辺見庸 『もの食う人々』 を読む

大江希望(1997-5)




 辺見庸は44年生まれ。共同通信社の記者で中国滞在が長く、78年に中国報道で日本新聞協会賞というものをもらっている。91年に『自動起床装置』で芥川賞をとった。 (96年に共同通信社退職) 私は辺見庸のこういう履歴をまったく知らず、角川文庫の広告で『もの食う人々』をみて、硬派のグルメものかな、くらいの認識で買った。本屋に平積みしていた。

 92年から94年まで、「食べる」という共通項をたよりにして、世界の各地をめぐって、短編に仕立てている。その間、全国の新聞に共同通信社として配信され読み物記事となっている。
 バングラディッシュ、フィリピン、タイ、ベトナム、ドイツ、ポーランド、クロアチア、ユーゴスラビア、オーストリア、ソマリア、エチオピア、ウガンダ、ロシア、韓国。筆者はベテラン記者でなければ不可能な行動力と切り込みを駆使し、しかし、一個の辺見庸という個性の「視力」を唯一の基準として「もの食う人々」に接近する。
 韓国では94年1月25日にソウルの日本大使館前で割腹自殺をはかり未遂で保護された3人の老婦人と、いろいろのいきさつがあるのだが、食事を共にする。その3人は元従軍慰安婦である。
 例えばそのうちの一人の金福善さん。「教会帰りの彼女はビビンバ、私はネンミョン(冷麺)を食べながら話」す。18歳の時だったという。

はじめてされた時、1週間出血して寝込んだよ。赤チンもらったよ。

彼女はラングーン軍人慰安所で「光子」と呼ばれる。朝8時の朝食後兵士が、昼食後下士官が、夕食後将校たちがやってくる。
夕食後、使ったサックをね、将校が来る前に洗うのよ。小川でね。みんなしてね。
しゃがんでね。辛かったですよ。情けなかったですよ。これがいちばん。

「あんた、あれがね、サック洗いね、忘れられないのよ。いまでもね。思い出がやってくるのよ。いつか日本に行って、私死ぬところを、日本人に見せつけてやりたくなるのよ・・・・・。」
 この割腹事件は、売名行為ではないか、賠償金釣り上げの魂胆ではないかなどの憶測を引き起こして、ごく小さくしか(韓国でも)報道されなかった。辺見庸はその実際を知りたくて、老婦人たちとコンタクトをとり食事を共にし、話を聞く。
 李さんという方の場合は、激昂し日本語で泣き叫ぶ。
あんた、テンノーヘーカここへ連れてきなさい。うちの手を取って謝ってほしいのヨ。
ホソカワも連れてきてよ。ひざまついて謝ってほしいよ。
辺見は、食事を付き合いつつ、ただ頭をたれて、「もう自殺はやめてください」と頼むばかりだった。
自殺はやめてほしい。私の気持ちはそれだけだ。その先は、ない。生きる、その長さの分だけ続く彼女たちの記憶を私はどうすることもできない。
この先は実際に『もの食う人々』を読んで、知ってほしい。彼女たちになぜ「自殺はやめてほしい」と頼むことになるのか、「壊れたレコードのようにくりかえす」のか、辺見は説明していない。説明していないが、もし日本人としてその食事に付き合えば、他の言葉は不可能であるようなある極限的な状況に追い込まれて「自殺はやめてほしい」ということになるのだろうと、想像する。「ものを食う」という人類普遍的な場を背景に置くことによって、そういう状況に追い込まれるのだろうと、想像する。
 
 「ミンダナオ島の食の悲劇」と題する節は、私はもっとも迫力を覚え、胃袋のどこかに不消化な異物をいつまでも感覚するような、そういう読後感をもった。74歳の老農民サレの案内でミンダナオの山中深くに入っていく。敗戦後2年間にわたって残留抵抗した日本兵らの小屋のあった場所までいく。案内のサレ老人は残留日本兵の掃討作戦に参加したことがあるのである。日本兵はフィリピン現地人をとらえて食べていた。マニラの公文書館に戦争犯罪記録(49年、英文)が、日本軍揚陸隊兵士十数人の証言を伝えている。
 当時20代だったサレ老人も、掃討作戦の中で「あれを食べてしまった」と語る。未明に日本人小屋を急襲したとき、まだ鍋の料理は暖かく、空腹で5切れたべてしまった。
まだ若い犬の肉のシチューだと思った。ちょっぴり塩辛かった。日光が差してきて
から、耳、指の形で人だとわかった。木の上に人の頭部もあった。
カトリック教徒であるサレ老人は、すぐ神父に告白したら「まちがって食べたのだから罪にならない」と言われたそうである。
 辺見と案内のサレ老人はふもとのインタバス村に、へとへとで戻ってくる。村民からなぜ山に入ったかと問い詰められ、「食」についてすこし説明する。
村民たちは口々に言ったのだ。
「母も妹も食われました」 
「私の祖父も日本兵に食われてしまいました」 
「棒に豚のようにくくりつけられて連れていかれ、食べられてしまいました。」
「食われた」。この受け身の動詞が、私のメモ帳にたちまち10個も並んだ。村民たちは泣き叫んでいない。声を荒げてもいない。押し殺した静かな声だった。
辺見は「was eated」とメモしたのだろうか。
 地元の農民の調査によって、この村の周辺だけで38人が46,47年に残留日本兵に殺され、その多くは食べられたということがはっきりしている。むろん、日本政府は調査団を送ったことはない。


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