ネットワーク探偵トロンの事件簿 5
サイバーテロリストを
ゲームフィールドに誘い込め



作:ぶんろく

目次
■テロリストの夜明け
ヒロシ、ちづると対決する
テロリストの夜
透明人間発見
クラスを破壊した1通のメール
ヒロシも容疑者?
タヌキの逆襲!?
テロリストを誘き出す罠
テロリスト崩壊




テロリストの夜明け
|目次|

部屋を満たす青白い光の中心にぽっかりと黒い穴があいている。キーボードを叩くカチャカチャという音にまじり、ときどき聞こえる低い笑い声が、その動くことのない黒い穴が人間であるということを教えてくれる。パソコンのディスプレイから放たれる青白い光で暖をとるかのように丸められた背中はくつろぎ、楽しそうで、憎しみも悲しみのかけらもなかった。
     @
五月の連休のそわそわした雰囲気が消えかけたある日の朝、川辺小学校に通う子どもたちに電子メールが届いた。
「本日学校は休みです」
 これを見た子どもたちの「わーぉ」という喚声と、「まいったわね」という親のつぶやきが各家庭で交わされた。
 東京の東はずれにある川辺小学校は、インターネット・スクール全盛の現代において、「学校に通わせる」二〇世紀スタイルの古風な学校だった。いまでは数少なくなった通学型の学校は根強い人気があり、通ってくる子ども達は近所の子どもだけではない。学校にノスタルジックな思いを持つ親が無理やりに通わせる場合もおおく、実際、川辺小学校には一時間もかけて電車通学する子どももいる。
 とにかく子どものいないあいだに羽を伸ばそうと考えていた親を除けば、休校の知らせは歓迎された。こうした臨時休校の場合、いつもであれば、学校のコンピュータから自宅学習用の宿題が送られてくるはずなのに、それがないことに不審を抱く子どもなどいるはずもなかった。もし、いたとしても、すぐに忘れた。
     @
時間は少しさかのぼって、川辺小学校の生徒たちは、まだ起きていない午前4時。『国民新聞』のオンライン調整室から、この日の朝刊が購読家庭のメールボックスにインターネットを通じて配達された。新聞を投げ込まれたポストのコトンという音も、配達人がこぐ自転車のブレーキの音も聞こえないが、日本で一二の購読者をもつ新聞は確実に届けられる。
 この日の「配達」係の井上は、ディスプレイの配送完了の表示をみながら、ヤレヤレといった感じで首をコキコキと鳴らした。新聞がオンライン配送される現在、新聞の形態も変わってきた。かつて新聞が宅配されていた時代のように政治経済から国際・生活・社会面、マンガ・テレビ欄まで全部を購読する人もいれば、必要なところだけ購読することもできる。地方版も前よりも木目細かくなった。そのぶん記事の配信には気を使う。ネット管理者は配信先と配信するニュース内容が混乱しないように、いくつものモニターの画面をチェックする必要がある。
 仕事の引き継ぎまであと4時間。井上はほかに誰もいない調整室にこだまするようなあくびをすると、コーヒーを買いに廊下に出た。そのころ、太平洋に面した地方都市駿川の購読世帯6000戸にこの日二度目となる『国民新聞』が配達された。
 新聞がオンラインで配達されるようになっても、朝起きた人はまず新聞を取りにいく。家のドアの郵便受けが、パソコンのメールボックスに変わっただけだ。こうした文明の習慣はそう簡単に変わらないのだ。しかし、この日の朝、駿川市で、あくびをしながらトップニュースを目にした人はパッチリと目がさめることになる。
 駿川市に住む古池国男もそんな一人だった。目の前のディスプレイには「大規模な地震が起こる可能性が90パーセントに達した。政府は緊急危機管理委員会を設置、該当地域住民に対して避難勧告をだす」というトップニュースが表示されている。記事を読むために画面をスクロールするマウスをもつ手が震えている。かねてから大地震が次に襲うと名指しされていたこの地域にとって、このニュースのインパクトははかりしれないものがあった。
 古池は、まだ寝ている家族を「おい大変だ。ついに大地震がくるぞ」と起こして回った。いつも古池が出勤してから起きてくる妻の幸恵は、地獄の閻魔のような唸り声をあげて抗議したが「地震がくる」という一言に反応して起きた。反抗期の息子和弘は枕を投げつけてきたが、「地震が来るんだ!」という父親のせっぱ詰まった声に布団から顔をだした。娘の恵理子は大声を出しながら家を歩き回る父親の気配で起きた。兄と父がまた喧嘩でも始めたのかと思ったからだ。
 のそのそと居間に集まってパソコンを4人が見つめている。窓の外はうららかな日差しに包まれている。
「おやじどうする? 逃げるのか」
 古池は、それが半年振りに聞く息子の声だと気がついてなんだか嬉しかった。
「まぁ、確認しなくちゃな。役場に電話してみよう。おまえたちは早く着替えて、食事をする。そして、最低限の荷物をまとめておくように」
「わかったわ、じぁ、おとうさん役場に電話、お願いね」
 妻の不機嫌でない声を聞くのも久しぶりだと思いながら、電話をかけた。
 古池はまだ落ち着いているほうだった。気の早い人は職場や学校に行くことをやめて、逃げ出す算段をはじめる始末だ。すこしでも冷静な人は、自分も逃げようかという気持ちとたたかいながら、地元の気象台や消防署に確認した。確認されたほうも困った。同じ情報源しかないのだから。しかたなく、公共機関はニュースを配信した新聞社に問い合わせると同時に、上部管轄省庁に問い合わせをおこなった。
 そのころ『国民新聞』の井上は、オンライン調整室でイスにふんぞり返って仮眠していた。
     @
メールマガジン配信会社グーテンベルグが配信を請け負う人気誌『アルファ』の臨時増刊号が、契約者のメールボックスに届けられたのも同じ頃であった。
 特集記事は「海の向こうの国からミサイルが飛んでくる」というセンセーショナルなものだった。
 大国といわれる国々で軍備縮小が進む一方で、発展途上国では国内経済の活性化をもくろんで、軍備の増強が進んでおり、一部の国では、国際社会での地位向上を軍事力の誇示によって図ろうという時代遅れの動きがある。しかもそれらの国々は、大国といわれる国を相手に渡り合うことで自らを鼓舞し、また、同じような地位にある国々の中から抜きで用と狙っているというのだ。
 日本が位置する東アジアには、ロシアから独立したサハリンや、朝鮮半島、フィリピンなど、そうした動きを深めている国が多くある。
 しかし、中国やアメリカ、ロシアを相手にするには危険が大きすぎるので、小手調べを日本に向かって仕掛けようという動きがあるという内容で、某国のミサイル基地の衛星写真が掲載され、発射台にセットされたミサイルが、長々と影を作っている。
 新聞と違って、起き抜けにメールマガジンを読む人は少なかったが、携帯端末に落として、通勤や通学途中で読む人が多く、このニュースは、口コミで伝播することになった。
 記事を書いたのは、購読者の信頼の厚いビデオジャーナリスト玉房祐司だった。
     @
その日、川辺小学校6年の蔵ヒロシは学校からの休校通知をチェックした後、朝の習慣となっているメールのチェックをしていた。ほとんどが「電子メール暗号クラブ」といった趣味で参加しているメールクラブからのものだった。そのほかは小学生向けの学習ソフトなどのダイレクトメールだ。ダイレクトメールはゴミ箱に容赦なく投げいれる。必要になったら、ネットで検索すればよい。
「なんだい水臭い。わざわざメールなんてよこして。あと1時間もすれば学校で会えるじゃないか」と思ったものの、あぁ、今日は休みかと苦笑いした。そのメールの差出人はDoll――同じクラスのちづるのハンドル名だ。
 メールを開くと「サザンクロス株式会社の副社長の任を解く。そして、あなたとは絶交」とだけあった。
 サザンクロスは、一年ほど前、電脳都市「MAHOROBA」のゲームフィールドで優勝した賞品の南太平洋の島をリゾート開発するために、友だちの未来人や啓介、ちづると一緒に設立した会社だ。一緒にといっても設立の際の実務をやったのは、すでにおもちゃのデザイン会社の経営者であるちづるで、リゾート開発するというのも、彼女の発案だった。
「なんだいこれ。いったいどういうことさ、やぶから棒に」。ちづるとは昨日も学校で一緒だった。喧嘩した記憶もなければ、嫌がらせをした記憶もない。キツネにつままれるというのはこういうことを言うのかと思った。
 今日は学校は休みだから、ちづるに会えないし、絶交という以上、メールなどは読まないだろう。どうしたものかと考えていたが、なにか釈然としない気持ちが沸き起こってきた。それは怒りといっていいものだった。なんで一方的にこんなことを言われなければならないのか。そのとき簡単なことに気がついた。
 ヒロシは朝食を食べると、家で仕事をしてる父親の背中に「出かけるよ」と声をかけた。おとうさんは振り向きもせず「外は物騒なことになっているかもしれないから気をつけろよ」と声をかけたが、ヒロシは「どういうこと」と聞き返しもせずに、ちづるの家に向かった。
 ちづるにもメールが届いていた。「おまえなんかきらいだ。目の前から消えてくれ」
 差出人はTRON――つまりヒロシだ。
 メールの内容はちづるに衝撃を与えたが、ヒロシと違ってちづるは、すぐに行動に出た。嫌われるのはかまわない。でもできればその理由が知りたいのだ。理由も言わずに一方的に罵声を浴びせていく方法はがまんならなかった。怒りを押さえてヒロシにメールを打った。
 送信完了と同時に母親が部屋をノックした。ヒロシが来たという。
 こうして騒々しい1日がはじまったが、ヒロシやちづるを襲った災難は地震やミサイルのニュースとは違い、当事者以外はだれも知らないことだった。
 そして――川辺小学校では、ヒロシたちのクラス担任のタヌキこと田沼昭夫が、誰もこない教室で居眠りをしていた。
     @
朝8時、国民新聞社のオンライン調整室では、深夜勤務のネット管理者井上と通常勤務の管理者春木が引き継ぎをやっていた。
 壁面を埋める一〇〇以上もある管理用モニターが放つ青白い光に半身を照らしながら「特に異常なし。侵入もなかったし、それを試みるやつもいなかった。久しぶりに平和な夜だった」などと話しているところに、電話が鳴った。
 電話はお客様係からだった。電話を受けながら井上は、目の前の管理用のモニターを見つめたが、そこには「無策内閣に国民の肘鉄。内閣支持率急落」というトップニュースが見えているだけだった。しかし、お客様係は殺到する電話をなんとかしてほしいと悲鳴を上げている。井上は春木を残し、一つ下のフロアにある編集局に飛び込み、今朝のトップニュースを確認した。間違いない。
 調整室に戻った井上にお客様係から電話の応答データが届けられた。「いったいどういうことなんだ」とつぶやきながらメモをめくる井上は、1つのことに気がついた。それは問い合わせてきた購読者の住所が1箇所に集中していたのだ。メモには駿川市とある。
 井上は早速駿川市のデータを呼び出す。人口3万のこの都市で『国民新聞』を購読するのは六〇〇〇世帯だった。
 それを確認すると、ほかの地域の支社に配信された新聞の内容を確認したが、やはり、それは井上が配達したものに間違いがなかった。
 つまり、ごく一部のデータのみが書きかえられたのだ。
 しかしこの時点で井上もそして購読者も気がつかなかったことがあった。それはあまりにトップニュースがショックだったせいだが、それにしても単純なことだ。トップニュース以外はすべて昨日のニュースだったのだ。おまけに直ぐ前に本物の朝刊がとどけられていた。単純な仕掛けだ。購読者はとうぜんあとからきたほうが新しいと思うからそれを読む。そこには衝撃的なニュース。古いやつなんて読む余裕もなく、慌てはじめる。絵に描いたような仕掛けだが、駿川市はかねてから地震が起きると心配されていたことを犯人は利用したのだ。
     @
新聞ほどではないにしろ、メルマガのミサイル記事も少なからずショッキングなものだっただけに、問い合わせが防衛庁などにちらほらと届いた。しかし、聞かれたほうも答えようがない。記事が掲載されてたのが会員制のメルマガであったため、防衛庁の当直担当菊川が庁内で購読者を探し出し、当該記事を確認するまでに30分ほど要し、担当者は記事をプリントアウトすると上官の大島に報告すべく受話器を取り上げた。
 出庁前に自宅で菊川から報告を受けた大島は、記事をファックスで送らせた。菊川はメールのほうが早くて簡単なのにとぶつぶつ言いながら、記事をテキストエディタにコピーして体裁を整えてから、大島の家のファックスに送りこんだ。大島は大のパソコン嫌いだった。階級が上だから許されるわがままだった。
 ファックスを受け取った大島は、記事の内容はきわめて稚拙なものであり、公式にコメントするまでもないと考えたが、このメルマガの購読者が多いことや、過剰反応が得意な国民性を考えて、午前中の定例の記者会見でなんらかのコメントを発表することとし、情勢分析担当官に草稿を作らせる指示をだした。
 当直を明けて宿舎に帰ろうかと考えていた森下分析官は受話器を取り上げたことを後悔したが、命令には従わなければならない。「それにして三文雑誌の記事にいちいち答えるためにおれは税金で飯食っているんじゃないぞ」とぶつぶつ言いながら草稿を書き始めた。おそらくこれを発表することになるであろう八幡防衛庁長官は、大時代的な言いまわしが好きな人物で、どんなときにも勇ましくがモットーだった。ネガティブな意味をちょっとでもふくむ言葉は禁物だ。
「本日一部のメールマガジンで報じられた、日本に対するミサイル攻撃の危険性は防衛庁の情報分析によれば可能性はゼロであります。発表されたミサイル基地の存在は、事実であり、防衛庁も確認しています。しかしながら、報じられたような子どもじみた動機でミサイルを発射する国家があろうはずもなく、またそのような狂人的な発想を持った国家元首もいま世界には存在しておりません。ましてやわが国は世界に誇る平和国家であり、その平和国家を攻撃する、いや攻撃するという意図を明らかにした段階で世界中から自らが攻撃にさらされるのは必至であります。さらにわが国の防衛能力は世界でも屈指であり……」
 メールマガジンの配信元グーテンベルグにも問い合わせがあったが、新聞社同様、寝耳に水であった。おまけに管理者はマガジン発行者から送られてくる記事をそのまま配信ルートにのせるのが仕事で、記事内容など何も知らないから、対応ができない。経営者に電話をして判断を仰いだが、すでに契約者のメールボックスに送られているので、サーバの停止などをおこなっても効果がなく、放っておかれた。
 経営者は、連絡してきた管理人に「記事の発行者はだれなんだ」と聞いた。管理人は、「書いた人は玉房という人で、マガジン名は『アルファ』だそうです」とこたえると、「それじゃ、そいつのメルマガの配信は次回から見合わせることを、本人に通知しろ。文面はいまからメールで送るから」といって、電話を切った。10分後、メルマガ『アルファ』発行者に次回より配信受託の見合わせを理由とともに送付した。
「玉房裕司様 今般の事態を受け、別紙の理由により、貴殿のメルマガ『アルファ』の配信をしばらく停止させていただきます。もし故意に行われた行為であると判明した場合、当社は貴殿に対し、規約にてらして相応の損害賠償を請求することになります。何かの手違いであると判明した場合はその限りではありませんが、その証明責任は貴殿に属します。管理人」
     @
一晩中、青白い光に包まれて幸せな時間を過ごしたその人は、「クク」とネコがのどを鳴らすような笑い声を立てると、いすの上で背伸びをして、そのまま飛び上がるようにして、ベッドに身を投げた。バスンと一度バウンドして枕を抱えるように引き寄せると、既に寝息を立てていた。
 主を失ったディスプレイは相変わらず青白く光り、カーテンの隙間をこじ開けるようにして差しこんでくる太陽としばらく格闘していたが、やがて元気を失い、主の帰りを待ちわびるように、ピチピチという音を立てて、省電力モードにはいり、こちらもまた眠りについた。

ヒロシ、ちづると対決する
|目次|

「やぁ、おはよう」
「おはよ、ヒロシくん。ちょうどよっかたわ、たったいまヒロシくんにメールしたところだったの。まさか読んではないわよね」
「あぁ。メールの用事って何? 今朝もらったメールの続きかい」
「今朝もらったって? 誰から?」
「なにいってんだい、自分が送ったんだろこれ」
 ヒロシはプリントアウトしてきたちづるのメールを彼女の机の上に放り投げた。紙はぴかぴかのマホガニーの机の上をツツツーとすべり、ちづるのひざの上にはらりと落ちた。ちづるは「なによ、放り投げて。失礼しちゃうわね」といいながら拾い上げて読みはじめた。
 ちづるはクラス一、学年一の秀才だ。おまけに世界的に有名なキャラクターをいくつも抱えるおもちゃのデザイン会社を経営している。マホガニーの机の片隅にも、最近開発して、売れ行きが好調なペンギンのチビーがいた。ちづるが背にする窓の向こうはすっかり遠くなった東京湾が小さく鈍く光っていた。駅前にそびえる20階だてのビルの最上階がちづるの部屋だ。
 ちづるが読み終えるのを見届けて、ヒロシが聞いた。
「どういうことさ。僕が何をしたというんだい。ちゃんと説明してくれよ」
「ちゃんとって、こんなメール、わたしは送ってない。それよりそっちこそ、このメールはなんなの?」
 こんどはちづるがプリントアウトをヒロシの鼻先につきつける。ヒロシはひったくるようにして読んだ。
「なんだいこれ?」
「ヒロシ君からのメールよ。どうしてわたしがあなたの目の前から消えなくちゃいけないの。そんなに嫌いならあなたが消えればいいでしょ。ほんと、あったまくるんだから! だいたいなんの用事でやってきたの。失礼なメールを送ったうえにまだなにか言いたいことがあるわけ」。
 ちょうどそのときサンドイッチと紅茶を運んできたちづるのおかあさんにまで八つ当たりを始めた。
「おかあさん。来客はわたしの許可を取ってから通してっていつも言っているのに、なんで、ヒロシ君を通したのよ」
 紅茶をポットから注いでいたおかあさんは「まぁ」と、言ったきり目を丸くしている。
「おかあさんは関係ないじゃないか。八つ当たりすんなよ」
「なによ、もし謝るんだったら早くしなさいよ」
「朝からぽんぽんぽんぽんよく回る口だな。ちょっと待てよ。こんなメール僕は送ってない。それになんで僕だけが謝るんだよ」
 おかあさんは「まぁ、仲がよろしいこと」とか言いながら、部屋から出ていった。
「どういうことよ。たしかにあなたのアドレスから送られているのよ」
「電子透かしは?」
「なんでいちいちヒロシ君からのメールをもらうたびに、そんなものチェックするのよ。ヒロシ君はやっているの?」
 ちづるはヒロシのメールのファイルを開けてそこに隠された電子透かしを、以前にヒロシから送ってもらったそれと照合した。結果は、不整合だった。電子透かしはメールなどの発信者が添付する証明書の一種だ。友人達との間でいちいち暗号化してメールをやりとりすることはないので、通常はこの方式を取る人が多い。もっとも、これもかなり用心深い人を除けば、通常はチェックすることなどない。それは、今もわずかに残る郵便をあける時にそれが見知った人からの郵便であれば、なかにかみそりや爆弾が入っているなんて考えないのと同様だ。
 ついでに、ちづるはメールのソースを開いて、そこに書かれているメールのサーバなどに関する情報を確認した。以前にヒロシから贈られたメールのそれと比較してもまったくおなじだ。つまり、メールはたしかにヒロシから送られている。ということは、だれかが、ヒロシのパスワードを盗みだして、ヒロシが使っているメールサーバに侵入し、偽のメールを送ったことになる。
「いったいどいうこと」
「それは僕が聞きたいよ」
 ヒロシはサンドイッチをほおばりながら――ヒロシは朝食を食べたのだが、ちづるとの「対決」に心を奪われていて脳は食べたことを忘れていた――、ちづるの端末を借りて自宅の自分の端末にリモートアクセスして、ちづるのメールの電子透かしを確認した。結果は、ちづるに届いたヒロシのメールと同じく電子透かしは違ったものだった。二人とも腹の底にたまってしまった怒りを残したまま、とにかく互いの誤解を解いた。
「しっかしきついな、ちづるは。なにも知らないでこのメールを読んだら、ぼくは泣いちゃうよ、きっと」
 ヒロシはリモートアクセスしたついでにメールボックスも覗き、ちづるが送ったというメールを読んだ。読んでから、念のために電子透かしを確認したぐらいだ。

