第152回サンプラザ オン ステージ
さだまさしアコースティックコンサート
中野サンプラザ 1999.9.29(水)18:00PM 開場 18:30PM 開演
1.案山子
2.雨やどり
3.線香花火
4.風の篝火
5.北の国から
6.秋桜
7.Pineapple hill
8.ムギ
9.佐世保
10.道〜花いちもんめ〜
11.桜散る
12.無縁坂
13.精霊流し
14.桜月夜
15.修二会
EC1.夢の夢
EC2.落日
GUITAR:石川鷹彦 MARIMBA:宅間久善
中野サンプラザ・アコステ感想(1999/9/29)
私にとって、初めてのアコースティック・コンサート。幕が上がったまま始まるコンサートも新鮮ですね。何の前触れもなしに下手から登場してきたまさしさん、ちょっとはにかむような笑顔。石川さんと宅間さんが後から登場。二人ともかなり照れくさそう(笑) まさしさんの衣装は、「長崎から」で着ていたグレーのライトス―ツ、インは同系色のTシャツ、グレーのスニーカーです。
「案山子」・・・いつだったか?「死ぬ前に聴きたい自分の歌を1曲選ぶとしたら?」(すごい質問ですね(A^^;))と訊かれて「無難なところで「案山子」かな」と答えていましたね。13歳で一人で長崎から出てきた寂しさは、いつまでも忘れられないことなんですね。
「こんばんは!さだまさしでございます。今日は、152回目の中野サンプラザ主催のコンサートにお招きいただきました。ゲストなんです。アコースティックコンサートと銘打っている今夜のコンサート、アンプラグド・・・つまり電気を使わない生楽器の演奏でお送りするコンサートです。こういうコンサートは初めての方もいらっしゃるでしょう。中には、さだの歌を生で聞くのが初めてという方もいらっしゃるでしょうか。
ちょっと調査をしてみたいと思います(笑) さだまさしのコンサートに今日はじめてにいらっしゃった方、拍手してください。あ〜結構いらっしゃいますね。歌い始めて26年になるんですが・・・中野区民にはまだまだ知られていない(A^^;) 2列目の双眼鏡、やめてください(笑) 毛穴まで見てどうするんですか。」
初めての方が多いのでビックリしましたσ(^^) でも、こうして初めての方が来てくださったこと、喜ばしいことですよね。まさしさんもまだまだイケル!(爆)
「今日「2時のホント」という番組に出てきたんですよ。どうして出たんだかわからないけど(笑)、以前から知合いのプロデューサーが「さださん、出てくださいよ」って言ってたんですけど。「だって、何もネタがないじゃない」って言ったら「さださん、本出したでしょ。それでいきましょう」って(笑) ええ、本の話は1分ぐらいだけでした(笑) ピーコさんが司会をやってる番組でして・・・古くからの付き合いなんですよ。昔、夜中の3時ぐらいまでおすぎとピーコと3人で飲んだことがありまして・・・おかまの話は面白いよ〜(笑) 永六輔さんが古くから応援していて貶さないのは、おすぎとピーコとさだまさし(笑)
先日久しぶりに生のラジオをやりました。最初ちょっと戸惑ったんですが、しばらくたつといつもの流れになりました(笑) ぼくはFAXというのが好きじゃない。FAXは思いつきで書くでしょ。はがきは絶妙のスペースだと思うんだね。言いたいことを、この小さなスペースにどうやって書きこもうか、一度吟味するでしょ。それがいいと思うのね。次は11月3日、なぜかこの番組は、国民の祝日ごとにさだまさし(笑) 文化放送には壮大な計画があるらしくて(笑)・・・2000年を股にかけてさだまさしに番組をやらせようってことらしい(笑) ハッピー鈴木っていう、今は編成部長をやっているヤツが「セイヤングが復活したら、土曜日はまっさんやってよ」なんて言ってるけど(笑) セイヤングをやってた頃とは、体力的に違うからねぇ。その番組でも取り上げられた「雨やどり」を」
「雨やどり」・・・ソロになって初めての大ヒットでしたね。先日のラジオで、この曲にまつわる作家の安部譲二さんのエピソードが紹介されました。阿部さんがかつて悪かった頃、刑務所に流れた「雨やどり」に心打たれて、更正のきっかけにもなった思い出の曲なのだそうです。歌で世界は変わらないとしても、人の心を支えることは確かにできるんですね。素晴らしいなぁ。
「線香花火」
「風の篝火」
