お米とご飯の雑学 ≪PartW≫
● コシヒカリ誕生秘話 ●

今では、山形を北限として日本全国で栽培されているコシヒカリ (Part1「都道府県別 お米の主な栽培品種」参照)。 いや日本だけでなくアメリカでもオーストラリアでも、またタイでも作られている コシヒカリ。
コシヒカリは、まさにダントツのお米の王様!
このコシヒカリも、福井の農業試験場で生まれ (Part1「コシヒカリは“末っ子”」参照)、その後 新潟の農業試験場でコシヒカリと名付けられて育成され、 次第に各地で栽培されるようになったのだが、以前、誕生30周年を記念する講演会で 生みの親ともいわれる元福井県農業試験場長の石黒慶一郎 農学博士元新潟県農業試験場長の国武正彦 が話されたコシヒカリ生誕にまつわる 秘話の一部を紹介する。
(【関連情報】→ Part 2「コシヒカリは末っ子=v)


玄米の形状



コシヒカリ


日本晴


あきたこまち


ササニシキ

もそも、一つの稲の品種が世に出るまでには、十年は必要だといわれる。
Aという品種のオシベとBというメシベの種を交配させてCという新品種を作って、次の年にそのモミを蒔いたとしても、そこでできるお米がすべてC種になるわけにはいかない。多くの新種から選抜固定を繰り返していって、新品種が固定していく。

シヒカリは、昭和19(1944)年に、農林22号を母、農林1号を父として交配されたいくつかの組み合わせの中から、23年以降福井県農業試験場で選抜固定され、大変な努力と研究を重ねた結果、28年に「越南17号」と名付けられ、ようやく31年に「農林100号」という登録名で品種登録ができたのだという。

の「新品種」は、環境への適応性が広く、また食糧不足の時代の研究であったから、肥料が少なくても安定した収穫量が保てる、という特性をもっていた。
さらに、粒揃いもよくて精米時の損耗が少なく(業界用語では、精米歩留まりがよい、という)、ご飯にして光沢もあり、食味も抜群で、そのうえ長期間保存しても食味が落ちにくいという、良いことづくめのような新品種だったが、「いもち病」に弱く、倒れやすい(倒伏という)弱点も指摘されていた。

の「新品種」を、県の奨励品種にしようと考えたのが新潟県である。
福井県農試育成の「越南17号」を試験育成した新潟県農業試験場では、倒伏が甚だしかったが、倒れた稲を刈ってみると、穂は重く、穂発芽(穂についたままで発芽してしまう現象)もしていなかった。また、耐冷水検査でも、老朽化水田でも際立って適応性を示したことから、「栽培法でカバーできる欠点は致命的欠点ではない」と杉谷試験所長が決断して、県の奨励品種として具申することになった。
茎が強く多収で、米づくりのチャンピオンといわれたそれまでの奨励品種「北陸52号」を棄却しての決断だったから、倒伏しやすい「越南17号」の将来性を危ぶみ、これを奨励品種に決めた新潟県を、気の毒がる空気もあったという。

品種の名前を決めるにあたっては、「タオスナ」(倒すな)が、ちょっとふざけているということで駄目になり、「ユキコマチ」は色っぽくて薄命そうだ、「コシニシキ」は舌を噛みそう、というようなことで、最終的に“越の国に光り輝く良い品種”ということで「コシヒカリ」に決まったのだ、という。

キイチローの私見:当時は「ふざけるな!」と退けられたという『タオスナ』という候補名には、栽培に当って倒伏だけは避けてほしい、という育成者の願いが込められている、と私には思え、感動すらおぼえる。また、現在なら「ユキコマチ」を色っぽ過ぎるなどとは言わないだろうと思うと、時代の背景の違いをまざまざと思い起こさせられる。


の後、コシヒカリが各方面から注目を集めたのは、33年に1ヶ月余りの長雨があって、新潟県のほとんどの稲が倒伏し、倒伏した多くの稲から穂発芽がみられたのに、コシヒカリだけは倒れても芽ぶかなかったことだ、という。
そういう意味で、コシヒカリにとってこの年は歴史的な年だった、と国武氏は回想した。

らに、コシヒカリは繁りやすく、倒れやすく、機械化に向かないと言われていたが、新潟県では44年から機械移植の普及に取り組み、今日では機械植えの栽培法も確立し、時代への対応もできて、今やどんな品種も追随を許さぬ王者に育ったのである。



Part 1 Part 2 Part 3 Part 5 Part 6

top (目次) Profile | Information | Quiz | Tambo | Opinion | Link | Mail | Private next (Quiz)