「ヒロシ君 あなたに嫌われるいわれはありません。そんなにいやならあなたこそ私の目の前から消えなさい。謝るつもりがあるのなら聞いてあげる。一時間だけ時間をあげる」

「なにが泣いちゃうよ、よ。だらしない。私がビジネス・パートーナーにと見こんだヒロシ君には、冗談でもそんなこといってもらいたくないわ」
 ヒロシは「できればパートナーを辞めさせて欲しい」といいたかったが、やめた。
 そこにドタドタとやってきたのは、啓介と未来人だった。二人ともサザンクロス株式会社の取締役だ。
「やっぱ、ここだったか」と啓介は、座るが早いか、サンドイッチを一つ口に放りこんだ。未来人も座った。
「僕を探していたのか」
「探してたわけじゃないけど、結果的にそうなったな。学校が休みだろ、おまけにいつもは遊ぶ暇もないほど送ってくるはずの自宅学習の課題もないとくりゃ、遊んでくださいといわれているようなもんだ。だから、未来人を誘ってヒロシところにいってみれば、お父さんがどっかいったというじゃないか。おまえ小学6年生だろう? 出かける時は行き先ぐらい言っていけよな」
「ふん偉そうに!」
「で、おまえは保育園時代からの友人である俺たち抜きでデートってわけか」
「ばかいってんじゃないよ」
 ヒロシは今朝配信されたメールについて二人に話した。
「啓介のところには変なメールはこなかったか?」
「いや。とくになかった。でも、とうちゃんが騒いでたぜ、なんでもでっかい地震が来て、おまけにどっかの国が日本にミサイルをぶち込んでくるつもりらしい」
「なんだいそりゃ」
「ヒロシは知らないのか――。ははん、ちづる社長に嫌われたショックでそれどころじゃなかったんだろう。世間じゃ大騒ぎだぜ」
 半分ぐらいは当たっていたので、ヒロシは言い返せずにいた。
「ちづるは知ってた?」とヒロシが聞くと、「知らない。だって、ヒロシ君からのメールで頭に血がのぼちゃってそれどころじゃなかったんだもん」と答えた。
 その二人のやり取りを聞いて、啓介が「ヒューヒュー。お熱いこって」と、茶化したので、ヒロシは真っ赤になってしまった。そんなヒロシを笑いながら見ていた未来人が、ちづるの部屋のテレビのスイッチを入れ、ニュースチャンネルに会わせた。
 画面のなかでは、まじめな顔をしたアナウンサーが、私ってまじめでしょうといった口調で、地震がくるというデマに対する政府関係者の見解を読み上げていた。画面の片隅には、地震が起こるといわれた地域から脱出する人々のようすが映し出されている。かねてから予想されているような大地震がくれば、ヒロシたちの町も無事ではすまされないと思うのだが、距離的に離れているためか、さほどのパニックにはなっていなかった。それでも駅前のビルの最上階のちづるの部屋から見下ろすと、サラリーマンや学生よりも、大きな荷物を抱えた親子連れがやけに多かった。
「逃げなくていいの?」
「ヒロシ、おまえしっかりしろよ。これはデマだ。政府もそういっている」
「どうしてデマだってわかるのさ」
「ヒロシの言うとおりなんだよ。『政府が発表した』というのは確かにデマだ。でも、地震がくるというのはかならずしもデマとは言いきれない。そこが人々を不安にさせている。来る来るといわれてまったくこない大地震についての潜在的な恐怖心に火がついたのさ」
 未来人がいつもどおり冷静な分析をしてくれる。
「それで、デマの発信元はどこなの」
「地震のほうはオンラインの『国民新聞』さ。もっとも新聞社じゃそんな記事は配信していないと否定してて、訂正情報をながしているけどな。気象庁も地震の件は否定している。ミサイルのほうはメルマガだ。どっちも政府の公式見解はまだだ」
「それじゃ、『国民新聞』はクラッカーの攻撃を受けたの」
「いや、記者会見で新聞社の管理者が言っていたけど、昨夜から今朝にかけては新聞社のサーバにはそうした痕跡はいっさいないそうだ。いつもならいたずら小僧がおもしろ半分に侵入をしかけて来るんだけど、昨日は珍しいことに一件もなかった。それに、デマのニュースが配信されたのは特定の地域に限られている。」
「そんな馬鹿なことってあるかい」
「おれにいうなよ」
「誰がやったの」
「それがわかればこんなに騒がないっていうんだ。だいたい正体を明かしたクラッカーなんているかよ。ほかにもメルマガもやられた。騒ぎが大きくなって心配になったサイトの中には独自に調査を行ったところもあって、結果、ほかにもいくつか被害に遭ったところがみつかった。一つは馬券の払い戻しセンターで、間違ったレース結果を公表された。それから、芸能ニュース専門のチャンネルもやられた。ありもしないアイドル同士の結婚話を捏造されたらしい。それから最近はあまり見かけなかったウイルスにやられたものもあった。なんでも、ケタ・ウイルスというらしい」
「なんじゃそりゃ」
「ジョーク・ウイルスでね、起動するとディスプレイがケタケタ笑いつづけるんだそうだ。疲れるとフーっとため息をつく。そしてまた笑いだすんだってさ」
「ふーん。一度にそんなにたくさんやるなんて、一人じゃないのかな」
「たぶんな」
「僕のまちがいメールもそいつらなの?」
「おまえのメールは他のに比べたら、ちょっとせこくないか」
「せこいとはなんだよ。友だちを一人なくしかけたんだぞ。気軽に言ってくれるなよ」
「友だちじゃなくてフィアンセだろ!」
「なんだとぉ」
「わりぃわりぃ。ヒロシがあんまりまじめに言うもんだから、ついからかいたくなっちゃったんだよ」
 ヒロシは啓介の頭を抱えるとこめかみを拳固でぐりぐりしてやった。啓介は足をばたつかせて悲鳴を上げている。じゃれあっている二人は無視して、ちづるは未来人を相手に話している。
「でも、なんだかねらいがはっきりしないわね。攻撃対象がバラバラじゃない」
「そうでもないさ。地震の話はおおごとになって社会不安を引き起こしている。これがもし、政府や政治家に対する攻撃の一種だとしたら、成功だ。ミサイルの話もおんなじ。ミサイルが打ちこまれて喜ぶ人なんてそうそういないだろ、もし、これで日本が防衛力を増強することになれば喜ぶのは軍事産業だけど、それにしてはやりかたがちょっとあからさまだし、防衛庁関係者も否定しているんだから、狙いは社会不安だ。競馬や芸能人サイトの攻撃は笑ってすませられる程度だけど、一度に多数サイトに攻撃を仕掛けると不安は大きくなる。何を信じていいかわからなくなるからね」
「だけど、わたしたちのメールもそうした犯人の仕業だとしたら、もうめちゃくちゃに手当たり次第にいたずらしているとしか思えないじゃない。なんの得もないじゃない」
「ちづるのいうとおりいたずらだよ。きっと損得じゃないんだよ。できることがうれしんだよ。なんだか世の中をあやつってみたいだけじゃないか」
「神様気取りってわけか。罰が当たるぞ」と啓介がヒロシのぐりぐり攻撃を受けながらうめく。
「神様以上だよ」
「でもいったいどうやってやるの。サイトに侵入していないんでしょう」
「なぁ、未来人、サイトに侵入せずに、送り出される情報を操作するなんてことができるのか」
「簡単なことだよ。『国民新聞』購読者のアドレスを盗み出して、偽の新聞を送ればいいのさ」
「簡単て、未来人。それってとても重要なことだよ」
「だけどそれだけだったら、あとから、本物の新聞も送られてくるんじゃないの」
「あぁ、そうか。ちづるのいうとおりだ」
「いや、本物の新聞のあとに送るんだよ。そうすれば、人はそれから読むだろ。ニュースの衝撃が大きすぎて、偽の新聞の前にきているはずの本物を見落としているだけで、そろそろそういう情報も流れてくると思う」
「いたずらにしては手がこんでいるわね。かならず逃げ道は作ってある。私たちのメールもそうね。電子透かしは偽ものだった」
「だけど、このいたずらは、人の命も奪いかねないよ。情報を盗み出したり、破壊するクラッカーなんかよりも何倍も性質が悪い。テロだね。犯人が意識しているかどうかは別にして」
     @
ヒロシたちがちづるの部屋でわいわいとやっているころ、地震やミサイル攻撃についての問い合わせを受けた関係省庁では、末端の役人から上級幹部職員へと伝言ゲームの真っ最中だった。最後は大臣に報告がされ、大臣は総理大臣に報告した。緊急に閣僚が召集され、噂のでもとである新聞社やメールマガジンの関係者も呼ばれ経緯の報告をさせた。
 閣議が行われた結果、内閣官房長官が臨時記者会見を開き『国民新聞』の記事は悪質ないたずらによるものであり、政府は地震に対する警戒宣言など一切行っていないと発表した。いっぽう、近隣の国によるミサイル攻撃の危険性についても八幡防衛庁長官が分析官が作った勇ましい内容の原稿を読み上げた。あんまり勇ましいので、聞いている人の中には日本がミサイルを発射するんじゃないかと勘違いした人もいるくらいだった。
 しかし、政府の懸命な説得も自然のいたずらの前には無力だった。1ヵ月に1度の割合で揺れる大地日本が、その記者会見の席上、ほんの少しゆれたのだ。偶然にしてはでき過ぎだが、これがパニックに火を注いだ。すこしは冷静さを失わずにいた人々もついに逃げ出す準備を始めた。
 地震が起こると名指しされた駿川市では脱出する人々が道や駅に殺到した。そうした上京がテレビなどで報じられるにつれて、近隣の市町村にもパニックは伝播し、同じような光景が繰り広げられた。すでに、『国民新聞』の購読者を離れて、事態は広がりを見せていた。
 駅や高速道路に殺到した人々が暴徒化し始めるにいたって、ついに政府は機動隊を投入したが、本来国民の命を守るはずの彼らが、行く手を阻む事態に国民は怒り、ますます暴徒化した。
 ミサイル攻撃の記事については地震ほどのインパクトを持たなかったが、パニックのなかではありがちなひとつの噂が、パニックに拍車をかけた。地震が起こるという地域とミサイルが打ちこまれる地域が同じだという噂が流れたのだ。人々はいまにも地が裂け天からミサイルが落ちてくるかのように怯え、町を脱出するのに奔走した。
 人々が避難を始めた町からレポートする記者が妙に早口なのは、自分も一刻も早く逃げだしたいからなのだろう。
 ことここに至って政府は皮肉にも非常事態を本当に宣言し、噂の否定に懸命に努めるとともに、逃げ出す人々を押しとどめるのは逆効果であると判断。陸・海・空の輸送機関を総動員し、逃げ出したい人々が逃げるのを手伝うという方針に変換した。ただし、政府はこのデマに関して感知せず、もし避難などによって肉体的・経済的損失をこうむっても、弁済には一切応じないと繰り返し発表した。
     @
そのころ、ヒロシの友人であるビデオジャーナリストの玉房祐司――通称タマさん――は、地震が起こると言われた駿川市石松町を取材していた。政府の会見を見てバイクに飛び乗ってやってきたのだ。
 駿川市の郊外にある人口が1000人ほどの町は、『国民新聞』の報道から半日が経過した今、既に人影が薄くなっている。普段であれば買い物客でにぎわっているはずの郊外型の大型ショッピングセンターはシャッターがおりたままで、ひっそりとしている。バイクを道端に止め、住宅街を歩いてみたが、人影がない。ときどき、カーテンが動いてわずかに残っている人もいることがわかる程度だ。
 玉房は中から声が聞こえてきた1軒の家を訪れた。家の中の人声が聞こえるほど町は静かだ。町全体が呼吸をとめてしまったかのようだ。「こんにちは」と声をかけながら玄関を開けると、おばあさんが仏壇の前で「なんまんだぶなんまんだぶ」と繰り返している。タマさんは「もし地震が来たら仏壇が倒れて危ないよ」と声をかけようとして愕然とした。自分も地震が来ると信じていることに気がついたからだ。
「おばあさん、今回のデマ騒ぎをどう思いますか?」と、ビデオカメラを回しながら声をかけたが、おばあさんは聞こえていないようだった。
 ファインダーの中で体を前後に小刻みに揺らしながら一心に念仏を唱えるおばあさんを見つめながら、おばあさんはすでに「死」を受け入れているのかもしれないと思い至った瞬間、タマさんは、これはいたずらなどではない、「犯罪」だとおもった。
 デマに踊らされてパニックになる人々にも非がある。なんで自分の目で確認せずに、逃げる道々で耳にする断片的な情報を組み立てたり相互に参照することなく、その場限りの対応に狂奔するのか。かれらは学校でいったいどんな教育を受けてきたのかと思う。それはさておいても、逃げ出せる人はいい。つれて逃げてくれる人がいるものはいい。逃げるところがある人はいい。おばあさんにみたいに逃げることができない人はどうなるのか。地震がこなくても突然に生活機能を失ってしまったこの町でどうやって生き延びるというのか。こういうときには火事場泥棒が必ず横行する。それに出会ったらどうなるのか。
 政府は輸送手段の確保だけで、ほかにはいっさいの援助しないと宣言している。東京や大阪などに到着したものの宿が確保できない人のなかには政府の無策を批判しするものや、その尻馬に乗って過激な発言をする人の姿がテレビで繰り返し報じられているが、その前に自分の情報収集分析能力こそを批判すべきだ。新聞社も政府も報道はデマであるといっているのに、無理やりに避難してきたのは本人たちなのだ。しかも逃げる時には、「誰が保証してくれんだ! 自分の家族は自分で守る」と自己責任を前面に打ち出していたのに、こんどは、政府に責任を擦り付けようとしている。厚顔無恥にもほどがある。
 ボランティア団体は、老人や病人に対してのみ援助の手をさしのべ始めたところもあるが、なんとなく身が入らない。大半の人は、結局、ホテルに泊まることになるが、収容人員には限度がある。ホテルのなかにはこの時ばかりと値を吊り上げたりして、さらなる混乱を引き起こすところもある。客どうしで部屋の取り合いをして喧嘩が起こり傷害事件にまで発展してしまったものもある。そこまでして泊まるぐらいなら、冷静になって自宅へ帰ればいいと思うのだが、それも、誰かに地震はおこらないという確約をもらい、もし帰ったときに地震が起こったら助けてくれるという保障なしでは帰れないのだ。
 そうした思考停止状態の人々が多い一方で、初めから逃げられない人はおばあさんのように「死」を覚悟している。こうした事態を引き起こしたデマは犯罪だ。犯人が今のこの状況を喜んでいるとしたら、許せない。タマさんは、おばあさんを背景そんな怒りを込めたレポートを送った。
 ざらついた気分を引きずったまま、ようやく営業しているホテルを見つけた。ホテルの支配人に「逃げないんですか」と尋ねると、「デマに躍らされて逃げたとあっては、ご先祖様に顔向けができませんからね」などと時代劇みたいなことを言うので、「ご先祖様って?」とかさねて聞くと、「良くぞ聞いてくださいました。東海道は石松宿にその人ありといわれた侠客、東海の虎蔵でござんす。さ、さぁさ、お部屋にどうぞ」と鍵を渡してくれた。
 支配人の陽気な様子に救われた気分になりながら、部屋に入り、ベッドに腹ばいになってメールをチェックした。先ほど携帯端末から送信した映像を買うという連絡がテレビ局数社から入っていたほかは、メルマガ配信会社から送信停止の通知があった。別紙にはミサイル攻撃に冠する記事がどうのこうのと書いてあった。
 わけもわからず携帯端末のなかにのこっているオリジナルを確認するが、言われるような記事は一切書いていない。メルマガは配信記事の検閲はしないが、念のため自分でも配信を受けている。ネットにログインしてメルマガを受信したが、落ちてきたのは、友人のジャーナリストが発行するメルマガだけたっだ。まさかと思いながらファイルを開けてみると、『アルファ臨時増刊』というタイトルが見えた。
「なんだ臨時増刊号って?」
 記事を読んでさらに驚いた。内容は言わずと知れたようにミサイル攻撃の恐怖に関するものだった。
「おいおい、どういうことだ。おれがパニックの原因のひとつなのか? うそだろ。さっき配信した映像はどうなる。世界の笑い者か! だけど、ちょっとまってくれよ。おれは岩本にこんなことを頼んだ覚えはない。だいたい。このへたくそな記事はなんだ」
 もうひとつのメールは警察からの呼びだしだった。事情を伺いたいので連絡が欲しいということだった。
 とにかく、メルマガを配信する会社には、記事を送信した覚えはないし、契約は火曜日発行だから、木曜日に自分のメルマガが発行されるわけがない。だいたい、これは、本来別の人が発行するマガジンではないか。もし、発行が事実だとすれば、そちらのサーバになんらかの操作がされている疑いがあるのだから調べて欲しい、と連絡した。さらに、事実関係を正確に調べもせずに、いきなり発行停止処分にするなど、名誉毀損で訴えるぞと、書き加えた。
 次に、地震のレポートを買ってくれたテレビ局の担当者に事の次第を連絡した。映像に問題があるだけではなく、そのままながされることになった。それに、もし、ほんとうにタマさんがデマ犯人の一人だったら、それはそれでスクープになるのだから、テレビ局が手放すはずもなく、顔見知りのその担当者は「連絡を密にしろ、わかったな」と念をおしてから、電話を切った。「今ごろあいつは舌なめずりしているんだろうな。ことによったら記者会見のコメントぐらいかんがえているかもしれない」と、思いながら玉房は、次に知り合いの弁護士に電話をして、事情を話し、東京に帰り次第警察に付き添ってほしいと頼んだ。最後に、パソコンの端末のなかのデータは友人のヒロシにメールで送信した。
「お願いです。これをあずかってください。虫が良い話ですが、開けないでください。僕の名前をテレビで見ることがあるかもしれませんが、心配しないでください。送信ログなども可能な限り消して。ファイルは別のメディアに保存して、土の中にでも埋めておいてください。すぐに連絡が取れるようになります。連絡先は弁護士の……」。
 本当はこの場でCDROMに落として自分で隠したいところだが、時間がない。送信を終わると、ハードディスクをフォーマットしなおした。警察に端末を押収される可能性もある。フォーマットされた端末を見て警察は証拠隠滅というかもしれないが、データのなかには、取材源の秘匿に抵触するものがあるのだ。警察に知られるわけにはいかない。
「あれ、お客さんも怖くなちゃったんですか。いまどきの若いモンは意気地がないねェ」という支配人の声を背に受けながら、玉房はホテルをチェックアウトすると、バイクにまたがり東京を目指した。
     @
ヒロシたちは、昼を過ぎてもちづるの部屋でテレビやWEBでニュースをチェックしながら、ちづるとヒロシにいたずらメールを発信した犯人を探す方法を考えていた。
「だれがなんて簡単にわかるはずがないんだから、まず目的や動機を探ったらどうかな」と未来人がいう。
「おまえたちを喧嘩させて誰が得する」と啓介が言うので、啓介以外はみんな彼の顔を見た。
「なんで俺なんだよ」
「だって、ヒロシがいなくなれば副社長の椅子が空くじゃないか」
「未来人っ! おまえは俺のことが信じられないのか。だいたいそういうことならおまえだってそうじゃないか。なんで俺だけなんだ」
「まぁ、普段のおこないの差だ。それにだ、信じるとか信じないかとは別に、おまえにも動機はあるという事実をいっているんだ。もっといえば、犯人はこういう事態まで予測して、おれたち全員を仲間割れさせようとしているのかもしれないじゃないか」
「未来人君、それはないわ。だって、ヒロシ君がいなくなったら、悪いけど啓介君とチームを組んでいる意味もなくなるんだから、会社は解散よ」
「どういう意味だよ、ちづる」
「啓介、理由は聞かないほうがいい。傷つくのはおまえだ」
「未来人っ! おまえまでなんだよ。あったまくる言いかたすんなよ! なんで俺が傷つくんだ。もう充分傷ついてらい」
 未来人にわけのわからないいさめ方をされて、啓介はぶんむくれている。
「だけど、どうして、ちづるとヒロシの両方にメールが出されたんだ。片方だけなら偶然てこともあるけど。ふたりともというこは、犯人はおまえたちのことを知っているということだろ」
「そうだな。しかもヒロシが副社長ってことを知っているやつだ」
「そんなのいっぱいいるじゃない」
「ロンカン島の事件でも、この前のからくり試合騒動でも、わたしやヒロシ君、啓介君に未来人君の名前は、WEBニュースに流れたり、メールマガジンに掲載されたじゃない。知っている人のほうが多いかもよ」
「たしかにちづるの言うとおりだな。すると、問題は動機だけど、さっきもいったように損得じゃないとおもうんだ。面白がっているだけなんだよきっと」
「未来人、それは甘いんじゃないのぉ。おれはさ、こいつはちづるとヒロシを憎んでいるんだと思うな」
 啓介がそこまで言うと、またみんなが自分の顔を見るので、啓介は慌てて言いつないだ。
「ちづるは学年一の秀才で、しかも金持ちだ。ヒロシは、その未来のフィアンセという玉の輿にのったやつじゃないか。うらんでいるというか、やっかんでいるやつはおおいぜ」
「啓介、おまえはぼくのことをそうやって思っていたんだね。なにが、保育園時代からの友人だ! おまえとは絶交だ」
 ヒロシが少し涙目でいうものだから、啓介は慌てて「冗談冗談」といいわけした。
「未来人のいうとおりだとしてもだよ、地震やミサイルならニュースになるから面白がりようもあるけど、僕たちのことなんかニュースにならないよ。面白がれないじゃない」
 ヒロシがそんな啓介を無視していう。
「ニュースになるさ。ちづるがいったように俺たちは時の人でもある。その仲間が喧嘩別れしたということになれば、ニュースになるだろう。もちろん今すぐじゃないかもしれない。地震やミサイルの事件が落ちついころにニュースになる。犯人は毎日、WEBニュースを自動検索していれば良いんだから」
「なるほどね。ということは必ずしもちかくにいる人じゃなくてもいいわけね。啓介君は無実ね、よかったじゃない」
「あったりまえだ。俺は最初から無実だ」
「でも、アドレスはどうやって入手したのさ。いまどき不用意に自分のアドレスを公開するやつはいないぜ。とくにさ、ボクのもちづるのも学校からもらったアドレスじゃなくて、プライベートなアドレスだよ。知っている人は限られている」
 ヒロシが未来人に聞く。
「だけど、だれも知らないわけじゃないだろう。メールクラブやそのほかにも登録している。そうしたネットクラブを運用するコンピュータにちょいと侵入すればすむことさ」
「セキュリティがあるじゃない」
「もちろんさ。だけど、クラッカーには時間はたっぷりあるんだ」
「みつけるにはどうしたらいいのかな」
「おれたちには手におえないかもな」と未来人がいう。
 そのとき、「おい。あれ、タマさんじゃないか」と啓介がテレビを指差した。
 タマさんはカメラに向かって地震騒動で人がいなくなった町をレポートしていた。さすがフリーのビデオジャーナリストだけあって、もう現場にいる。
 人がいなくなった町を映し、飼い主に捨てられた現実を受けいれてすっかりひがんでしまった犬の顔を映し、最後は仏壇に向かって手を合わせるおばあさんを映し出した。タマさんは、デマを流した人間はいたずら心だったにせよ、逃げることもできず、また、一緒に逃げる人もおらず、こうして、死を覚悟している人がいる現状を見るとこれは犯罪であるというようなことを言っていた。
 たしかにこれは犯罪だ。犯人はいまごろほくそえんでいる。
     @
たしかにその人はほくそえんでいた。テレビやWEBに流れるパニック報道を見るたびに心が踊った。楽しくて仕方なかった。
 自分がやったことがすべて現実に影響を与えている。そう思うとだれかれとなく言いふらしたいほどだった。しかし、そう考えた瞬間、心が凍りついた。だれかに言う? 聞いてもらいたい? いったい誰が話なんか聞いてくれるんだ? みんな私の事を無視するんだから。知らない人までもが無視する。誰も私のことなど見てくれない。視線は絶対私の上では止まることはない。空気のようだ。
「くそっ!」と、憎しみのこもった声が漏れると、その人は、端末の前に座り、カタカタとキーボードを叩き始めた。
     @
気象庁は地震騒動に巻き込まれて朝からてんてこ舞いだった。ネットワーク室で、モニターを見ていた磯辺は、気象庁のWEBページに24時間テロップで流される全国の天気を見ていて声をあげた。
「おい、こりゃなんだ。だれか、侵入したやつがいるぞ。すぐにWEBを閉鎖しろ!」
 ディスプレイの上部を右から左にながれるテロップには、「私は神である。創造神である。言葉を持たなかったわたしは、コンピュータというしもべを得て、いま、おまえらに命令をする。地震やミサイルさわぎはほんの挨拶代わりだ。私の言葉に従はないものは救済の網からこぼれおち、無限の地獄をさまようことになる」というメッセージが流れていた。
 メッセージは、稚拙なもので、すぐに運用をとめられたが、磯部が気がついたときには侵入からすでに10分が経過しており、この日はきわめて注目度の高かったWEBサイトは視聴率も高かったようだ。さっそく、報道各社から問いあわせが入り、これが一連のサイバーテロの犯人の犯行声明として受け取られ、いっせいに報じられた。
 また、ごく一部には、この犯行声明を、本物の神の声として受け止める集団も現れた。全能のコンピュータが人間を支配する時がきたというのだ。
     @
世の中が地震だミサイルだと騒いでいる頃、大手プロバイダー、セフェネットの管理人副嶋寿は、次々と送られてくるメールの対応に翻弄されていた。メールのすべてが「掲示板に自分の名前を騙って悪意の書きこみをしたやつがいる。この発言は自分ではないので訂正してくれ」といった苦情の文面だった。ほかにも、いたずらに自分の電話番号やメールアドレスを公開されて迷惑しているといったものもある。
 電脳都市MAHOROBAを運営するセフェには会員専用掲示板は46あるが、そのすべてで被害が発生していた。画面を見ると単純で読むに耐えない言葉が羅列している。被害を申し出てきた人間は、18人だった。掲示板の常連で、なかにはいくつもの掲示板で名を騙られているユーザーもいた。なかでも、過激な批判や嘲笑的なものの言い方、さらには徹底的な追求で恐れられ、会員からは「かみそりレスのJUN」と呼ばれているユーザーは実に17箇所もで名前をかたられている。もっとも発言内容は、いつもの本人のものと大差はなく、副嶋に言わせれば、いつもより幾分上品なぐらいだった。
 ともかく、事態を放置してはおけないので、掲示板の運用を一時停止した。上司に報告し、かつ、コンピュータセキュリティ機構にも被害を報告した。それから副嶋は社内メールで、セキュリティ担当の伊原研吾を呼び出した。
「どうしたんだ副嶋」
「三メートル先のブースにいるんだから、こっちにこい」
「おまえこそ、用事があるならこっちに来て頭を下げて頼むべきじゃないか」
 ディスプレイ上で軽口を交わしたのちに伊原がやってきた。
「掲示板がなんかトラブッたみたいだな」
「あぁ、他人になりすまして、貧困なボキャブラリーを披露している」
「被害は何人だ」
「18人」
「ごくろうなこったな。18人になりすますってのは大変だぞ」
「そうでもないさ、書きこみはなんとかの一つ覚えさ。芸も何もない。カットアンドペーストさ」
「ありゃりゃ、ほんとうだ。これをみたら、こいつを教えた学校の先生は死にたくなるだろうな。こんな言葉しか覚えなかったのかって」
「そんなことはどうでもいいから、どうすりゃいい」
「18人に傾向はあるか? 住所とか」
「ちょっとまてよ」
 副嶋は管理人の権限でユーザープロフィールに入りこみ、18人を検索して表示した。
「ビンゴ! ほとんどが富士見山市、残りが大安市だ」
 すかさず副嶋が二つの都市をマップ検索すると東京に隣接する県に所在した。おまけに二つは隣り合っている。
「くさいな」
「そうか? でがけにちゃんとシャワー浴びてきたんだぜ」
「おまえさんじゃないよ。こいつは、18人のパスワードを盗んだ。ということは、このやろうは、俺のコンピュータに入りこんでこそこそやっているってわけか」
「そうだ、おまえのコンピュータの紀香ちゃんに積極的かつディープな接近をしているというわけ」
 伊原はセフェネットのコンピュータに名前をつけて管理している。周囲はバカにしているが、伊原はおおまじめだ。「おまえだって社員番号で呼ばれるより、名前で呼ばれるほうを選ぶだろうが。それにな、あのとげとげしくて人を拒絶しているサボテンだって優しい言葉をかけると和むそうじゃないか。コンピュータに効果がないとは言えないぞ。名前で呼びかけて、話しかけるだけで安定するんなら安いもんだとは思えないのかね」などとうそぶいている。実害はないから放ってあるが、夜中にひとけのない部屋で「のりかちゃーん、ご機嫌なおしてよぉ」なんて声をかけているのに出くわすと、さすがにギョッとする。しかし、今回はそうやって昼に夜に可愛がっている紀香ちゃんに危害を加える奴が出てきたのだ。伊原の顔つきが変わった。
「わかった、さっそく調べる」
「おれに手伝えることは?」
「掲示板以外でも、フロントでもバックグラウンドでも会員のパスワードの認証が必要となるようなページはすべて閉鎖しろ。どこで覗き見されているかもしれないからな」
 伊原は自分のブースに帰るとイスに正座をして猛然とキーボードに指を走らせ、紀香ちゃんを目覚めさせた。

