の人にも開放されている。とくに一人暮しのお年寄りには、デリバリーまでするのだ。これは、六年生が担当する。子供連れのおかあさんも利用している。離乳食メニューなんていうのもあるし、こまったときには、給食のおばさんが栄養指導をしてくれるのだ。
生徒は給食用のプリペイドカードをつかって、自分のポイントの中で食事をする。月初めに食べ過ぎて、月末に腹をすかせている生徒もいる。それから、このカードにはなにを食べたかが記録されて、一ヵ月ごとにそれがメールで送られてくる。偏食をしていると栄養指導される。低学年では、メニューを強制されることもあるが、高学年になると強制はさせられない。お父さんの時代には、泣きながら給食を食べたということもあったそうだ。他も子供は5時間目の授業なのに一人だけ給食を食べている……、考えただけでもぞっとするような光景だ。いまは偏食をしたらどうなるかをちゃんと説明された上で、放っておかれる。たとえ病気になっても、責任は自分にあるというわけだ。
ぼくは久しぶりの給食を楽しんでいた。
「じゃ、あ説明してよ」
「まってくれよ、食事が終わってからでも良いだろう」
「そんなこといって、さっきからのばしのばしにしているじゃない。聞いちゃいけないことなら、はっきりそう言えよ。聞いてはいけないことまで聞き出そうとはしないよ、ぼくは」
「そうじゃないんだよ。さっきもいったように複雑なんだ。それに、ヒロシの今後にも関わってくることだからさ、ちゃんと説明しなくちゃいけないし……」
いつもは冷静に説明をしてくれる未来人も、なんとなく歯切れがわるい。
「じゃ、啓介。おまえが説明しろよ」
「だめだめ。おれにはできない」
啓介はスパゲティを巻いたままのフォークを顔の前で振るもんだから、ミートソースがくっついて猫みたいなひげが生えた。
「どこから話せばいいかな」
押し問答を続けながらも、食事を終えた未来人がようやく話し出した。
「最初から。転校してきたその日のことから」
「わかった」
ナスターシャとビスカトールが転校してきたのは四日前だ。ぼくが休み始めてから二日後のことだった。
二人は同時に転校してきた。いつの時代もどこででも転校生は注目の的だ。転校してくるほうは不安でいっぱいだろうけど、迎えるほうにとっては、めったにない娯楽だ。転校生を迎えることでクラスが動く。たとえば転校生がクラスの中のどのグループに所属するかで勢力図も変化する。だから、迎えるほうも転校生の品定めは真剣だ。
おまけに僕らのクラスの転校生は外国から転校生だ。注目度はおのずと高い。二人とも美男美女だから余計だった。男子はナスターシャに、女子はビスカトールに群がった。
ところが、当の二人は、一緒のクラスになったことが意外というか心外だったらしい。いやそうじゃない、相手がここにいることが信じられないといった感じだったそうだ。
ナスターシャは男子にその理由を話した。ビスカトールも女子に話した。
「その理由って、なに」
「えーとね、ナスターシャとビスカトールは生まれ故郷の国では、敵同士だったってことさ。ビスカトールはヒロシになにか言わなかった」
「そういえば、ナスターシャのユーゴとぼくのユーゴはちがうとかなんとか」
「そうそれさ。あの二人が日本にきたのも、故郷の国が戦争しているからだ。それも、もともと同じ国のなかで暮らしていた人々が、戦争している」
「なんで」
「民族紛争ってやつらしいぜ」
「難しいこと知ってるじゃん、啓介」
「とうちゃんに教えてもらった」
ナスターシャもビスカトールもユーゴのコソボという地域の生まれだった。故郷の町ジャコビルでは戦争の前には同じ学校の同じクラスにいた。ところが、戦争になってから、敵同士になってしまったという。ビスカトールの叔父さんがナスターシャの側に傷つけられ、ナスターシャのおばあさんはビスカトールの側に傷つけられた。
「ちょっとまって、ビスカトール側とかナスターシャ側とかってなにさ」
「ビスカトールはセルビア人、ナスターシャはアルバニア人なんだって」
「二人とも見た目はおんなじでしょうが」
「ぼくら日本人からすれば、外見は見分けがつかない。でもこの二つの人たちは、歴史的にも文化的にもまったく違っているらしい。ヒロシはネットワーク探偵なんだか自分で調べてくれればいいんだけど、一番のおおきな違いは宗教だ。ビスカトールのほうはキリスト教の流れを汲む東方正教会、ナスターシャ側はイスラーム教を信じている」
「なんで戦争しているのさ。宗教が違うだけじゃ戦争にはならないでしょう」
「もちろんさ。戦争の理由は自分で調べてくれ。俺たちは先入観があるから、フェアな説明ができないかもしれないから。とにかく、二人が犬猿の仲というよりも、激しく憎みあっていることを覚えておいたほうがいいぜ、ヒロシ」
転校からしばらくすると、男子はナスターシャを応援し、女子はビスカトールを、という具合にクラスが二分された。いまでは、口も聞かないそうだ。
「それでか。僕が二人に挨拶するのをみんなじっとみていたのは。未来人もナスターシャの味方なの。啓介は?」
二人は困ったように顔を見合わせた。どうやらなりゆきでそうなっているらしい。
「未来人のいまの説明じゃ、なんで、僕たちまで敵味方に分かれなければならないのか、さっぱりわからないよ。戦争していたのは彼らだろう。それをこの教室にまで持ち込んで、平気でいられるあの二人のほうがおかしいや。戦争がイヤで日本まできたんだろうが」
「まぁな。そりゃそうなんだけどな。二人が知らない同士だったらまだ良かったと思うんだけどな。事情が事情だけに……」
「どうするヒロシ」
ようやく説明を終えた未来人がほっとした様子で聞いてきた。
「どうするもこうするもないさ。二人とどうつきあおうと僕のかってだろう。ビスカトールはいけ好かない奴だけど、だからといって、ナスターシャの味方を無条件でするという理由もない。しいて言えば中立だ」
「ヒロシのことだから、そういうとおもったけどな。でも、気をつけたほうがいいぜ。中立ってのいうのはかっこういいけどな、ちょっと間違えば、八方美人のどっちつかずだ。ヒロシは気がつかなかったか、鈴木が休んでいるのに」
あたりをうかがうように啓介が声を落として聞いてきた。
「そういわれれば、いなかったね。どうしたの」
ぼくもつられて、声を潜めて聞き返す。
「鈴木もさ、ヒロシと同じように中立の立場をとったんだけどな、男子にはシカトとされるし、女子にもいじめられるし、結局、学校にこなくなっちまった。授業にはネットで参加しているみたいだけどな」
「いいよ、ぼくの好きにするさ。放っておいてよ」
なんだか、変ななりゆきだ。せっかく学校にきたのに、すっかりクラスが変わってしまった。
二人をテーブルに残して、ヒロシは洗い場に向かった。自分で食器を洗うとポイントが溜まる。一〇〇ポイントためると、デザート券がもらえる。二〇〇ポイント溜めると現金がかえってくる。給食二回分だ。
洗い場に、ちづるがいた。ちづるは、おもちゃ会社の社長で、億万長者なんだけど、自分で食器を毎日洗っている。いまではヒロシとちづるは自他共に認めるカップルになっているけど、二人の出会いもこの食器洗い場だった。
「ヒロシ君。未来人君たちになにいわれたの」
「べつになにも」
「あら、そう。ナスターシャの味方になれって言われなかった」
「いや。そのことなら、ぼくはぼくの好きなようにふたりとつきあうっていったよ。ちづるは、ビスカトールの味方なのか」
「うーん。そうとも言えるし、そうでないとも言える。でも、どちらかというと、ビスカトールかな」
「なんでさ」
「だって、ビスカトールは家族や親戚を、ナスターシャの側の人々に何人も殺されているのよ。故郷ではビスカトールのほうは、人数が少ないんだけど、生きる権利を求めているだけなのに、ナスターシャのほうが、それもみとめないで、戦争しかけてきたというんだもの。ひどいと思わない」
「ナスターシャにはきいたの」
「いいえ。だって、あの子に近づこうとすると、男子がじゃまするのよね」
「とにかくさ、ぼくはぼくのやりかたで付き合うよ。それは、ちづるもわかっていてね」
@
教室に帰ると、男子が近づいてきて「ナスターシャが、ヒロシのこと、かっこいいといっていたぜ」とか「ヒロシくんはやさしいといってたぜ」とささやきかけてきた。悪い気はしないけど――なんかすっきりしない。伝言役の男子はナスターシャの役に立つのがが嬉しくてたまらないようだ。ぼくにメッセージを伝えると、すっ飛んでナスターシャの元に帰っていく。ナスターシャを見ると数人の男子に取り巻かれて、女王様のようだ。このあいだまでは、このクラスの女王はちづるだったんだけどな。これじゃ、ちづるが面白くないのもわからないでもない。
男子がいなくなると、今度は女子がきた。「ビスカトール君が、さっきはごめんっていってた」「ヒロシはクラスの男子の中ではまともな奴だ、友達になれそう、っていってた」と耳打ちしてくれた。謝るなら自分で謝れ! ぼくは、スキップするようにビスカトールのところへ帰っていく女子の背中につぶやいた。
ビスカトールをみると、まわりに数人の女子を従え、窓の外を見ている。あの様子じゃ、ごめんといっていたというのも怪しいもんだ、と思った。
午後の授業の予鈴が鳴った。ガタガタギギィー、机と椅子を鳴らしながらみんな着席していく。席につくと教科書の入っている携帯端末を机の上に出し、スイッチを入れる。画面の端表示されている座席表が次々と赤くなって、全員が揃った。廊下に立っていることになっているのは、どうやら、学校にこなくなった鈴木君のようだ。ネット経由で授業だけは受けていようだ。ぼくは後でメールを書いてみようとおもった。
朝の楽しい気分はすっかり消えていた。なんだか、ぼくは自分こそが転校生になった気分だった。放課後、ぼくは一人で帰った。未来人と啓介に声をかけたけど、やんわりと断られた。
