保元の乱について、  併せて『保元物語』の〈放免〉のこと



目次
(1)白河北殿の位置
(2)忠実・忠通・頼長(上)
(3)忠実・忠通・頼長(下)
(4)貴族たちの保元の乱
(5)戦術のこと
(6)乱後の処理
(7)『保元物語』の〈放免〉




図表の一覧

白河北殿 平安京の段丘 忠実ら年表 貴族系図 為義系図 平氏斬首 平安京-宇治略図


はじめに、本稿は「〈放免〉と〈着ダ〉」を補う資料を探していて、たまたま岩波古典体系13『保元物語』のなかに「放免」が登場するのを知り、それをメモしておこうと思って書きはじめたものである。
そして、『兵範記』を読みながら、自己流に年表をつくったり系図を描いたりして、徐々に自分の頭の中に「保元の乱」が形を成していくのを待った。

できあがってしまうと、「保元の乱」が大きくなってしまい〈放免〉は付け足しのようになってしまった。わたしの収穫は、検非違使庁の「下部 しもべ」という場合、〈放免〉の意味で使われているのではないか、という問題を発見したことである。本稿ではこの問題は提出しただけで、少しも深められていないのだが、それは、次の課題である。

「放免」という語が、放免された罪人の意味を超えて、それが検非違使庁の下部として使役されている場合をさして〈放免〉と記していたのだが、煩わしい場合もあるので、本稿ではほとんど使わないことにした。




  (1) 白河北殿の位置

保元の乱の実際の戦闘は数時間のもので、死者もほとんど無かったという。
時は保元元年(1156)七月十一日(グレゴリオ暦8月5日)、つまり真夏である。その早暁に戦闘開始、それから辰の時(午前8時)にかけて、場所は平安京北東部の鴨川をはさんで、後白河天皇側(平清盛・源義朝ら)が川向の崇徳上皇側(源為義ら)が本拠地とした白川北殿を攻めた。やがて白川北殿には火が放たれ、崇徳上皇や悪左府頼長らは落ち延びようとする。

『保元物語』は、上皇側の八郎為朝の強弓のことをはじめとして、延々と熱弁をふるうのであるが、同時代資料『兵範記』(ひょうはんき 関白忠通の家司である平信範の日記)を参照しておく。引用は『史料大成 16』からで、藍色は、本文緑色は、2行割注をしめし、茶色は、意訳である。なお、不必要と思う本文箇所は断りなく省いている。
十一日 鶏鳴清盛朝臣、義朝、義康等、軍兵都六百余騎発向白河 清盛三百余騎自二条方、義朝二百余騎自大炊御門方、義康百余騎自近衛方

夜明けに、清盛・義朝・義康らが総てで六百余騎の軍兵で、白河に向かって発した。清盛は二条から三百余騎、義朝は二百余騎大炊御門から、義康は百余騎を率いて近衛から。

平安京地図は「平安京探偵団」の平安京条坊復元図に一部をいただきました。

崇徳上皇側が拠った白河北殿とは、白河上皇が元永元(1118)年に造築した御所のことである。すでにその南に大炊御門末をはさんで「白川泉殿」という御所が造られてあったので、それに対して「白川北殿」と呼ばれるようになった(京都大学埋蔵文化財調査報告書 第2冊(1981)「白川北殿北辺の調査」p4。これは162頁ものpdfファイルとしてネット上に公開してある)。
上記の京都大学の「埋蔵文化財調査」というのは、京大病院の建造の際の調査であるが、その地域がまさしく「白川北殿北辺」に当たるのだという。この報告書はとても興味深い内容で、しかも、こなれた読みやすい文章であるので、後に少し引用してみたい。

