市川散歩〜「本」を片手に〜

訪ねてみたいと思いながら、意外に近いために機会を逃していた町のひとつに千葉県市川市がありました。(横浜からは、総武線で約1時間)ご存知のように、まさしさんが約十年前まで住んでおられたところです。現在もご両親が、お住まいになっていらっしゃいます。
JR市川駅北口で、市川に縁あるみすずさんと待ち合わせ。今日の観光ガイドをお願いしました(笑)。ガイドブック代わりに、懐かしい「本」(昭和51年、八曜社出版)を持って行きました。
北口前の歩道を渡ると、目のまえに第一勧銀が。昔、ここに勤めていたある人から聞いた話ですが、まさしさんはよくここに来ておられたそうです。ちょうど繁理さんが留学をしていた頃で、まさしさんが学費や生活費を送金していたらしいです。まさしさん好みの美人の行員さんがいたそうで、その人が目当てで足しげく来ていたんじゃないかという話もあります(笑)

国道14号の横断歩道を渡って右折し、道沿いに15分ぐらい歩くと、左手に知る人ぞ知る(笑)胡録神社がありました。小さな神社です。せっかくだからお参りしたかったのですが、お社のまん前の日陰で、おじさんが2人、お昼休みの涼を取っているのか、お昼寝中だったので遠慮しました(A^^;) 
アルバム「帰去来」のジャケ写はどのあたりか探したのですが、どこもそれらしくありまたどれも違うように思えました。(いちおう写真は取りましたが。)二十数年前の写真ですから、仕方ないですね。ご存知の方、いらっしゃったら教えてください。
そこから京成線の市川真間駅方向へ向かい、伝説の美女・「真間の手児奈」に縁の手児奈霊堂、手児奈神社、真間の「継橋」を訪ねました。(胡録神社に寄らずに、市川駅からすぐに手児奈堂に向かうなら、北口を出て最初の信号(国道14号)で左折し、すぐ右ある「日蓮宗真間弘法寺参道」(碑がある)を入り徒歩で約10分だそうです。)

市川という所は、実に古い良い町で、名所旧跡、ちょっとあげてみてもわかってもらえると思うが、一日やそこいらの時間は、軽くつぶせるのである。
まず、万葉は柿本人麻呂でおなじみの「真間の手児奈」の手児奈堂。あまりに美しすぎた為に、若い男どうしで彼女の奪い合いが激しく、ついに死人まで出るに至ったから「皆、私がいるせいだわ」と、よく考えれば最高の自惚れの辞を述べて、井戸に身を投げたという手児奈の霊堂。
有名な真間の継橋も、長崎の思案橋と同じく、近頃作った手摺(らんかん)だけ残っとります。(「本」〜ポップコーンの効用・前編)


真間川にはたくさん橋がかかっています。私達が渡ったのは、まだ新しい手児奈橋(だったと思います)でしたが、珍しい十字の橋や江戸風情のある木の橋もあるので、橋めぐりをしながら真間川沿いを歩くのも面白いかもしれません。ただ残念なことに、おせじにもきれいな川とは言えないです(A^^;) 
しばらく進むと「継橋」があります。ほんとに欄干だけしかなく(A^^;)、川とも言えない小さな溝があるだけでした。脇に
みな人を渡しはてむとせしほどに我身はもとの真間の継橋(日蓮聖人)
足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ(「万葉集」歌詠み知らず)
と刻まれたふたつの石碑がありました。ほかにも、道沿いにところどころに和歌がに書かれていますが、くずし字なので判読は難しいです(A^^;)
真間の名は、万葉集に由来しているそうですが、昔は入り江であったとか。その入り江に、手児奈姫が入水自殺したとされています。万葉の時代、このあたりまで海だったということでしょうけれど、なぜ入り江に橋があったのか?少々疑問が残ります(A^^;) 
(「手児奈俳句ポスト」(小さな木製ポスト)があり、ポストの下の引きだしから投票用紙をもらってきました。)