こうして、水疱瘡による病欠復帰第一日は過ぎた。
「どうだった、ひさしぶりの学校は」
学校から帰るとお父さんが声をかけてきた。僕の家はお父さんが家で仕事して、おかーさんが会社で働いている。
「うん……」
「なんだ、疲れたのか」
「そうじゃない。なんか別の学校みたいなんだ」
「まぁ、しかたないさ、一週間も休んでいたんだから。なじむまでに時間がかかるさ」
「そういうことじゃなくてね……」
「なんだぁ? なんかこみいったことでもあるのか。それじゃ、話はおやつを食べながら聞きましょうか」
そういうとお父さんは、ご自慢のキッチンに入っておやつの準備にとりかかった。ぼくは手と口をすすいで、テーブルについた。
「今日のおやつは、中華ちまきだ」
「わぁお、おいしそうだね」
「そう――じゃなくて、おいしいんだ。さぁ、食べた食べた」
おやつを食べながら、おとうさんはいま開発中の電子そろばんの試作機を見せてくれた。電子そろばんといっても電卓じゃない。そろばんの形をした端末だ。そろばん学習用のものらしい。おとうさんはフリーライターなんだけど、趣味でハンドメイドパソコンの組み立てもやっている。
ぼくが学校の資料室で見たそろばんは木と竹でできた古めかしいものだったけど、目の前にあるのは、金色の枠組みの中にシルバーメタリックのそろばん玉が光ってる。
「おとうさん、このデザインはちょっと……」
「だめか?」
「なんか、このそろばん玉にさわると指が切れそうで怖いよ」
「そうかぁー。それじゃやっぱりワニ皮模様にすっかな」
「そういう問題じゃないような……。ところで、これってどうやって使うの」
「バーチャルそろばん塾にアクセスもできるし、コンピュータが読み上げしてくれるパターンも選択できる。ネットワークで対戦もできる。初心者には、そろばんだまのはじき方を練習するためのソフト<ぱちぱち>もある。子供用の練習画面では、コンピュータの指示する通りに正確に玉をはじけば、画面上の爆弾の導火線が消える。間違えると火は走りつづける。一定数以上ミスすると、画面が爆発する。ドキドキものだ」
「大人用はどういう画面なのさ」
「子供には秘密だ」
「けち」
「どうだ?」
「うんおいしいよ」
「ちまきじゃなくて、そろばんだよ。面白いか」
「うん。でも、こんなの役に立つのかな」
「役には立たないだろうな。でも面白いだろう」
「まぁね」
「おとうさんと副嶋の苦心作だぞ、まぁね――はないだろうが。いまはお習字パッドにとりかかっている」
副嶋さんは、伝説のハッカーだ。ぼくが利用しているネットプロバイダー・セフェネットのセキュリティ担当者だった。二ヶ月ほど前、日本中を騒がせたサイバーテロリストの事件の犯人を追い詰めた人だ。でも、犯人を追い詰めるときにに使った手段が、ネット管理人としてはやってはいけないものだったとして、副嶋さんは自ら会社を辞めた。そして、いま、ぼくのおとうさんと組んで、こうして変なもの作っている。ほんとおとなってわからない。
「それで、学校がどうなっていたって。授業についていけないのか」
ぼくのおとうさんは、そろばんのウケが今一つだったので、話題を変えてきた。
「そんなことはないよ。休んでいるあいだもずっとネットで授業は受けていたし、たった一週間のことだから」
「じゃぁ、なんだ」
「転校生がきたんだ、二人。その二人をめぐってさ、男子と女子が対立している。ぼくはどっちにも属したくないんだけど……」
「対立の原因はなんなんだ」
未来人や啓介からきいたこと、そして、クラスのみんながぼくにどちらかに属するように誘ってきたこと、さらに、転校生たちの印象を話した。
「ふーん。そりゃまた、やっかいなことだぁ。いままでの問題の中で一番の難問だな」
「おとうさんも、そうおもう」
「あぁ。どうしたらいいのかなぁ。ヒロシはどう思うんだ」
「どうもこうもないさ。ぼくは中立というか、属すとか属さないじゃなくて、そういうもの一切無視する。そう決めたんだ」
「うーん。完全な中立は至難の技だぞ。覚悟と細心の注意が必要になる。現にヒロシはビスカトール君に悪い印象を持っているだろう。そういうのも一切忘れていかなくちゃいけないんだからな」
「だいじょうぶだよ」
「なんか心配だなぁ。啓介君や未来人君はどうなんだ。ちづるさんは?」
「なんだかはっきりしないんだけど、たぶん啓介たちはナスターシャ、ちづるはビスカトールみたいだよ」
「代理戦争か――」
「ところで、民族ってなに。日本人とかアメリカ人みたいなもの」
「正確には違うな」
「それじゃ民族紛争ってなに? 普通の戦争とどう違うの?」
「エーとだな。ちょっとまってくれ」
そういうとぼくのおとうさんは自分のスペースに入っていった。ぼくの家には寝室やバストイレを別にして自分の部屋というものがない。広場みたいなリビングダイニングを中心に各自のスペースが存在している。
ぼくのおとうさんは大きめのホワイトボードを引っ張ってきた。おとうさんはアイデアが浮かぶと書きつけている。それを線で結んだり消したりして、考えをまとめるのだそうだ。もちろんボードはパソコンにつながっていて、書きつけたことは、ハードディスクに記憶される。パソコンで同じようなことをするよりも、部屋の中を歩き回りながら、書き込みしながら考えるのが、いいいんだそうだ。「コンピュータでやっていると、コンピュータに制約されるからな」というのがその理由だ。
「戦争にはかならず原因がある。他人様には突然に起こったと思える戦争でもなにか原因がある。経済的な原因――たとえば石油が出る場所を奪い取りたいとか――もあれば、政治的な原因――そうだなぁ、主義主張の違いかな。わかるか――もある。それから、宗教が原因となるものがある。民族紛争ってのは、複合的な要素があると思うんだ。宗教と政治、経済と宗教、それが、民族の違いと結びついて差が生じている時に起こる」
「民族てなに? 日本人は人だけど……」
「民族ってのは、ある特定の文化に帰属意識を持つ集団のことかな。こんなことは、師匠に聞きなさい。あの人は専門家なんだから」
結局、おとうさんは、面倒くさくなったのか、自分もわからないのか、説明するのをやめてしまった。だけど、クラスのゴタゴタにへたに首をつっこむとろくなことにはならないから、ぼくがいいのなら、学校を休んでもいいという。
「そんなに深刻なことじゃないと思っていたんだけど……」
ぼくは、おやつを平らげてから自分のスペースの入り、師匠こと、人類学者の阪本猛さんにメールをだした。ついでにメールのチェックもしたけど、ダイレクトメールばかりでろくなものがなかったので、妹の楓子を保育園に迎えに行くことにした。梅雨明けもまじかな空に夕焼けがきれいだ。風のなかにもまとわりつくような湿気がだいぶ減った。一週間でも時間は移り、季節も変わる。
迎えた楓子を自転車の後ろに載せて帰宅する途中、楓子が「おにいちゃん、木が笑ってる」という。「なに?」と聞き返し、自転車を止めて説明を聞くと、風にふかれて、葉っぱがいっせいに裏返って、白く見える。それが、木が笑っているように見えるのだという。そういわれていみると、たしかに木が笑っている。アジサイなどは葉っぱをひっくりかえして大笑いしているし、背の高い楠などは体の割りに小ぶりの葉をさわさわと揺らして、くすぐったがっているように見える。梅雨があけるのがうれしいのだろうか。
夕食は三人で食べた。おかあさんは今日も遅いらしい。今朝、久しぶりにあったときに「しばらく顔を見なかったけど、どうしたの、風邪でもひいていたの」といわれたときには唖然とした。もう、慣れたけど……。
@
夕食後、インターネット空間に創られた仮想都市MAHOROBAシティのチャットルーム入った。この部屋は、MAHOROBAシティ主催のゲーム「バーチャル釘さし」にぼくのハンドル名「TRON」を貸したお礼に一年間無料で提供されている。チャットゾーンにはいくつもの部屋があって、ほとんどは出入り自由だけど、注連縄がはられている部屋は、外からは見えても、部屋の中の人に許可された人以外は出入りができないようになっているという印だ。チャットの内容も覗かれないようになっている。ぼくの部屋は、未来人や啓介、師匠やアリスさんなんかが無条件で入ってこられるように設定してある。だけど、はいっていくるときには、声をかけるのが礼儀だ。
部屋には誰もいなかった。まだ師匠も来ていない。もっともメールに返事がなかったから、師匠はどこかに調査に出かけているのかもしれない。
しばらくすると、部屋の外をアリスさんが通りかかったので声をかけた。チャットゾーンでは、オンライン中のユーザーは各自が決めた自分のアイコンで表示される。知っているユーザーのアイコンがいれば声をかけてチャットしたりする。ぼくはドアの外を行くアリスさんのアイコン――根元に洞をもつ大きな木のアイコン。ちなみにぼくはランドセルだ――をクリックした。チャットしましょうよと誘いをかけると、OKしてくれた。テレビ電話の進化形であるバーチャルトークシステム(BTS)の画面にアリスさんが出てきた。
アリスさんとは間違いメールが縁でメル友になった。お仕事は女優さんらしいが、画面に出てくるどの女優さんがアリスさんなのか、まだわからないでいる。でも、女心に迷った時には、最強の相談相手だ。
TRON こんばんは、アリスさん
Alice ひさしぶりね、ヒロシ君。みんな元気かな? 映画の仕事で日本を離れていたから
TRON アクセスもできないような場所だったんですか
Alice 端末は持っていたんだけど、アクセスする時間がなくて。そのうち、端末が砂に埋もれてしまって
TRON 砂に埋もれたって、いったいどこにいっていたんですか。サハラ?