テロリストの夜
|目次|

ヒロシたちはちづるの部屋で、あぁでもないこうでもないと一日じゅう話していたが、結局なにも結論には達しなかった。
 どうやってヒロシになりすましたのか。アドレスやパスワードをどうやって盗まれたのか、ヒロシには覚えがない。もしクラッカーがプロバイダのコンピュータに侵入したとすれば、そこまで苦労した結果としてはいたずらが稚拙だ。それとも啓介の言うようにヒロシやちづるをうらんでいるんだろうか。
 たしかにお金持ちはうらやましいけど、それは、ちづるの才能に対する代金だ。ヒロシには残念ながらそのような才能が、いまはない。だから、ヒロシたちはちづるの才能をうらやましいと思う。ちづるがお金持ちなのは彼女に才能があるからだということぐらい、ヒロシたちにもわかる。それに、ちづるをみていて、思ったんだけど、ちづるはお金が好きなわけじゃない。お金が増えることが嬉しいわけでもないみたいだ。自分の考えてことが形になっていくのが楽しくて仕方ないみたいだ。ただ、お金の使い方は知っている。それは確かだ。
 彼女と付き合っているからといってヒロシたちがお金持ちになったわけじゃない。ちづると友達なってから、ひょんなことで会社を作ったりしてしているけど、それは、「ごっこ」だ。だいたい、いまだに儲かってもいない。夢だけはたくさん見たけれど。
 それにもし、ちづるとヒロシが仲間割れしたとしても、彼女の才能が減るわけじゃないし、お金が減るわけでもない。ましてや、犯人がほんとうはヒロシたちの仲間になりたいのになれないから、仲間割れをさせるというのであれば勘違いもはなはだしい。
 友達って、友達になろうと努力してなれるもんじゃないと思う。たしかに、最初は声をかける勇気が要るけど、あとは、感覚的なもんだ。声をかけたからといって、友達になれるわけじゃない。感覚的にぴたっとくる友達とは、離れていても、何年も逢わなくても友友達でいられる。ところが、感覚的にあわないやつとは横を向いただけで、その瞬間に友達じゃなくなるんだ。
 ヒロシたちは、夕食後、MAHOROBAのチャットルームでおちあうことにして、ちづるの家をあとにした。
 家に帰ると、台所からお父さんが声をかけてきた。ヒロシの家は、1階の真ん中が広場みたいなっていて、それに面してお父さんやおかあさん、ヒロシや妹の楓子のスペースがある。なかでもキッチンはいちばん広くて、レストランの厨房みたいにぴかぴかのステンレスと、コンクリートでできている。料理が好きなお父さんは丸洗いできるキッチンが欲しかったそうで、家を建てるときに、設計者に無理に頼んだそうだ。いまでも、仕事で嫌なことがあると、朝からキッチンをぴかぴかに磨いている。玄関から入ると広場の真ん中に置いてある大きなテーブルの向こうにキッチンが見えるので、レストランと間違える人もいる。
「きょう、学校が休みというのは、いたずらだったらしいぞ。校長先生の名前で、メールが入っていたよ。ヒロシのところにもメールが入っているんじゃないか。今日のところは休みにするけど、代わりに夏休みが1日減るそうだ。残念だったな、ヒロシ」
「えー、そんなのってあり?」
「しかたないさ」
「これだから古風な学校はいやなんだ。6年間も通うんだから1日ぐらいご褒美で休みしたっていいじゃないか」
「まぁ、そう怒るな。今日は1日ゆっくり遊ぶことができたんだ。もうすぐご飯にするからな」
「はーい」
 ヒロシは手を口をゆすいで、自分のスペースはいると、パソコンを立ち上げ、ちづるからの絶交メールを開けた。いまは、これがいたずらだとはわっかているのに、読み返すと胸がかきむしられるのはなぜだろう。メニューバーからメールのソースを開く。そこに書きこまれている、発送元のサーバ情報をカットアンドペーストで、トレスルートにかける。
 検索実行をクリックすると、画面にはつぎつぎとIPアドレスとホスト名が表示される。 ヒロシのパソコンはお父さんの部屋のサーバを通じてインターネットにつながっている。サーバは24時間常時接続状態なので、ヒロシのデスクトップは電源をいれたその瞬間から世界につながっている。
 画面に表示される文字列をみながら、ヒロシは不思議だと思った。ヒロシが子供のころからパソコンは身の回りにあった。それは、哺乳瓶や紙オムツと同じくらい当たり前のことだった。2歳になるとマウスをいじり始め、3歳になったときには、図書館にアクセスして、絵本をダウンロードして遊んでいた。友達もパソコンでたくさんできた。ネットワークでゲームをすることも多い。実際にはあったことがない友達も多いけど、それが現代では友達なのだ。もちろん映像を介してのチャットは日常だからみな顔見知りだ。ちづるや未来人、啓介といったリアルな友達はめずらしいのだ。
 パソコンがなくなったらどうなるんだろう。友達とどうやって連絡するんだろう。本はどこで借りるのかな……。パソコンがない社会なんて考えられなかった。
 物思いに耽っているうちに、ルート検索の結果が表示された。ちづるとヒロシの家は歩けば10分もかからないのだが、インターネットの上では複雑な道を辿っている。
 ヒロシのパソコンからちづるのパソコンまでは、10のサーバを経由していた。
 現代の子どもは最低一つのメールアドレスをもっている。学校に入学する時に与えられるものだ。このアドレスは一生変わらずについてくる。このアドレスには学校からの連絡はもちろん、宿題も送られてくるし、教科書がバージョンアップされたときには、その情報もやってくる。卒業した後は公共機関からの各種お知らせが届けられる。
 しかし、学校入学前にメールを使いこなすのはすでに常識になっているので、たいがいは、民間のプロバイダーなどのアドレスも持っていて、こちらのほうがプライベートな使われかたをしている。
 ヒロシも学校用のアドレスの他に個人用のアドレスを持っている。メールなどはそちらを使っている。ヒロシの端末から送り出されたメールは都心にあるプロバイダ・セフェネットのコンピュータに送りこまれ、おそらく同じビルで隣り合っているサーバを三つほど経由した後で、別の大手接続会社に移り、そこでも社内をたらい回しにされてから、もう1つ別の会社に移り、ようやくちづるの会社が自前で運用するサーバに落ちていく。特に怪しい個所はみあたらない。検索結果をファイルに保存したとき、「ごはんだぞー」というお父さんの声が聞こえた。
 テーブルには保育園にかよう妹の楓子がいた。おかあさんはいつも帰りが遅いので夕食は3人だ。
「おにいちゃん、おそい」
「生意気いうなよ。おまえは早く来たって食べるのが遅いんだから同じじゃないか」
「ほい。けんかはそこまで、今日の料理は、豚肉と厚揚げのオイスターソース煮込みと、シュウマイもどきだ」
 香ばしいかおりにヒロシのお腹がくーと鳴った。
「そういえば、きょうおまえさんが出ていってから啓介と未来人が来たぞ」
「あぁ、会えたよ。啓介に怒られたよ。外に遊びに出るときには行き先ぐらい言っていけって」
「ははは。啓介はいつもそういわれているんだろう。で、どこ行っていたんだ?」
「ちづるのところ。変なメールを送ってよこしたものだから」
 ヒロシはお父さんにちづるとヒロシに送りつけられた絶好メールのことを話した。
「ふーん、ずいぶんと手の込んだいたずらだな」
「まぁ、誤解が解けたからいたずらだけど……」
「そうだな。メールのアドレスを盗まれた覚えはないのか?」
「ないよ」
「じゃあ、念のため、セフェネットに連絡したほうがいいぞ。送られたメールはどうしようもないけど、もしかしたら同じようなことが起こっているかもしれないからな」
「うん、あとで連絡しておく」
「パスワードは変更したか」
「さっき接続した時にやった。2週間前に変えたんだけど、ここのところサボってたから」
「まぁ、それが原因でもないだろうが。用心にこしたことはない。ネットの世界も現実の世界と同じぐらいに危険だからな。ゲーム感覚でうろちょろしているとひどいめにあう。楓子もメールをやるようになったら気をつけるんだよ、知らない人についていっちゃだめだぞ」
「コンピュータじゃついて行けないよ、おとうさん」
「そんなことはないさ。この会議室が面白いとか、このWEBサイトがおもしろいとか言う言葉につられていってみると、いつのまにか、パスワードを盗まれていたり、ウイルスをもらったり、必要ない買い物をすることになったり、怪しげなグループに誘われたりするんだよ。そのうち、逢おうとか言われて、呼び出される。そのときにはチャットなどで何度か話を交わしていて相手になれているから、実際に逢って、多少怪しげなやつでもなんの疑問もいだかない」
「怪しいとか怪しくないとかいう印象なんて、いくらでも変えられるんじゃないの」
「そんなことはない、怪しい奴はどこかバランスが崩れているんだよ。おまけにバランスの崩れている奴は、その怪しさを隠すために完璧な人間を装う。でも、完璧な人間なんていないということに気がついていないのさ」
     @
夕食後、MAHOROBAのチャットルームに入った。入口で待っていると、啓介たちもやってきたので、注連縄ルームに入った。ここは、中に誰がいるか見えるようになっているけど、話は聞こえないシステムになっている。

TRON ちづる、ルート検索の結果はどうだった。
doll いま表示するわね。
MIRAI ぼくのも出すよ。ぼくはちづるにはメールをだしたことがないから、ヒロシのところへのトレスルートだよ。
ksuke おれも、未来人と同じだけど、めったにメールなんて面倒なものを使わないから、おまえらからのメールを探すの苦労した。おまえたち、もっと俺にメール出せ。ちょっと冷たいんじゃないのか?
TRON なにいってるんだ。書いたって返事もよこさない奴に誰が書くかってんだ。

 MIRAIは未来人の、ksukeは啓介のハンドル名だ。画面に小窓ができてそこに、ちづるの検索結果が出てきた。つづけてヒロシは自分の結果を表示した。啓介や未来人ともそれに続いた。
 並べて付き合わせていくと、ヒロシとちづるのルートには同じ個所がひとつだけあった。ホストの名前は「DOUBLE」だ。啓介と未来人のルート検索結果にはない。この二人は、民間のプロバイダーを使っていないので、まったく違うルートを通っている。啓介のメールは、HOTARUという名前の学校のサーバに送りこまれ、それから区役所に移り、東京の東半分を統括するするサーバに入り、どういうわけかある大学を経由してから、ヒロシの使っているプロバイダに送り込まれてきている。間に不明なサーバはない。未来人も同じだった。インターネットは迷路だ。それも出口や入口がたくさんある迷路だ。そのなかを様々な情報が走るが、同じ相手に送ったメールがいつも同じルートで届くわけじゃない。