  継橋を渡ると、すぐ右に「手児奈霊堂」が有ります。絶世の美女・手児奈については、地元有力者の娘、巫女などの諸説があるようですが、そのあまりの美しさに妻にしたいと望む男性が争った為、心優しい手児奈は、真間の入り江に身を投げて死んでしまったと言い伝えられています。
万葉集 巻第九 挽歌 (1807−1808)高橋虫麻呂の歌に、「ただ麻だけ着て髪も梳かさず、裸足で歩いている娘であったが、どんな娘も彼女にはかなわない。その顔は花のように美しく、微笑むと、夏虫が火に入るように船が港に集まるように、世の男たちが求婚した。"人のいふ時 いくばくも 生けらじものを"(人はいつまでも生きてはいられないものなのに・・・)と身をたしなめ、この入り江に身を投げた」と詠まれています。
有名なものとして、山部赤人のつぎのような歌もあります。
吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が奥津城処
(奥津城処とは墓所のこと。)
この歌は返歌の一部分ですが、赤人の感想として「私も見ましたよ。人にも話して聞かせましょう。葛飾の真間の手児奈の墓所を」と歌っています。

霊堂に向かって左側に、中ぐらいの桂の木があります。ハート型の葉っぱが可愛くて好きです。名前を書いた札がなくなってしまっていますが、実はこの木、まさしさんが植えられたものなのです。それにしても、なんで「カツラ」の木にしたんでしょう(爆) 青々と繁っていて、ほっとしました(A^^;)

霊堂の右脇には、手児奈が身を投げた入り江の名残の「じゅんさい池」という池がありましたが、蓮や雑草が生い茂っていました。すぐそばに鳥居があり、池を中心にして向こう側は神社でした。
美人薄命だった手児奈ですが、文亀元年(1501)より「良縁成就」「孝子受胎」「無事安産」「健児育成」の女神としてまつられています。(参考までに、4月8,9日は春季大祭、7月土用丑の日はほうろく加持、10月8,9日に秋季大祭、10月10日にはおんな祭りの行事があります。)
あとで聞き知ったのですが、霊堂には浄清菩薩像があるそうで、(大事に思う人の)具合の悪いところを治す願掛けとして、菩薩像の同じ場所をタワシで磨くとよいそうです。
また近くの商店街には、手児奈姫伝説にちなんだ和菓子「手児奈太鼓(饅頭)」や「手児奈ちまき(餡を求肥で柔らかく包んだお菓子)」が販売されているそうですよ。

手児奈霊堂の入り口へ戻り、次は日蓮宗「真間山弘法寺(くぼうじ)」へ。弘法寺は、天平9年(737)に行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が、この地を訪れた際に手児奈姫の哀話をお聞きになり、その霊を弔うために「求法寺(ぐほうじ)」と称して開山されたのが始まりだそうです。それから百年後の平安時代、弘仁13年(822)に弘法大師が七堂伽藍に再建された際に「弘法寺」と改称されたそうです。

お隣の真間山弘法寺は、昔よく矢車剣之助のテレビ・ロケとか、隠密剣士のロケをやった所。
このお寺さんの石段に「夜泣き石」というのがありますな。一晩で石段を積み上げろといわれた武士が、必死で頑張って、あと一段になった時、悪い奴がわざと一番鳥を鳴かせた為、かの武士は、約束果たせずと、石段に座して切腹した。そこでそれ以来、その武士が腹を切った所の石段だけが、どんな晴れた日でも朝になると、武士の涙でしっとりとぬれるという話。(「本」〜ポップコーンの効用・前編)

「涙石」(夜泣き石)は、正面階段下から27番目の左側にあります。写真ではちょっと分かりづらいですが、涙石の部分だけ変色しへこんでいます。近づいてみると確かに、その石だけは湿り気があり苔もありました。不思議ですね。
弘法寺のしおりに書かれていた「涙石」の由来は、まさしさんが書かれたのとは違っていました(A^^;)
「江戸時代、作事奉行であった鈴木長頼が、日光東照宮の造営のために使う石材を伊豆から海を越え江戸川を通って運ぶ途中、市川の根本付近にさしかかったとき、どうしたことか船が全く動かなくなってしまいました。そこで長頼は、弘法寺に仏縁あり、と思い、石を国府台のふもとに降ろし、当山の石段に使用してしまったのです。そのために長頼は幕府から責任を問われ、涙ながらに当山の割腹して果てました。それからというもの、石段の一つはいつも濡れており、これはこの時に流した長頼の血と涙であると言い伝えられております。」と書かれていました。
出会った小学校低学年ぐらいの女の子が「涙石のある段は、踏んじゃいけないんだよ」と言うので、手すりを掴んで一段飛ばしで上りました(笑)