「いかにもアコースティックという曲を3曲続けて聴いていただきました。これが、アコースティック・コンサートの醍醐アジ!?(醍醐味)(笑) 今日のメンバーを紹介します。はじっこのほうから、ギター石川鷹彦、つづいてマンドリン石川鷹彦、そしてスチールギター石川鷹彦(笑)、え〜っ右端は・・・・(楽器が多くて)いちいち紹介しきれない(笑)・・・さだまさしコンサートの「千手観音」(笑)宅間久善の皆さんです。」
いつものコンサートとは、一味違ったこれもまた楽しいメンバー紹介でした。あわててギターをマンドリンに持ち替えたりする石川さんの様子が、楽しかったです(笑) アコステでは、いつもこんな紹介の仕方なんでしょうね。宅間さんを「千手観音」と言われたのも、的を得ていますよね〜。
「ロサンゼルスに行って来ました。阿岸明子さんという、ぼくの「極光」という歌のモデルになった女性、阿岸さんとは古い付き合いで、ジミーハスケルさんと仕事を(レコーディングを)したとき、そのエージェントが阿岸さんだったんです・・・阿岸さんはフルブライトの留学生でUCLAで学び博士号を取った方です。フルブライトっていうと、今は「コロンビア大学」が流行っていますが(爆)、阿岸さんはちゃんと(笑)、ちゃんとなんて言っちゃいけないか(笑)、ほんとに(A^^;)はははっ(笑)・・・彼女は北海道の中学の英語の先生をしていたんですが、(留学させてもらったことで)アメリカに恩義を感じていたんですね。それで「オーロラファウンデーション(基金)」を設立して、ぼくはその設立記念のパーティでお祝いのコンサートをしてきたんです。
アメリカで日本語を勉強している人は12万人と言われています。対して、日本語の教師は3000人。語学っていうのは、その国の伝統文化も知らなければならないとぼくは思います。そのために実際の日本も知ってほしい。日本語を教えるアメリカ人の先生を養成する援助をするために、オーロラ基金は設けられたんです。
(ロサンゼルスは)ぼくが昔行った頃とは、変わってしまいました。(当時の)ロサンゼルスは田舎町でした。皆さんのおかげで、ぼくは若くして売れちゃったでしょう(笑) 車の免許を取りにいく暇が無くてねぇ(笑)「風見鶏」のレコーディングで、ロサンゼルスに行ったときに国際免許を取ったんですよ。たったの3ドル50セントでした!あっちはね、免許を取らせるための試験で日本とは違うんです。日本は免許を取らせないための試験だよね(笑) コンビニで問題集が売ってるぐらいだからね。ぼくは、実技が上手くって(爆) 人前で運転したわけじゃないので(笑) まぁ、隠れて研究していたぐらいで(笑) ぼくらの世代は暴走族のハシリみたいな世代だからね(A^^;)
試験の為に先生(中国系?)に来てもらったんだけど、カタコトの日本語ができる先生でして、「ジャ、イキマショー!」って、いきなり運転ですよ。「アナタ、ウマイデスネ。ソコヘ、バックデイレテミテクダサイ」「コウソクドウロモ、ダイジョウブデスネ」って(笑)」
運転を見てくれた先生のカタコトの真似が面白かったです。全部書きとめられなかった(A^^;)
「免許を取ったときに、その場で写真を取ったんです。カメラマンが「スマイル!」っていうんですよ。「え?スマイル?」(まさしさん、ニッと笑う)「オー!キュート!」(笑) それで、その免許証でこれから乗っていいっていうんですよ。ほんとかな?と思ってレンタカー屋に行ったら、すぐ借りられたんです。
ぼくの助手席に最初に乗った勇気のあるヤツは、この客席にいる和田和正(PAさん)でした(笑) 二人でディズニーランドに行ってね。帰りはオレンジ村に寄って、それからエンジェルスの試合を見ようって言って出かけたのね。フリーウェイが、ちょっと渋滞していた。オートマチック車だったんです(笑)ブレーキがちょっと弛んでいたんですね。和田と話に夢中になっていて気づかなかった。ユルユルと動いていて、前の車にコン!(A^^;) その車がポルシェだった。もう数字が(頭の中で)ガチャガチャって(笑) オレはもう死んだと思ったね。とにかくサイドブレーキを引いて、ハザードランプをつけて・・・前の車のほうに出ていったんです。アメリカじゃ先に「アイムソーリー」と言っちゃいけないって言われてたんだけど(A^^;)・・・かっこいいおっさんが、ダッシュボードからレイバンのサングラスを出してね、こうかけてね(サングラスをかける振り)、シートベルトをチャッとはずして車から降りてきた。