Alice ピンポーン!
TRON 本当ですか
Alice 朝、撮影にでかけて、夕方になってテントに帰ったら、テントがないの。風で飛ばされたかと思ったんだけど、スタッフが探したら、砂の下にあるって……。道に迷うといけないからって、テントのなかに発信機を置いておいたのね。GPS衛星を使って調べたら、確かに砂の下にあるっていうのよね。砂って意外と早く移動するのよ。生きているみたいよ。ぶつかると痛いし……。そんなことより、元気なのかしらみなさん。さっきからぶらぶらしても、顔を見かけないし。
TRON 実は……
Alice まさか龍野進さんが……(゜〇゜;)
TRON そのまさかなんです。
Alice まだお若いのに(ーー;)
TRON いやだな、なに考えてんですか。龍野進さんは入院しただけですよ。
Alice あぁ、よかった。ヒロシ君の言い方が悪い(`_´メ)
TRON すみません。
Alice 病気? それとも怪我?
TRON 怪我です。
ぼくは龍野進さんが入院することになった事件のいきさつを話した。
Alice でも、いまはもうお元気なのね。
TRON だいぶ良くなったみたいです。
Alice ほかのみなさんは。
TRON ぼくが水疱瘡になりました。
Alice まだまだ子供ね。ふふふふ。
TRON なんか、むかつく!
Alice 事実だから怒らない怒らない。もう学校には行ってるの?
TRON 今日から。
Alice 学校を休むのもいいもんでしょう。新鮮だったんじゃない、それとも埃くさいだけかな。
TRON たしかに新鮮で楽しかったんですけどね……
Takesi ヒロシくん遅れてごめん。
TRON 師匠、呼び出してごめんなさい。いまどちらですか。
Takesi 大学の研究室だ。昨日から学生を連れて、祭りのフィールドワークに出ていたものだから。
Alice どこの祭りですか。
Takesi アリスさん。お達者ですか。
Alice 達者です。なんだかお歳よりなったみたい(^^)。
Takesi いやいや、お歳よりの話を聞いていたものですから。祭りといっても昔からのものじゃなくて、20世紀の後半に作られたお祭りなんですけどね。地元の人のなかには、先祖伝来の祭りだと信じている人もいて、伝統というものイメージの調査のために行ったんです。ところで、なんだい用事って。
Alice わたしはおいとましましょうか。
TRON かまいませんよ、いてください。師匠、民族ってなんですか?
Takesi なんだい、やぶからぼうに。社会の宿題か。
TRON いえ。詳しいことは省きますが、ぼくたちのクラスに民族紛争が起こっているんですよ。で、民族ってなにかなっておもって。お父さんに聞いたら、特定の文化にたいして帰属意識をもつ集団だっていうんですけど、それ以上のことは専門家に聞きないさって。
Takesi お父さんの説明でも間違ってないけどね。こんどは特定の文化てなんだということになるよな。
Alice 文明と文化は違うんですか。
Takesi これはまたすごい質問だ。時間はあるのかな。じゃぁ、説明するよ。わからない言葉があったらすぐに質問してくれよ。まずはキーワードを挙げてみよう。人種・民族・人、文化・文明、こんなところかな。それじゃ、まずは人種だ。これは民族と混同する人もいるけど、人種というのは生物学的な分類だ。人類学では、コーカソイドいわゆる白人だ、それとモンゴロイド――日本人なんかの蒙古人種、それから、ニグロイドいわゆる黒色人種と、オーストラロイド――アボリジニなどの四つに分けている。これはたいせつなことだからよく覚えておいてくれ。人類はアフリカで生まれたといわれているのは知っているよね。
Alice すべての人類はアフリカ出身のイブに辿りつくって聞いたことがあります。
Takesi イブっていうのはキリスト教徒好みの名前だからね。まぁ、とにかく、その後、人類が地球上に広がっていく過程で、主として気候などの環境に対して有利なように変化を繰り返したんだ。その結果生まれた差が人種だ。種が違うわけじゃないんだ。祖先は同じなんだよ。人種と、民族はまったく別のものだ。人種が生物学的な分類であるのに対して、民族は文化的な分類だ。白人のなかにもドイツ人やイギリス人がいるし、モンゴロイドのなかにも、日本人や中国人がいる。人種的には4つだけど民族は無数にあるといっていい。民族を区別する時に言語を指標にすることが多いけど、それだと3000以上の民族が存在するんだ。
TRON 日本人とかアメリカ人っていうときの、人と民族は同じなんですか。
Takesi それがちょっと違うんだ。たとえば、中国人といった場合は、中国という国に暮らす人々という意味もあるね。ところが中国には、五〇以上の少数民族が暮らしている。でも、国単位で見たらその人たちも中国人と言うことになる。日本もそうだよ。日本にはアイヌ民族や日本国籍を取得した朝鮮半島出身者が暮らしている。でも、かれらも日本人であるといういいかたもできる。人は民族と同じ場合もあるしそうでない場合もある。ちょっとややこしいけど我慢してくれ。ただ、使う人がよほど意識していない限り、人といった場合は、国民という意味に近いと考えていいと思う。
TRON アメリカ人といってもいろいろな人がいるものね。
Takesi アメリカの場合はまた特別だ。人種の混在が激しい地域だからね。それじゃ次は民族を成立させる要因である文化だ。文化は、これまたさまざまな定義があるけど、社会をかたちづくるモノや、意味の集まりだ。モノというのは、たとえば、着物これは日本の文化を構成する一つの要素だね。日本酒というのもそうだ。さらに、着物は寒暖や湿潤といった気候の変化の多い日本の自然に対応できるフレキシブルな衣服だという言いかたができる。つまりは、日本人の自然とのつきあいかた、自然観が反映されている。これが意味の部分だ。文化というのはそういう様々な要素の組み合わせだ。
最後に文明だ。これも人によってさまざまな説明がされているが、文化が地域限定的なものだとすれば、文明は普遍的なものだと考えて良いだろう。いちばんわかりやすいのは機械文明かな。エジプト文明やローマ文明といわれるものは、そうした文化のなかで、地域を越えた広がりを持ち得たシステムと考えてくれていい。
TRON 民族紛争というのはどうしておこるんですか。
Takesi 原因は一つじゃない。日本を例にとって考えてみよう。朝鮮半島や中国からの移住者はちょっと除外するよ。歴史的に日本には日本人――ここでは和人と呼ぶことしよう――とアイヌ民族がいる。現在は、アイヌの人のほうが人口が圧倒的に少ない。しかし、わずかながらでもアイヌの言語が残っている。また、和人が着物に日本を感じるとしたら、アイヌ人たちはアツシという衣服にアイヌを感じるはずだ。また、神社仏閣に神聖なものを和人が感じるとしたら、アイヌの人はクマや鷹といったものに神聖さを感じる。そして、そうしたものが違う民族によって壊されたり奪われたりすると、危機感を感じる。それがひどいと戦争になる。
TRON ぼくらのクラスの民族紛争の種は見た目が区別つかないんだ。男と女という違いはあるんだけど、それだって、ぼくとちづる程度の違いなんです。
Takesi 民族をわけるときに一番わかりやすい指標は言語だ。民族は言語を共有することが大きなウェイトを占めるといってもいい。その人たちの文化がその人たちの言葉で説明されるからだ。言語の次は信仰がある。たとえば、ユダヤ民族、もしくはユダヤ人といった場合には、ユダヤ教を信仰する人々ということになる。しかし、そのなかには、ロシア生まれの人もいれば、ヨーロッパ生まれの人、アフリカ生まれの人もいる。もちろん、最初に説明した人種的に見てもまったく異なる人々が文化を共有し、帰属意識を共有している。だけど平和なときに共有されている帰属意識が紛争時にも共有されるわけではない。アフリカ生まれのユダヤ人が抑圧されている時に、世界中のユダヤ人がそれにたいして抵抗するというわけじゃない。言語もまたしかりだ、イギリスがいじめられている時に、英語を話す国がみんな味方するというわけじゃない。そんなことしていたら、世界はいつも世界大戦状態だ。
TRON 戦争と民族紛争はちがうんですか。
Takesi 中身はおなじさ。人が人を傷つける。ただ、民族紛争という言葉は、往々にして、一つの国の中で、民族の違いによっておこる戦争のことをいう場合が多いように思う。国というのは日本のような島国は別として、ひとつの民族だけで作られるよりも、いくつかの民族が国境で囲まれていることがおおい。それじゃ、島国は特別かというと、インドネシアという国のように、島ごとに民族がちがうような国もあるんだ。民族紛争は、さきっもいったように、文化の違いによるものなんだけど、見た目は同じ、つまり人種的には同じで、しかも、同じ地域に暮らしていて、おまけに、戦争をするまでは、同じ地域の中で、親しく――はないにしても、軒を接して暮らしていた人々だから、余計にぼくらにはわかりづらい。場合によっては言語も共有していることもある。
TRON どうして宗教の違いが紛争の種になるんだろう。信仰は基本的に平和なものじゃないんですか。
Takesi そうなんだけどね。もっと大切なことは、信仰はこの世の中をどう見るかというものさしみたいなものだということだ。善悪の判断や時には美醜の基準までも提示する。平たく言えば価値観の違いってやつだ。それが違う人とはつきあいづらいだろう。でも、言語や信仰が違うだけで戦争をするほど人間はおろかじゃない。民族紛争の背景にはその地域の中で、政治的に支配している民族とそうでない民族、経済的にその地域を支配している民族とそうでない民族というものが、なにかのきっかけで表面化して、支配されているほうが、それまでになんとなく感じていた不満を憎しみに変え、支配していたほうは、優越感を危機感に変えてしまう。そして、いまよりひどくなる前にやり返そうとか、やられる前にやっつけてしまおうという雰囲気の中で戦争が始まってしまうんだ。国と国との戦争と違って領土を取ればおしまいというような妥協点がないから、どちらかの民族はもう片方を完全に殺すまで続けるなんていうこともあるから激しく見えるんだね。