上の「大炊御門末」とは大炊御門大路が鴨川にぶつかり、その延長上にある路のこと。少し方位のズレがあるのだが、今の丸太町通りとほぼ重なっている。上の「白河北殿北辺の調査」でも言及しているのだが、白河北殿の位置について研究した杉山信三の手書きの論文「白河北殿と白河千躰阿弥陀堂との関係位置」(歴史1954)がpdfファイルとして公開してある。その中に、手書きの地図が含まれていて、わたしははじめて白河北殿の位置を具体的に認識することができた。それまでは漠然と“鴨川の東”としか考えていなかったのである。現在の地図で、鴨川を越えて4~500mの所になりそうである。
平安時代の末、鴨川の東には、白河天皇の法勝寺造営を契機として、本格的な市街化の波が訪れる。神楽岡(吉田山)の西麓は、吉田神社が10世紀ごろから鎮座していたとはいえ、鴨川、高野川、白川等の流路はそのころまだ安定しておらず、岡にほど近く、高野川の河原が広がっていた。本調査地点[京大病院]あたりが、定住可能な土地となるには、当時かなりの土木事業が施されたことを想定しておく必要があろう。(前掲京大調査p4)
この京大の調査報告書には、国土地理院の地図に重ね書きして、平安後期の「条坊的街区」を示しているので、詳しくはそれを見てもらうことにして、直接、白河北殿の位置を決めるのに参考となる「中御門大路」末や「聖護院」や「熊野社」に言及しているところを引用する。
調査区の敷地の南には、現在春日上通りと呼ぶ小路が東西に通じている。これは、ほぼ平安京の中御門大路を鴨川の東へ延長した道筋にあたる。六勝寺と同時代に創始された聖護院と熊野社は、境域の消長や一時の移転はあったにせよ、道とともに今日その位置をほぼ保っていると考えられ、当時のこの辺りの歴史的環境を復元するうえで、貴重な遺産となっている。(同前p4)
つまり、上掲図の「白川北殿」の位置は、これらを頭に入れて、それほど誤りのないだろうところへ(目分量で)書き込んだものである。なお、「前斎院御所」と「法勝寺」は、竹内理三『武士の登場』の図(「日本の歴史6」 中央公論社1965 p346)を参考にしたもの。
人物叢書の『藤原頼長』(吉川弘文館1964)に「保元の乱戦場略図」(p170)という興味深い図が掲げられていることを、後で知った。その図は、「賀茂川」の東側へも条里制が延長してあって、白河南殿・白河北殿・前斎院御所などが、賀茂河原に接して描いてある。しかも、法勝寺・得長寿院などの寺々が記入してある。

前掲図に書き込んでおいたが、白川の流路は歴史時代にいろいろと変化している。鴨川についても同じことで、歴史時代においていろいろと地学的変遷があった。京都市街は、熱心に発掘が行われ、しかも、その報告書のいくつかがネット上に公開されている。そういう報告書を読むと、歴史時代の鴨川の氾濫などが、発掘によって明らかになっていることがわかる。
平安京の歴史を理解していく上で、そのような地学的観点も重要であることを、それらの報告書などから知った。高橋学(立命館大教授)は次のような面白い指摘をしている。
10世紀末~12世紀初頭に生じた河床の低下に伴い地形環境の変化が生じた。それによって、たとえば、平安京の崖の上にあたる地域(次図の「完新世段丘Ⅲ、Ⅳ面」に相当)では、左京域に洪水が生じにくくなり、邸宅の右京より左京へ集中する傾向が見られるようになった。藤原忠平の『貞信公記』に記された938年(承平六)の洪水や、慶慈保胤が『池亭記』に綴った982年(天元五)に平安京の一部を襲った鴨川の洪水は、この河床低下以前のできごとである。
また鴨川の東に接してい白河殿を造り「院の御所」としていた白河上皇にとって、その場所が、鴨川の侵食によってえぐられていく様子を目の当たりにしては、「三不如意」のひとつとして賽の目や比叡山の僧兵にならべて、鴨川をあげないわけにはいかなかったであろう。(「列島をめぐる地理的環境」p70、井上勲編『日本の環境』吉川弘文館2004)
平安京は京都盆地の北よりの位置に造られたわけであるが、そこは、鴨川・桂川・御室川・紙屋川・白川などの大小の河川の、変化常ない扇状地の重なり合いによって形成されている。次図は、川角龍典(立命館大)「歴史時代における京都の洪水と氾濫原の地形変化」(2004)から借用し、すこし手を加えた。詳しくはこの論文を読んでもらいたいが(読みやすいです)、平安京の創建当時(8世紀末)は、鴨川の河床が高い状態で、図の「段丘Ⅳ面」がいまだ段丘をなしておらず、10世紀頃までは左京が頻繁な洪水を被っていたという。それが一変したのが、11世紀前後に生じた鴨川の河床の低下であって、それにともない段丘Ⅳ面が段丘を形成した。それによって、左京(特に南部)が安定した居住地域として開けていった。それに比して、右京は相対的に都市としてはさびれていった、という。