TRON さてと、犯人はどこに侵入したのかな。発信元が一番怪しいよな。僕の場合は、セフェネット、ちづるの場合は自社のサーバだ。ちづるのところのサーバの管理者はだれ。
doll 上田さんていうひと。
TRON 信用できる人?
doll もちろん。
TRON じゃぁ、ちづるのところには侵入された形跡はないの。
doll ないみたい。上田さんて、すごく潔癖症な人でね。24時間ごとにファイルを更新しているんだけど、それは徹底していて、無断で書きかえられたシステムファイルがあると、犯人を突き止めて、追跡するの。だいたい、パソコンに不慣れな人が無茶な使い方をしたりした「傷」なんだけどね。うちの会社のパソコン音痴のおじさんやおばさんには恐怖の的なのよ。
TRON パソコン音痴ね――。しょうがないよ。そういう人たちが生まれたころには、まだパソコンのパの字もなかったんだから。
doll ヒロシ君のプロバイダーは安心できるの。
TRON うーん。不正アクセスは時々あるみたいだね。ただ、セキュリティ担当者は、伝説のハッカーなんだ。セフェのWEBサイトには、管理人の他にこの人の名前、伊原研吾も大きく出ている。侵入者がきたらおれが相手だというんだろうな。
MIRAI そうなると、ちづるとヒロシで共通するのは、このDOUBLEというサーバだな。
ksuke こいつは、どこにあって、誰が管理しているかわからないのか。
TRON 調べてみようか。

 ヒロシは、アドレスからその所有者を検索してくれるサービスに接続した。アドレスを打ちこむ。

TRON あぁ、でてきた。これは関係ないや。
MIRAI なんでだ。
TRON 大手の電話会社だよ。関係ないでしょ。
ksuke いったいどこにもぐりこんでやがるんだ。
MIRAI そうか。でも、トンネルに利用されているということもあるからな。
doll ネット上の透明人間というわけね。いるんだけど見えない。
MIRAI 手ごわいね。ぼくらには手におえないよ。ヒロシとにかくプロバイダに届けておいたほうがいいよ。
TRON わかった。そうする。

 そのとき割り込みがはいった。

adomin サービスご利用中、申し訳ないのですが、コンピュータに侵入された形跡が発見されたため、サーバの運用を一時停止いたします。三分後に書き込み、チャットなどのサービスを停止させていただきます。ご了承ください。MAHOROBAシティ運営 セフェネット管理人 副嶋

ksuke なんだか、タイミングばっちりなお知らせだな。そういや、学校の休校の案内もいたずらだそうじゃないか。
MIRAI そうそう。今日一日で起こったネット撹乱が同じ犯人だとした、とんでもないやつだな。
TRON じゃあ続きは明日学校で。
doll おやすみなさい、みんな。

 注連縄部屋を出てから、メールサービスは使えるということなので、メールのチェックをした。
「あ、タマさんからのメールだ」とヒロシがあけると、タイトルは「お願い」とある。内容を読んでびっくりした。「お願いです。これをあずかってください。虫が良い話ですが、開けないでください。僕の名前をテレビで見ることがあるかもしれませんが、心配しないでください。送信ログなども可能な限り消して。ファイルは別のメディアに保存して、土の中にでも埋めておいてください。すぐに連絡が取れるようになります。連絡先は弁護士の……」。
 ヒロシはどうしようかと考えた。タマさんがこうまでいうのだから、それに反したことをするつもりはないけれど、とりあえずお父さんに相談することにした。
 お父さんのスペースに行くと、いつのまに帰ってきたのかお母さんがいた。家で仕事するお父さんと対照的におかあさんは外に働きに出ている。朝はやくでて、夜遅い。このあいだなんて、3ヶ月ほど単身赴任していた。
「あらヒロシ、久しぶり」
「あ、おかあさん、元気そうだね」
 これが、母と息子の会話だ。子供のころは寂しい思いがなかったわけではないが、最近では慣れっこだ。
「いつかえってきたの? 気がつかなかった」
「なんか熱心にパソコンとにらめっこしてたから、声かけなかったのよ。それに、もう、ママーってすがり付いてくる年頃でもないしさ。ねぇ、のりさん、ほんとつまんないわよね。ついこないだまでママーとかパパーとかいっちゃって、あとついてまわってうっとしいくらいだったのに。いまじゃ、やれメル友だぁ、ゲームだ」
「まぁまぁ、みさおさん。そのくらいにして」
 のりさんというのは、おとうさんのこと。みさおさんはおかあさんだ。
「ところで、ヒロシなんか用か」
「うん、これをちょっとみて」
 ヒロシは、お父さんの端末から、自分のメールボックスを開き、タマさんからのメールをみせた。メールは僕あてだけど、家族ぐるみで付き合っているからタマさんも許してくれるだろう。
「ヒロシはどうするべきだと思う」
「うん。タマさんの言うとおりにしようと思う」
「それでいいと思う」
「かあさんもそう思うわ」
「だけど、タマさんはどうしちゃったんだろう」
「大丈夫だよ。自分は悪くないと確信しているから、ヒロシを巻き込んだんだ。そうじゃなければ、こんなことをする人じゃない。おそらくこのファイルのなかには、知られてまずいものは入っていないけれど、わざわざ警察や他の人に知らせる必要のないものが入っているんだよ」
「なにそれ」
「タマさんはジャーナリストだから、匿名を条件とした取材をしたりする。そうした人のことを警察に知らせる必要はないだろう。べつに匿名の人が犯罪者じゃなくても、その人はタマさんのことを信用して取材に応じているんだ。タマさんにはその信用を守る責任がある。その責任が果たせなくなったら、タマさんは仕事ができなくなる。
 なに、心配しなくてもだいじょうぶだ。タマさんの言うとおり、テレビで名前が出るかもよ。そうすれば、すこしは事情がわかるだろう。もしどうしても心配ならば、この弁護士に連絡してみるといいさ。事情を教えてくれるだろう」
 ヒロシは、タマさんの言うとおり、ファイルをCDROMに書きこみどこかに埋めることにした。最初は庭のびわ木の根元に置いてある埴輪の下にしようかと思ったけど、結局は、お母さんのスペースに「埋めた」。おかあさんの部屋は家の中で一番ちらかっている場所で、一度行方不明になったものは二度と出てこないという伝説の場所なのだ。おかあさんが掃除をするなんてことは地球最後の日になったって考えれられない(地球もおしまいなんだから片付けなんてやっても無駄だというに決まっている)。
 一年ほど前、ヒロシの家に滞在した外国からのお客さん、カトンさんが、信じられないくらいにきれいに整頓してくれたんだけど、あっというまに元の木阿弥。いまでは、思い出したように「またカトンさんが来てくれないかな」なんていっている。ヒロシがある時、冗談半分に、おかあさんのスペースを写真にとってメールでカトンさんに送ったら「ヒロシ、頼むから二度と送らないでくれ。ぼくのしっている場所にこんなひどい混乱があるとおもうと、おちつかないから」と悲鳴のような返事がきた。

透明人間発見
|目次|

次の日、川辺小学校は通常通り授業がおこなわれた。
「さぁ、昨日の分までとりもどすぞ。今日もガッツだガッツ!」
 これさえなければこの学校は天国なんだけれどなぁ、とヒロシは考えた。担任のタヌキは二言目にはガッツだガッツの連発。こないだも生活の時間に針に糸を通すのに悪戦苦闘していたときに、耳元でいきなりガッツだガッツとわめくからびっくりして、指を刺しちゃったんだ。六年になるときに担任が代わってくれと、クラス全員が願ったが、神様は僕らを見捨てた。六年生最初の日の朝礼で、校長先生が僕らのクラス担任にタヌキを紹介すると、貧血で倒れる女子もいたぐらいだ。
 昨日は学校も大騒ぎだったようだ。生徒が一人も登校しないことに不審を持った校長先生がしらべたら、「休校」のメールが配信されていることがわかり、慌てて連絡網を回したのだが、ヒロシたちのようにすでに遊びに出てしまった生徒も多かったためにそのまま休校になったのだ。代わりに夏休みが1日減った。あらためて今朝、校長先生の口からそのことが知らされると、生徒たちがいっせいにブーイングをあげたことはいうまでもない。
 啓介が「おれは許さないぞ。夏休みを盗んだ野郎を絶対に捕まえてやる」とつぶやいていた。
 休校の知らせを配信した学校のサーバは調査された、なにものかが侵入して休校の通知をだすようにプログラムを忍ばせていたこともわかった。しかし、そのウイルスに感染したのは一ヵ月も前であり、時限爆弾のようにすがたをあらわしたのだった。校長先生は悪質ないたずらとしてサイバーポリスに届け出た。そして学校は何事もなかったように再開された。
 校長先生は「学校からのお知らせは間違いのないように気をつけていますが、今回のようないたずらまでは防ぐことができません。おかしいなとおもったら、うのみにせずに、学校に問い合わせてください」といっていたが、休みになるなんて知らせをうのみにしないやつはいない。そう言う呟き声が聞こえたのか「これは学校だけの問題ではありません。みなさんも知っているように、地震やミサイルのニュースについても同じことがいえるのです。流れてくる情報をそのまま信じてしまうことは大変危険です。疑え、信じるなとは言いません。しかし、日ごろから、いろいろな情報に接し、自分でものを考える訓練をしていれば、あれっと思う瞬間があります。そのときには、自分で調べるということを怠らないでください。それが皆さんの命や家族を救うことになるのです」と重ねていった。
 その地震やミサイルの事件は簡単に収まらない。今日になっても地震の起こるという地域から脱出する人はあとを絶たず、受け入れ先でも悲鳴を上げ始めている。ヒロシのクラスにも数人、すでに親戚を受け入れた家がある。ミサイルのほうは、名指しされた国々がこれは「侮辱である」と日本政府に抗議を申し入れた。
 抗議された日本政府としてはなんとしがたいのだが、政府とは関係なく、現在犯罪者を捜査していると声明を読み上げるのが精一杯だった。ただ一人、勇ましいのが大好きな八幡防衛庁長官だけは「疑われるようなミサイル基地などもつのがいかんのだ。抗議などおこがましい」とぶち上げて、さらなる批判を受けることになった。
 ヒロシたちは、昼休み、食堂に集まった。川辺小学校の食堂は地域に開放されている。食堂だけでなく学校全体が開放されている。だから、天気の良い日には校庭の片隅でお年寄りがひなたぼっこをしている。学校の中も開放されていて、階段を上り下りしてリハビリする人もいるし、パソコンを習いに来る人もいる。食堂はそのシンボル的な場所だ。赤ちゃん連れのおかさんもいれば、一人暮しのお年よりもやってくる。近所の会社の人もやってくる。子供たちと顔なじみの人は、みんなと一緒のテーブルで楽しそうに食べている。ヒロシが住んでいる江戸谷区は、給食センターからの配送ではなくて、学校単位で給食を調理する態勢がずっと続いてきたからできることだった。一人暮しのお年寄りが頼めば、夕食の弁当を作ってくれるし、その配達を請け負う「クラブ」も学校にある。
 生徒は一人一人が給食用のキャッシュカードを持っていて、自分でメニューを選んで食事をする。カードには最近1週間のデータが記録され、偏食していると強制的にメニューを選ばれることもある。
 龍野進さんがいた。この食堂で友達になったおじいさんだ。80歳をこえているが元気だ。
「こんにちは、龍野進さん」
「ヒロシ、昨日は学校は休みだったのかい」
「休みというか、休まされちゃったというのが正解ですね」
 ヒロシは学校のサーバが送ったいたずらメールの件を話した。
「ふむ。昨日はどうやら日本中でいたずらがおこったようだな」
「ええ、僕たちも被害にあったんですよ」
 ヒロシは、ちづると自分に送られた絶交メールのことを話した。
「はは、そりゃ災難だったな。ヒロシはさぞや慌てたんじゃないか」
「そうなんですよ龍野進さん。こいつときたら、朝一番でちづるのところにすっ飛んでいって――」
「啓介、黙れ!」
「なに怒ってんだよぉー」
「ほいほい、わかったわかった。でも、それじゃ、わしもどうやら被害にあったようだな」
 昨日の朝、龍野進さんは電脳空間のバーチャルシティ「MAHOROBA」のなかで朝の散歩を楽しんでいると、いきなり見ず知らずの人間から「この老いぼれ、じゃまだ、あっちいけ」と罵倒されたというのだ。
 無性に腹が立った龍野進さんは、できれば持っていたバーチャル杖で尻の一つもはたいてやりたいと思ったほどだ。犯人を探そうとMAHOROBAにアクセスしているユーザーを探したが、龍野進さんを罵倒したやつはどこにもにもいなかったそうだ。
「まったくもってけしからんやつだ。みつけたら杖で尻を思いきり叩いてくれる。手伝えることがあったら言ってくれ」
 しかし、新聞やメルマガ、メールに学校、ネットに龍野進さん。これらがみんな一人の犯人だとしたら、相当なめちゃくちゃなやつだ。
     @
ヒロシたちが学校の食堂で午後の授業の準備開始チャイムを聞いている頃、玉房祐司は警察の取調室をようやく出た。昨日、石松市で呼び出しのメールを受け取った足で東京に帰り、弁護士をともなって出向いたのが、夜の8時すぎだったら、16時間ちかく警察いたことになる。
 昨夜出頭すると、話を伺いたいという丁寧な口調とは裏腹に、いきなり取調室に入れられた。普通の人ならば、テレビドラマなどでその部屋のなかで何が繰り広げられるのか「知っている」ので、それだけでドキドキしてしまうだろうが、ジャーナリストとして百戦錬磨。自慢じゃないが、海外ではスパイ容疑などで監獄にぶち込まれたこともたびたびの玉房は、その程度では恐れ入ることはなかった。
 取り調べに当たった刑事が「なぜこんなまねをしたんだね」ときいてきたが、もとより身に覚えのないことで、「自分が流したものではない」と繰り返し、あとは何を聞かれてもだんまりをとおした。過去の経験から、下手にしゃべればそれを自分で証明しなくてはならない。黙っていれば、とにかく向こうはこちらが犯人であるという証拠を見つけなければならないのだ。とくに、今回のようなサイバーテロの場合、犯人の特定はそう簡単ではない。玉房が発行人だからとにかく警察は自分を呼んでいるだけなのだ。まだ、おれが犯人だという確証があるわけじゃないだろう。
 入れ替わり立ち代わり警察官がはいってきては、同じ質問を繰り返す。ときどき強面の刑事が入ってきて「おまえがやったんだろう。証拠はあるんだよ」とまでいう。しかし、ここでそれを見せてくれなんて言ったら思う壺だ。とにかく黙りとおした。別の取り調べ官は「なんだかおまえさんは警察のお偉いさんに友達がいるようだけど、俺たち現場の人間の目はそんなことじゃ閉じやしない。かえって燃えてくるんだよ」などというやつもいた。
 なに言ってんだと思ったが、そういえば、一年ほど前に、ヒロシたちと一緒に、コンピュータネットワークを使ってマネーロンダリングをするコンピュ・マフィアと戦った時に、警察の高級幹部と協力した。あの人が、それとなく口添えしてくれたのかもしれない。
 取り調べ官の恫喝やネコなで声を聞き流しながら、玉房は考えていた。
 玉房のメルマガは定期刊行で発行日は毎週火曜日と決まっている。しかし、昨日は木曜日。たしかにその意味では臨時増刊だが、メルマガ配信会社との契約にそのような内容は含まれていない。つまり、もし玉房が昨日原稿を送ったとしても、配信されるのは来週の火曜日なのだ。それになにより、メルマガの会社に通告したように、問題の臨時増刊号は、書いたのは玉房になっているが、ほかの発行者が発行したのだ。最終責任はその発行者にある。ということは、当然なんらかの操作がなされたわけだ。管理人の目をごまかすなにかが。
 取り調べ官が「きのうテレビであんたのレポートをみたぜ。なかなか格好いいじゃないか。そんな野郎が知らないところでこんなことやらかすんだから、ジャーナリストの正義なんてのも当てにならないね」などと、支離滅裂なことをイスの向こうで言っている。
 なんだろう――。なにか気になる。そう、カッコウだ!
 カッコウはほかの鳥の巣に卵を産みつける。カッコウの卵はその鳥の卵よりほんの少し早く生まれ、生まれた雛はその鳥の卵を巣から蹴落とす。カッコウの雛はその鳥になりすまして育ててもらい、やがて巣立っていく。
 つまり、犯人は偽者の『アルファ』を作って、木曜日に配信となるメルマガとすりかえたのだ。そうすれば「玉房のメルマガ」は配信される。犯人は玉房のメルマガと読者層が重なりそうなものを選んだのだろう。しかし、そのうち誤配の苦情や、未配送の苦情が来るはずだ。そうすれば、自分の無実は証明される。もう少しの辛抱だ。
 しかし結局昨日はそのまま警察にとどめられた。任意出頭だから帰ろうと思えば帰ることができるのだが、疑いが晴れるのも時間の問題だと思っていたし、日本の警察を観察する良い機会だと思い、そのままいることにしたのだ。
 そして今日も朝から昨日と同じ質問ばかりが繰り返される。サイバーテロの担当者が調べているようだが、証拠固めができないのだ。ついに昼過ぎになって、「玉房さん、どうやらあんたたの容疑は晴れたみたいだ」
「……」
「昨日の夜から今朝にかけて、メルマガの配信会社に木曜日に配達されるはずのメルマガが届かないという苦情が相次いだ。代わりにあんたの臨時増刊号が届いたとね。読者が相当数重なっていたのと、同じようなジャーナリストが発行するメルマガだったから、最初は気づかなかったそうだ。なんせかんせ、ショッキング内容だったからね。でも、発行人が問い合わせてきて、わかった。メルマガの管理人が調べてみると、あんたの名前をかたったやつは、もうひとつのメルマガを消去してそこに入りこんでいたそうだ。そのうえで、あんたになりすましたメルマガを届ける。ややこしいやつだ。とにかく、あんたは、ここからでていっていい。ご苦労さんでした。警察のこと悪く思わないでください。これも仕事だからね」
「……」
 仕事だったら、なにしても許されるのかと思ったが、とにかく玉房は「自分が流したものではない」と1回だけ口にしただけで、警察を出てきた。
     @
地震騒ぎから一夜明けた日の昼過ぎになって、騒動のからくりが次々と明らかにされていった。
 まず、『国民新聞』の報道は、書きかえられたのはトップニュースだけで、他は一日前の内容の引き写しであることがわかった。つまり、犯人は『国民新聞』を購読する一人であり、その一部書き換えて送り出したのだ。おまけに未来人がいったように本物の新聞もちゃんと送られていた。しかし、購読者は新しいものを先に読むので間違ったのだ。おまけにトップニュースが大事件だった。じつに単純な仕掛けだが、上手に人間の心理をついた手際だった。
 メルマガ『アルファ』については、発行人の問い合わせで調べた結果、本当は木曜日に発行されるメルマガが消去され、そのあとに、偽『アルファ』が置かれていた。そんなこととはしらないメルマガのコンピュータは、自動的にそれを送信したというものだった。こっちは、玉房祐司になりすまし、さらに、ほかのメルマガになりすますという少々手の込んだ手法だったが、こちらもパスワードを盗むだけで出きる芸当だ。
 のこる問題はどうやって購読者のアドレスを盗み出したのかということだったが、ここまでくれば犯人を追い詰めることはたやすいと思われた。
 地震の起こると指摘された地域から逃げ出した人々も少しずつだが、帰り始めた。この騒動は世界中の注目を集め、人々が潜在的に持つ恐怖感を利用した新手のサイバーテロとして報じられた。世界じゅうがコンピュータ社会の情報管理のありたか以上に、ネットユーザーが、ネットから受け取る情報の正誤を判断する感覚を養う重要性を認識することとなった。
     @
セフェネットのセキュリティ担当者の伊原はすでに23時間、キーを打ちつづけていた。デスクの下のゴミ箱は、パンの包装やカップ麺のパッケージ、栄養ドリンク剤の空き瓶であふれかえっていた。
 掲示板へのアクセスがあったのが昨日夜だった。そこで、まず伊原は、その24時間前に行ったバックアップと現在のシステムを比較した、書きかえられたものがないかどうか確認したが、なにもなかった。書き換えがあったのは1週間前。その書き換えは、副嶋が行っている。書き換えには伊原も立ちあっているし、書き換えによって、メールアドレス、パスワードが盗まれるような変更ではなかった。
 次に社内の人間を疑った。ウイルスやクラッキングの多くは社内アクセスによるものだ。社内にいるのだからこれほどたやすいことはない。インターネットは家の外と中、国の中と外という概念を取り払ったのに、会社の中は安全という神話が長らく続いてきたほうがおかしいのだ。
 しかし、社内からのアクセスにおかしなものはない。もっとも、伊原いることを知って挑戦するような猛者もいないことは確かだった。そうすると伊原の知らない間になんらかのウイルスが送りこまれたというのだろうか。それとも、透明人間のように入りこんだやつがいるのか。伊原は猛烈に燃えていた。こいつを絶対に追い詰めてやる。それは伝説のハッカー伊原の意地だった。
 中でも外でもない。どこにいるんだ、こいつは。――紀香ちゃんは答えてくれない。
 伊原は当分家に帰ることができないと、家族にメールを送信しようと考え、エディタで手紙を書き、端末に携帯電話を接続して、プロバイダにアクセスした。私用には社内のネットワークを使わないのが伊原のルールだった。
「うん? なんでパスワードを要求されるんだ」
 伊原は、ディスプレイが要求してきた画面に自分のパスワードを打ちこんだ。怒りで間違えて入力したかと思ったからだ。
 ところが何度やっても同じことが繰り返される。メールはいったんあきらめて、プロバイダのWEBページにアクセスする。メンテナンス情報をみると、ちょうどそのとき、伊原が使っているポイントはメンテ中だった。サイバーテロ騒動で緊急点検をしているという。
「おれとしたことが! こんな単純なことでパスワードを盗みやがったのか。くそ、こんな原始的な手に……。おい副嶋!」
 伊原は大声でネット管理人の副嶋を呼んだ。伊原から説明を聞いた副嶋は、さっそくセフェネットのメンテナンス情報を呼び出し、その情報と、書きこみの被害にあった人達のアクセスポイントを照合し始めた。
「ビンゴだ! 伊原」
「みつけたぞ、透明人間め」
     @
ここにいるよ。
 その人は「ククッ」とのどを鳴らすと、WEBニュースで流される世の中を眺めた。それは、まるで、鳥になったかのように、右往左往する人間をはるか高い空から眺めるようで愉快だった。
「もう少しだけ遊ぼうよ、みんな」とつぶやくと、時限爆弾を送信した。

