** My Opinion **
私はこう思う


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◆私はなぜ、このサイトで米を売らないのか?
ネット通販が当たり前の昨今、当然、飯米のネット販売も賑わっている。だから、せっかくこのホームページを持っている私がこのサイトで米の販売をしないのはもったいない、と多くの方に言われる。

 しかし私は、インターネットで飯米を通販する気はない。

 その理由は、毎日普通に食べる米をわざわざ送料をかけてまでネット通販で買うのは消費者の間違った考えだと思うからだ。
 勿論、どこにでも売っていないような特殊な米がどうしても必要な消費者が、そうした米をネットで捜し求めて通販で購入するという状況の場合は話は別だが、普通に毎日食べる米は近隣の販売店から購入すべきだ、と思うのである。
 消費者の方の中には、おいしいといわれている新潟のコシヒカリは新潟の販売店から購入するのが一番確実だと思っているようだが、各地各種の米がそろっているのは大消費地の販売店なのだ。今回買ったお米がおいしくない、或いは口に合わないと思ったら、次は違う米を買ってみる。その販売店に気に入るお米がなかったら、違う販売店にも行ってみる、という消費者行動が大切なのだ。販売店には色々と米の話を聞いてみる。何となく誤魔化したような説明や自信なさそうな様子で説明する販売店ではなく、納得出来る様な説明、資料を見せての説明が出来る販売店だったら、まず信用できる販売店だ。

 毎日食べるお米。それに送料という無駄なお金を使うより、近隣の信用できる販売店から自分や家族の口にあったお米を見つけて買う。それが賢い消費者だ、と私は思うから、このサイトに販売のページを作らない。
( 2006.07.10. )



◆ネチケット≠ニエチケット
インターネット上ではハンドルネームは当たり前で、そのことの功罪はいろいろな方面で語られている。 だから私は、そのことをここで論ずるつもりではない。

私がここで言いたいのは、ネット上での質問の際の当事者名についてである。

私のこのサイトを訪れていただいて、コメに関する各種の質問を寄せてくださるのはありがたいことで、 私はなるべく速答を心がけているのだが、質問者の中には、名前が略称やローマ字であったり、中にはハンドルネームであったりする ことがある。そこで、サイト上のメールコーナーに「質問はなるべく実名で」という注釈を入れたのだが、未だに実名でない質問メール がままある。そのような場合には返信をしたくない気になるのだが、今のところは当方も「キイチロー」というネット上の署名で 返信している。
 しかし、ネット上ではネチケットという独自のルールがあるといっても、質問をしてくる場合には実名を名乗るのが当然の エチケットではないかと考えるのだが・・・。
( 2001.04.01. )



◆所沢産ほうれん草のダイオキシン騒動≠ナ思うこと
「所沢産の野菜のダイオキシン汚染値が高い」とテレビ朝日のニュースステーションで報じられて からの一連の騒動は、ひとまず収束した。しかし、自ら何も作為をしたわけではないのに騒動に 巻き込まれ、金銭的にも精神的にも多くの損害を受けた所沢の農家は、今も複雑で苦々しい思いを 消し去ってはいないだろう。

あの騒動の直接の“加害者”は思慮の足りなかったテレビ報道だけれど、“豊かな生活”を享受だけ はして、総合的な思慮を欠いたまま廃棄物の処理を人任せにしている私たち消費者もまた、“加害者” であることをあの騒動は教えてくれた。

ところが私は、私の目に触れたあの騒動の論評で一つも触れられていない“加害者”が気にかかる。 それは、「お客様に安全な食品をお届けするのは、われわれの責任だから」と公言して「所沢産の野菜」 を拒否した量販店である。
私も小売屋だから、もし危険だといわれた商品があれば店頭から外すだろう。 しかしその場合は、 「一部の報道で、ダイオキシン濃度が高いといわれているようなので、事実がはっきりするまでは 取り扱いを見合わせていただきます。」というべきだ、と思う。
疑いを持たれた商品を店頭から撤去するのに、「お客様に安全な食品をお届けするのは、われわれの 責任」というなら、店頭に並んでいる商品はすべて「安全」だという保証を持ち合わせていなければ ならない。量販店などの販売者のあのときの言動は「所沢産は危険」「それ以外は安全」と思わせるに 十分な態度だった。
最近は量販店でも「有機・・」や「無添加・・」なる商品を見かけるけれど、それでも大部分は 添加物いっぱいの食品である。お上が認可している添加物を使っている のだから「小売店としては一応、『安全』と言って当然だろう」と言い、「合理的な大量生産・大量流通 によって安価で均質な食品を生産するためには、添加物は必須」と言うかも知れないが、それなら「有機 」だの「無添加」だのを宣伝する必要はあるまい。今後大いなる問題となるであろう「環境ホルモン」 だって、過去には「安全」とされていたものが、新しい現象の解明の結果、「危険」とされているのだ。
本来、「食」というものはその国、その地方、その地域固有の一つの「文化」であり、大量生産・大量流通 させる筋のものではないと思う。その地域の「食文化」を担う「食職人」の作った「食作品」を販売して こそ、「健康と安全に貢献する食品をお客様にお届けするのが、われわれ小売店の責任」と 公言できるのではないか、と私は思う。
( 1999.03.05. )