上掲以外の論文で、とても興味深かったのを2つ上げておく。川角龍典「平安京の地形環境と災害」(2006? 困ったことに、論文発表の年月日が不明である。ネット上のPDFファイルにはときどきこういう事がある。なかには、筆者氏名が不明のものさえ有る。そういう情報が落ちてしまうことに気づかないままネットにアップしたのだろう)、森雄仁・吉越昭久「井戸遺構からみた平安時代の地下水環境と洪水」(2006)

なお、地学の勉強をしたのがはるか昔で完新世という語を知らないという人(わたしのことですが)のために、注をしておきます。これは、かつての「沖積世 Alluvium」と同じと考えてよく、「沖積」がノアの洪水のあと陸地が出現する、というイメージでつくられた語なので、宗教的ニュアンスを消した方がよいということから、「完新世 Holocene」ということになった。ヨーロッパで最後の氷期が終わった後のことで、約1万年前以降に相当する。
つまり、第四紀(Quatemary 約200万年前以降)の前半が更新世(Pleistocene)、後半が(約1万年ほど)現在もふくめて完新世である。


  (2) 忠実・忠通・頼実(上)

後白河天皇側の本拠地となった東三条殿は、もともと藤原摂関家の「氏の長者」の持ち物であり、その権力を示す象徴的な邸宅であった。いろいろの天皇の里内裏としても使用されている。

摂関家の権力の全盛時代というのは、保元の乱より150年も前の、御堂殿・道長の時代(左大臣が996~1017)である。その時代には、名実共に東三条殿は藤原摂関家の象徴的な邸宅であった。が、院政時代に入って摂関家の権力は衰退期に入り院政権力に包摂されるようになっていく。
この、大づかみの考え方は重要だと思う。院は天皇の父(祖父)としての権威者であるが、天皇の外戚・摂関家・院の近臣などの貴族層と、寺社の僧兵勢力と力を付けつつある武士階級などの上にバランスを取って存在していた。貴族層は、諸国受領・荘園経営の現場では在地武士の力を用いざるを得ない。そこに歴史の駆動力(ドライビング・フォース)が働いていた。
摂関時代が院政時代に換わったということは、摂関家は存続しているのであるから摂関の実質が空洞化され、実質の政治は「院の近臣」が担っていくことを意味する。そこに激しい権力の争奪戦が長期にわたって行われたわけである。院の支配哲学は、貴族層や僧兵・武士層の内部で衝突を起こさせながらバランスを取っていく、というところにある。

白河院政の開始が応徳三年(1086)からであり、知足院殿・忠実が右大臣になるのが康和二年(1100)であり、保安二年(1121)までの22ヶ年間、忠実は白河院政権力にたいして宮廷・後宮をないまぜて権力闘争を行って、摂関家権力の確立を維持しようとする。