TRON ぼくらのクラスの民族紛争の種も、外見はまったく同じだし、国では同じ学校に通っていたらしいですから、言葉も共有しているんじゃないでしょうか。でも、宗教が違うみたいだな。イスラームと東方正教会だったかな。
Takesi ということは、その人たちはバルカン半島出身者だね。
TRON その通りですね。よくわかりますね。
Takesi バカにしてもらっちゃ困るなァ。これでも人類学者の端くれだよ。
TRON でも、ほとんど同じなのに、喧嘩するんだろう。
Takesi ぼくたちだって同じじゃないか。喧嘩もすれば仲直りもする。学者がこんなこといったら失格かもしれないけど、民族紛争は、その大掛かりなものさ。ほとんどおなじで、ちょっと違うから喧嘩するのさ。まるっきり違っていればそうそう喧嘩にはならない。接点がないからね。同じ地域に暮らして土地や資源を共有している。でも、ちょっと違う。そのちがいを解きほぐしていくと、歴史が違ってくる。歴史の違いは大体が片方が支配者でもう一方が支配される歴史だ。もしくは、その応酬かな。応酬の場合はよりたちが悪い。だいたい、支配権を奪う度に虐殺が行われているからだ。これは互いの民族にとって悲しく静かな怒りとなって蓄積されるからね。たとえば、不況がながびくと、支配されているほうは、支配している奴らが一人占めしているからというし、支配しているほうは、ほかのやつらがサボっているからだいう。人間はもともとわかりやすいことを好むから、それだけで、パーァッと火がつく。
Alice なにか解決方法はないの? 同じ人間なんだから。
Takesi 同じ人間だというのは簡単なんですよ。アリスさんもヒロシ君もぼくも同じ人間だよ。でも、お互いに絶対に譲れないものがあると思うんだ。それが争点になったときには、喧嘩別れをすることになるかもしれない。個人と個人の間であれば、二度と会わない口をきかないすむけど、集団になると、どっちが強いかとか、有利になりなりたいとか、別の思惑が絡んできて、騒動になる可能性もある。「人間だから」「同じだから」そこを発想の原点にすると、解決しないとおもう。それよりも、違うんだ、その違いはこうこうで、どちらが優劣のあるもんじゃないということを、認識することだと思うんだよね。もっとも言うのは簡単だけどね。しかもそれが、国という単位になると難しい。互いに逃げ場がないからね。どっちかが出ていくしかないけど、どっちもいやじゃないか。本当は、無理にでも強制移住して、別の地域に暮らし分ければいいんだろうけど、それも変だろう。不自然だよね。
TRON アフリカのどっかに昔そんな国があったそうですけど。
Takesi でも、あの国は人種差別をする国として、ずっと批判されつづけ、それでも差別は止めなかった。経済制裁や文化交流の停止によってようやく止めたけどね。
TRON でも、さっき師匠がおっしゃった中国みたいに五〇以上民族がいて、紛争も起きずに国として存在しているところもあるんでしょう。
Takesi 「いまのところ」という限定付きだ。それは、圧倒的多数を占める漢民族が支配のシステムを上手に作っているからだよ。なんだか、大学で講義している気分になってきたぞ。そうだ、講義ノートをあとでおくるよ。それを見てくれるとわかると思うけどね。どうだい?
TRON わかりました。いろいろとありがとうございました。このまま続けたら朝がきてしまいそうですね。師匠の話で民族とか民族紛争はわかったけれど、クラスの民族紛争をどうやって解決したらいいのか、さっぱりわからないや。
Takesi ごめんなぁ、役に立たなくて。学問は現実に役に立たなくちゃいけないんだけど……。
TRON いえそんなことないです。でも、違いをなくすんじゃなくて、違いを際立たせて、なにが、紛争の源なのかを洗い出せばいいのだということがわかっただけでも、だいぶん進展しました。
Takesi そういってもらうとたすかるけどね。ただ、ヒロシ君も不用意に首をつっこまないほうがいいよ。大人のイヤらしい言い方だけど。
TRON ぼくはいいんですけどね、クラスのみんなが、不用意に首を突っ込んでいるんです。それで、ことが大きくなっているんですよ。
Alice どっちが優勢なの。
TRON いまのところ五分五分です。男子と女子の戦争です。それが、女子が男子の転校生に、男子が女子の転校生に味方しているからややこしいんです。
Takesi なるほどね、面倒くさいね。で、ヒロシはどっちの味方なの。
TRON ぼくは中立です。
Alice まぁ、茨の道を選んだのね。気をつけてね。両方から狙われるわ。討ち死にする可能性が二倍になる。
TRON おとうさんにも同じことをいわれました。
Alice だれか味方いるの。
TRON いませんね。ボクと同じように中立の立場を取った人は、早々と退場させられちゃって、いま、休んでます。
Takesi 中立の基本はどらにも組みしないだけど、もっと大事なことは、仲直りをさせようとしないことだ。中立の意味は、けんかをするなら勝手にやってくれ、でも、わたしには迷惑をかけないでくれという宣言だからね。
TRON あぁ、学校休んだほうが楽かな。
Alice そうおもう。
Takesi できることならそうしたほうがいい。終わったあとで、卑怯者だのなんのかんのといわれるだろうけど、それは中立を貫いても同じことだ。それならば、学校にいかないで嵐を避けたほうが少しは楽だろう。くれぐれも無理をしないでくれよ。
TRON わかりました。師匠、いろいろと教えてくれてありがとう。ALICEさんも付き合ってもらってありがとう。おやすみなさい。
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おやすみといったものの、まだまだ、わからないことがたくさんあった。とくにビスカトールとナスターシャについての情報は不足していた。ぼくはWEBでビスカトールとナスターシャの故郷に関する情報を検索した。
ユーゴスラビアは、ヨーロッパとアジアを結ぶ回廊にある。そのためこの地域は、古くから支配者が変わり、そのたびにあたらしい文化がこの地に根づいた。そのぶんだけ、モザイクのようにさまざまな人々が暮らしているという。ナスターシャとビスカトールの故郷はユーゴスラビアのコソボのジャコビルという町だ。
読んでいるうちに頭が痛くなってきた。この地域の歴史や文化を反映するように、情報もモザイクのように迷路のように張り巡らされている。オンラインじゃとてもじゃないけど全部を読むのは無理だ。関連しそうな情報を片端からダウンロードするプログラムを働かせることにした。
ぼくはプログラムを働かせている間に、シャワーを浴びることにした。モヤモヤした気分を振り払うように鼻歌を歌いながら頭からシャワーを浴びた。
冷たいカルピスを作って戻るとようやくダウンロードが終わっていた。ぼくはベッドに寝転がって、下敷き形のディスプレイにダウンロードしたファイル映して読んでいくこにした。
コソボに歴史的に初めて登場する人々はイリュリア人だという。かれらは、現在もこの地に暮らすアルバニア人の祖先だと言われ、アルバニア人自身もそう考えていて、コソボは民族生誕の地として聖なる場所としている。ということは、ナスターシャの祖先の土地だ。
その後、ローマ帝国、ビザンチン帝国の支配を受けている。七世紀になるとセルビア人の祖先となるスラブ族がこの地にやってくる。そして、一三世紀にセルビア王国を樹立する。
セルビア人の始まりだ。ビスカトールの祖先が形成されたわけだ。このとき先住民のイリュリア人はセルビア人によってアルバニアに追放されている。現在に続く紛争の種がひとつ蒔かれた。
セルビア人とアルバニア人は喧嘩ばかりしていたわけではない。一四世紀末には、オスマン・トルコの侵略に対して手を携えて戦っている。しかしこれは負け戦となり、トルコのの支配を受ける。
共にトルコに支配される立場になったのだが、トルコに敗北後、それまで自然崇拝だったアルバニア人は侵略者トルコの宗教イスラームに改宗して、トルコの手先としてコソボの支配者として戻ってきた。セルビア人からすればこれほどの裏切りはないだろう。しかし、逆にアルバニア人にすれば生きるためには仕方なかった、ともいえる。この支配は三〇〇年に及んだ。わかっても許すには相当の器量が必要だ。
これが、現在までつづく、紛争の原因の一つにもなっている。歴史にもしもはないにしても、このときに、セルビア・アルバニア連合軍が勝っていれば、現在の世界情勢も変わっただろうが、アルバニアとセルビアの関係はいまほどひどくはならなかったかもしれない。
そして、二〇世紀初頭オスマン・トルコが滅亡後、セルビアが三〇〇年ぶりに祖先の地を奪回した。今度はアルバニア人がセルビア人を憎む種が蒔かれた。自分のことは棚に上げてといえばそれまでだけど……。二〇世期半ばの戦争の時代にアルバニア人によるセルビア人の虐殺が起こっている。紛争の種を互いにせっせと蒔きつづけたというわけだ。戦争のあとにユーゴスラビアという国ができてこの地域にも平和な時期があったがそれもつかの間、二〇世紀末にセルビア人に支配・差別されていると感じたアルバニア人が起こした独立運動に対して、コソボでは少数派のセルビア人が危機感を感じて反発。流血の事態となる。世紀末には収束したものの、ここ数年また、紛争が絶えないのだ。