◆「有機農産物の認証制度」で得をするのは誰か?
現在、有機農産物の基準については農水省によるガイドラインが あるが、近く加工食品を含む有機栽培の農産物について、罰則付きの新基準と認証制度を 導入するという。(1998年11月11日付 日本経済新聞 朝刊)

さてその場合、有機農産物の認証はどのような機関が行うのだろう。

過日、私が所属するある組織が、農水省の立案担当者を招いて説明会を開いた。「規制緩和が 叫ばれている折り、認証機関として新たな官僚機関を作るのではないか」という私の質問に対し、 担当官からは「認証機関としての官僚組織は全く考えておらず、民間の機関に任せる」という 明解な回答が返ってきた。

とすると、生産者サイドの認証機関としてもっとも可能性の高い組織は、JA農協である。
私も有機栽培米や有機栽培農産物を販売している者として、多くの有機栽培の生産者と知己がある が、そうした有機栽培生産者は、これまでの農協の農業指導に疑問を感じて農協とは一定の距離を おく、いってみればアウトサイダー的な生産者が多いのである。
しかしもし、生産サイドの認証機関の多くが農協系統になってしまうと、彼らは頭を下げて農協の 認証を受けるか、独自の認証機関を作るか、さもなくば長い間苦労して有機栽培に取り組んできた のに有機農産物としての販売を諦めるかしかない。

一方、販売サイドでも認証が必要になる。
前掲の日経新聞の解説記事によれば、「スーパー・商社間では、認証にかかるコストを削減する ため、独自の認証機関を設立する動きも」あるという。
では、これまで化学肥料栽培・農薬いっぱいの農産物を大量に販売してきたスーパー・量販店を 横目に、地道に有機栽培農産物を販売してきた小売店は、いったいどうなるのだろう? スーパーや商社の独自認証機関が認証した商品のオコボレを高い値段で売らなくてはならないと いうのか。

大企業・一流企業が、実は消費者不在のいい加減なことをしているということは、このところ 顕在化している金融機関・情報産業・製薬企業などで摘発されている実態を見れば明らかなのに、 ホンモノかニセモノかを自分の力で判断することを放棄して、何でもオカミの規範作りに頼ろうと する消費者は、税金から支払われる製品には何億という水増し請求をし、一方競争入札では1円の 値段を付ける大企業の、肩入れをしたいのだろうか。
( 1998.11.12. )



◆消費者保護≠ニいう名目による思考停止型人間≠フ創出
いま、食品にはすべて賞味期限≠フ表示が義務づけられている。
もし賞味期限の過ぎた商品が陳列されていると、保健所の検査でチェックされる。消費者 も勿論、賞味期限の切れた商品は買わない。

しかし、賞味期限とは何だろう。

賞味期限とは、‘おいしく食べられる’期限だという。
では、【賞味期限:○○年11月3日】と表示された食品は、11月3日午後11時59分までは おいしく食べられるが、4日午前0時を限りに食べられない食品になってしまうというの だろうか。そう思っている人は一人もいないだろう。

スーパーマーケットで、賞味期限前でも、自社設定の期限を過ぎた牛乳などを下水に ジャージャー流している光景を見た人は多いと思うが、食品メーカー・卸会社・小売店等で、 賞味期限の切れた食品を廃棄処分にしている量は、実に膨大なものだろう。勿論、消費者 サイドでゴミとして処分している食品もかなりの量に上ると思われる。
これらすべて、ゴミ処理問題の一部であることは誰の目にも明らかである。同じ地球上で、 飢え死にしていく人たちがかなりあるというのに・・・。

ところで、賞味期限などの表示などなかった頃、人々はその食品の安全度は、匂いや色合い、 あるいは感触で、それも経験や古来からの言い伝えなどから判断していたものだ。勿論 その「経験による勘」の失敗から危険な状態に陥った場合もままあったろうとは思う。 でも家族の健康を守るために、人々は一生懸命に頭を使い、知恵を働かせて食べ物の安全の 可否を判断していたはずだ。
しかし今、人々はみな、食品の包装に書かれている賞味期限で安易に判断するようになって しまった。

賞味期限の義務づけは、資源の無駄遣いと環境汚染に加えて、古来から伝承されてきた 生活の知恵を断絶し、人々の経験をもとにした判断という思考≠放棄させる思考停止型 人間を造ってしまうのではないだろうか、と憂えるのは私一人なのだろうか。
( 1998.10.30. )


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