忠実の室・師子は8歳年上で、すでに白河上皇と1子を設けているが、忠実が一目惚れして上皇から譲り受けたという。しかし、忠実と白河上皇との宮廷での暗闘は、藤原閑院流家の美女・璋子(しょうし 待賢門院)をめぐって行われる。彼女は白河の養女として育てられたが、白河法皇の手が着いているとの噂があった。その璋子を法皇は忠実の嫡男・忠通の妻にするべく提案があったが、忠実は辞退した。おそらく、彼女のとかくの噂を考えてであろうとされる。
法皇は孫・鳥羽天皇の中宮として璋子を入内させる(1118)。そのこと自体、忠実への意趣返しを含んでいたと考えられる。天皇16歳、璋子18歳である。そして、翌年生まれたのが、後の崇徳天皇である。しかし、崇徳の本当の父は白河法皇であるということが、公然の秘密になっている。鳥羽の祖父・白河に対する反発は当然であったろう。しかし、鳥羽は璋子を遠ざけたわけではなく、4皇子・2皇女をもうけている。(この辺りが、白河院政期の後宮生活の一筋縄ではいかないところだと思う。鳥羽からすれば崇徳は子であるが、祖父の子でもある。祖父の子なら叔父であるから“叔父子”と呼んだという(『古事談』)。鳥羽は崇徳を好きになれないし、祖父白河から自立したい気持ちが強かった。
忠実に対する白河の次の難題は、忠実と師子との娘・泰子を鳥羽天皇の後宮に入れるように、という提案であった。忠実は璋子と同様に白河の手が着くことを警戒していた。たまたま白河が熊野参詣で不在であったとき、白河の頭ごしに鳥羽と交渉することになった。当然、専制者・白河は激怒する。
竹内理三『武士の登場』から、引用する。
白河法皇は忠実が意にさからったことを怒り、1120年(保安1)十一月、関白忠実の内覧をやめさせ、翌年三月には忠通を関白にした。そこで忠実は宇治に籠居した。しかし鳥羽院政がはじまると間もなく出仕し、1132年(長承1)には、関白忠通が在職中であるにもかかわらず忠実に内覧の宣旨を与えた。忠通の関白は有名無実となった。
忠実は、さきに入内をこばんだ女の泰子を鳥羽上皇の女御にした。白河法皇はすでにないのでもやは璋子のような目にあう心配もないからである。
(竹内前掲書p320)
結局、忠実は宇治で12年間の謹慎生活を送るはめになる。白河死去(1129)の後、鳥羽院政が始まってから三十九歳の泰子を鳥羽の女御とする。高陽院である。

白河法皇からすれば、自分の頭ごしに泰子の入内問題を鳥羽と忠実が相談したことは、(1)鳥羽上皇が白河院政から自立しようとしていること、(2)その鳥羽と摂関家を再興しようとする忠実がむすびつくことを意味していた。けして、看過できない事態であると判断したのは当然である。むしろ、忠実を叩く絶好の機会と考えたであろう。
元木泰雄は忠実の宇治での謹慎生活は「ほとんど配流」であったと言っている。
保安元年(1120)の閉門以後、忠実は白河院が死去するまで政界に復帰することはできなかった。十年以上に及ぶ謹慎を、彼自身想像もしていなかったのではないだろうか。そればかりか、白河院死去の直前まで上洛さえも許可されておらず、ほとんど配流と称してもよい状態であった。(『藤原忠実』人物叢書、吉川弘文館2000 p82)
忠実が謹慎に入ってすぐ、嫡男の法性寺殿・忠通(ただみち)にその地位を譲る。二十四歳であった。忠通は父忠実とは違う宮廷遊泳術をもって、白河院政と親和的な地位を築いていく。忠通は法性寺流という書の流派を開いたほどの能書家であり、生母の位が低く才走った次男・頼長とは対照的な穏やかな構えで生きた。なお、15歳の少年法然と邂逅して道端の少年に敬礼したという逸話は、久安三年(1147)のことである(「法然上人絵伝」巻二第四段)。




  (3) 忠実・忠通・頼実(下)

忠実の宇治での謹慎がはじまった年、保安元年(1120)に次男の頼長が生まれている。頼長と忠通はじつに24歳の年齢差があり(もちろん異母兄弟)、頼長が誕生した翌年には、忠通は関白となった。したがって、彼ら二人を通常の“兄弟”の概念で括ろうとするのは無理がある。
忠通と頼長の関係はけして初めから険悪であったわけではなく、男子を持たなかった忠通は頼長を養子にした。忠通に嫡男・基実が生まれたのは23年後、康治二年(1143)のことで、頼長はすでに二十四歳の内大臣としてその才覚を発揮していた。したがって、もし、そのまま忠通に男子が生まれなかったら、忠通が養子・頼長に家督を継ぐのは自然の流れであって、歴史は大きく変わっていた可能性がある。
忠通は実子・基実を後継者にし、頼長とは疎遠になっていく。忠通は保元の乱の後に基実に関白の地位を譲るが、37年の長きにわたって関白の地位にあった。しかし初めは白河院政、後半は鳥羽院政であり、特に幼帝近衛(1141~1155)は病弱でもあって一度も政務を執らず、摂関家の地位は形式的なものであった。