とくにジャコビルは、鉱物資源の豊かな地域で、二〇世紀末に紛争が終結後、ヨーロッパ諸国の資本が大規模に鉱山開発をした結果、豊かな地域に変貌した。その富をアルバニア人が独占しているとセルビア人が反発しのだ。アルバニア人にしてみれば、二〇世紀のあいだ、ユーゴのなかでも、貧しい地域としてすてておかれたのは、セルビア人によるアルバニア人差別があったからで、いまはその帳尻あわせをしているにすぎないということになる。
ふー、まったくの、水掛け論というか、どうどうめぐりで、にわとりとたまご状態。戦争をやめさせるには……。
ぼくはあわてて、頭を振った。いけないいけない。とんでもないことをかんがえてしまた。「それ」は紛争の当事者たちが考えたこと――どちらか片方がいなくなればいい――だった。
セルビアとアルバニア人の宗教戦争というみかたもある。
アルバニア人はオスマントルコの支配を受けてからイスラームだが、対するセルビア人のすべてが、キリスト教の流れを汲む正教徒というわけじゃない。コソボのすぐ隣りには、イスラーム系セルビア人がおおくすむ地域サンジャクもあるという。
ぼくは「宗教は、支配者にとっての支配の道具であり、民衆にとっては、生きていくための方便だ。しかし、宗教を自分で選んだ人々の世代から時間が経って、宗教が生まれながらのもになると、宗教の提示する尺度が自分の基準になってしまう。そうなると同じ空間に暮らしていても、宗教がことなると違った風景を見ている」ということは理解できたが、ビスカトールとナスターシャの紛争は、宗教戦争じゃない。宗教の違いは、戦争の時の敵味方を分ける目印にすぎない。かれらの紛争の契機は宗教じゃなくて、怨念だ。裏切りと支配の繰り返し、虐殺の応酬の記憶が語り継がれてきているからだではないだろうか、と思った。しかし、その記憶を消せといっても無理な相談だし、その記憶も民族の帰属意識に関わっているんだ。
「人間ってほんとに難しい――」
ぼくは壁に向かってつぶやいた。クラスの民族紛争はそんなに複雑なものじゃないはずなんだけど、原因となっている二人の対立は深刻だ。わかったことはただひとつ――原因を探ってもなんの解決になりはしないということだった。時間を巻き戻すことはできないんだから。でも歴史を勉強してわかったこともあった。ローマやトルコといった強大な支配者がいたときには紛争は起こらなかったということだ。
「こうなったら、手はひとつ、ローマに帰れだ。全ての道はローマに通ず。ローマに入りてはローマにしたがえ、だ」
翌朝、起きるといつものようにお父さんがすでに食卓にいた。早起きというわけじゃなくて、寝ていないだけだ。お父さんに言わせると、夜は夢が支配するんだそうだ。だから、妄想やアイデアは夜にノックするという。というわけで、お父さんは、何か考えごとをする時には、昼間寝て夜起きている。
「ほぉはよう、ヒロシ」
「ぽはようおとうさん」
熱心になにを読んでいるかと思えば、新聞に折りこまれていた、ダイエット広告だ。ダイエット前と後の写真を見るのが、おとうさんのひそかな趣味なのだ。変な奴。
「ヒロシは夜更かししたみたいだな。民族紛争は解決の糸口はみつかったか」
「ぼくなんかに解決できたら、ノーベル平和賞もんさ」
「おやおや、ずいぶんと悲観的じゃないか」
「だって、あのふたりの故郷の歴史を読んだらお先真っ暗だよ。絶え間ない紛争の歴史と憎しみの連鎖だね」
「ところで、二人の故郷ってどこだっけ?]
「コソボ、バルカン半島」
「世界の火薬庫か」
「うん」
「そりゃヒロシのいうように解決したらノーベル賞もんだ。がんばれよ。身内にノベール賞が一人ぐらいるのもわるくないからな」
「お気楽なんだから」
「そんなこというなら、放っておけばいいじゃないか。だいたい、ヒロシは中立じゃなかったのか。だったら、みんなにいえばいいだろう、あいつらのことはあいつらにまかせようって。なにも、ボクたちまでがいがみあうことはないって」
「簡単に言ってくれるけど」
「簡単なことさ。ちょいと勇気は必要だけど。学級委員の未来人やちづるに頼んだらどうだ。あのふたりなら大丈夫だろう」
「どうかなぁー、あの二人も取りこまれているくさいんだ。だけど、なんで戦争なんかするんだろう」
「朝からヘヴィーな話題だなぁ」
「そりゃ、ダイエット広告見てた人にはなおさらだね」
「生意気を言うな。ダイエット広告は人間の欲望心理のシュミレーションゲームだ。本当かなと思う心と、うそでもいいからだまされてみたいという心。そうした心理をついて、だますんじゃなくてだまされてみたいと思わせる広告。スリリングでアクロバティックな心理ゲームさ」
「で、戦争はなぜ起こるの」
「ちぇっ、忘れてなかったのか。なんの因果で徹夜明けにそんなヘヴィーな話をしなけりゃならないんだ。あぁーダイエット広告のここちよい余韻が消えていく……。しかたないなぁ、まず、戦争は国と国、国と集団、集団と集団の間のものに分類できるな。なかでも民族紛争と呼ばれるのパターンはあとの二つにおおおい。戦争の原因は、領土や資源をめぐるもの、そして、生存をめぐるものかなぁ。宗教や思想の違いは生存に関わることだとも言えるしな。どうだまいったか、ダイエット広告もばかにならんぞ」
「バカになんかしてないさ。そんなことより、朝ごはんは」
「そんなことって――。おまえが聞いてきたんだろうが。ったく、楓子を起こしてきてくれ。そのあいだにつくるから」
妹の楓子をベッドから引きずり下ろし、顔を洗わせて、ダイニングにいくとスパゲティが湯気を上げていた。
@
その日、ぼくは学校に行くとあらためて中立を宣言した。
「ぼくは、いまのクラスの紛争には中立だ。どちらにもくみしない。だいたい、ここは日本だ。日本にきたら日本のルールに従ってもらいたい。ふたりとも、ローマ時代には仲良くやってたみたいじゃないか。ローマにくらべたらみおとりするかもしれないけど、ここ日本は平和の国だ。紛争は似合わない。民族紛争は似合わない」
そのとき「なにいってんだ」と声が上がった。
「なんだよ、未来人」
「平和なのはヒロシ、おまえの頭の中だけだ。日本にも民族が存在する。在日と呼ばれるか朝鮮半島出身者、そして中国系住民やブラジル、ペルーといった南アメリカ系住民も無視できない数になっている。なにより、アイヌ民族がいるじゃないか」
「そんなことはボクだって知ってらい。かれらと紛争などしたことがないだろうが」
「ネットワーク探偵といわれるヒロシらしくないぜ。日本が朝鮮半島を自分の国だと言い張った時代に、そこに紛争が存在した。中国においてもおなじだ。アイヌにいたっては、戦争まで起こしているんだぞ」
「そんなこと知らなかった」
「知らないで、えらそうに言うな。ヒロシが中立だろうとなんだろうとかまやしない。中立だということもわかった。しかし、おれたちはおれたちだ。放っておいてくれ」
教室のあちこちから「そうだそうだ」という声が上がった。ぼくは未来人に言い返されてショックだったけど、お父さんにも、そしていま未来人にもいわれたように、たしかに放っておけばいいことだった。だけど、放っておけないと思ったから、ぼくの中立宣言が今の状況を変えるきっかけになればいいと思ったのだ。
休み時間になっても誰も話しかけてこない。未来人も啓介も近寄ってこない。ちづるにおいては無視だ。ぼくたちはパートーナーじゃなかったの? と聞いてやりたいぐらいだった。それでも未来人を追いかけていくと、いやいやながら話に応じてくれた。
「ヒロシは、もうすこしおりこうさんかとおもったけど」
「どういうことだよ」
「中立は中立で良いさ。でも、ヒロシのいいかたは中立じゃない。ヒロシ主義の開陳さ」
「なんだいそりゃ」
「まぁ、そんことはいまとなってはどうでもいいさ。それでなにか用か」
「未来人はクラス委員だろう、クラスをなんとかしろよ」
「べつに困りゃしないだろう。授業の邪魔にはなるわけじゃないし」
「でも、友達関係もバラバラじゃないか」
「そうかなぁ。みんな仲良しだよ。そりゃ男子と女子はけんかになっているけど、それは今に始まったことじゃないし。ヒロシは、ちづると話ができなくて困っているかもしれないけどさ。ヒロシも仲間には入ればいいんだよ」
「未来人って、そんなにつめたいやつだったのか」
「なんとでもいってくれよ」
「おかしいとおもわないのか」
「なにが」
「なにがって、今の状態さ」
「べつにぃ」
そういうと、未来人はいってしまった。
ぼくの一日は一人で始まり、一人で終わった。帰りも一人だった。
家に帰ると、「よッ、ノーベル賞は取れたか?」と、おとうさんが声をかけてきたので、背中に思いきりあっかんべーをしてやった。
自分のスペースに入ってメールを立ち上げる。着信が五件。あけてみると全部が、「昼飯の時、啓介君や未来人君たちとはなれて座って一人で食べていたけどなにかあったのですか」という内容だった。差出人は、食堂でよく合う近所の不動産屋の社長だったり、赤ちゃんを連れて良く来るおかあさんだった。時々しか話をしないのに、みんな気づいてくれている。なんだか、わけもなく涙がにじんできてしまった。未来人の態度に自分でも気がつかないぐらいに動揺していたようだ。
「大丈夫。ありがとう」と返信を送り、深呼吸して涙をとめると、未来人に指摘されたアイヌに関する情報を調べた。アイヌとの戦いはあっけないほど簡単に見つかった。これじゃ未来人の言う通りネットワーク探偵を返上しなけりゃいけないな。
アイヌと日本人との戦争は、「シャクシャインの戦い」と「国後・目梨の戦い」の二つ見つかった。