オレの顔を見ないで・・・もう、オレなんかどうしていいのかわからない・・・するとね、バンバーをスーッと撫でて「オーケイ、アイムオールライト、ドントウォーリー、ビーケアフル」その頃はもう渋滞も解消していて。ドンッ(ドアの音)シューッ(車が走り去る音)・・・カッコイイ〜!!ほんとカッコイイの(笑) 日本だったら、せこいおっさんが出てきて、「困りますな〜」(なぜか関西弁(笑))って、それ今ついた傷じゃないでしょ!っていう傷まで指差す(笑)・・・「オーケイ、アイムオールライト、ドントウォーリー、ビーケアフル」・・・かっこよかったぁ。男っていうのは、ああいうのを言うんだね(笑)
国際免許は、スピード違反をしても減点がないのがいいね(笑) 向こうでは、ぼくは無事故無違反(笑) 日本のおまわりさんに、いいかげん早く日本の免許取ってくださいよと言われました(笑)」
このアメリカ人の真似には、力が入ってました(笑) 助手席に残っていた和田さんは、臆せずすぐ謝りに行ったまさしさんを見て、「いい意味での人間性を見た」と噺歌集5でコメントしていました。
「あの頃はさだ企画もお金があったんだねぇ。ベンツの450SLCを買ってもらってね(笑) もう嬉しくってね、清瀬に住んでいた高校時代の恩師の安本先生に見せびらかしに行った(笑) 信号で止まったら・・・信号で停止するときは、追突に気をつける。ちゃんと車間距離を取って止まる。後ろの車が止まれそうにないな〜と思ったら、ほんの15センチ前に出てやれば、事故は防げる場合があるんです。・・・そのとき、後の車がコン!(笑) 大学生が4人降りてきて、「どうもすみません」「どうもすみません」「どうもすみません」「どうもすみません」4回言うのよ(笑) オレはどうしたかって言うと(笑)ダッシュボードから、サングラスを出して(笑)、シートベルトをチャッとはずしてドアを開けて・・・バンパーをすーっと撫でて、「OK!(笑)おれは大丈夫だ。飛ばしてたろ。気をつけろよ」ドン!(ドアの音)って(笑) ところが信号が赤だった(A^^;) かっこ悪るーい(笑) 信号が変わってシューンって出て行ったら、次の信号も赤(A^^;) さっきの車が隣りに来て(笑)(車の中で4人がペコペコとお辞儀をしている様子を真似て)・・・カッコ悪くてねぇ(A^^;) 次の信号で左に隠れた(笑) なんで被害者のオレが隠れなきゃいかんのだ(笑) あとで見たら、バンパー思いきりへこんでやんの(爆) サングラスしてたから気がつかなかった(T_T)」
このロスの事故がきっかけで、安全性の高いベンツを買ったんでしたね。「せっかく皆さんのお陰で、同じ年くらいのサラリーマンの方の平均収入よりは、高い収入を得てるとすれば、それこそ身体だけは大事にしないとっていう発想はあるね」(噺歌集5)>まさしさん)
「北の国から」
「秋桜」・・・バックスクリーンが、ピンク色の雲になってすっごくきれい。
「おなじみの曲を2曲、これで初めての方も安心していただけたでしょう(笑) いろんな場所で歌ってきました。あんなに美しかった私が、こんなになっちゃうんですから(笑) 最近はお客様も・・・ねぇ(A^^;)・・・・こんなにお元気で(A^^;)・・・何言ってんのかわかんなくなっちゃった(笑)
世紀末ねぇ・・・西洋人が勝手に決めて大騒ぎしてるけど・・・2001年も私にとっちゃただの平成13年ですよ。2000年問題も騒いでいるけど、コンピューターを考えたやつは馬鹿だか利口だかわからないねぇ。・・・ぼくも来年は年男、えっと、36ですか?(笑)(石川さんが音で突っ込む)最近は、音で突っ込んでくるからやりにくねぇ(笑)
「三年坂」のライブアルバムは、昭和50年の秋だったかな。グレープの最後のアルバムで、しかも1番売れた(笑) ヒラヒラがついた服を着せられてね、「ベルサイユの馬鹿」って感じで(笑) あの頃はアイドルだったからねぇ(爆) もお、恥ずかしくって、2部になったらすぐに着替えた(笑) 「三年坂」になぜ?「交響楽」が入っていないのか?不思議に思った人も多かったでしょう。もう時効だから話します。使い物にならなかったんです。ハウリングを起こしたんですよ。和田が悪い(笑) 歌がひどかったんじゃなくて、使えなかったんです。