クラスを破壊した1通のメール
|目次|

「いや、ひどい目に会いました」
 警察を出た足でタマさんはヒロシの家にやってきた。横には弁護士さんに預かってもらっていた息子の敦司君がいる。
「ヒロシ君にも迷惑かけたね。ごめん」
「いえ。ちょっとびっくりしただけ。あぁ、CDROM返さなくちゃね。ちょっと待ってて」
 ヒロシはお母さんのスペースに入り込んでCDROMを探した。ところがたった1日だというのにお母さんのスペースは様変わりしていた。山になっていたゴミが崩れてそこいらじゅうに散乱していた。目印にしていたものがなくなり、CDROMがどこにあるかわからなくなってしまった。ヒロシが悪戦苦闘しているとタマさんがやってきて、「僕も手伝うよ。責任があるからね」といってくれた。それから1時間――。
「あったぁ!」
 それは埋蔵金を見つけた時よりもうれしかった。
「いや、ヒロシ君はとても言い隠し場所をもっている。今度またなにかあったら頼むよ」とタマさんは苦笑いしている。
 そこへちょうど帰ってきたお母さんが、自分のスペースを見て「だれ、かってに散らかしたのわ」と悲鳴を上げたから、僕らは大笑いをした。
「で、結局タマさんは無罪ですか」
 無事に警察から帰ってきたタマさんを慰労するために台所で腕を振るっていたヒロシのお父さんが尋ねた。
「まぁ、罪を犯していないのだから無罪というのも変ですけど」
「あ、コリャ失礼」
「いやかまいませんよ。無実ですね。実に単純な仕掛けのなりすましですが、単純なだけに効果が大きい。シンプル・イズ・ビューティフル」
「タマさんはどうするの、犯人を訴えるの」
「訴えるもなにも、どのこだれだか、わからないんだから」
「見つかったらさ」
「そうだな、訂正・謝罪文を書かせるね。あんなへたくそな記事を書いて僕の名誉を傷つけたからね、はははは」
 ヒロシは、自分も被害にあったいたずらメールのことを話した。
「はは、そりゃ災難だったなぁ。二人とも仲が良かったから、慌てたんじゃいのか」
「そんなことないよ」
「ありゃ、顔にはそんなことあるって書いてあるぞ」
「書いてない! タマさんの意地悪」
「ところで、警察ってどんなとこでした」とヒロシのおかあさんが聞いた。
「まぁ居心地は良くないです。なんだか腹をすかせたライオンと同居しているような感じです。ハハハ」
「やっぱり、かつどんとか食べさせてくれるんですか」
「ふふふ。さてはヒロシ君のおかさんは、子どもの頃、刑事ドラマのファンだったんですね。こうみえても僕は舌が肥えていますからね。警視庁の近くにはうまいてんぷらそばを食わせる店があるんです。そこから出前をとりました。そこのおやじは昔からのともだちでさ、ふだんは出前はアルバイトにやらせているのに興味津々てかんじで、取り調べ室までやってきた。帰りがけに『ガッツだガッツ、タマさん』なんていうもんだから、まいっちゃったよ」
「その、おそば屋さんの名前なんて言うの」
「そば屋のかい? えーとね、確か田沼さんだったかな」
「えーそれじゃ、きっとタヌキの親父さんかな?」
「たぬっきて? そりゃそば屋だからあるだろうけど」
 クラス担任のタヌキの事を知らないタマさんが、トンチンカンなこと言うもんだから大笑いになった。
 楓子と敦司君は、2階に上る階段から飛び降りる遊びをしている。まだ小さいから一段目から飛び降りるのがやっとなんだけど、ふたりともやる気満々で、三段目から飛ぼうとするけど、結局2段目にちょんと飛び降りる。ふたりしてそれを飽きずに続けている。無事に帰ってきてよかったね、タマさん。
     @
地震騒ぎから5日後の朝だった。週末を挟んで世の中は落ち着きをとりもどしていたが、その日の朝の教室はなんだか落ち着きがなかった。異様な空気が漂っていた。
 ヒロシの机にも未来人や啓介がやってきて、なんか変だなといっている。クラスのあちらこちらに4人、5人と固まっている生徒のあいだから「しかし、ほんとうかな、本当だったら許せないな」というつぶやき声が聞こえてくる。
「あれのせいかな」と啓介が言う。
「それしかないんじゃない。この犯人もしつこいよね。川辺小に恨みでもあんのかな」
「あるとしたら、絶対にタヌキの教え子だぜ」
「そんなこといったらクラス全員だよ。それにタヌキはまだ新米で、去年の僕らが初めての教え子だ。啓介は僕らを疑うのか」
「なにいってんだ、おまえらしょっちゅう俺を疑っているじゃないか。すこしはおれの気持ちがわかったか。そういや、この春転校した奴がいたな、えーと」
「薬師さんか?」
「そうそう如来だよ。あいつなんか怪しくないか。パソコンはヒロシと同じぐらい得意だったし、だいたい、あいつの親父は銀行のセキュリティに入りこんでお金を盗んで捕まったんだろう。それで、この町にいづらくなって転校したんだって、うちのおかあさんがいってたぜ」
 それは事実だった。あんまり身近に犯人がいてびっくりしたことを覚えている。ヒロシのお父さんはニュースでそのことを知ってびっくりしていた。「あいつ、まだそんなことしていたのか」なんてつぶやいていたので、「どういうこと」って聞くと、薬師さんのお父さんは10年以上も前からハッカーの世界では名前の知られた存在だったと教えてくれた。
「だけど、薬師さんがねぇ。あんな目立たない女子がそんなことするかな。別に僕たちはいじめてなんかいないよ」
「そう思っているのは僕らだけかもよ。彼女にはなんとなく近寄りがたいところがあって、だからぼくらもあんまり近づかなかったじゃないか。いつもクラスで一人ぼっちだった。班分けをするときもいつも忘れられていて……。タヌキに言われてみんなが気がついて彼女に謝っても、気にしていないふうだったけど、彼女にとっては辛かったのかもね」
 未来人がそう言ったとき、タヌキが教室はいってきた。いつものようにジャージをきて跳ねるように歩いてくる。生徒たちはいつものようにさぁーっと席についたが、教室がいつもと違って騒がしいことに気がついタヌキが「さぁ、静かにしろ。ガッツだガッツ」と言った瞬間、教室の空気が凍りついた。そして、天井近くにたクモがその雰囲気に驚いて、モソっと動いたので凍りついた空気がぱりぱりと音を立てて崩れた。
 そんなことにはおかまいなしにタヌキは授業を始めた。しかし、誰も聞いているものはいない。薄気味悪いものをみるようにタヌキを見つめている。
「どうしたおまえたち」
 クラスの変な雰囲気にようやく気がついたタヌキが聞く。
 誰も答えない。しかたなくタヌキは授業を続ける。クラスのみんなは前を向いているが、体は遠くに離れていた。あきらかに昨日までとはなにかが違っていた。それでも、その日はなんとか終わった。
 次の日、クラスの落ち着きのなさは加速度的に増加した。タヌキが指名しても返事をしないやつもでてきた。タヌキが怒ると瞬間的に静かになるが、すぐにざわざわとしはじめる。それでもタヌキは、懸命に授業を続けようとしていた。そんな姿をみてだれかが「ばかじゃないの」とつぶやいた。それを背中で聞いたタヌキがふりむいた。その顔はもはやタヌキなどではなく、牙をむいたヒヒだった。おとといまでは、これをみればみなすくみあがったはずだが、きょうは違った。それがどうしたといった感じだった。睨みの効果がないことに戸惑ったタヌキを救ったのは、終業のチャイムだ。日直の起立の声を待っていたタヌキだったが、いつまでたっても声がかからないので、タヌキはそのままでていった。その日はそれで終わった。
 さらに次の日、授業中にお喋りするものが増えた。それもひそひそ話じゃなくて、休み時間の廊下で話しているような気軽で明るい声だった。すでに授業など誰も聞いていなかった。タヌキはどなりちらしたが、生徒は「うるさいな、なにわめいてんだよ。話のじゃまだ」という視線をタヌキの全身に浴びせ掛けて、お喋りに戻った。
 なんでこんなことになったのか、しらないのはタヌキだけだった。
 三日前、クラスのみんなにメールで配られた内容は、ささいなことだたが、タヌキの信用をなくすには十分だった。
 タヌキが学校の女子トイレを覗いているというのだ。写真まで添付されていた。もちろん顔は同定できないし、さほど鮮明じゃない。でも、タヌキのジャージ姿だった。
 すでに他のクラスにも噂が広まり、廊下でタヌキにすれちがうと逃げる女子もいたし、正義感にあふれる男子には、後ろ姿につばをかけるやつまで現れた。
 そしてメールが配達されてから四日目の一時間目、ついに授業がなりたたなくなった。だれも言うことなど聞かない。タヌキが声をあげようが、机を叩こうが、関係ない。叱れば叱るほど喚声を上げ、叱られた生徒をクラス全員が擁護して、タヌキに向かって罵声を浴びせ掛ける。
 タヌキはこのクラスは狂っちまったと思った。自分を無視して勝手に動き回る生徒をたちをみながら、タヌキは大声をあげることをついにあきらめた。負けを認めたわけじゃない。自分がなにを相手に戦っているのか、まったくわからないのだ。途方にくれたままタヌキは職員室に帰った。職員室ではすでにタヌキのクラスの異変がうわさになっており、他の先生は手を貸したものかどうか悩んでいた。また、いっぽうでは、教師としてのお手並み拝見という雰囲気もあった。そうしたなかでタヌキは助けを求めることもできずに、一人途方にくれたままだった。
 二時間目になるとタヌキは一人黒板に向かって授業をした。ぶつぶつとささやくように話ながら。時々かすかな期待を抱いて振りかえるが、誰一人として見ているものなどいなかった。携帯端末でゲームをやるもの、音楽サイトにアクセスしてダウンロードした音楽に合わせて踊っているものまでいる。この日は1日こうした状態で終わった。
 給食の時間、食堂に集まったヒロシたちに龍野進さんが声をかけた。
「なんだか、おまえさんがたのクラスは騒々しいな。いったいなんの騒ぎなんだい」
「ええ、なんと説明していいのか……」
「ボクたちのクラス、壊れちまったみたいなんです」
「こわれたぁ?」
 啓介のことばを引き継いで、未来人が今のクラスの状態を龍野進さんに説明した。龍野進さんは目をまん丸にして聞いていたが、やがて「いったいぜんたい、いやはやなんとも、ってところだね。そのメールが原因なら、本人に確かめればいいじゃないか。確かめもせずに、そういう形でタヌキさんをいじめるのは卑怯な気がするねえ」
「そういわれるとそうなんだけど、そんなことを言い出すと、ボクまでみんなに嫌われて無視されそうで怖いような雰囲気なんです」
 ヒロシがそういうと龍野進さんは「ヒロシ、おまえさんをみそこなったよ」とため息を吐き出すようにいった。ドキッとするような言いかただった。テーブルを挟んだ向こう側にいる龍野進さんが一〇〇メートルも向こうにいるような……。
 未来人や啓介にむかって「おまえさんたちもヒロシと同じなのかい」と聞いている。二人が答えずにいると、こりゃだめだといった風情で首を振ると、最後にちづるに「あんたのフィアンセはこんな奴だよ。ささっとわかれちまいな。それとも、なにかい、あんたはこんな男が好きなのかい」と言葉を叩きつけると、さっさと行ってしまった。
「龍野進さん、なに怒ってんのかな」
 ヒロシが未来人に聞く。いつもだったらちづるのフィアンセなどどといわれれたら、顔を真っ赤にして怒っているヒロシだったが、龍野進さんの剣幕に呆然としていた。
「とにかく、まじめに怒っていたね。僕たちのクラスは僕たちのものだ。壊れちゃったなんていう、傍観者のようなことを言ったのがいけなかったみたいだね」
「そうはいっても、どうすればいいのさ、未来人」
「みんなで考えなくちゃ。ここままで良いはずがないじゃないか」
 だけど、午後もクラスは壊れたままだった。
     @
ヒロシは啓介と未来人を連れて家に帰った。お父さんが仕事のペースから「今日のおやつはレンジの中だ。合い言葉はウンドット」と大声で怒鳴った。あんまりばかばかしいので「ばっかじゃないの」と、つい口走った。気がついたら、お父さんに張り倒されて、ヒロシは床に転がっていた。転がったボクのお尻をさらにお父さんは蹴っ飛ばしながらいった。
「なんだとっ! もう一回言ってみろ!」
「ごめんなさい、おとうさん。もう2度といいません。ごめんなさい」
 ヒロシがあやまると、おとうさんはペタペタとスリッパを鳴らして、仕事に戻っていった。
 いけない、学校の雰囲気をそのまま家に引きずっている。このままじゃやばいぞ。
「おいだいじょうぶかヒロシ。おまえのとうちゃん怒るとすげえな。うちのかあちゃんよりこわいぜ」
 啓介が床に転がったままのヒロシを覗きこみながら声をかけてきた。彼らもヒロシのおとうさんが怒る場面に出会ったのは初めてだから度肝を抜かれている。
「だいじょうぶだよ小さい頃からなれているから。めったに怒られないけど、無礼なことするとね」
「ぼくも、きのうかあさんに減らず口叩いて、ほっぺたはたかれた」
 未来人が、起きあがるヒロシに手を貸しながらいった。
「えー、未来人のかあちゃんて、女優みたいにキレイじゃん。それにいつもにこにこしていてやさしそうなのになぁ」
「あぁ、とてもやさしいよ。でも、ヒロシのおとうさんと同じように、相手が丁寧に言っているときや親切で言っているとき、心配して声をかけているときに、減らず口やつんけんした言い返し方をすると、雪女のように冷たい顔になって、パシッパシッとくる」
「えー往復ビンタかよ。こえー」
「おまけにうちの場合は時間差でもう一度父さんにぶん殴られる。母さんを悲しませるやつは許さんて」
「これまで、おれんちのかあちゃんは鬼のように怖いとおもっていたけど、おまえらんちのほうがすげえな。おれのかあちゃんが仏様のようにおもえるぜ」
「ぼくも未来人もみんな、学校のとげとげしい雰囲気を引きずっているんだよ。なんとかしなくちゃ。龍野進さんも怒らせちゃったし。とにかく、このままじゃだめだ。みんなどうにかなっちゃてるよ」
「そうだな、ヒロシの言うとおりだ。おれも気をつけなくちゃ。せっかくの仏様をくだらないことで閻魔さまに変身させることはないもんな」
「啓介はほんとうにかあちゃんが怖いんだなぁ」
 三人で笑っているところへ、「そんなに啓介君のおかあさんは怖いのか」。
 突然ヒロシのおとうさんが三人の後ろから声をかけたので、三人はビクッとして気を付けの姿勢になってしまった。恐る恐る振りかえると、お皿におやつを載せたおとうさんがいた。
「みんな腹減っているんだろう、食え。いま、ココアもつくっているから。ちゃんと手を洗うんだぞ」
「はい」。ボクたちは定規で書いたような返事をして、一列になって洗面所に駆け足した。
 おやつを食べながら三人で、学校の話しをしていたらヒロシのお父さんがまた声をかけてきた。
「なんだかおまえらあやしいな、ヒソヒソヒソヒソ。聞かれたくない話なら、外でやってくれ。気になってしかたがない」
「すみません、おじさん。別に秘密じゃないんですけど」
「けど、なんだ? 未来人君」
「ねぇ、おじさんが小学生の頃、クラスが壊れたことってありますか?」
「クラスが壊れるねぇ、面白いこというね、啓介君は。要するに授業ができないようなむちゃくちゃな状況のことかな」
「そうです」
「そうだな、壊れていたかどうかはわからないけど、6年生の時には授業をやった記憶がない」
「えー」
「ほんとですか」
「どうなっていたの、おとうさん」
「うーん。ずいぶんと昔のことだから良く覚えてはいないんだけどね」
 ヒロシのお父さんはおやつの中華ちまきをひとつ手に取り、竹の皮をムニョリとむきながらはなしをはじめた。
「僕らのクラス担任は、山野先生という女の先生だった。たしか先生になり立ての人だったと思う。目じりのほうがとんがったようにすぼまっている黒縁めがねをかけて、すこし猫背の先生だ。ただ、いまでも鮮明に覚えているシーンがある。それが6年のいつなのか、記憶にはない。当時、ローラーゲームっていうのが大流行していた。ローラースケートをはいた選手が2チームに分かれて、戦うんだ。リンクがあってそこから弾き飛ばされると負けだ。なかなかスリリングで楽しいゲームだった。東京ボンバーズなんていうチームがあってね。まぁ、とにかくそれは僕らのクラスでも大流行だった。その日は机を教室の真ん中にあつめて、その回りをリンクに見たてて、ローラーゲームをやっていた」
「えー、教室でローラースケートはいてたんですか」
「いやいや、そこまで破壊的じゃなかったよ。上履きでね。今考えると顔が真っ赤になるさ。ごっこだよ。それでも僕らは真剣にやっていた。授業中だよ。で、先生はどうしていたかというと、黒板で授業をやっていた。僕が覚えているのは、滑車を使うと力がどう変化するかというものだった。わたしは、ローラーゲームに参加しながら、負けると黒板のところに行って授業を受けていた」
「女子はどうしていたんですか」
「教室に少し、あとは屋上にでもいたんじゃないかな」
「毎日ですか」
「いや、記憶にないんだよね。その光景がたった1日だけで終わったという記憶もないんだけど、いつ始まって、卒業まで続いていたのかどうかも定かじゃないんだ。ただ、そうとうに騒がしいクラスだったことは確かだ。卒業してから、他のクラスだった奴と友達になったときに聞いたんだけど、PTAでも問題になっていたらしい。わたしのおかあさんはそんなこといっていなかったけどね。他のクラスの先生が怒鳴り込んできたこともあった。まともじゃなかったことは確かだね。でも、先生が嫌いだったわけじゃない。憎んでもいなかった」
 おとうさんは、指についたちまきを唇をすぼめて拾うと、また話し始めた。
「もうひとつ断片的に覚えていることがある。職員室での会議が終わって教室に戻ってきた先生に『なんの話だったの?』と聞いた。先生は『日の丸を卒業式で掲揚するかどうかについてだったの』『先生はどういったの』『反対』『じゃぁ、ぼくらも先生を応援する』。言葉は正確じゃないけど、そんな会話のシーンが思い出される。主義や思想とはまったく次元の違う無邪気な議論だ。けど、先生が嫌いだったわけじゃないことはわかってくれるだろう。嫌な思い出じゃないんだよ。懐かしさえ感じる。だけど、いまだったら、大問題だろうね。どうしてあのとき問題にならなかったのか不思議さ」
「中学校に入ってからはどうだった」
「クラスはバラバラだからね。だけど、中学での成績を一二を争うやつもその時のクラスに何人もいたんだ。なんだったんだろうね」
「その先生は、そのあとどうなっちゃたの」
「うーん、知らない。でも先生を辞めたという話は聞かなかったけど」
「どうしてそんなことになったんだろう」
「山野先生に、子どもたちを恐れ入らせるだけの力がなかったことも確かだと思う。でもね、その頃の僕らの学校は変な学校で、それぞれのクラスの性格が絵の具のようにはっきりしていた。僕ら以外のクラスも、おとなしいクラス、学級活動が盛んで自作の歌まで作って盛りあがっているクラス、礼儀正しいクラスがあって、それぞれが競い合うようにやっていた。みんな自分たちのクラスを誇りに思っていたことも確かだ。それにね、クラス担任が全教科を教えるんじゃなくて、科目によって教室を移動するなんて言うことも一時やっていたからね、公立の学校にしては、かなり実験的な学校だったんじゃないのか。実験の失敗が僕らのクラスだったのかもしれないし、もしかしたら、ほったらかしにしたらどうなるかという実験をしていたのかもしれないね。ははは」
 ヒロシのお父さんは笑いながら話し終わった。
「それで、ヒロシたちのクラスの壊れぐあいはどんなふうなんだい」
 未来人が、月曜日に始まった異変を説明した。龍野進のさんに叱られたことも話した。
「ほぉーそりゃ大変なことになっているんだね。でも、龍野進さんが怒るのも無理はない。きみたちのやっているのはいじめだよ。クラスを壊しているのは君たちだ。先生が悪いんじゃないだろう」
「でも、メールが……」
「啓介君、きみはそのことを先生に確かめたのかい」
「いえ」
「そうだろう。いったいだれがそのメールを発信したんだい」
「えーとね、たしかクラス有志って書いてあった」
「それが誰だかわかったのか」
「誰に聞いても否定するんだ」
「怪しいと思わなかったのかい。この前、地震騒ぎがあったばかりじゃないか。それにヒロシ、おまえはいたずらメールにひどい目にあわされたばかりだろう」
「だけど、メールに添付していた写真は、タヌキのジャージ姿だったし、風景は川辺小だし……」
「だけどだ、そんな写真をとったのなら、なぜ、それを校長先生なりに提出して調べてもらわないんだ。どうしてきみたちのクラスだけなんだい。生徒に配るよりPTAに流したほうが早い。田沼先生がほんとうにそんなことをするひどい先生だとしたら、それは、学校全体の問題だろ」
「そうなんですけど。聞きそびれてしまっているうちに、なんだか、クラス全員がタヌキをバカにする雰囲気になっちゃって。これまで、けっこうタヌキには押さえつけられてきたから、秘密を握ったぞみたいな連帯感が生まれて……」
 クラス委員の未来人がクラスのみんなを代表するように答えた。
「はー。わからないでもないけど、いじめだよ、それは。なんとかしないと、本当にクラスが壊れて二度ともとにもどらないよ。そして、きみたちはおとなになってもそのことを苦い思い出として持ちつづけるよ」
「どうしたらいいと思う、おとうさん」
「龍野進さんのいうとおり、確かめることさ。きみたちの目で、そして、ハートでね」