シャクシャインはアイヌのリーダーでアイヌ民族の英傑として、いまも語り継がれているという。添付画像の石像姿も凛々しい。江戸時代初期、いまの北海道に進出した日本人――和人とアイヌの衝突は、アイヌによる和人の二五〇名余りの殺害という衝撃的な事件に始まり、二年近くにおよんだ。最終的にアイヌ側の敗北で終わった。この民族紛争は一方的にアイヌの人々が和人を攻撃したわけではなく、和人がアイヌの人たち領土であった北海道に移住し、かれらの生活の場を侵食し始めたことに危機感を募らせたことに遠因があるんだそうだ。しかも紛争の始まりは、シャクシャインに長老を殺されたアイヌのグループが和人に助けを求めに行った帰りに急死したことが「和人による毒殺」と間違って伝えられたという。
ふーん。天井をにらんでぼくはため息をついた。お父さんがやってきて、いっしょになって天井を見ている。
「ゴキブリでもいるのか、ヒロシ? ほれ、おやつだ」
「ありがとう。おとうさんは日本にも民族紛争があったって知ってた」
「出雲族とヤマト族の戦いとかか?」
「なにそれ?」
「古代の話さ。まだ、日本が日本になる前のことだ」
「ぼくがいっているのはそんなむかしじゃなくて、三〇〇年ぐらい前のことだよ。アイヌと日本人の戦い」
「へぇーそんなことがあったのか。知らなかったよ」
「おとうさんが知らないんじゃ、ぼくが知らなくてもしかたないか」
「で、どうなった学校のほうは」
「中立宣言して、みんなに嫌われた」
「なんで?」
「未来人に言わせると、中立宣言の後に、ヒロシ主義を述べたのがいけないんだって」
「ヒロシ主義ってなんだ?」
「ここは日本なんだから、ユーゴの紛争を持ちこむな。日本は平和の国で民族紛争なんて似合わない。そういったら、日本にだって民族紛争はあったってやりこめられちゃった」
「それでアイヌを調べていたのか」
「そう。あとはみんな口も聞いてくれないんだ」
「おやおやもう泣き言か。中立はつらいと警告したはずだぞ。でもまぁ、つらくなったら学校なんて休んじまえよ。そんなことでがんばる必要なんてないからな」
「うん」
「じゃぁ、おやつを食べて、宿題をすませて、明日の準備をしろよ。こんど忘れ物をしたら、ほっぺたのはさみぱっちんが、えーと」
「三二回と、お尻パチパチ九六回だよ。それに大嫌いなジェットコースターつきさ」
ぼくは自慢じゃないが忘れ物がおおいので、これは、お父さんとの話し合いで決めた制裁ルールだ。両ほっぺたのビンタとお尻を物差しで叩かれる罰だ。一回と三回から始まった罰は、忘れ物をするたびにバイバイゲームになる。前回はお尻を四八回叩かれて、その日の夜は仰向けに寝られなかったくらいだ。「わかってんなら、きちんとヤレよ」
ぼくは翌日の学校の準備をしながら、明日、学校を休もうかなとちょっぴり考えた。
「朝になっても行きたくなければそうしよう。ネットで参加すればいいんだから」
口に出してそう言うと少しだけ気が楽になった。
翌日からは、「おはよう」といっても誰も返事をしてくれなくなった。かろうじて未来人と、啓介だけが目で挨拶をしてくれた。ぼくたちの友情はどうなったんだろう。一年のときからの友達なのに……。ぼくのしたことはそんなにいけないことなのだろうか。
クラスは表面上はなんの変化も見せないまま、冷たい戦争に突入していった。そのなかで、ぼく一人が孤立を深め、中立の厳しさとつらさを実感していた。
それからというもの、毎日のように、学校に行くのをやめようと考えたが、そのたびにもう一日だけがんばってみようとおもった。べつに暴力を受けるわけでもないし、なにか邪魔されるわけでもない。ただ、仲間に入れてもらえないだけなんだ。ぼくは、昨日までの仲間は未来の仲間じゃないんだとあきらめることにした。それにいつでも、学校に行かなくてもいいという選択ができることがなによりも、心の救いになっていた。他のクラスにも友達はいたし、食堂には龍野進さんの仲間がいる。ネットにも友達はいるし、おとうさんやおかあさんもいる。妹の楓子もいる。一人じゃないんだと、考えることにした。
そして――、ヒロシの中立宣言から一週間がたとうとしていた。
「どうだヒロシ君。中立はたいへんだろう。あのスイスでさえ微妙に立場を変えてきているんだ」
ぼくは食堂で五人の老人とたちと向かい合っていた。みんな龍野進さんの友達だ。この四、五日、毎日ぼくと一緒に食事をしてくれる。入院している龍野進さんをぼくも見舞いにいったが、学校のことは話していない。病人に余計な心配をかけてはいけないと考えているからだ。でも、龍野進さんの友達はこうして毎日のように食堂にきている。ぼくがここのところ一人で食事しているので、そんな姿が龍野進さんに伝わっているんだろう。それに見舞いに行っているのはぼくだけじゃないから、ちづるあたりからクラスの様子を聞いているのかもしれない。入院中の龍野進さんなりに気を配ってくれているらしい。おかげで、龍野進さんのネット仲間やスケートボード仲間に知り合いが増えた。
「わたしもね、同居している息子夫婦がいるんだけどね。息子と嫁の間で苦労しますよ、本当に。嫁のほうにすこし多く味方してちょうど中立になるのよね。変でしょう。でも、そういうものなのよね現実には」と、しみじみと話してくれるのは、龍野進さんのメル友の房江さんだ。
「わしのところもそうじゃ。嫁ときたら、脂っこいものばかりつくりよる。孫が食べ盛りだからしかたがないんだけどな。年寄りメニューを作ってくれというのもシャクだから、こうして、スケボーで走り回って脂肪を燃焼させている。おかげで元気じゃ。長生きできそうじゃよ。嫁は困るかもしれんがな。がははは」
これはスケートボード仲間の立山さんだ。スケボーで走り抜けていく年寄りの集団に、この町をはじめて訪れた人はびっくりするが、地元の若者は「長老」と呼んで一目置いている。なにせ、彼らのお父さんの時代よりもっと前に、スケボーで遊んでいたのだ。かなうわけもない。龍野進さんも長老の一人で、放置自転車を注意して逆に殴られたときに、おまわりさんよりもさきに助けてくれたのが、スケボー少年だった。ただ、かれは腕っ節がよわかったので、いっしょになって殴られちゃったんだけどね。
「でも、スイスって国はいまでも永世中立なんでしょう」。ぼくは無理やり話題を戻した。放っておくと嫁姑話になってしまうんだ。
「いや、二〇世紀の末にはじまったヨーロッパ統合で、だいぶ微妙になってきた。いまも、いちおうは永世中立だが、それは、実質的に軍事的な面だけだな」
教えてくれたのはこの春まで、大学の先生をしていた伊藤さんだ。このグループでは最年少の伊藤さんは子供の頃から勉強ばかりの人生だったので、いま、子供時代を取り戻しているんだそうだ。その遊びの師匠が龍野進さんらしい。
「それにスイスの中立は、スイスの選択だけど、スイスを取り巻く国々の選択でもあったんだ。スイスが中立でいること、そこに中立国スイスがあることが、周辺の国にとって利益となっていた。逆にいえば、「中立」以外にスイスにはメリットがなかった、といってもいいかもしれない。これといった鉱物資源があるわけじゃないしな。攻め取ってしまうのは簡単なことだけど、中立に利用価値があると考えたんだな。しかし、二〇世紀末からのヨーロッパを統合して、国境線をなくそうという実験の中では、国境線を保持しようというスイスの選択は、時代遅れなんだ。周辺の国にとっては、スイスはマーケットとしても小さいので、べつに無理にこじ開ける必要もない。だからこんどは別の意味で放っておかれたんだな。現在ではなし崩し的に、スイスも変わってきている」
「じゃぁ、ぼくらのクラスの場合は、ぼくが中立でもなんのメリットもないというわけですか、伊藤さん」
「いまのところはな。まぁ、いったん宣言したんだから、もう少しがんばってみなさい、ヒロシ君。そのうち風向きも変わるさ。変わらなかったら、そのときにまた考えればいい。わかりもしない未来について、いまあれこれ悩むのは意味がない。時間の浪費だ」
「もうすこしって、どのくらい? 正直いって疲れてきたんだ。勉強するだけなら学校なんてこなくてもいいしさ。おとうさんもいかなくてもいいっていってるし」
「それもいいなぁ。学校なんか通わないでわしらの仲間に入って一緒にスケボーするか。がはははは」
歯医者さんの峰元さんが、真っ白な入れ歯を見せ付けながらいった。
「大丈夫だよ、ヒロシ君。移ろわない時間はない。移ろう時間なかで変化しない人間もまたいない」
そういって、しめくくったのは「哲学屋」と呼ばれている鈴木さんだった。別に学者じゃないんだけど、すぐにむずかしいなぞめいたことを言うし、仕事が鉄工所だったからそう呼ばれているらしい。
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昼休みが終わって、クラスに帰ったぼくは、このクラスが変わることがあるんだろうか、と諦め顔で眺め回した。もちろん見返してくる顔などない。そのときちょっとした変化にきがついた。もしかしたらその変化の兆しは数日前から現れていたのかもしれないが、孤立して、一人で殻に閉じこもっていたぼくには見えなかっただけなのかもしれない。
硬く結束していたように見えたビスカトールとナスターシャのグループのなかに、さらに小さなグループができているようなのだ。男子と女子はもともと、一枚板だったわけではないし、それぞれがグループを持っていたのだ。転校生の性格も分かってきたこの時期、どうやら、もともとあったグループが復活して、転校生を自分のグループに引きいれて独占しようとしているらしいことがわかった。だからといって、ぼくをとりまく環境がそう大きく変わったわけじゃない。それでも、一枚壁だったものに隙間があいて、息苦しさがなくなったのは確かだった。
変化に気がついた翌日になると動きはより明確なものになった。クラスの民族紛争はあらたなステージに進んでいた。それは、いままでの状態が冷戦だとすれば、ホットな戦争とでもいえる状態だった。
