お米とご飯の雑学 ≪PartX≫


「米なんでもブック」(食糧庁・全国米穀協会 制作)より抜粋


 ● 「白いごはん」の歴史

私たち日本人が、今のような白いごはんを食べるようになったのは、 江戸時代の中期(18世紀)になってからで、それまでは、主に玄米(もみ殻をとっただけの米)や、 半白米を食べていました。

弥生時代
弥生時代
土器で玄米を煮たり、蒸したりして食べていた。
奈良時代
「固がゆ」
奈良時代
土鍋で煮た水分の少ない固めのお粥を食べるようになった。
これが“白いごはん”のルーツ。水分の多いお粥は、今のお粥のルーツとなる。
平安時代
「姫飯」
平安時代
固がゆが、さらに水分が少なくなって飯(メシ)としての姿を見せ、「姫飯」(ヒメイイ)と 呼ばれるようになる。
鎌倉時代
鎌倉時代
金属や陶器の釜が広まり、「つば」のついた羽釜の登場で、調理も「煮る」から煮る・蒸す・焼くを合わせた調理である「炊く」に発展する。
江戸時代・中期
江戸時代
厚手の蓋をつけた釜が広まり、煮る・蒸す・焼く(余分な水分をとばす)の「焚き干し」法が定着する。
  


 ● 「もち」の歴史

日本での「もち」の歴史は古く、稲作の伝来とともに東南アジアから伝わったと考えられています。 平安時代になると、白い「つきもち」のほかに、大豆や小豆、ごまなどの材料を加えた餅や、米の粉 を用いた「ちまき」のような「粉もち」も作られています。

鏡もち
鏡もちの名は、鎌倉・室町時代になってから使われ始めましたが、平安時代には「もち鏡」と呼ばれて いたといいます。
古来、鏡は霊力を備えたものとして扱われていて、餅は神聖な力がこもる食べ物と考えられていました。 その餅を神の宿る鏡にみたてて形づくったのが、鏡もちだといわれています。
お正月に飾る「鏡餅」は、訪れた年神が宿るとされ、「お供え餅」や「お雑煮」の習慣とともに、 現代に生きています。
力もち
江戸時代には、餅を年中行事などにも作って祝うことが一般の人々の間にも広まり、 諸国の街道筋では、食べると力がつくという「力もち」のような名物餅も売られるようになりました。
  


 ● 「おにぎり」の歴史

おにぎりは、すでに弥生時代の中ごろにはあったことが、遺跡の発掘から分かっています。
平安時代には、おにぎりは兵士の食事として用いられました。また、形が鳥の卵に似ていることから 「鳥の子」とも呼ばれました。
おにぎりは、もともと、もち米を蒸してにぎったものが原型ですが、鎌倉時代の末期になると、 主にうるち米のご飯が使われるようになりました。

● 駅弁の第1号は「おにぎり」でした。
商品としてのおにぎり第1号は、1885年に現在の東北本線の宇都宮駅で販売された駅弁だと いうことです。それは、梅干し入りのおにぎりにゴマをふりかけたものだったそうです。
  


 ● 「すし」の歴史

「すし」は「酢し」、つまりすっぱいものという意味からきた言葉で、「鮨」「鮓」などの漢字が 用いられます。どちらも魚偏なのは「すし」が魚の保存法から生まれたからです。

弥生時代
「なれずし」
なれずし
すしのルーツは、東南アジアの「なれずし」といわれています。魚を長く保存するために、塩漬けに してからご飯の中に何ヶ月も漬け込み、すっぱくなった魚だけを食べました。滋賀県の郷土料理 「ふなずし」は、この「なれずし」です。
室町時代
「生なれずし」
生なれずし
ご飯に少し酸っぱ味がでるくらいの短期間(2週間〜1ヵ月)漬け、魚ばかりでなくご飯も食べる、 漬け込む材料も、魚や野菜など種類も広がり、そして、ご飯を主とする「すし」へと変わって いきます。
江戸時代・中期
「早ずし」
早ずし
江戸時代になると、はじめからご飯を酢と塩で味付けして、魚などをのせてひと晩重しをし、 味をなじませてから食べるようになりました。作り方から「押しずし」と呼ばれました。
江戸時代・後期
「にぎりずし」
にぎりずし
おいしいすしを早く食べたいということで、酢メシを手でにぎり、具をのせて、にぎりたてを 食べるようになりました。しかし、今のにぎりずしと違い、上にのせる具は、醤油や酢にひたして 味をつけていました。
  


