背景:Bfoxさん

鳥 辺 野

〜そこここに散りばめたはずの 真実までかすませて〜

収録アルバム:うつろひ
発売日:1981.6.25

鳥辺野は京都の東山に位置し、どこからどこまでが鳥辺野という境界線はないようです。詳しい年代はわかりませんが、鳥辺野は昔、 死骸を捨て風葬にした場所です。つまりはその場所自体が墓場であるということ。 おのずと昔から人けの少なく閑かな場所なのでしょう。京都市内を中心にして、鳥辺野とはほぼ対角線側の化野(化野念仏堂)は 有名ですが、鳥辺野は地元の人にも馴染み薄い場所のようです。
こういう場所はたいてい忌まれる所なのですが、まさしさんはすっかり気に入って何度となく訪れたことがあるそうです。 まさしさんが好んで歩いた鳥辺野は、今熊野の剣神社から泉涌寺までの山道。近くに「東福寺」という大きなお寺があり、 「洛南」と呼ばれる地域です。

いわれある場所をひとり訪ね来たのには、特別な想いがありますよね。どうすることもできない自分自身の気持ちを見つめるため でしょうか。自らの手で、あえて傷をひろげて見なければいられない、そんな不器用な存在証明なのかも。
『春先、山道を登れば、椿の花弁が紅い血をまいた如くに散る場所があります。-(中略)- 冬は古く色の 変った石の道標や、ぽつりぽつりと立つ墓標が悲しく静まりかえっています。徒歩で三十分足らずで抜けられるこの山道は自分が 存在する現在、という時間を超越して時折、おどかす様に精一杯静まりかえっているのです。』 (「「うつろい」ライナーノーツより)

まだじゅうぶんに美しいのにぽとりと落ちてしまう椿は、ほんとうに散り急いでいるように感じます。花弁がはらはらと散る 種類もあり、春まだ浅く色味の少ない深山で、紅い花びらの散っているさまは、そこだけ特別の場所のように 感じていまいますね。まるで心が血を流しているように。
「淋しい風景」という言い回しはよくありますが、「風景が淋しがっている」とは面白い表現です。時々、賑やかな街中に いるのは身の置き所がなくてつらくなります。道ゆく人がみな幸せそうに見えて、自分ひとりだけが 悲しい想いを抱えているように思えて、どこにも歩いていけない気がして立ちすくんでしまいそうになります。 そんなときは淋しい風景に身を置いて同化するほうが、確かに救われるように思います。

かつて陽の光を浴びて生き生きとしていた葉が落ちて、やがて静かに息絶えるままに朽ちていく。たくさんの枯れ葉のように、 たくさんの想い出が、今死んでいく。確かにあなたを愛したのに、永遠に愛すると誓ったのに、ふたりで過ごした日々の真実さえ 霞がかかったように見えなくなって、やがて忘れられていくのでしょう。哀しいけれど。昔この場所に死骸が捨てられたように、 投げ捨てるように置いていかれた想い。(「姥捨山」と似ていますね。)決して、自分がそう望んだわけではないのに。 愛すれば愛するほど、心の傷のなんと深いことでしょう。

人の心移ろい易く その傷癒え難く
 立ち止まって うろたえるは  愛と同じ重さの 悲しみ