「三年坂」のライブ収録は、中野サンプラザ。24年前になるんですね(A^^;) 時効になった裏話!!(笑) これからもこう言った話を聞かせてくださいね〜。>まさしさん
「海外で歌っていると、こんなところに歌いにくるとは思わなかったと思うことがあります。シドニー、成都、台湾、ロス・・・デビューのときのことは、よく覚えています。ぼくらは「もう1年勉強させてくれ」と言ったんですが、プロデューサーの川又さんに「ものにはタイミングがあるんだよ。チャンスにうしろ髪はない」って言われて、まさか前髪までなくなるとは思いませんでした(爆)
初めてサンプラザで歌ったときを思い出すと・・・成長してないなー(A^^;) 体型的には成長したけどね(笑)「天までとどけ」なんて、手に汗しながら聴いてた人もいるでしょう。何度か声帯もつぶして太くなって、それがいいという人ばかりではないけれど、音域は広くなった。」
グレープ初めてのリサイタルも中野サンプラザだったんですね。
「ロンドンのロイヤルアルバートホール、ぼくは大阪フェスティバルホールをよく誉めるけれど、世界のフェスと思っているホールで歌うかもしれない。実現すれば、日本人の男性歌手が歌うのは初めて。女性では高橋真利子さんだけ。男性歌手で初めてって言ったのは、大相撲が行ってるんですよ(笑) ぼくより先に、千代の富士が四股踏んでるんだよなぁ(笑) ぼくの憧れのナナ・ムスクーリやベイブルースが歩いたと思われる場所は、端から端まで歩いてこようと思ってる(笑)
ロイヤルアルバートホールは、ケンジントン公園の一角に立っているホールで、初めてロンドンに行ったときこんな素晴らしいホールで歌いたいと思って見てました。ケンジントン公園は、ぼくの憧れの公園で・・・ジェームス・バリーの「成長しない少年」という小説が生まれた場所です。「成長しない少年」、ディズニーの「ピーターパン」の元になった話です。「成長しない少年」っていうと、松山千春(笑)・・・あれは「ガキ」(笑)この間、六日間通しのコンサートを千春がやったんで、花を贈ったんだけど、「六日枯れない花をよこせ」って言うんだよ(A^^;)・・・今度あいつには、パチンコ屋の花輪贈ってやろうと思ってる(笑)・・・そのケンジントン公園、広い公園で、昔は赤ちゃんを捨てる人がたくさんいたんだね。ジェームス・バリーは、その可哀想な子供達をストーリーにしたんです。「成長しない少年」小鳥に育てられた少年の話です。」
まさしさん、パリには幻滅したけどロンドンは気にいってましたね。「ふうせんのはか」も原作はロンドンで書いたのでしたよね。今度は歌手として、思い出深いロンドンに行けるなんて、とっても嬉しいでしょうね(^^) 成長しない少年=千春さん!?(笑) 親しいからこそ言えるジョーク(A^^;)
「アルフィーが、ベルリンでコンサートをしたときに(日本から)1,000人連れて行ったって言うんで、オレは1,001人連れて行こう(笑)
海外に行っていつも思うことは、日本を振り返ること。アメリカで移民として行った日本人が、ぼくの父よりちょっと上なんです。二世、三世は日本人とは思えない。外見はまるきりアメリカ人。・・・彼ら(一世たち)は、いつも日本を思っている。祖国に恥じない生きかたをしようと歯を食いしばって頑張っている。彼らの墓は海辺に作られているんです。それは日本を向いて立っているんです。
ぼくは、さっきテレビに出てきてこんなことをいうのはなんだけど、ワイドショー、あんなものを見ているとね、オレ達がこの国の首をしめているような気がするね(A^^;) 海外のレストランとかでちょっと騒ぎすぎたかなぁって思っていると、向こうの方で白人が「イエロー」って言うのが聞こえたりすると、テーブルをひっくり返したくなる(A^^;)・・・海外の日本人のほうが、日本を思っているのが口惜しい・・・日本を見てイライラするけど、オレはやっぱり日本が好きで「なんとかならんかなぁ」といつも思っている。
「Pineapple hill」・・・まさしさんが弾いているギター、ネックの部分(詳しい名前がわかりません(T_T))にシルエットが入っています。ヘッドを見るとT&Tのイニシャル。ロスのコンサートでも弾いていたそうですが、「長崎から」ではどうだったったかしら?