ヒロシも容疑者?
|目次|

セフェネットの管理人副嶋とセキュリティ担当者伊原は、パスワードを盗んだ奴の手口に気づいてから、今度はそいつを罠にかける方法を考えていた。この犯人は絶対に自分はみつからないとおもっているに違いない。自分は透明人間だぐらいのことは考えているだろう。地震やミサイル騒ぎは奴にとっては面白い見世物だったに違いない。ほかにも、ちょこちょこといたずらをしているに違いない。懲りずにまた仕掛けてくるはずだ。
 伊原もかつてはそうだった。中学生の時には自分でプログラムを書き、あちこちにジョークウイルスをしかけては喜んでいた。捕まるはずないという信じていた。
 それがあるとき、自分のパソコンを立ち上げると「おはよう伊原君。そろそろいたずらは止めようじゃないか」というメッセージが表示された。じょうだんじゃない、ハッカーの俺がウイルスに感染するなんてと歯噛みしても遅かった。いつのまにかメールが届いており、そこには、これまでのハッキングの経過が詳細にかかれていた。
「あんときは体中の血が蒸発しちまうんじゃないかと思うほどゾワゾワして、体が震えてきた」とは、のちに伊原が副嶋に語った感想だ。
 伊原を突き止めたその人は、伊原のいたずらを監視しながら、隙を狙って伊原の端末にウイルスを送りこんだのだ。
「こないだ、ハッカーのWEBサイトからウイルス・ソフトをもらったときだ」
 そのウイルスのソースは、伊原がみてもなかなかイケテルものだった。あとは自分で少し手直しすればと考えて、ダウンロードした。おそらくそこに仕掛けたんだろう。
 伊原を追い詰めたのは、当時セフェネットのセキュリティ担当者だった村井だった。村井の手際に感心した伊原は降伏し、いまでは、村井の後任として、仕事をしている。
「誘い込むのはいいけどさ、相手が特定できなきゃどうにもならんぞ」
「うん、それはね、もう少しでできる」
「できるって、誰だかわかるっていうのか」
「そうだよ」
「それなら、罠なんか仕掛けないで、警察に突き出せばいいじゃないか」
「証拠は」
「そいつの端末の中にいくらでもあるだろう」
「そいつが自分でつくったかどうかなんてわかりゃしないよ」
「でもどうやって特定できたんだ」
「企業秘密」
「教えろよ」
「簡単なことさ。地震騒ぎの前後に世間を騒がしたネット犯罪を片っ端から調べた。だいたいはホストコンピュータに侵入してデータを書きかえるものだったが、1つだけウイルスを使ったものがあった」
「あぁ、ケタ・ウイルスとかいうんだろう。なんでも一〇年も前のものらしいじゃないか。ケタケタ笑い出すディスプレイなんて、バカにしてるぜ」
「俺が書いた」
「なんだって?」
「ケタ・ウイルスの生みの親は俺だ。そこで、被害に遭ったサイトからウイルスをもらったて調べたんだ。そしたら、ウイルスのバージョンが俺が最後に作ったものと一致した。このウイルスはその後も改変されていてね、いろいろな人がいろんなバージョンを作った。新種ができると、作ったやつは、あるサイトに発表するんだ。このウイルスにはご丁寧に、ワクチンが添付されているんだ。実害はないばかばかしいウイルスだったが、みんなばかばかしさを競ったんだよ。いまでも、このウイルスの進化したものがネットには流れている。
 さて、ところが、今回使われたウイルスは、一〇年も前のものだ。古すぎて絶滅したと考えられていたから、ワクチンにもひっかからなかった。これはどういう意味を持つか。この犯人はおれがハッカーとして活躍していたころの同世代か、恐ろしく古い端末を使っているかだ。
 しかし、前者の場合、俺の作ったウイルスよりもっとばかばかしいものができているから、プロのハッカーならばそっちを使う。残るのは、古い端末だ。
 おれの想像だが、この犯人はティンエージャーだ。父親の古い端末でももらっていじくっているうちに、見つけたんだろうな」
「だけど一〇年前にウイルスを入手した人はたくさんいるんだろうが。どうやって見つけるんだ。海外にもいるだろう」
「いやこのウイルスは風土病なんだ。日本から外には出ない」
「風土病?」
「そうさ、まずは、作者である俺がそう宣言したこと、ハッカー仲間はこれを仁義としてみな守る。それから、ケタケタ笑うのは日本人だけだそうだ」
「ほんとかいな。それで、特定できたのかよ」
「まぁそう急ぐな、ハッカーなんてそうそういるもんじゃない。副嶋おまえだれか知り合いにいるか?」
「おまえぐらいだ」
「そうだろう。当時はいまよりもっとすくなかった。そのジョークウイルスを乗せたサイトにアクセスするのは20人もいなかった。そのなかでいまも日本に住んでいるやつは10人、さらにそのなかで子どもがいるのは2人だ。一人は俺が仲の良いハッカーだった、蔵典宏という。いまでも趣味でハンドメイドPCなんかつくっている変わり種だ。こいつの息子は、パソコンを自在に操る」
「そいつなのか」
「いやこいつじゃない」
「どうして」
「その子ども――ヒロシって言う名前なんだけどな、ネットの世界ではTRONといったほうが通っているほどの有名人だ」
「あ、きいたことある」
「こんな暗い犯罪を犯すような奴じゃない。それにこいつは俺にメールをよこした。なんでもいたずらメールの被害にあったそうだ」
「もう一人はだれなんだ」
「薬師啓示という男だ。こいつには娘がいる」
「女かよー]
「わるいか」
「わるくないけど……。しかしだな、そこまでわかっているのなら、その娘の親に言ってみたらどうなんだ。知っているんだろう」
「だめだ」
「どうして」
「父親はいま刑務所にいる。外国為替市場のシステムに侵入した罪で10年くらっている。そのおかげで母親は、コンピュータを憎んでいる。金毘羅さんも嫌いだし、コンパクトも使わない、近藤さんとも付き合わないほどの徹底振りだ」
「まったく冗談みたいなやつばっかだな。で、しかけはどうやる」
「MAHOROBAのゲームフィールドにさそいこむ」
「どうやって」
「ダイレクトメールでもだすさ」
「こなかったら」
「来たいような気分にさせるのは、管理人であるおまえの仕事だ。せいぜい楽しいゲームでも考えろ。そうだ、さっきいったヒロシは、MAHOROBAのゲームフィールドで南太平洋の無人島をゲットした奴だ。ヒロシと対戦するようなゲームを考えたらどうだ。ヒロシのところに舞いこんだいたずらメールが同じ奴の仕業なら必ず来る」
「おもいだしたおもいだした、あの子か。有名人じゃないか。そうか、頼んでみるよ」
「とにかくだ、ぜったいそいつをゲームフィールドに誘い込む。そして、奴のデスクトップにだけ誘い文句を流す。そして、奥へ奥へ引きづりこんで、ズドンだ」
「おい物騒なこというなよ」
「ズドンするのは、そいつのパソコンだ。破壊する」
「おまえさんがいうんだからできるんだろう。で、いつやるんだ」
「いつでも」

タヌキの逆襲!?
|目次|

クラスが壊れて5日目の一時間目、タヌキが教室の前に立つと昨日までの状態がうそのように静かだ。あいつらも反省したかと思いながら、ドアをあけると、静かなはずだ。誰もいない。みんなで飼っているクサガメが水槽の縁に首を乗っけて、同情するような目でタヌキを見つめているだけだ。
 教室の後ろの黒板には「タヌキは最低!」と書いてあった。後ろを振り返ると前の黒板にも、「タヌキは先生失格だ!」と書いてあった。
 タヌキは驚くよりも怒りが込みあげてきた。このへんがタヌキの美点である。普通の教師だったらわなわなと泣き崩れてもおかしくない。だけどタヌキはだてに「ガッツだガッツだ」とわめいているわけじゃない。すくなくともこの時はその性格が良いほうに作用した。
「なんでおれが教師失格なんだ。こんなに一生懸命やっているのに。くっそ、だれか教えろ!」
 教室の窓から校庭を見ると、春の日差し中で女子が遊んでいる、男子もサッカーをやっている。タヌキは教室が2階だということも考えずに、窓から飛び降り、生徒達に向かって走り始めた。
 啓介たちとタヌキを告発するメールのことを確かめる方法を相談していたヒロシは、ドサっという音がしたとおもったら、砂煙があがって、タヌキが真っ赤な顔をして走ってくるのを目にした。すぐにほかの生徒たちも気がついて、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。つかまったのは男子のなかで一番足の遅いヒロシだった。
「どういうことだ!」
「……」
 仰向けに押さえつけられたヒロシはびっくりして声が出ない。
「おれがなにをしたというんだ。なんでおれが教師失格なんだ。おしえろヒロシぃー」
 そのころになって女子のだれかがたすけをもとめたのだろう、スリッパ履きのまま校長先生がパタパタとやってきた。
「どうしたんですか、田沼先生」
「どうしたもこうしたも」といったきり、タヌキは崩れ落ち、地面を叩きながら泣き始めた。
「ばかじゃないの」という声が、人垣から聞こえたが、タヌキには聞こえなかった。もし聞こえたら、きっと自分で自分の首をしめて死んでいたことだろう。ヒロシはタヌキから解放されたものの、そのまま仰向けに寝転んでいた。埃くさい校庭の匂いがツンと鼻を突いた。空がやけに広く高く感じられた。そこへ、未来人と啓介、ちづるが顔をのぞかせた。
「だいじょうぶヒロシ君」
 ちづるの顔は影になって良く見えないが、スカートから出たひざ小僧がすぐ近くに見えて、なんだかどぎまぎしてしまった。
「ヒロシ大丈夫か? 殴られたのか」
「いや、馬乗りになられただけだよ」
「ったく、タヌキの馬乗りなんてしゃれにもならないぜ」
 校長先生に促されてみんな教室に戻った。タヌキの姿が見えないところを見ると、校長室にでも閉じ込められているのだろう。
「どういうことですか、これは」
 黒板を見て校長先生は聞いた。誰も答えないので、校長先生は「クラス委員はだれですか」と聞いた。
 ちづると未来人が立ちあがった。そしてちづるがタヌキを告発するメールが届いたことを話した。
「告発するとはおだやかじゃありませんね。どんな内容なんですか」
「あのぉ……」
 ちづるが言いにくそうにしているので、未来人がメールで送られてきたタヌキが女子トイレを覗いている写真のことを話し、プリントアウトを見せた。一読した校長先生は「このまま教室で自習していなさい」と言い残し、教室をでていった。
 校長室ではタヌキが泣いていた。
 校長先生は泣いているタヌキを一喝し、教室で受け取ったメールを見せた。タヌキが読んでいるあいだにも「事実ですか?」と尋ねたが、読み終わったタヌキは憤激の余り口から泡を吹いて失神していた。
 しかたなく校長先生は保健室の先生に来てもらて、気つけをしてもらった。薬でもつかうのかとおもったら、保健室の先生はバケツの水をタヌキにぶっかけただけだった。校長先生はそれなら自分でやればよかったとおもったが、とにかくタヌキは起きた。
 そして、メールの内容を否定した。校長先生は「証明できるのかね」と尋ねた。するとタヌキは「このジャージはボクじゃない。確かに似ているけど、僕のジャージは袖のラインが3本でパンツのほうは、太いのが一本、それも腰からくるぶしにかけて細くなっているんです。でも、この写真のジャージは、袖のラインは3本だけど、パンツは二本ラインです。それにこのシューズもちがう。ボクがはいているのはパイク社のワンダーエア・303というモデルです。この写真のほうはたぶんミツミ社のスペースエアです。ぜんぜん違います。ほらね」
 タヌキは足をあげてシューズを校長先生に見せ、なおかつ体をひねってジャージのラインを見せた。校長先生は写真と目の前のタヌキを見比べていたが、どこがどうちがうのか正直なところわからなかった。それでも、そこまでいうんだからきっと違うんだろう。それに目の前で泣き崩れていた田沼先生が、メールに書かれたような破廉恥なことをする人間にはみえなかった。校長は自分の目を信じたかった。
「だれですか、こんなことやったのは。僕は自分の名誉のために警察に訴えます。警察に白黒つけてもらいましょう」とタヌキが言い出した。
「そのまえに教室に戻りましょう」
 校長先生がタヌキをつれて教室に戻ってくると、教室は静まり返った。タヌキは泣き腫らした目が真っ赤だった。それでも、下を向かずに堂々とクラス全員を見渡した。
 校長先生は「メールに書いてあったことを田沼先生は否定されている。自分の名誉をまもるために警察に訴えて調べてもらうという。君たちはどう思う? ほんとうに田沼先生がこんなことをしたと思うか。どうだ?」という。
 誰も答えないでいるのをタヌキは悲しそうに見ている。
「委員長、君はどう思う?」
 ちづるは立ちあがって、クラスみんなの顔を見渡すと、「校長先生にこんなことをいうのは告げ口をするようで……」ときりだした。
 それを聞いたタヌキは、泣きそうな顔になった。
「タヌキは決して良い先生じゃありません」
 ちづるがきっぱりというのを聞いて、ついにタヌキは涙をながしはじめた。
「でも、メールに書かれていたようなことをする先生じゃないと思います」
 タヌキはついに肩を震わせて下を向いて泣きだした。そして、なにかぶつぶつといいだした。
「それはみんなもわかっていると思います」
「みんな、そうなのか」と校長先生がが聞くと、クラス全員がこくりと小さくうなづいた。
 それをみていたタヌキは「みんな、ありがとおおおおお」と声をあげて泣き出した。ガラスがぴりぴりと震えた。
     @
「それで結局どうなったんだい」
 給食の時間、食堂で龍野進さんに会った。「こないだはごめんなさい」と謝ると、「あやまるのはわしにじゃなくて、タヌキ先生にだろう」と言われたけど、一緒のテーブルで食事することを許してくれた。
 そして、ヒロシたちは今日の顛末を話した。
「そうかそれは、よかった。えらかったなおまえたち」
 ヒロシのお父さんにいわせると、龍野進さんはいまどき珍しい「怒ってくれる他人」であるだけじゃなくて、「誉めてくれる他人」でもあるんだそうだ。通りすがりに子供たちのいたずらを注意する大人もいなくなったけど、それ以上に、子供が空き缶をゴミ箱に捨てているのを見て誉めたり、お使いの手伝いをしているのをみて誉める大人は絶滅しかけている。「龍野進さんたちの世代はまさに生きた化石だ。大切にしろヒロシ」といっていた。
「そのあとは、校長先生も交えて、みんなでタヌキの悪口を言ったんだよな」と啓介が、とんかつをほおばりながらいった。
「悪口って言っても、授業はこうして欲しいとか、ガッツだガッツを連発しないで欲しい、ジャージで授業をしないで欲しいといったものです」。イカ墨スパゲティを食べたちづるが黒い唇でいう。なんだか魔女になったみたいで怖い。
「タヌキは僕たちの意見をまじめに聞いて、努力すると約束してくれたよ」。ヒロシは今日は肉野菜炒めを食べている。
「タヌキ先生じゃないということも、本人から説明してもらいました」と未来人がいう。
 龍野進さんは未来人からジャージの種類やシューズの種類のついての説明を聞いていたが「なんでサルマタにラインが入っているんだ?」「なに、パンツはサルマタじゃない? なんだそりゃ?」と、話がちんぷんかんぷんになってしまって、あきらめてしまった。
「タヌキも僕たちにいろいろといいました。返事はきちんとして欲しいとか、みんなで決めたルールは守って欲しい。守れないルールだったら、新しいルールを考えて欲しいとか」
「なんだか、はじめて真剣に話し合ったって感じです」
「でもなんだか、すっとしたというか」
「さっぱりしたというか」
「クラスのみんなもこのままではだめになるって思っていたみたいで、台風が過ぎ去ったあとみたいです」
「そりゃよかった。でも、いったい誰がそんなことをしたのか。それが問題だな」
「そうそう。それが残った謎だ。クラスをめちゃくちゃにしやがって、ゆるさないぞおれは。おいヒロシ、この犯人を捕まえろ」
「なにをヤブから棒にいってんだよ。でもかんがえたんだ。今回のメールは学校のサーバが発信元だ。つまり、この学校の関係者なら、僕らのメールアドレスを盗まないでも簡単手に手に入れられる。しかも、僕らのクラスを憎んでいる人。ヒントをくれたのは啓介おまえだぞ」
「おれがか、いつそんなこといった」
「これだからな。如来だよ」
「薬師か」
「なんだその薬師如来ってのは? なんで仏さんがタヌキさんをいじめるんだね」
「いくら川辺小学校に詳しい龍野進さんでも知らないと思うけど、この春まで僕たちのクラスにいた女子なんだ。いまは、転校していないけどね。如来ってのはあだ名だよ。本名は、えーと、なんだっけ」
「たしか、亜矢さんよ」
 さすがクラス委員のちづるだ、チャンと覚えている。
「そうそう、亜矢さんだ」
「なんで転校したんだ、おとうさんの転勤かい」
「転勤じゃないんです。刑務所にはいっちゃったんだ。おとうさんが」
「おやまぁ」
「それでね、いづらくなって転校したんだ」
「なんだ、おまえさんたちはその子をいじめたのか」
「いじめてなんかいませんよ。もともとじみで目立たない子で、友達も少なかったんだけど、嫌われてたわけじゃないんです。事実ボクも好きか嫌いかときかれれば、好きなほうにいれたと思う。なぁ、ちづる」
「そうねぇ、無口でとっつきづらかったけれど、嫌いじゃなかった。というより、正直なところ、そういうことを考えるほど彼女のことを知らなかったのよね。亜矢さんのこと、好きとか嫌いとか決めるには情報不足。ブラックホールみたいな人だったから」
「じゃぁ、どうしておまえさんたちを恨むんだ」
「想像ですけど、たぶん彼女のことをまともに見てあげなかったからじゃないかな。彼女はいてもいなくても僕たちには関係なかった。それは僕たちだけじゃなくて彼女にも問題はあったと思うんですよ。でも、今日のタヌキのように気持ちをぶつけ合うこともなかった。僕たちには彼女が見えていなかったんです。透明人間ですよ」
 未来人が上手に説明してくれる。
「透明人間ねぇ。クラスのみんなが無視していたのか?」
「無視というのは意識的なものでしょう。本当に見えていなかったんだ」
「タヌキさんもかい?」
「いえ、今思えばタヌキは彼女にちゃんと向き合っていた。お父さんが逮捕された時も、彼女が孤立しないように気を配ってました」と未来人が答える。こういう込み入った話のときには心強い。
「気を配るといっても、タヌキのことだから大声ですけどね。親は親だ、悪いことをしたのは事実だ。でも、それをいま償っている。薬師はその犯罪には関係ない。だから彼女を責める奴は、おれが相手だ――なんて言っちゃってね。そんなことわざわざ大声言わなくても良いのにとおもったわ。でも真剣だったのね、タヌキなりに」
「ぼくたちもそんなことわかっていたし、なにより薬師さんはそれまでも透明人間だったから、ぼくらもあんまり気をつかわなかったんだ。でも、タヌキの演説を聞いて、なんか意識しちゃってね。それまで透明人間だったのが、間違ってペンキをかぶって正体がばれてしまったみたいな」
「ある日突然、学校にこなくなったと思ったら、転校したと教えられて。6年になってすぐ、ゴールデンウィークになる前です」
「お別れ会もなにもなかったのかい」
「ええ、突然だったし。それに僕らは、連休中に開催したちづるの会社のイベントの準備で忙しかったから」
「で、その子はいまどうしているんだね」
「わかりません。タヌキにきけばわかるかもしれません」
「メールでもだしてみようか。学校でもらったアドレスは生きているだろう」
「でもなんか突然じゃない」
「未来人、なんか理由を考えてよ」
 ヒロシがそう言うと脇から啓介がいった。
「今度の事件のことをかいたクラス便りを作って送ってみたら。なにか言ってきたらまちがってクラスのメーリングリストにアドレスが生きていることにれば良いじゃないか。それに、こんどのことに如来がかかわっているんだとしたら、それはそれでおもしろいぜ」
 啓介にしては上出来なプランだった。さっそく僕らは、クラスだよりを作り始めた。

