東慶寺1997.12.19
小春日和の一日、私の住む横浜からはとても近い鎌倉へぶらっとお散歩(笑)に行ってきました。横浜から横須賀線の電車、進行方向の一番前の車両に乗って(北鎌倉は、一番前がいいのです。)20分くらいで「北鎌倉」に着きます。平日ということもあり、また紅葉が終わって人出も落ちついたようで、静かな風景でした。北鎌倉の駅に着いたら、線路を渡って券売機のある通常の改札口へ。
鎌倉街道を鎌倉駅方向へ3分ほど歩くと、右手に東慶寺というお寺があります。まさしさんの歌に「縁切り寺」と歌われている寺です。小さいけれど急な石段を上がり、かつての尼寺の名残か奥ゆかしい作りの山門を入ると「東慶寺」の寺内が開けます。一筋の参道がまっすぐに山に向かっていて、花畑とそのずっと奥に墓地がつづく谷深い寺です。
東慶寺は大きな寺ではありませんが、鎌倉屈指の「花の寺」としても有名で、春から秋まではたくさんの花がつぎつぎに咲いて目を楽しませてくれます。
しかし、今は花の無い時期です。それでも水仙の花が咲き、十月桜(冬桜)がはかなげにひとつふたつ花を残していました。目を惹いたのは、「蝋梅」です。1本の蝋梅の木に黄色い小花がたくさん咲いていました。その花びらが、蝋細工のように美しいので蝋梅と言われるそうです。そして早春に咲く紅梅と白梅の老木には、早くも固い蕾が宿っていました。
しかしこの寺、なぜ「縁切り寺」と呼ばれるかをご存知ですか。1285年(弘安8年)に北条時宗夫人であった覚山尼が開祖となり、創建されました。そのときに夫の横暴や姑の嫁いびりに苦しむ女性を救済しようと、「縁切寺法」を定めたのが始まりだったようです。縁切りを望む女性が山門に一歩でも足を踏み入れると、夫はもちろん、権力者さえも手出しできなかったとか。そして3年間修業を積むと、女性から縁をきることができたのです。当時、女性から離縁するというのは、命懸けだったのですね。今では考えられないことです(笑)
本堂(泰平殿)には、享年37歳で波乱の運命を終えた天秀尼がまつられています。鎌倉の歴史にゆかりの女人として数えられている第二十代住持天秀尼は、豊臣秀頼の娘でしたが、6歳の時大阪夏の陣で父秀頼を徳川家に殺されました。それから継母で仇でもある徳川秀忠の娘千姫に引き取られ、その後東慶寺に預けられました。封建制度の中で虐げられていた多くの女性達を救うことに力を注ぎ、惜しまれながら1645年この世を去りました。
さて、「東慶寺」の様子に話を戻しましょう。
まるで散らかしたように紅葉が散る本堂で手を合わせ、振り向きざまに私の目を奪ったのは、冬を迎えようとしている山のたたずまいでした。紅葉のシーズンは終わったとはいえ、山はまだ紅く彩られていて、じっとそこに佇んでしばらく眺めていたいと思わせる風景でした。
本堂を出て、左手に四季の花々を咲かせる花畑を見ながら、(紫式部が綺麗でした。)山に向かって歩くとすぐに、松ヶ丘宝蔵があります。ここの前に蝋梅の木があるのです。そしてさらに歩いて行くと、墓地になります。今は枯れていますが「岩煙草」の花が山肌に咲く夏は、どんな趣なのでしょう。
覚山尼、天秀尼をはじめ歴代の名尼、後醍醐天皇皇女の用堂尼の墓所にははりつめているような霊気があります。あきらかにそこだけ、空気が違い畏怖の念を感じる場所です。また東慶寺は著名な文人の墓も多く、西田幾多郎、太田水穂、和辻哲郎、高見順、小林秀雄、田村俊子さん等の墓があります。
鳶が笛のような鳴き声でゆっくりと輪を描いて低く飛び、枯れ始めた木の葉が風にパラパラと音を立てて落ちる様は、「あはれ」を感じます。墓所を巡り山の景色を楽しんだら、来た道を戻ります。山門横には藁葺きの鐘楼があり、受け所(入る時に拝観料を払う所)でバラ売りの絵葉書を買いました。「花の寺」らしく花をテーマにした美しい絵葉書ばかりです。
そんなこんなで、「縁切り寺」でたっぷり1時間半を費やし、帰途につきましたが、紅葉が終わり人の気配が少なくなった初冬の東慶寺は、また格別な趣でした。
冬桜薄爪色に咲き残り溜息ともに吾を忘れん
もう二度と晴れては逢えぬ人ゆえに尚更愛し宵待ちの花
梅が枝の固き蕾に懸想文引き結ぶ吾れ春待ちわびて