「ムギ」・・・まさしさんは12弦ギター。声のかすれがちょっと心配。
「佐世保」
マウイ島の西のはじっこにあったパイナップルヒルというレストラン。ここから見る夕景は世界一美しいと言われていました。残念ながら今はもうありません。海が見える窓際の席は、カップルしか座ることができなかった。川又さんが「いいねぇ。まっさん、歌つくろうよ。このゆったりまわっている扇風機、なんて言うんだろうね。この扇風機のことを歌詩に入れてさぁ」それで、「この扇風機は何て言うんですか?」って訊いたら、「Fan!」(爆) なんて情緒の無い国なんでしょうか(笑) 情緒を持っている言葉の国に生まれて幸せですねぇ。
「佐世保」という歌は、ルクプルの藤田恵美さんが歌詩を書いて、ぼくが曲をつけたものなんです。こないだフジテレビの玄関で、ルクプルに会いましてね。彼らがこの曲がシングルカットになったことをとっても喜んでくれて・・・「さださんの歌を聴いて育ったんです!」(笑)おいおい(A^^;)そんなに年違うか〜?(笑)
25周年の記念アルバムを作ってよかった。もう26年目に入ったわけだけど、30周年まで3年しかない(A^^;) どんな歌を作って、どこへ行きたかったのだろう。足跡さえ残らない歌もある。皆さんに支えられて・・・よく歌わせてくれたなぁと思う。ぼくは人に出会うということに恵まれているんですね。いい友達にめぐり合えて、奇跡的にいい先生にめぐり合えて・・・
ぼくは天才だったんです(笑) 東京の有名なバイオリンの先生に呼ばれて、バイオリンの修業のために東京に行くことになったとき、父は男ですから「行って来い!行って日本の星になれ!」なんて言うわけです。母は「生き馬の目を抜く東京に・・・生き馬の目を抜くって、見たことないなぁ(笑) こんな小さな子を一人で行かせて、曲がったらどうするんですか。うちは公家の出だから、曲がったらかなづちじゃないと治らない」って、そりゃ釘だよ(爆) 「行くか?」って訊かれて、オレお調子もんだから「行く行く!」(笑)
ほんとは、泣きたかったよ〜(A^^;)「九州男児」は泣いちゃいけないって、子供の頃から言い聞かせられてきたからね・・・「九州男児」って言葉を発明した九州の女は利口だったね。男は、おだてていればいいのよ。そうすると男は単純だから・・・豚もおだてりゃ木に登る(A^^;) 長崎は九州男児かなぁ? 九州男児って言うと「熊」とか「鹿」とかさ(笑) だって「長」に「崎」だよ(笑)・・・帰りたくても帰れない。「ふるさとは遠きにありて想うもの」帰るのが遠いからたいせつに思うんだね。帰るよろこびが熟成されている(笑) あの頃の帰りたいって思いの貯金が複利で殖える(笑) もうオレなんか、あの頃の利子だけで帰りたいもん!
日本製鋼の会長だった今里廣記さんに「佐田君、君は偉大な人に会いなさい。君は偉大な人にあって、それを次の世代に伝えていくべきだ。僕が偉大な人に会わせてあげるから、僕が呼んだらすぐ来なさい」って言われて・・・いろんな人に会わせてもらった。歴史的なじじいに会わせてもらったなぁ。谷川徹三、かっこよかった。体にピッタリなコートを着て・・・谷川徹三、宮沢賢治の才能を見出した谷川徹三先生、谷川俊太郎さんのお父上です。今里さんから谷川先生を紹介してもらったとき、「おじいちゃま、おじいちゃま・・・ぼくは今里さんをそう呼んでいた。おじいちゃま、あの人だあれ? え?谷川徹三?生きてたの?」(爆笑)谷川先生も、かわいがってくれた。「まさしは『じじい殺し』」と言われてた(笑)
同郷の山本健吉先生は、「防人の詩」で右翼だとか言われて叩かれたとき、「新潮45」でぼくを擁護してくれた。フランス文学者の葦原英了先生は、ぼくの歌(「フレディもしくは三教街」?)をきいて、フランス人が作ったフランス語の歌を日本語に訳して歌っていると思っていた(笑) 「佐田君、君はああいう歌ばかりばかり歌いなさい」って(笑) お酒を飲んだといえば井伏鱒二先生。荻窪の井伏先生のお宅まで行ったことがある。表札の替わりに、紙切れに苗字を書いて画鋲で止めてあって・・・。ロイヤルサルート、高いロイヤルサルートを原液でガポガポ入れて、「先生、現役(の酒のみ)ですねぇ」って言ったら、それがとっても嬉しかったみたいで「現役、いい言葉だねぇ。現役、現役・・・」と言いながら、長い時間一緒にお酒を飲んだなぁ。偉大なじじいでは他にも、辻邦生先生、遠藤周作先生。遠藤周作先生は「さだ君、君はなんだな。同世代から嫌われるだろう?」「ええ、そうなんですよ」「そうだろうな。僕もそうなんだよ」(笑)「器用過ぎると、ねたまれるんだよ」