頼長の生母は、「下流貴族」藤原盛実の女[むすめ]である。忠通の生母と出自の違いを述べている橋本義彦『藤原頼長』を参照する。この盛実は、「摂関家の家司として長年忠実に近侍している」(同書p5)。その縁によって、盛実の女も忠実の近くに仕え、一子を挙げることになったものであろう、と橋本義彦は述べている。要するに、家司[けいし]の娘にお手がついた、ということだ。
盛実は、勧修寺流藤原氏に属するが、その氏長者は為房の一門に限られていて、「為房流以外の一門の諸家はわずかに権門に近習して宮廷社会の一隅にふみ止まるという状態であった」(同書p6)。
このように頼長の生母の家は、勧修寺末流に属する下流貴族の家柄で、盛実も摂関家の家司として忠実に近侍し、忠通にも仕え、忠実の推挙によってようやく土佐守となった中・下級層の廷臣であるが、その女と村上源氏の右大臣顕房の女である師子とでは、その出自において格段の相違のあることは免れないところで、頼長自身も「母の賤しき」(『古今著聞集』所引『台記』)を自覚していたようである。(橋本義彦『藤原頼長』p6)
上に言及してある『古今著聞集』は「308」で、興味深いのでその個所だけ参照しておく。
宇治左府御記(『台記』)に、「頼長初以母賤、無寵愛。而及長、誦習九経、嗜好五音、不受酒、不事遊戯、是以禅閣及予、以為家宝、尊重甚云々 頼長は初め母の出自が賤しいため寵愛はなかった。長ずるに及んで九経をよく学び、音楽を好んだ。酒を飲まず、遊戯をしなかった。これは父・忠実も自分・頼長も家宝として、はなはだ尊重するところだ」。かかる御おぼえにておはしましける。ゆゆしき御孝養なりかし。(岩波古典体系本p245)

直前まで政務を担当していた白河院が七十七歳で急死したのが、大治四年(1129)七月七日。鳥羽はすでに6年前に上皇となり、天皇は崇徳である(そのとき十一歳)。鳥羽上皇は白河の下で自立のチャンスをうかがっていたわけで、いよいよ時機到来ということになる。同じく白河院政下で蟄居していた忠実にとって好機到来であるはずだが、忠実が再び内覧の宣旨をもらうのは4年後の長承元年(1132)である。
なぜ、忠実の政界復帰がてまどったかというと、旧白河近臣系の反忠実派のさまざまの妨害活動があったからである。実際この間、忠実の周辺に奇っ怪な事件や放火などが立て続けに起こっているのである。(下表の鴨院は忠実の平安京での居宅のひとつ、白河北殿に表記した。富家殿は宇治の忠実の居宅、平安京-宇治略図にあり

1129大治四年七月七日白河院死去
同 九月十九日自称源義親を富家殿にかくまう
同 十月二十二日富家殿焼失
1130大治五年正月二十九日鴨院焼亡
同 二月忠実が転居した近衛富小路殿、放火される
同 別の義親が大津に現れた。
同 九月大津の義親が、鴨院の義親と遭遇し殺される。
同 十一月十二日鴨院を騎兵・歩兵など数十人が襲い、義親は殺された。
鴨院を襲ったのは、美濃源氏の光信だとし、土佐へ流罪になる。
1132長承元年正月十四日忠実に「内覧もとの如し」となる。

源義親は八幡太郎・義家の嫡男であり、剛勇をもってなりひびいていた。その義親が出雲で平正盛にあっけないほど短日時のうちに打ち取られ、その首が上洛したのが嘉承三年(1108)二月のことである。しかしそれ以後、義親が生存しているという噂がたえずあり、“自称義親”は9年後(1117)、10年後(1118)、15年後(1123)に現れたり捕らえられたりしている。最初の出雲における義親追討の成功が、白河院と正盛の演出ではないか、という疑いが残っていたのである。
単にそれだけでなく、九州・隠岐・出雲での反乱行為が「義親伝説」とでもいうべきものとして世上に残留していたことが想像される。『平家物語』の冒頭の一節に、将門から清盛まで“本朝の五大反逆者”を数え上げる際に、第3番目が「康和の義親」となっていることが、そのことを良く物語っている。
ちかく本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれることも、たけき心も、みなとりどりにこそありしか、まぢかくは六波羅の入道前の太政大臣平の朝臣清盛公と申せし人のありさま、つたへ聞くこそ心もことばもおよばれね。(『平家物語 上』新潮日本古典集成1979 p26)