テロリストを誘き出す罠
|目次|

家に帰ったヒロシは、父さんに頼んで「WEB版 読まれるクラスだよりの作りかた」という本を借りて自分のスペースに戻った。ぱらぱらと本をめくりながら、端末を立ち上げて習慣のようにメールのチェックを始めた。
 ダイレクトメールに混じって、MAHOROBAシティを運営するセフェネットの管理人からのものがあった。
「なんだろう」

拝啓 TRONさん。いつも当ネットをご利用いただきまことにありがとうございます。
早速ですが、貴殿にお願いごとがございまして突然に失礼とは存じましたが、メールを差し上げた次第です。
 活況を呈するわがMAHOROBAシティのゲームフィールドをさらにエキサイティングなものとすると同時に、会員相互の親睦をさらに深めるために、新たなゲーム「バーチャル釘さし」を考案いたしました。それを記念して、昨年の南の島争奪ゲームで活躍された貴殿への挑戦権をかけた「TRON杯争奪! バーチャル釘さし」を行いたいのです。名前のご使用をご許可いただけませんでしょうか。
 名義の使用料といたしまして、専用の注連縄ルームを1部屋1年間無料でご提供させていただきます。
 お返事をたまわれば幸いです。 敬具
セフェネット管理人副嶋隆三

追伸 当ネットのセキュリティ担当者伊原が、貴殿のご父君によろしくとのこと、申しそえます。

「釘さしだって? なんだそりゃ」
 とにかく、べつに実害はなさそうだし、断る理由もない。専用の注連縄ルームが提供されるというのも魅力的だ。ヒロシは30秒ほどかんがえて、オーケーすることにした。
「メールを受け取りました。名前の使用を認めます」と返事を打ち返した。
 伊原さんといえば伝説のハッカーじゃないか、その人がお父さんによろしく? ヒロシはお父さんのスペースに顔を出して聞いてみた。
「おとうさん、伊原さんって知っている? セフェネットのセキュリティ担当者だけど。ネットの管理人からボク宛てのメールがきてさ、追伸に伊原さんがおとうさんによろしくって言ってるって書いてあったんだけど」
「伊原君かぁ、知ってるよ。元気なのかい」
「メールじゃそこまでわからない。友達なの」
「友達というわけじゃないな。昔、昔の知りあいだよ」
「伝説のハッカーと?」
「そうだよ、まだかれがハッカーをやっていたころだ」
「まさか、おとうさんもハッカーだったの」
「そのまさかだったらどうする」
「うそでしょう」
「ははは、ずいぶんとみくびられたもんだな。たしかにおとうさんはハッカーじゃなかった。伊原君がまだ伝説になる前からお父さんはハンドメイドのパソコンを作るのが大好きだった。器だけじゃなくて、OSも作った。そのときにね、セキュリティのことを伊原君に相談したんだ。なんといっても一流のハッカーに試験してもらうがいちばんだろう」
「なるほどね」
 TRONことヒロシから承諾をもらった副嶋は、さっそくMAHOROBAシティのゲームフィールドに告知を流した。
「TRON杯争奪! バーチャル釘さし。来れ!! ゲーマーたちよ。集え! 次の伝説は君たちが作る!!」
「しっかし、釘さしなんてバーチャルでやって楽しいかね」
 副嶋のブースの壁に寄りかかりながら伊原が言う。
「いまはな、釘なんてないし、それに釘をさす地面もない。なんといっても単純だけど、戦術も必要なゲームだ、やみくもに釘をさせばいいってもじゃない。そして、運も大きく勝敗を左右する。地面に隠れている石ころにあたって刺さらないこともある。勝負がつくのもはやい。老いも若きも、男も女もできる」
「はいはい、わかりました」
     @
MAHOROBAシティのゲームフィールドに「バーチャル釘さし」大会の告知がでた翌日の夜。

ksuke おい、釘刺してなんだ
TRON 僕も知らないよ
MIRAI さっきゲームフィールドを覗いてルールブックをみたけど、要するに地面に釘をさすんだ。二人で対戦する。直線の両端から初めて、交互に釘を刺していく。釘が刺さったら、その前に刺さっていた場所から線を引く。自分も相手も線がまじわるような釘のさし方はできない。だから、当然お互いに相手の釘を囲むようにさしていくのがポイントだ。そして、どちらかが刺す場所がなくなったら負け。
doll 賞品はなに? ヒロシ君への挑戦権だけ?

 いま、ヒロシたちはMAHOROBAシティの注連縄ルームでチャットしていた。さっそく権利を行使したのだ。

TRON ぼくへの挑戦はおまけだよ。優勝賞品は豪華客船で世界一周だ。一年かけて回るらしいよ。
doll いいなぁ。私も参加しようかな。もし勝ったら、いっしょに世界一周しようね、ヒロシ君。
TRON ……
doll ちょっとぉ、なに黙ってるのよぉ。
ksuke ヒロシは何をもらうんだ。
TRON もうもらったよ。この部屋さ。1年間貸しきりで無料。
MIRAI すごいな。
TRON ところで、クラスだよりの原稿はできたの未来人。
MIRAI ああぁ。いまアップするからな。

 未来人がアップした原稿が、ディスプレイに開かれた小窓に流れてくる。

doll いいじゃない。
TRON ちょっとむかつくところもあるけど……。まぁ、しかたないよね。本気で言っているわけじゃないよね。
MIRAI あたり
MIRAI まえ
TRON 変なところで、行を切るな!
ksuke さすが未来人、さえてるぜ。それじゃヒロシ、これをレイアウトしてPDFファイルにして送ってくれよな
TRON おい啓介はなんにもしてないじゃないか。
ksuke なにいってんだ。このプランをだしたのはおれだぞ
TRON あ、そうか。わかった、やるよ
     @
未来人のクラスだよりの原稿が出来上がってから二日後の昼過ぎ、めったにメールなど届かないその人のもとに珍しく二通のメールが届いた。
 ひとつは、あのTRONに対する挑戦権をかけたゲームへの誘いがMAHOROBAから届いたのだ。告知は見ていたが、まさか、ダイレクトメールがくるとは。どうやら、古典的なゲームのため、いまひとつ、ルールが周知できなくて参加者が少ないらしい。そこで、メールでは、映像でゲームのルールとプレイ方法が説明がされ、ゲームに誘ってきている。TRON――蔵ヒロシ。川辺小学校の同級生だった男子。TRONもわたしを透明人間扱いしたひとりだった。
 もう1つはヒロシたちが作ったクラスだよりだ。
 クラスだよりに書かれていたことはその人を喜ばせた。あのクラスが壊れた。ざまぁみろ。いい気味だ。自分勝手に私のことを見たり見なかったり。おまえたちの思い出を汚してやった。将来、思い出したくもない時間を作ってやった。『6年1組自由新聞』と名前を変えたクラスだよりには、担任のタヌキが壊れたとかいてあった。実際、胃潰瘍で入院したらしい。タヌキ――透明人間でいたかった時にわたしにペンキをかけて、透明人間シートを汚した無神経なおとな。
 クラス委員のちづると未来人は、壊れていくクラスをなんとか立てなおそうと、良い子ちゃん振りを発揮したが、みんなに嫌われて、ちづるはストレスで円形脱毛症に、未来人は登校拒否になったそうだ。
「これでわがクラスは自由だ、解放区だ! センコーなんてくそ食らえ。友情なんて味噌っかすだ!」。
 その人は「おまえも味噌っかすだ」とつぶやいた。啓介は、ちづるといちゃついていたヒロシも槍玉に挙げている。
「6年1組の風紀を乱すスケベなヒロシを追い出せ!」。
 これであの仲良し四人組みもおしまいだ。
 『6年1組自由新聞』の筆者は啓介――元気がいいだけが取り柄の男子だ。内容がない勇ましいだけの言葉を並べている。どうやらこの啓介は単純な発想と、時代遅れの倫理観をもっているようだ。クラスで一緒だった時には、そんなことおくびにも感じさせなかったが。
 それにしても、いまごろクラスだよりなんて送ってくるとは本当に頭にくる。どうせ、メーリングリストからわたしの名前を外し忘れていたんだろう。あいつらはいまでもわたしがいないことに気がついていないのかもしれない。もし明日学校にいったら、長い休みだったとくらいにしか思わないかもしれない。
「亜矢? 起きてるの」
 遠慮がちなノックが聞こえて、お母さんの声がした。
「起きてる」
 ドアを細く開けた隙間から亜矢の母親が顔を覗かせた。
「もうお昼よ。カーテン開けなさい。こんな暗い部屋に閉じこもって。体に悪いわ」
「だいじょうぶ、私は人間だから、光合成の必要はないもの」
「また、そんな屁理屈言って。さっき、バーチャルスクールから連絡があったんだけど、亜矢は最近学校にアクセスしてないみたいね」
「うん、つまらないんだもの」
「でも、お勉強はしなくちゃ」
「そのうちやるよ」
「コンピュータばかりいじっていると、お父さんみたいになっちゃうわよ」
「お父さんみたいって?」
「だから、パソコンの中だけが自分の世界になってしまって……。おかあさん心配なのよ」
「大丈夫よわたしは」
「こんなことになるのなら、川辺小を辞めなければよかったのに。田沼先生も引き止めてくださったのに、どうして辞めちゃったの」
「透明人間の魔法が解けちゃったのよ」
「透明人間? なによそれ。亜矢はいつもそうやって話をはぐらかしてばかり」
「もういいいから。ちゃんと学校にアクセスするから。それならいいでしょ、おかあさん」
「ええ、まぁ」
「話がすんだら出ていって。昼寝したいから」
「おきたらご飯もちゃんとたべてね」
「わかった」
 母親が出ていくとその人――亜矢は、セフェネットのゲームに参加申し込みをした。
     @
「どうかな、ひっかかるかな」
「ひっかかるって、なにが?」
 給食を食べ終わった啓介が、回りを見まわしてから小声で聞いてきた。
「如来だよ。クラスだよりをもらってどうおもったかな」
「そんなのしらないよ。如来が犯人だと決まったわけじゃないだろう」
「なにをいまさらいってんだよ、ヒロシ」
「もし犯人だとしたら、いまごろ喜んでくれているんじゃないの。まいた種がちゃんと育って収穫ができたって」
「それにしても未来人はうまいこと考えたよな。実際とは違った結末にして書くなんてさ」
「あんまり気分は良くない」
「なんでだよ。スケベに書かれたからか。俺なんて単細胞のお調子者にかかれたんだ。我慢しろ」
「そんなことはどうでもいいんだ。うまく説明できないけどなぁ、なんだか鏡に映っている自分を攻撃しているみたいだ」
「難しいこというなよ。そりゃおれだってなんとなく気分が悪いさ。もしだよ、如来が俺たちのクラスを憎んでいたとしたら、その責任は俺たちにもあるんだろう。だから、こうやって如来をやっつけるだけで、自分たちはいいのかなと思うんだ」
「ボクは如来をやっつけようなんて思っていないよ」
 未来人が啓介に言い返した。
「ぼくらは、クラスを守る必要がある。だから荒ぶる神を静めるのさ。封印のおまじないだよ」
「また、わけわかんないこというんだから。じゃ、だれがやっつけるんだ」
「そんなこと知らないよ」
     @
「どうだひっかかってきたか」
「あぁ、申し込んできた」
 セフェネットの管理人副嶋のブースに、伊原がやってきた。
「それじゃ作戦開始だな」
「だけどなんだか気が進まないな」と、副嶋が髪をくしゃくしゃにかきむしりながらいう。
「いまさら、なにいってんだ、副嶋」
「でも、相手は子どもだぜ」
「その子どもがどれだけの被害をだしたか知っているのか」
「地震騒ぎがこの子のせいときまったわけじゃない」
「そりゃ追い詰めてみればわかることさ。地震騒ぎはそうじゃなくても、ケタウイルスはこいつのせいだ。怪我人は出ていないけどな。悪いことは悪い。俺には村井さんに教えられたことを伝える義務がある」
「でも追い詰めすぎるなよ。かならず逃げ場を作ってやってくれよな」
「わかってる」
     @
MAHOROBAシティでの釘刺し大会は順調に進んでいた。一ヵ月前に始まり週2回対戦が組まれていた。簡単なゲームだということもあって、参加者は一〇〇〇人とおおかったが、ゲームの決着も早くつくので、混雑することはなかった。龍野進さんも昔懐かしいこの遊びに参加したかったのだが、申しこんだ時には定員オーバーで終了していた。ちづるもヒロシとの世界一周を夢見て申し込んだが、やはり断られた。ゲームに参加できたのは亜矢一人だった。その亜矢は順調に勝ち上げっていた。
 亜矢も最初はくだらないと思っていたが、やってみると思いのほか奥が深いゲームだった。なにより、釘がスサっと地面に刺さるのは気分がよかった。試合に勝つとあたらしい釘が送られてくる。その釘の材質も勝ちあがるにつれてグレードが上がっていった。最初は鉛、次が銅、そして鉄、次がステンレス、次がチタン……と代わるのだ。先端も鋭利になり、刺さりやすくなる。参加者はその釘をやすりでで研いだりして、チューンアップすることが許されている。色を塗るのも許されていた。
 ゲームはいたって簡単だ。参加者には釘とゲーム用のフィールドパッドが送られてくる。1メートル四方ぐらいのこのパッドに釘を投げ、刺すのだ。パッドも釘もネット回線を通してMAHOROBAのサーバにつながっている。
 まずはじゃんけんをして先攻を決める。釘を投げると刺さった場所が、お互いのパッドにリアルタイムで表示される。フィールドには参加者にはわからないように石ころなどが埋められていて、運悪くそう言うところに釘が当たると刺さらない。刺さったときには、その前に釘が刺さっていたポイントから線を引く。引かれた線をまたぐように線は引くことができず、お互いに相手のポイントを囲むように釘を刺し、相手が釘を刺せる場所をなくせば、勝ちだ。
 亜矢はもう1回勝てば、つぎは決勝戦だった。準決勝の相手は、イハラという男子だ。
     @
「伊原どうだ、データは集まったか」
「あぁ、これを見ろよ」
 伊原のディスプレイ――枠の上部に「紀香ちゃん命」と書いてある――には、地震騒ぎの発端となった新聞記事とまったく同じ文章や、メルマガの偽記事、偽の競馬勝敗結果、いたずらメールが次々と表示されてきた。伊原や副嶋が知らないものまであった。
「なんだこのタヌキ告発状ってファイルは」
「のぞいてみたいけどな、やめておこう。必要以上にプライバシーを覗くのは目的じゃない」
「あぁ、そうだな。しかしこれだけそろえば、いいんじゃないか。あとは警察に任せたら」
「冗談じゃない、そんなつもりなら最初からやらないよ」
「しかし、おまえの作ったウイルスはすごいな」
「お褒めに預かり光栄のいたり」
「勝者に渡す釘に潜むウイルス。送りこまれたウイルスは、少しずつデータを集めてくる。おまけにその釘は勝ち進むに連れて、容量が大きくなっているから、それだけたくさんのデータを持ちかえってくるという寸法だ。おそろしいな。おまえさんがうちのセキュリティ担当で良かった」
「しかし、セキュリティ担当者のやることじゃない」
「いや、しかし、これは犯罪者を捕まえるための手段だからな」
「いいわけはできない。悪いことは誰がやっても悪いんだ。権力を持つものや多数者がやったときには悪いことも正当化されるのはおかしくないか。国家が行う死刑は良くて、個人による人殺しは罪になる。国による戦争は認められて、集団による反乱は鎮圧される。人殺しと死刑はどう違うんだ。結果になにか違いがあるんだろうか。
 百歩譲って権威の剣の存在を認めたとしても、その刃を抜いて良いのはたった1度だけだ。抜いたら最後、自分も滅びる」
「まるでミツバチだな。むずかしいことは、よくわからんが」
「この始末をつけたらおれは辞めるよ。すべてを告白して、引退する」
「おい、何を突然言い出すんだ。おまえがいなくなったらそれこそ、セフェが滅びるぜ。なにもそこまですることはないじゃないか」
「いやそれでいんだ。それが、おれの決着のつけ方だ」
「引退してどうする。ネットの申し子みたいなおまえが生きていくことができるのは、ここだけだぜ」
「心配にはおよばない。そうだな、ヒロシのおやじとパソコンでも作るさ」
「どんな」
「企業秘密だ」
 そういうと、伊原は亜矢と戦うためにゲームフィールドに入っていった。今日が亜矢にとって最後の試合となるはずだった。亜矢は勝つ、でも勝ったら亜矢は二度と立ちあがれなくなる。
 亜矢は伊原がゲームフィールドに入ってくるをみていた。じゃんけんで先攻を決める。亜矢は後攻めになった。
 伊原が釘を投げつける。すさっという軽やかな音と共に地面に釘が刺さる。ささっと線が引かれる。次は自分の番だ。
 伊原と亜矢の対戦はなかなか接戦だった。いつもなら5分もあれば勝敗がつくのに、この時は準決勝にふさわしく30分もかかった。
 そして、ついに亜矢の放った釘が伊原の釘の道をふさいだ。
「負けだ」
「……」
「イハラさん残念でした。ニョライさん、おめでとう。お二人ともすばらしい試合でした」
 割り込んできたのは、管理人の副嶋だ。かれは亜矢に決勝戦で使う釘を渡した。その釘は亜矢にとどめをさす釘だった。
     @
ヒロシたちは放課後の校庭で、釘刺しをやっていた。指導しているのは龍野進さんだ。もちろん、本物の釘を使った遊びだ。釘をさがすのに苦労したが……。
「MAHOROBAの釘刺し大会にもうしこんだけど断られた」と啓介が釘を投げつけながらいう。
「ぼくもだ」。啓介と対戦している未来人が、釘を刺す場所を探しながら答える。
「わたしもよ」。ちづるは釘にやすりをかけている。彼女はなかなかの戦略家で、釘刺しは力じゃないことを教えてくれる。
「わしもじゃ。定員オーバーだっていわれたよ」。龍野進さんが審判をしながらいった。
「いまは誰が勝っているの」とヒロシが聞く。
「気になるかヒロシ。だれが挑戦してくるのか」
「そう言うわけじゃないけどさ」
「いま準決勝だ。これまでは人数がおおかったせいもあって、名前までは出ていなかったんだけど、ニョライだってさ」
「まさか、薬師さんじゃないよな」
「わからない」
「相手はだれなんだい」
「伊原って、男子」
「いはらー!?」
「知っているのか」
「いや、セフェのセキュリティ担当者と同じ名前だ」
「まさか、自分の会社のイベントに参加はしないだろう」
 薬師さんに送ったクラス便りが読まれたのかどうかもわからなかった。でも、その後、いたずらメールは送られてこない。クラスにも平和が戻った。相変わらずタヌキは「ガッツだガッツ」を口にするが、クラスが壊れる前に比べると確実にその回数は減っている。なにせ、当初は、約束が果たされるかどうか、クラス委員が回数を記録したのだ。壊れる前の回数は、授業参観のビデオからカウントした。いまでは、三分の一にまで減った。最初は、タヌキは「ガッ」といいかけて慌てて口を押さえることもあった。おまけに、その言葉を飲みこむものだから、しばらくすると「げふっ」とおくびを出すのには笑った。それもいまでは減った。だけど、あるときタヌキがぽつりとつぶやいた。
「ガッツだガッツてのは親父の口癖なんだよな。最近さ、家で親父を見ていると、ほんとうにのべつくまなく言ってるんだ。うちは蕎麦屋なんだけどさ、お客さんの注文を受けるだろう、そうするとさ『天ぷらそばいっちょう。ガッツだガッツ』。出前の電話を受けたあともさ『2丁目の鈴木さん。たぬきとおかめうどんだ、ガッツだガッツ』。お客さんが帰るときにもさ『毎度あり。ガッツだガッツ』てな具合なんだよ。たしかにあれは、うっとしいね。きみたちの気持ちがよくわかるようになった」。