ナスターシャを支援していた男子は最初三つわかれて、最終的には五個に分かれた。それぞれが互いに非難しあい時には取っ組み合いの喧嘩になった。ナスターシャはそれをとめるわけでもない。ビスカトールを支援していたはずの女子は男子よりも細かく分かれた。注意深く観察すると一〇個のグループに分かれている。なかにはメンバーが二人というのもあった。こちは取っ組み合いこそないけれど、口喧嘩は激しさを増していた。ビスカトールもそれをみて止めるふうでもない。
分裂が始まったころから面白いことが起こった。細かく分かれて喧嘩を続けるグループが、別々にぼくのところへきて、ぐちをいいうのだ。ぼくを仲間に入れようとはしない。ただ、ほかのグループの悪口を言って帰っていく。ぼくも、どのグループの仲間に加わるつもりも、みかたをするつもりがないので、だまって聞いている。
さらに一日がたつと、今度は、ぼくのところに避難してくるクラスメートがでてきた。
真っ先にやってきたのは、なんと啓介だった。それまでは、いつも先頭を切ってグループを作っては、また自分から出て行くということをくりかえしていた、過激派だ。さすがにぼくも啓介には声をかけた。
「もうやめたのか啓介」
「あぁ、もう面白くない」
けろりとしていう。つまるところ、啓介の過激さについてくるものがいなくなっただけのようだ。
ぼくのところといっても、決められた場所があるわけじゃない。休み時間になるとなんとなくぼくの周囲の半径二、三メートルのところにいる。ぼくが動くとそのグループも動く。ぼくのところにきた人が仲間を作るわけじゃない。台風の目の中のように静かなだけだ。この場所にやってきて、ようやく自分たちの乱痴気騒ぎが冷静に見えたらしい。きつくとんがっていた目がみんな和らいだ。
周りに人が集まってきて、正直ってぼくは気が楽になった。同じことを考えていないまでも、同じ雰囲気を求めている人がいるというだけで妙に安心した。これまで、もう一日もう一日とつっぱてきていたのが、自分でもわかった。
いっぽうで、クラスの騒乱はますますひどいものになっていった。休み時間にはかならず、口喧嘩や取っ組みあいが始まった。男子は男子、女子は女子でグループを作っていたのがこのころになると、男女混成のグループになっていた。ビスカトールを支援していた女子がナスターシャを応援するグループに移ったり、その逆もあった。「裏切りもの」という言葉も飛び交うようになった。その間もグループに属していたものがささいなことで追放されたり、いじめられたりして、ぼくたちの場所にあつまってきた。
おまけにそのグループの分裂のきっかけが転校生とはどんどん離れてしまって、「消しゴムの匂いはフルーツ」だとか、「アニメのキャラで一番なのは超戦士バジェットだ」、「端末の壁紙はサボテンがいい」なんていうことで、グループが離合集散していった。
ついにはクラスは転校生の親衛隊二つと、それ以外のグループに分かれた。
クラスが元に戻ったといってもいいかもしれない。落ち着いたといえるかもしれない。しかし、親衛隊同士の抗争は激化した。放っておけばいいことだとはわかっていても、黒板やネットのクラス専用の掲示板にまで薄汚い言葉が書きこまれ、喧嘩で怪我人まで出るようになると話は別だ。
こまったことに、未来人、ちづるが最後まで親衛隊に残ったのだ。未来人はナスターシャを支援するグループ、ちづるはビスカトール側だ。クラス委員の二人が親衛隊にいたんじゃクラスの話し合いも出来たもんじゃない。
啓介に相談すると「あいつらあたまがよすぎんじゃないのか」というだけだ。頭が良すぎるってどういうことさ――。
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「はー。まったくどうなっちゃったんだか」
「なによ、ため息なっかついちゃって。ため息がセクシーになるには一〇年、いや三〇年早いわよ」
「珍しく早く帰ってきたと思ったら、ちゃかさいないでよ、おかーさん」
ぼくのおかーさんは外で働いているので、普段は家にいない。おまけにめちゃくちゃ忙しいから、朝はいないし、夜もいない。会うのは土日ぐらいだ。それも寝ているから会わないことも多い。今日は珍しく早く帰ってきた。どうやら、打ち合わせがキャンセルになったから、「仕方なく」家に帰ってきたらしい。早く帰ってきたからといって夕食のしたくをするでもなく、家族の非難の的であるぐちゃぐちゃの自分のスペースを片付けるわけでもない。「妹の楓子を迎えにいったら」というと、「明日はいかれないのよ。そんな期待を抱かせるようなことをしたら、楓子がかわいそうじゃない」だって。
料理は父のほうが上手だからと決めている。それにお父さんも、口にはださないが、料理の腕は自分のほうが上だと思っている。だから、我が家ではおふくろの味ではなくて、おやじの味だ。
「これはこれはご挨拶ね。別に好きで遅くまで働いているんじゃないわよ」
「じゃ、早く帰ってくれば」
「それができればそうしてるわよ。お金を稼ぐのにはしかたないじゃない」
「それじゃ、ぼくがなんでため息をついているのかわかりもしないで、偉そうなこと言わないでよ」
「もぉうっ、生意気なんだから。あんたは一人で大きくなったと思っているんでしょうけど、あんたを産んで乳やって育てたのは、まぎれもないこのわたしなのよ。わたしがいなければそんな生意気な口も聞けないのよ、わかった?」
「はいはい」
「あ、二度返事した! もう、三年早かったらひっぱたいているところだわ! なによ、ついこの間までおかーさんおかーさんていいながら、おっぱいにぶらさがっていたくせに。でもね、ヒロシ、おかーさんがなぁーんにも知らないとおもっているみたいだけど、いまは情報化時代よ。あんたのクラスででなにが起こっているかなんて、おかーさんみぃーんな知っているんだから」
「じゃ、言ってごらんよ」
「あー、そうやって親を試している。可愛くないなぁ。ちづるに言いつけるわよ」
「ちづるなんて関係ないよ」
「まぁ、関係ないよだって。おまけに呼び捨て。きー妬けちゃうわね――てのはうそだけど。わたしだって、会社ばかりに情報源を持っているんじゃないわよ。ちづるさんとだって、メールのやり取りしているし、龍野進さんともメル友よ。なに焦ってるのよ。へへー知らなかったでしょう? だからね、知っているのよ」
「そんなこと自慢してどうすんの。子供のことを承知しているのは親として当然でしょうが」
「まったく口が減らないわね。そういうところは、ノリさんの若いころにそっくり。まっいいわ。で、クラスの民族紛争とやらは収まったの? ヒロシは中立宣言してみんなに総すかん食ったんだって。ヒロシのやりそうなこと。それでいいんだけどね。ヒロシのやりかたは今回は正しい。時間がその正しさを証明したんでしょう? 中立チームは何人になったの?」
「クラスの三分の二さ」
「じゃ、騒動は収まったの」
「なんでも知っているんじゃないの」
「わたしの情報は三日前現在なのよ」
「ちぇっ、ずいぶんとのんびりした情報化時代だね」
「いいから教えなさい」
ぼくはグループの細分化が進んで、今はビスカトールとナスターシャの親衛隊とそれ以外が残ったことを話した。
「あら、じゃぁ、もう少しじゃないの」
「なにがもう少しなもんか。クラスはめちゃくちゃだし、殺伐としているし……。今日なんかついに怪我人まででたんだぞ」
「めちゃくちゃにしているのはあんたたちじゃないんでしょう。その親衛隊だかなんだかなんでしょう? じゃぁ、そいつらをクラスから追い出しちゃいなさいよ」
「追い出すって、友達もいるんだよ。未来人もちづるも……」
「あのね、友達が困るようなことを平気でやるようないやつとは付き合わなくてもいいの。そんなの友達でもなんでもない。それに、今の言い方だと啓介は親衛隊にはいってないんでしょう。友達なんて啓介君がいれば充分よ。みんなで追い出しちゃないなさい。迷惑をかけているのはその子たちなんでしょう。喧嘩するんだったら、校庭でも、どこででもすればいいんだわ」
「そりゃそうだけど」
「だけどなんなのよ。ちづると喧嘩別れするのがつらいの? そりゃあの子はいい娘さんだわよ。おかーさんも気にいっている。でもね、この世の中の半分以上は女なのよ、気にしない気にしない。あんたが生まれたときも、新生児室の五分の四が女の子だったから、女の子の親御さんから『これも何かのご縁ですから、息子さんを娘のいいなづけに』って言われたもんよ」
「それでおかーさんはなんて答えたのさ」
「みんなサルみたいな顔しているんだから、断ったわよ」
「ありがと」
「どういたしまして。そんなことより、迷惑をこうむっているのはあなたたちなのよ。だいたいが幼稚な理由で始まった喧嘩を民族紛争だなんて格好つけていうからいけないのよ。悪いものは悪い。そこに友情や愛情が入る余地はないの。なんだったらおかーさんがちづるには言ってあげるわ。『今後はお付き合いを遠慮させていただきます』って」
「ちょっ、ちょっとまってよぉ」
「さぁさ、ごはんだごはん。みさおさん、あんまりヒロシをいじめちゃだめだよ。真剣に悩んでいるんだから」
「だって、この子ったら、友情と感情を勘違いしているのよ。感情として許せないものは許しちゃいけないわ。たとえそれが、友情を壊すものでもね。友情は壊れてもまた作れるのよ。でもね、自分の感情はこわれたらもとにはもどらないわ。民族の民族たるゆえんがなにかに対する強烈な帰属意識だとしたら、あなたがあなたでいるためにはあなたの感情に対して猛烈に帰属意識を持たなくちゃ。ノリさんちがう?」
「そ、そうだね。とにかくご飯にしようよ。腹が減っていると気も立つからさ」
おとうさんは「ふうーこー」と妹を呼びにいてしまった。