上の白河院死没直後の、大治四年の義親は、何と21年後の出現である。反白河院政を象徴するものとして、義親生存伝説を使おうとした鳥羽上皇によって、この義親は忠実の下に保護されたのである。しかし、忠実の邸宅に対する放火が次々とおこり、大物の前関白である忠実の、政界復帰に対する抵抗がしぶとくあったことが分かる。

鳥羽上皇は相当に慎重に忠実復帰の事を運んだわけである。内覧は関白より下位ではあるが、内覧と関白の並立は前代未聞であった。関白は忠通であるから、忠実と忠通の間に対立要素をはらまざるを得なかったのである[内覧は、天皇が見る文書を事前に見ること、またその役職。摂政・関白は自動的に内覧となるが、左大臣以下は、特に内覧の宣旨が下された場合に限る]。


頼長は非常な勉強家で、倦むことなく読書しそのメモを残している。自分に厳しかったが、他人にも厳しかった。彼が左大臣になったのが久安五年(1149)七月二十八日のことで、(近衛天皇の)内覧となったのが仁平元年(1151)である。関白忠通と内覧の並立である。忠実と忠通の関白・内覧並立、同じく頼長と忠通の関白・内覧並立は、院政の統治哲学からすれば、当然の手法であると考えられる。摂関家の内部に内訌要素を作りだして勢力を殺ぐのである。
頼長が徹底してやったのは「綱紀の粛正」である。公卿の「遅参・欠勤」を徹底的に取り締まった。
頼長は綱紀粛正のため、みずからも持するところ厳格をきわめたが、他にたいしてもすこしも容赦するところがなかった。『今鏡』に「おほやけわたくし[公私]につけてなにごともいみじくきびしき人にぞおはせし。みちにあふひと、きびしくはぢがましき事おほくきこえき」つまり道路であってさえ相手にきびしく文句をつけて恥をかかせることが多かったと伝え、公事に遅刻した者を責めて、その邸宅を焼き払ったと述べている。(竹内理三『武士の登場』(前掲書p338))
こういう、常軌を逸するほど厳格で、やる気満々の左大臣をさして「悪左府」のあだ名が付いた。

上述のように忠通に男子がないため、24歳の年齢差の頼長を養子として、摂関家を継ぐものとされてきた。つぎの関白たる者に対する幼少年期からの宮廷での地位の上昇の速度が決まっており、頼長は(次の引用によって分かるように、その息の兼長も)その既定の上昇速度にのって出世していた。つまり、ことは単に摂関家内部での出世の順番や人選ということではなく、貴族社会全体が承認した既定事実として頼長が次期摂関家の後継者となっていたのである。元木泰雄『藤原忠実』から引用する。
頼長ばかりではない。その家嫡とされる兼長も久安四年(1148)十月に頼長と同じく五位中将を与えられており、もはや頼長の系統が摂関を継承することは貴族社会における既定の方針のごとくであった。このように、官職面から見ても頼長は摂関家嫡流に位置づけられており、次期摂関は確実と見られていた。父忠実の偏愛によって頼長が強引に摂関の座を希望したとする『愚管抄』の解釈は誤っている。(前掲書p128)
『愚管抄』の筆者は忠通の息子・慈円であり、忠通びいきになりがちであることと、保元の乱の結果を知った上での著述であることの偏向も指摘されている。なお、1964年に初版が出ている橋本義彦『藤原頼長』は、その「はしがき」で、『愚管抄』の頼長観に立って頼長伝を書いた『大日本史』の影響が大きく影響して「現在一般の頼長観を作り上げているように思われる」(p3)と指摘している。

忠通に男子(のちの基実)が誕生したのが康治二年(1143)であり、無事に育つことが分かってくるのは実に頼長が養子となってから20年近く経ってからであったのだ。忠通は実子・基実を関白の後継者としたい気持ちが徐々に強くなっていったであろう。しかし、忠実は、自分が青写真を書いた頼長-兼長を後継者にするという計画を進行させたかった。予定通りにいったん頼長系統に摂関を継がせ、基実が成長してから忠通系統へ戻したらいい、というのが忠実案であった。頼長も当然それに従った。
忠通と、忠実・頼長が敵対関係になっていくのは2つの要因があった。ひとつは兼長の昇進についてであり、もうひとつは多子入内工作についてである。(この部分、特に前者は専門家でないと容易に踏み込めない領域で、元木泰雄『藤原忠実』の祖述以上のことは出来ない。