石段を登ると、かなりふるびた「仁王門」がありました。さびれた寺という思いこみで、門をくぐると真新しい客殿、本殿が見え、あまりに対称的なので驚いてしまいました(A^^;) 
昔からの古い寺であることは、木々の太さ、高さからも察することができます。境内の真ん中に、「伏姫桜」と呼ばれる大きな桜の木がありました。桜の時期の写真を、某所のHPで拝見したことがありますが、写真で見ても息を飲むほど美しかったです。次はぜひ、花満開の伏姫桜を見たいと思いました。
そのほかに、寂光土観音菩薩、太刀大黒天神、本堂に真間の釈迦仏、四大菩薩、四大天王像があります。市川駅から徒歩15分ですが、松戸行きのバスで「真間山下」下車、徒歩2分だそうです。

ベンチでしばらく休憩したあと、須和田公園へ行きました。ここは、「噺歌集5」に名前がちょこっと出てくるだけの公園なんですが、ちょっと見てみたかった場所でした(笑)(公園の写真は、すけっちぶっく番外編にあります。)
まさしさんは「真っ暗な公園」と書いておられましたが、まあ明るい公園ではなかったですが、真っ暗というほどでもなかったです。まさしさんは、夜にここを歩かれたのかなぁ?それとも、当時は木がうっそうとした公園だったのかも知れませんね。最近は、防犯上、木を切ってしまうことが多いですし。
思っていたよりも大きな公園で、須和田遺跡(たて穴式住居跡)や慰霊碑などもありました。噺歌集には「国分の方へギターを持って歩いて帰る途中」とありましたが、国分に下宿があった頃のことでしょうか。しかし、「一万円札でも拾わないかな」なんて思っていたら拾ってしまうなんて、スゴイです(笑)

市川に別れを告げ、京成線青砥駅へ。「本」に出てきた駅前の「京成名画座」探しました。まさしさんが高校1年生の時に、週に1度は学校を辞退して、名画座に出席していたという映画館です(笑)
30年以上も前の話ですから、映画館自体が存在しないとこも覚悟はしていましたが、駅前を見渡しても映画上映の看板すらありません。交番で聞くと「昔はあったんですけど、今、その場所は「京成不動産」になってます」と教えてくれました。

この京成青砥駅前に「京成名画座」というのがある。「名画座」と名の付く映画館のほとんどがそうであるように、この「京成名画座」も、リバイバル専門に安く見せてくれる、正義の味方館様であった。(「本」〜ポップコーンの効用・前編)

京成不動産は、ほんとに駅前にありましたよ。よく見ると、もと映画館の建物だったことがわかります。まだ新しい方の建物だったので、まさしさんが通っていた(笑)頃から、少なくても一度は改装したのでしょうね。
古い名画座の建物があることに期待していなかっただけに、閉館になっていたけど名残りだけでも見られて満足しました。取り壊しになっていなかったのが、幸いでしたね。
当時は、百円で二本立て。まさしさんが京成名画座で初めて見た映画は、「シベールの日曜日」だったと書いておられます。感動して、その日に3回も見たのが映画館通いのきっかけだったとか。今でも大好きだといわれる喜劇「グレート・レース」を見たのも、ここだったんでしょうか。

4時間ほどの市川散歩。なかなかにコユかったです(笑) みすずさん、ありがとうございました。
この次の市川散歩コースも、ほぼ決まりましたよ(笑) できれば桜の季節に、(まさしさん曰く)「愛の江戸川っぷち」を歩きたいです!ご一緒にいかがですか?(^^)
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