 ● 「炊き込みごはん」の歴史

炊き込みご飯は、米の需要に対して収穫が十分でなかったころ、お米を節約するためにいろいろな具を 混ぜて炊いたのが始まりです。

奈良時代
 「あわ飯(メシ)」 
食事の量をふやすために、粘り気のある粟(アワ)を米に混ぜて炊き込みました。
     (現代では、あわご飯は美容食・健康食ですが・・・)
 「かて飯(メシ)」 
かて(糅)とは、米の節約のために食事の量をふやすものとして混ぜた具のことで、粟のほか、麦や 稗(ヒエ)などの雑穀や、野草、芋、大根などを混ぜて炊きました。
この「かて飯」が、今の「炊き込みご飯」のルーツといえます。
(奈良時代といわず、第二次大戦後の数年間の私たちの食事も、まさに「かて飯」だった! 私は、 量をふやすためにサツマイモを混ぜたご飯をいやいや食べた記憶が、いまだ生々しく思い出す。)
室町時代
 「変わり飯(メシ)」 
かて飯が、ごはん料理の一つとしてもてはやされるようになり、米に麦、くり、豆、野菜などを いれ炊き、「変わり飯」と呼ばれるようになりました。
江戸時代
 「とり飯」「かき飯」 
    などの登場
「えんどう飯」「ねぎ飯」「筍(タケノコ)飯」「大根飯」「とり飯」「蛎(カキ)飯」「蟹(カニ)飯」など 種類がふえていき、味や季節感を楽しむ料理になりました。
  


 ● 「どんぶりもの」の歴史
  
どんぶり鉢が食器としてよく使われるようになったのは、江戸時代の後半のことです。最初は、 おかずやお菓子を盛る器として使われていましたが、19世紀の初め、蕎麦屋さんがかけそばなどの 器として丼(ドンブリ)を使い始めました。
やがて、鰻屋さんでも、どんぶりばちを使った「うな丼」を提供し始めました。そして「天丼」が 考えられ、「親子丼」は明治の初期に東京に登場しました。
明治・大正時代になると、欧米の食文化が取り入れられ、牛肉・豚肉を食べるようになり、「牛丼」 などが登場しました。
「カツ丼」は、昭和10年頃から盛んに食べられるようになりました。
  
● 丼物のルーツは、室町時代の「芳飯(ホウハン)」
「芳飯」とは、ご飯の上に、味付けした具をのせた「かざり飯(メシ)」のことで、元々は、お寺の 精進料理で、野菜などを細かく切って味を付け、白、黄、赤、緑、黒の五色の具をご飯の上にきれいに 飾り、すまし汁をかけて食べていたもの。
  


 ● 「お弁当」の歴史

● 昔のお弁当は「干し飯(ホシイイ)」
干し飯
 昔から持ち歩くのに便利な食品として貴重だったのが「干し飯」です。米を蒸したり、煮たりして ご飯にし、これを日に干して乾燥させたもので、食べるときに水やお湯につけてやわらかくします。 水がなくても、よく噛めばそのままでも食べられますので、戦国時代の軍隊の移動の時や旅人には 欠かせないものでした。「干し飯」は麻の袋の入れて持ち歩きました。

容器
● 「弁当」という容器が生まれたのは安土桃山時代
 弁当箱という容器が生まれたのは安土桃山時代です。当時の絵にも弁当を広げてお花見をする様子が 描かれています。江戸時代には、重箱や、中に仕切りのある折り詰めのような弁当箱も登場し、花見、舟遊び、ひな祭りなどの時の料理や、詰め方を教えたテキストブックも出版されました。

● 手軽な「腰弁当」
● 「幕の内弁当」
腰弁当 幕の内弁当
 手軽な弁当といえば、旅の時の腰弁当。おにぎりを竹の皮で包んだり、柳の枝の皮を取り除いて 編んで作った弁当入れにご飯をつめ、風呂敷に包んで肩や腰にかけました。今の駅弁は、この腰弁当 から発達したものです。
 江戸時代の中頃、芝居を見に行くときには、おにぎりに卵焼きや焼き豆腐、野菜の煮付けなどの おかずを重箱につめて持っていき、休憩時間(幕間)に食べたので、この弁当のことを「幕の内」 と呼びました。
  




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