井伏鱒二さんのお宅でお酒を飲んだ話は、本に書いておられますね。>まさしさん。確か、表札を掛けてもすぐ盗まれてしまうので、しまいには広告の裏みたいな紙切れにマジックで「井伏」と書いて表札代わりにしてあったのだとか。そのとき井伏鱒二さんは、91歳だったけれど、ロイヤルサルートをオンザロックで飲むスピードは正真正銘酒現役の酒のみだったそうです(笑)
ぼくはふるさとにこだわってきた・・・あるとき、同郷の森敦先生と故郷談義に花を咲かせていたら、森敦、放浪の旅を続けて名作「月山」で64歳で文壇に復帰した。森敦先生には、同世代の文壇の作家のことを教えてもらった。梶井基次郎のこととか。「先生、どうして旅をするんでしょうね」って訊いたら、森敦先生はこう仰った。「さだ君、ふるさととうのは、魂が帰りたがる場所なんだよ。生まれた場所じゃない。魂が帰りたいと思う場所はいくつあってもいい」ああ、そうかーと思った。強引な理屈をこねる人だった。タバコが好きで、大変なチェーンスモーカーだった。「先生、少しお控えにならないと、お体に毒ですよ」と申し上げたら「さだ君、電信柱というのは木でできてるだろう?」昔の電柱は木でできてました。「なぜ?木なのに腐らないか。それはタールを塗ってあるからだ。タールを塗れば虫が食わない。だからぼくも、肺にタールを塗っているんだよ」(会場爆笑)ね!?(笑)強引な人でしょ!(笑)
山本健吉先生と長崎の興福寺で、山本先生も長崎出身で・・・長崎を考えるシンポジウムというのがあって、ご一緒させていただいたときに「先生、故郷ってなんでしょうね」「さだ君、故郷っていうのは、町が自分を覚えていてくれる場所、それが故郷なんだよ」そのときは、山本健吉先生が仰った言葉の意味が全部わかったわけじゃなかった。それからしばらくたって、長崎の町を歩いているときに、子供の頃バイオリンを担いでよく通った寺町通りを歩いていて、お寺そばの道を通ったとき、そのお寺の壁に傷を見つけた。「あれ!?この傷、昔からここにあったよな」と思い出した。「ああ、そうか。この壁の傷がぼくを覚えていてくれる。」そのとき、やっと山本健吉先生の仰ったことがわかった。興福寺で、山本健吉は斎藤茂吉の歌を諳んじた。『長崎の昼しづかなる唐寺や思ひいづれば白きさるすべりの花』あのときの山本健吉はかっこよかった。
医者であり歌人としても有名な故・斎藤茂吉は、大正6年(1917年)に長崎医専の教授として着任した期間があったんですね。(茂吉は、北 杜夫さん、斎藤茂太さんのご実父)茂吉は、この長崎でも数々の歌を残しています。探せば歌碑も結構ありそうです。他にこんな歌も詠んでいます。『あはれあはれここは肥前の長崎か唐寺のいらかに降る寒き雨』偶然にも、茂吉は長野県、しかも諏訪出身です。(確かそうでしたよね?>諏訪の方)「興福寺」については、こちらをご覧ください。
(http://www.yado.co.jp/kankou/nagasaki/nagasi/kofukuj/kofukuj.htm)
「道〜はないちもんめ〜」
「桜散る」
大変なじいちゃん達に可愛がってもらったという自慢話をさせていただきました。じじいみたいな若者が青年になって・・・建設的な少年だったのかな。いなくなった人達から教えてもらったこと、まだまだ生かしきることができなくて・・・これからじじいになって、これからが世阿弥がいうところの「老いの花」・・・ここが、勝負どころ。5年先になるのか、何年先になるのか・・・「さだの歌を聴いていてよかったな」と思う歌を作らなければ、と思う。