フェアモント・ホテル

所在地:東京都千代田区九段南二丁目


千鳥ヶ淵のフェアモント・ホテルのコーヒーショップが良い。
君は電話の向う側で、いつもの明るい調子で言った。
そうして、じゃあ午後3時頃に待っているからね、と一方的に切ったのでした。

出典:「せとぎわの魔術師」第一章・ショート・ノベルス〜みるくは風になった〜
(「せとぎわの魔術師」:さだまさし著・講談社・1983.10.25発売)



関東地方の桜の開花宣言を聞いた数日後、新聞の社会面の片隅に見つけたちょっと気になる広告。

〜千鳥ヶ淵の桜が咲きはじめました Fairmont Hotel〜

「フェアモントホテル?」どこかで聞いたことがあるとは思ったが、それ以上は思い出せなかった。 テレビの天気予報が「午後から雨になりそうだが、気温は下がらないでしょう」と言っている。
コーヒーを飲みながら、東博(東京国立博物館)にドラクロワの「民衆を導く自由の女神」の特別 展示を見に行こうと思い立った。あと数日で終了してしまうから、今日を逃したらもうチャンスはない。 仕事が終わってからでも、なんとか閉館時間までにはすべりこめそうだ。



午後3時。予報通りの雨になったが、気温はぐんと下がった。上野駅近くのビルの電光掲示板が気 温5℃を表示している。午前中とは10℃以上も差がある。なんてことだろう。お天気お姉さんを 信じてコートの下は春色のブラウス一枚。襟元からの風を防ぐためのスカーフさえ持っていないの だ。そんな自分が浅はかに思えて、ちょっと口惜しかった。
冷たい雨がそぼ降る中、東博のチケット売り場には長蛇の列が出来ていた。「みんな芸術が好きな のね」後ろに並んだ家族連れの話声が聞える。やっとの思いでドラクロワを鑑賞した後、 上野の森のところどころで桜の花が3分咲きくらいになっているのに気がついた。 急に、今朝見たあの広告が気になりはじめた。

〜千鳥ヶ淵の桜が咲きはじめました Fairmont Hotel〜

千鳥ヶ淵には、近いうちに夜桜を見に行こうと思っていた。そうだ!今夜は家族がみんな出払っているから、夕食の準備も気に しなくていい。 花見にはまだ早いけれど、どこかで時間を潰して暗くなったら千鳥ヶ淵に行ってみよう。



地下鉄「九段下」の駅は、16年ぶり。結婚前勤めていた会社の本社があって、なんどか来たことは あったけれど。
地上への出口の階段を上がると、すぐ左手に北の丸公園に入る田安門。ここを入ると、日本武道館は すぐ近くにある。田安門を横目に内堀通りに沿って少し歩いて、左に曲がる道を入ると、道の片側に 桜並木が続いていた。
千鳥ヶ淵にせり出すように枝を伸ばしている桜の木の下には、ライトアップの為の照明が準備されて いるけれど、まだひとつも点灯されていない。やはり、夜桜見物には早すぎたようだ。 傘を傾けて見上げると、上野の森よりは開花が進んでいるように思えた。これだけの桜並木ならば、 昼間も見ごたえがあるだろう。 しばらく闇に白く浮かぶ桜を眺めながら歩いて行くと、まるでそこだけライトアップしているのかと 勘違いしまう場所があった。小雨に濡れた花びらが、道向かいのコーヒーショップの明りに輝いて 見える。夜桜は、闇の中でも、明りの下でも、昼間見る桜とはどことなく違う。妖艶な感じさえして くる。不思議な美しさを持つ花なのだなぁ。

千鳥ヶ淵に面して、大きなガラス張りの窓があるホテルのコーヒーショップ。「あ!ここがフェアモント・ホテルね」そう理解した瞬間、「みるくは風になった」の一説を思い出した。

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