テロリスト崩壊
|目次|

ついに決勝戦だ。もし勝ったら、いや絶対に勝って、TRON――ヒロシに挑んでやる。そして、ニョライがわたしだということを知らせてやろう。亜矢は机の引き出しからしまってあった釘をもって、ゲームフィールドに入っていこうとした。
 しかしその時、ディスプレイがピチピチとまたたいたかと思ったら、真っ暗になってしまった。
「なに? どうしたの」
 すると、メッセージが流れ始めた。
「薬師亜矢さん。いたずらはそろそろやめにしようじゃないか」
「だれなの」
 おもわず亜矢は叫んだ。すると、それが聞こえたかのように新しいメッセージが流れた。

きみはコンピュータを使って復讐しているのかもしれない。なんのための復讐かわからないけどね、フフ。きみは自分は神だと宣言したね。でもコンピュータがなければ何もできないじゃないか。道具に拘束される神様なんていやしないよ。もちろんコンピュータは神なんかじゃない。コンピュータに命令するのは人間さ。命令される神なんていやしない。ましてやコンピュータが人間を支配するなんてことは絶対にない。
 もしそうみえることがあれば、それは人間がそうなることを望んでいるからだろう。コンピュータの言うとおりに家を作り、道路を作り、料理を作り、メールを書く。だけど、それは考えることを放棄した一部の人間のやることさ。
 だいたい電源を切ったらおしまいの神様なんておかしいよ。コンピュータはいつも人間の後からついてくる、先に行くことなどありはしない。
 きみが地震騒ぎやミサイル騒ぎの犯人だ。わかっているんだよ、僕には。川辺小学校に対する攻撃も、ヒロシという子へのいたずらも、君がやったということもわかっているんだ。わかっている。
 地震騒ぎで何人の人が怪我をしたか、きみは知っているかい。70人だよ。死人が出てもおかしくない状況だった。きみはそんなつもりじゃなかったというかもしれない。でも、きみが神だというのなら、未来を予測できない神なんかいるだろうか。だからきみは神なんかじゃない。そう名乗る資格もない。自分でやったことの責任をとることのできない神なんておかしいよ。
 きみがどういうつもりでこのいたずらを始めたのかわからない。おそらくは、学校でのいじめあたりが発端かもしれない。父親が刑務所に入ったことで、冷たくなった世の中に対する反抗だったかもしれない。どちらにせよ、ぼくには関係のないことだし、理由を知ったところで、きみを許しやしない。
 怪我をした人たちに対してきみは、世の中が悪いから、きみを取り巻くちっぽけな世界がきみに悪意を抱いたから、あなたたちを怪我させたと説明ができるのかい。怪我をした人は、きみに対して何一つ悪いことなどしていないじゃないか。
 説明できるのならばぜひ聞きたいものだ。
 もういたずらはやめなさい。さもないと、君の端末を破壊する。データはバックアップしてあるだろう。そうだとしても、同じことだよ。ぼくからは逃げられない。透明人間なんていないのさ。かならず見つけだしてあげる。ほんとうだよ。なぜならばボクこそが神だからだ。今日は警告じゃない。忠告だ。

「ふざけたことをいわないで」と、亜矢は流れてくる文字に目を釘づけにされながら、わめいた。流れてくる文字をなんとか消そうと思ったが、消えなかった。しかたなく電源を落として再起動した。するとまた文字が流れる。
「何度やってもむださ。悪あがきをするときみの端末は壊れるよ。ほらこのファイルが消えていく」
 メッセージが名指ししたファイルが消えた。デスクトップのゴミ箱に入ることもなくいきなり完全に消去された。
 亜矢は、自分の世界――思い通りになる楽園を汚されたことに我慢がならなかった。
     @
「伊原、あらわれたかあいつは」
「いや、ゲームフィールドにはあらわれない。いまごろ、パソコンを再起動したり、バックアップを復元したり大騒ぎだろう」
「ウイルスを見つけられたりしないか」
「だれにいっているんだい。そりゃウイルスは見つかるさ。でもね、その時は遅いのさ。ウイルスはバックアップファイルにも感染している。だいじょうぶ。ぼくは亜矢の端末にはいっているケタウイルスに寄生したんだ。見破られる心配はない。自分のパソコンで飼っているウイルスにやられるなんて考えてもみないだろう」
     @
 亜矢のパソコンは、起動はするがなにかアプリを動かそうとすると、メッセージがでてくる。おまけにパソコンを立ちあげるたびにこのウイルスは、パソコンの中のデータを少しずつ食べていった。
 地震騒ぎを引き起こした偽新聞や配送先のリスト、偽雑誌記事、ヒロシへのメール、川辺小学校の休校通知……。自分が神であることを証明できるものが次々と消えていく。亜矢はパニックになった。
「やめて!」
 頭を抱える亜矢を笑うかのようにケタウイルスが笑い出した。ケタケタケタ……。
     @
「それで最後はどうなる?」
「どこまでしつこく再起動するかだな。再起動するたびに、大切なファイルが消えていく。いまごろはほとんどなくなっているんじゃないか」
「そんなことしたら証拠がなくなるぞ」
「いいんだ。ぼくは警察官じゃない」
「それでも続けたら?」
「再起動でだめならば、おそらくバックアップファイルから復元しようとするだろうな。ゲームの期間を一ヵ月としたのにはそれなりの理由があるんだ。ハッカーをするような奴は、こまめにバックアップをする。一ヵ月あれば、CDROMなどの外部の記憶媒体にも書きこむ可能性が高い。内部のハードディスクにあるバックアップは、俺のウイルスが自分でさがして感染する」
「おそろいやつだな、おまえ」
「逃がしゃしない。紀香ちゃんをいじめた罰だ」
     @
 再起動では修復できないことを悟った亜矢は、バックアップから復元することにした。
 バックアップファイルを復元して、端末をたちあげると、「まだ懲りないの。いたずらはやめなさい。本当に破壊するよ。これは警告だ」というメッセージがながれてきた。
「なんてこと、バックアップファイルの中にまで入りこむなんて」
 亜矢は背筋に寒いものを感じた。ディスプレイの向こうから、だれかに見られている、そんな気分だった。消えてしまいたかったが、透明人間になる魔法は切れていた。
 それでもあきらめきれない亜矢は、もうひとつ古いバックアップから復旧することにした。これで最後にしようと亜矢は思った。このウイルスはただものじゃない。退治することはできない。コンピュータが立ちあがった。祈るようにしていた亜矢が顔を挙げてディスプレイを見つめた。
「きみは良く戦った。伊原」
 メッセージが出た瞬間、バックアップファイルが消去された。つづけて、ハードディスクのフォーマットが始まっていた。亜矢の手許にはもうバックアップは残っていない。すべては消えてしまった。
 もうおしまいだ――。亜矢はそう感じた。伊原って誰? どこかで見た名前。そうだ、釘刺しゲームの準決勝を戦った男子だ。でも、なぜ?
 亜矢が負けを認めるのにさして時間がかからなかった。といっても、ここまでの10回近い再起動やバックアップの復元に要した時間は、数時間である。亜矢は、まっさらになってしまったコンピュータを呆然と見つめながら自分もフォーマットされたことを自覚した。
 そして、その日の夜、母親に付き添われて、警察に出頭した。
     @
警察では、亜矢の供述を聞いておどろいた。すぐに自宅のパソコンなどが押収されたが、なにも見つからなかった。亜矢がハッカーで刑務所に入っている男の娘であることも衝撃を与えた。
 地震騒動を引き起こしたサーバーテロの犯人が小学6年生だったことに社会は驚いた。マスコミは「親子2代のハッカー稼業」「父親の復讐か?」などと遠慮なく書きたてた。子どもの名前を伏せるというルールは無視されたも同然だった。ある評論家は6年生の犯罪の原因をバーチャルスクールにおけるリアルな人間関係の欠如に求め、あるものは、家庭に理由を求めた。そして、そろって、この種の犯罪はこれからも増えると得々と予言した。
 地震騒動で怪我をした人は、怒りをどこにもっていっていいのかわからずに、教育を責め、そして、国を非難した。バーチャルスクールなどをつくり、コンピュータネットワークが作り出す世界でゲーム感覚で生きるような子どもを作り出した国に賠償を求めるというのだ。
 教育現場の人々はその非難は見当違いだと反論した。そうした子供を作り出したのは、コンピュータではない。コンピュータ・ネットワークが作り出す世界は、現実のものであって、決して仮想空間などではないことを子供たちは充分に認識している。今回の事件は、肉体的、精神的に人を傷つけることが悪いことだという善悪の判断のスタンダードを教えられなかった家庭にこそ問題がある。善悪を教えるのは、子供をこの世に生み出した親の責任だ。学校教育の責任は、社会の要請に沿う知識を持った子供たちを世の中に送り出すことにあるのだ。それが20世紀の後半から、学校に行くことが目的化して、学校にいけば、すべてが済むということになってしまった。教育は学校の外にもあるということが忘れられてしまった。箸の持ち方、礼儀作法を教えるのは、学校ではなく、子供の親の責任だ――と反論を展開した。
 そのころ亜矢は警察で素直に自白していたが、証拠が何もなかった。
 地震の犯人が補導されたニュースに世間が騒然となっている頃、もうひとつのニュースがネットの世界に衝撃をおこした。伊原の引退である。そして、その理由を知った人々はさらに驚いた。ネットの世界の住民はさすが伊原と、伝説の伊原の活躍を目の当たりにすることができて幸せな気分に浸っていた。しかし、警察はそんな余裕はなかった。
 警察は伊原に事情を聞きたがったが、伊原は証言を拒否した。理由は自分の行為はハッキングだから、証言することは自分の罪の自白となり不利になるからと言ってのけた。警察は激怒したが、伊原は口を閉じたままネットの世界を去った。
 亜矢の逮捕は、しばらく児童心理学者や教育評論家の生活を潤わせただけに終わり、やがて忘れられた。
     @
h0 やぁ、のりさん。久しぶり。元気かい。
h1 元気だよ。そっちこそ、ご活躍じゃないか伊原君。伝説のハッカーの新たなる伝説!
h0 冗談よしてよ。もう僕は引退したんだよ。
h1 しかし、なつかしいハンドル名だ。10年以上も前に戻った気分だよ。まだ生きていたとは驚きだよ。
h0 あぁ、いつか同窓会でもあることがあるかなっておもってさ。

ここはMAHOROBAシティのチャットルーム。h1はヒロシのお父さん、h0は昨日までセフェネットのセキュリティ担当者だった伊原だ。hはハッカーのh――、むかし、みんなでハッカーをやっていた頃、参加順につけたハンドル名だ。あのころはh13までいたメンバーもいまでは、誰も残っていない。

h0 のりさんも知っての通り、おれさ、失業しちゃったから、また昔みたいに遊んでくれないかな。
h1 お安いご用だ。最近思いついたアイデアがあるんだ。伊原の腕を借りられれば百人いや千人力だ。あのさ、電子そろばんを作ろうぜ。そろばん型の端末をはじくいて計算をする。読み上げは端末がやる。なぁ、おもしろいだろう。名前も考えてあるんだ。つまはじき どう?
 もうひとつある。習字練習パッドってのはどうだ。毛筆型の端末で高感度パッドに字を書くと、ディスプレイに字が表示されて、添削してくれるんだ。名前も考えてある。電子修二君っていうんだ。
h0 ノリさん。相変わらずだね。一〇年前とちっとも変わってない。いいよ、さっそくプログラムを書いてみる。機械のほうはノリさんに頼む。おれは頭脳労働者なんだ。
h1 君も相変わらず口が減らないね。まぁ、楽しくやろうぜ。
h0 ノリさん。あの娘はどうなったか知っているかい。お宅の息子さんと同じ学校だったんだろう。
h1 クラスも同じだったんだ。あの子の父親、薬師啓示がつかまっときにはびっくりしたよ。10年以上も前、パソコンにかじりついていた自分の姿が目の前をよぎったくらいだ。やったことは誉められないけど、鷹の子供は鷹だ。なかなか鮮やかな手並みだったんじゃないか。
h0 古臭い手法を駆使したわりには効果絶大だった。
h1 話がずれちまった。あの娘は元気だ。知っての通り、だれかさんのおかげで証拠不充分で不起訴。社会と関係を絶つことが良くないと判断されたんだろうな、川辺小学校に戻ることになった。
h0 そうか。また透明人間になれるんだね。
h1 そういうことだ。
h0 ところでさ、むすこのヒロシ君をおれにあずけてくれないかな。いいハッカーに育てるよ。
h1 残念だったな。ヒロシにはすでに予約が入ってるんだ。
     @
あっというまに、さわやかな季節は過ぎて、西日本は梅雨にはいったという。ネットワーク社会だろうが、季節は巡ってくる。町の緑はすっかり濃くなった。
 日曜日のこの日、ヒロシたちは東京湾に作られた人工渚に遊びにきていた。5年ほど前までは、この渚も温暖化による海水面上昇で世界初の人工海底になると悲しい笑い話にされていた。しかし、ネットワーク社会の到来が、温暖化に歯止めをかけた。この21世紀にはいってからの10年で、日本だけでなく世界中でネットワーク化がすすんだ。それは世界の大国が戦略物資として、ネットワーク敷設を援助合戦をしたことに要因がある。しかし、気がついてみると、温暖化がとまっていたのだ。完全にとまったわけではないが、進行の速度が急激に落ちた。
 地球上のほぼすべてがネットワークされた現代は、前世紀の終わりに比べてエネルギーの消費量が5パーセント減ったという報告もある。
「とにかく、人がむやみに動かなくなることが、エネルギーの消費をおさえる手段なんだから」と、くるぶしまで海に浸しながら未来人はいう。さわさわと足を洗う海水はぬるい。汀では、子供たちがパンツ姿で砂をほじくり返している。
「自宅で仕事していれば、オフィスを冷やす必要もなくなる。電車やバスも本数が減らせる。タクシーだって少なくなる。電気自動車化して黒鉛を上げて走るトラックはなくなり、おまけに連結型トラックトレインがみとめられているから、輸送コストとエネルギーが減ったから、温暖化も鈍ったというわけさ」
 未来人の言うように、ネットワークだけでなく、人々のエネルギー節約意識があったことも貢献した。太陽発電や風力発電などのさまざまなエネルギーが開発されこともある。いまでは、各家庭が使う電力のうち3分の一は自宅の屋根の太陽発電パネルや、風車発電でまかなわれている。人によっては、トイレや風呂の排水を流す時の水力を使って電気を起こしている人もいる。微々たる電力だが、一年三年と長い目で見るととんでもない節約になるのだ。
「デジタル化が一番貢献したのはその分野だよ。日本は、いまでは世界的にも先端を行く低エネルギー国だ」
 もともとエネルギー資源の乏しいわりに世界中のエネルギーを消費していた日本は、ある時そうした方向に走り始めた。人口が減りつつあったこと、老齢化が進んでいたことも、そうした転換をたやすくしたようだ。
「おーいおまえら、サボってないで手伝え!」
 啓介がバーベキューの準備をしながらわめいた。
「あいつだけは、省エネルギーじゃない」
「わりぃわりぃ。あんまり気持ち良くてさ。ついぼーっとしちゃったんだよ。それにしても大人たちはどうしたのさ」
 きょうはヒロシの家族、啓介や未来人、それにちづるの家族もみんなきていた。タマさんも龍野進さんも参加している。それに、薬師亜矢さんとおかあさんも来ている。伊原さんもきていた。
 伊原さんとヒロシのお父さんはそろばんがどうしたこうしたと話している。未来人や啓介のお父さんは、缶ビール片手に、伝説のハッカーの話を興味深そうに聞いている。タマさんと龍野進さんは砂浜で釘刺しをしている。そのわきで、楓子と敦司君がせっせと砂の山を作っている。ヒロシのお母さんや啓介のおかあさんたちも一ヵ所に集まってビールやワインを飲んで楽しそうに話している。どうやらバーベキューと格闘していたのは、啓介と如来、そしてちづるだけだったようだ。
「ねぇヒロシ君。明日からまた川辺小学校にいくことになったの」
「そう。よかったね」
「でも、ちょっとこわいんだ」
 薬師さんがバーベキューの串にピーマンとトウモロコシを刺しながら話しかけてきた。

「なにがさ」
「それがさ、また透明人間になったらどうしよぉー、なんていってやがんだこいつ。おまけに、あのクラス便りは未来人が書いたっていっても信じないんだ。あんな単細胞な文章は俺にしか書けないんだとよ。ほんと頭くるぜ、こいつ。おい、未来人いってやってくれよ、あれはおまえが書いたんだよな」
「あぁ僕が書いた、啓介に成りすましてね」
 未来人が如来にウインクしながらそういうと、啓介が足で砂をけって、未来人に浴びせかけた。
「如来はおとなしいから、また透明人間になるかもしれないね。それでもいいじゃないか、それがきみなんだから。ぼくらは全然気にしない。もし、君自身が透明人間でいるのがつらいのなら、やめればいいさ。ぼくらはいつでもそばにいるんだから、声をかけてよ。きみが透明人間になったのは君がそうしたいからなんだろう。それを無理やり、ペンキをかけて透明じゃなくするつもりは僕らにはないんだよ」
「わかったわ。あぁ、お日様って気持ちいいのね」
 ついに啓介と未来人は海に入って水を掛け合っている。如来が未来人に加勢して、啓介に水をかけ始めた。三人の楽しそうな雰囲気につられて楓子と敦司君も水しぶきをあげはじめた。しぶきは太陽の光を受けてひとつひとつがガラスのように輝き、一瞬、空中にとどまって、ワラワラと落ちていく。
「ねぇヒロシ君」
「なにさ、ちづる」
「あれ、亜矢さんのときとは声が違うのね。なんだかやさしくないなぁ」
「そっちこそ、妙になれなれしかったりして、最近おかしいぞ」といってやりたかったけど、やめにした。
「みなさーん。コンロに集合。はやくこないと炭になっちゃうよ」(完)




5号店メニュー