おかーさんはご飯の間もブツブツ言っていた。おかーさんのいうこともわかる。許せないことは許せない。友情もこわしてしまうのは簡単だけど、壊さないでうまくクラスを元に戻すことはできないかということなんだ。無理なんだろうか。
「おまえのかーちゃんのいうとうりかもしんねぇな。もう無理だよ。あいつらをクラスから追い出せば、すっきりすることはまちがいないしなぁ」
「でも、追い出したらそれまでだよ。それに彼らはどこへ行くのさ」
「そんなの自分たちで考えるだろう」
「そんな無責任な」
「あいつらだって、責任なんて感じちゃいないさ。俺たちの楽しい学校生活を邪魔しているんだゾ。小学校最後の一年間に汚点をつけようとしているんだ!」
啓介は、つい二、三日前まで、迷惑をかけている側に、おまけにもっとも「過激な」活動をしていたことなどけろっと忘れている。
「それしかないのかな。ビスカトールとナスターシャはまた居場所をなくすじゃないか」
「へ、あいつらはそんなことでへこたれるほどやわじゃない。なんせかんせ戦争をしていた国からきたんだぜ。あいつら俺たちのことバカにしているよ。おれがグループを抜けたのもそれを感じたからさ。口にはださないけど、がきだねあんたたち! そう考えている。事実、おれたちはあいつらにくらべたら、幼いんだよ。さっきもいったけど、あいつらは戦場からきたんだ。それもゲームじゃない本物の戦争だ。地雷を踏んだらさようならの世界だ。銃弾を食らったらそれまでの世界だ。リプレイも再挑戦もない世界だ。だから、あいつらを追い出したって、あの二人はなに食わぬ顔して、教室に残るさ。あの二人にしてみれば、ようやく手に入れた、安心できる場所なんだ。廊下の角を曲がる時に狙撃されることもない。校庭で地雷を踏むこともないんだぞ。
「そりゃそうだけど……」
「でも、俺たちの幼さは、あの二人が戦争に巻き込まれておびえたり憎んだりしている間に、すごした幸せな時間の積み重ねからきているんだ。決して、引け目を感じることもない。どちっかっていったら自慢していいもんだろう。でも、あいつらは、おれたちをバカにしている。いや、そうじゃないな、ねたんでいるのかもしれない。だから、その幸せな時間を破壊していることに気がついているのに止めもしない。おまえらも少しは、傷つけってなもんだ」
「そんなひどいこと考えているかなぁ」
「あの二人は許してやってもいいが、問題はほかのやつらだ。同情だかなんだか知らないけど、あの二人が傷ついていると勝手に思い込んで、それを守るためにほかの人間を傷つけている。見てみろあいつら」
啓介は、ビスカトールとナスターシャを取り囲んでいる親衛隊を指差した。
「クラスでもまじめで、頭のいいやつばかりだ。あたまが中途半端によくて、みょうに自信を持っているやつらばかりだ。自分たちで転校生の故郷の歴史を調べて勉強会をやっているんだ。すっかり、セルビアだかサルビアだかしらないが、そこの人間になっちまったつもりでいる。そして、自分たちがその悲惨な歴史をくりかえしていることにきがつかないんだ。どうかしているぜ、まったく。あいつらの目を覚まさせるには、強硬な手段をとらないとだめだ。このクラスはおまえたちだけのものじゃないということを、ガツンといってやらないと」
さっそく「過激派」啓介は、戦線を離脱してきたクラスメートに声をかけ始めた。
そして、次の日の朝、ぼくたち「中立派・離脱派連合」は、いつもより一時間も早く登校した。そして、喧嘩を続けるクラスメートの机を校庭に運び出した。さらに、教室の入口に門番を立てて、抗争を続けるメンバーの入室を拒否した。かれらは怒ったけど、いまとなっては多勢に無勢だ。「でーていけっ! でーていけっ!」コールを前に引き返さざるを得なかった。やがて、何人か仲間をつれてきたが、結果は同じだ。ビスカトールもナスターシャも拒否された。二人とも心外だというような顔つきだったがおとなしく校庭に出ていった。
担任のタヌキがやってきて説得したが、これも拒否した。だってボクたちには平和な教室を守る権利がある。そういわれれば、タヌキといえども引き下がらざるを得ない。校長がきても同じだ。結局、昼休みに話し合いを行うことにして、午前中は、追い出されたやつらは、空いている部屋に別々に入れられて授業をオンラインで受けることになった。
ぼくは、未来人との友情もこれでおしまいだなとか、ちづると、もう遊ぶこともないんだな、などと、ぼんやりと考えて午前中を過ごした。
昼休み、ぼくらのクラスは体育館に集合させられた。ぼくら「中立派・離脱派連合」には話し合う事などなにもないんだけど、仕方なくつきあった。校長が「きみたちはいったいどういうつもりだ」ときいたが、ぼくたちは「それは、あいつらに聞いてください」と突っぱねた。
校長はしかたなく未来人とちづるに向かって同じことをたずねた。すると、ビスカトールとナスターシャのグループがたがいにののしりあいをはじめた。「こんなことになったのはおまえらのせいだ」「いやおまえらだ」。
実にくだらない光景だった。ビスカトールとナスターシャは自分を取り巻くクラスメートからすこし離れるようにして座っていた。その顔を見るとじつにつまらなそうで、自分は関係ない、何でここにいるのかわからないう表情だった。
口喧嘩を一喝して、校長がビスカトールとナスターシャに「きみたちはどうなんだ」と聞いた。すると体育館に残る校長の怒鳴り声の残響を打ち消すようなあかるくはっきりした声で答えた。
「わたしは教室もどりたい。これは、他の人が勝手にしていること、私とは関係ない」
「ぼくもそうだ。教室に帰りたい。この人たちのおかげで、授業を受けられないのは不公平だ」
啓介はぼくをひじでつつくと「ほらな」とうなづいて見せた。啓介が言ったとおりの二人の発言にびっくりしたけど、もっとびっくりしていたのは、喧嘩をしていた人たちだ。あっけにとられて、ビスカトールとナスターシャを見つめている。かれらの目を見ていて、ぼくは、この作戦が失敗だったと気がついた。そして次に起こる事態を想像して、ものすごく後悔した。
「なんてぼくはおばかさんなんだ」
「なんでだよ。これで、おさまったじゃないか。あいつらも、目がさめるさ」
「それはぼくも認める。でもね、ビスカトールとナスターシャの居場所はなくなるぞ」
「なんで?」
「中立派・離脱派連合」の行動は革命だった。喧嘩を続けるクラスメートに「ノー」といったのだ。友情をなくすことを覚悟で彼らを拒否したのだ。しかし、心のどこかで、目を覚ましてくれ、またいっしょに勉強しよう、遊ぼうというメッセージもはいっていた。問題は「いっしょに」のなかにビスカトールとナスターシャははいっていなかったことだ。というのも、クラスの混乱の原因はビスカトールとナスターシャにあると考えているからだ。かれには悪いところは何もない。でも、彼らが転校してきたことで、混乱が起こったと考えている。その二人がごめんねも言わずに、勉強したいといったからといって、許せない。おまけに、二人は、クラスメートに向かって、「この人たちとは関係ない」とか、「勝手にやっているだけ」とまでいった。これには「中立派・離脱派連合」もカチンときたことはたしかだ。事実「それはないんじゃないか」という声が上がっていた。
喧嘩していたグループは、当の本人たちが抜けては、帰属すべきものがなくなって空中分解するだけだ。おまけに、勘違いとはいえ、きみたちのためにがんばってきたのにという思いが強いから、二人の転校生の行動は裏切りとしか思えないにちがいない。
結果として、転校生は居場所をなくす。
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事態はぼくの想像したとおりになった。クラスは元に戻り、喧嘩もなくなった。クラスメートはもともとあった仲間グループに少しずつ落ちついていった。啓介とぼくのところには未来人がやってきて謝った。ぼくは「忘れられない思い出だけど、また、いっしょに遊んだりすることは努力する」と答えた。啓介はぼくほどに、わだかまりはないみたいで、「気にしない気にしない」といっている。
ちづるとは相変わらず口をきいていない。まぁ、仕方ないと思っている。ぼく自身に対するわだかまりと、最後までいがみ合った未来人に対するわだかまりもあるみたいだから。啓介はちづるにもいままでどおりに声をかけている。ちづるも啓介には口をきいている。
啓介には啓介の考えがあってそうしているのかもしれないが、もしかしたら、啓介が一番賢いのかもしれないと思った。
実際、啓介は、ぼくがいったとおりに転校生のふたりが孤立すると、さりげなく声をかけている。昼飯を一緒に食べようと誘ったりしている。別に仲良くさせようとか、喧嘩させようなんて考えずに、付き合っている。そのなかで、クラスメートがどう考えているかということを二人に伝えている。もちろん自分たちがどう考えてあんなことをしたかということもだ。クラスメートとの仲が良くなったわけじゃない。でも彼らを拒まないことだけは約束させたようだ。
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「そうか。まぁ、よかったじゃないか。なんと言っても今回の功労者は啓介じゃな」
龍野進さんがベッドの脇に立つ啓介に言った。
「えへん。ノーベル平和賞もんですよね」
「あぁ、そのとおりじゃ」
「ぼくだって努力しましたよ。だいたい、ぼくが中立でいたから、よかったんじゃないか。啓介なんて最初は先頭切ってさわいでたじゃないか」
ぼくはなんだか、おいしいところを啓介にさらって行かれたような気がしているので、慌てて自分の功績を主張した。
「でも、目がさめるのも早かった。誰かさんと違ってな」
「誰かさんて、私のことかしら。啓介君」
振り向くと病室の入り口に、ちづるが立っていた。(完)