大宰府政庁(都府楼)跡

古くから都府楼の名で知られてきたこの地域は、日本書紀によれば、天智二年(663年) 唐・新羅の連合軍と白村江において百済と共に戦って大敗した我が国が、大陸からの侵攻 に備え、博多の那ノ津(当時は官家と呼ばれ、現在の福岡市大橋附近と想定されている所) にあった大宰の府(九州一円の統治の拠点であると共に、対外交渉を掌る役所)を移した ところである。
大宰府をこの地に置くと同時に、百済からの亡命者の指導により北面の四王寺山に大野城、 南面の基山に基肄城(きいじょう)を、平野部には水城を築いて大宰府を防衛した。

その後、大宰府は一時廃止されて筑紫鎮西が設置されたが、すぐ復活し「此の府、人物殷 繁にして天下の一都会なり」と言われるほどの繁栄をみた。
十世紀中頃、藤原純友の乱の戦火で焼失する幾多の変遷を重ねながら、十三世紀頃まで九州 一円に対する権威を存続させていた。
大宰府は、平城京の都城制にならって南北二二条、東西二四坊の条坊制をしき、大宰府政庁 は方四町、大宰府学校院は方二町、観世音寺は方三町の規模があったと想定されている。

また、大宰府政庁の建物は正殿(柱間四間×七間)及び東西各二棟の脇殿、並びに中門 (二間×三間)、南門(二間×五間)それに正殿後方に北門(推定)、そしてこれらをか こむ回廊、築地で構成されていた。
なお、西側の丘には柱間三間×九間の規模をもった建物礎石があり、穀物、財物等を管理 する蔵司のあったところとされている。東側の月山と呼ばれる丘は、漏刻台(水時計)が置かれた場所と想定されている。

                           (特別史跡「大宰府跡」案内板より)