まず、前者。
久安四年(1148)四月には頼長の男で忠通の猶子となっていた兼長が忠通の近衛邸で元服しており、忠通と忠実・頼長のと連携も見られた。しかし、同年十一月に兼長の少将昇進の遅延をめぐって忠実と忠通が対立し、、忠通は以後兼長の官位昇進に関与しないと報じて両者の関係は険悪化してしまった。(元木前掲書p129)
摂関家の嫡流としての昇進計画を、兼長について順調に進展させるかどうか、忠通は以後協力できないと忠実の計画を拒絶したのである。

第二は、頼長の養女となっていた多子(妻・幸子の姪)を近衛天皇へ入内させる工作の開始である。多子は徳大寺公能の娘で、美人の聞こえが高かった(『平家物語』によると、近衛没後、二条帝が彼女を求めたため入内して“二代后”のニックネームがついたほどだった)。この入内工作の主役は忠実であるが、もし、入内が成功し男子出生となれば頼長は天皇の外祖父となりうるわけで、そうなれば、いったん頼長系統に移った摂関家の嫡流が忠通系統へ戻ってくることはほとんど不可能である。
危機感を持った忠通は、美福門院・得子の養女であった呈子(妻・宗子の姪)の入内工作をはじめる。この入内工作合戦は、後戻りできない忠通と忠実・頼長の間の権力闘争であった。その背景には、美福門院と頼長との反目関係(美福門院は頼長をひどく嫌っていた)があるという。
忠通が態度を硬化させた一因は、頼長の入内工作の進展にあった。頼長が娘を入内させ外戚化に成功すれば、忠通の子孫に摂関が戻る可能性はほとんどないだけに、彼が提案[忠実の、いったん頼長に摂関を譲渡し、のち、忠通の子孫に継承させるという案]を拒否するのも当然であった。そればかりか忠通は対抗するかのように、美福門院(得子)と提携し、室宗子の姪で一時美福門院の養女となっていた呈子を自身の養女に迎え、その入内を企図するのである。この背景に頼長と美福門院との鋭い反目が伏在したことは疑いなく、このことがさらに忠実・頼長と忠通の対立を激化させることになった。(元木前掲書p131)
多子の入内は、久安六年(1150)正月十日。三月十四日、立后。
呈子の入内は、久安六年四月、六月には中宮となる。
こうした入内・立后をめぐる抗争によって、忠実・頼長と忠通の関係は修復不可能となり、摂関の円満な譲渡はほとんど望みがたいものとなったのである(元木前掲書p133)。
病弱な近衛天皇はこのとき、久安六年(1150)、十一歳だった(満年齢なら10歳8ヵ月)。この少年がどのような性生活を強要されたのか、気の毒としか言いようがない。この少年は一度も政務に就くことなく、十七歳で死亡する。もちろん、子供はできなかった。
多子の“二代后”のスキャンダルめいた歴史の運びは、彼女が絶世の美女であったということだけでなく、実質的に処女であったというふうに世間では合点されていたということなのかも知れない。

忠実は忠通に摂関の(頼長への)譲渡を求め、忠通は拒む。この両者の間に入ることのできる北政所・師子(忠通の生母)は久安四年(1148)十二月に死去している。双方の説得役に回る可能性のあった鳥羽院は、いざとなると伝言を取り次ぐだけで、この父子の内訌を醸成こそすれ火を消してくれることはなかった。
また悪くとも、密接な関係にある鳥羽院の圧力で、摂政の譲渡は可能と(忠実は)考えていたはずである。ところが、鳥羽は忠実と忠通を取り次ぐばかりで圧力を加えることはなく、忠通も最終的に鳥羽院に対し全く譲渡の意志がないことを返答した。ここでついに忠実の堪忍袋の緒は切れたのである。(元木前掲書p133)
久安六年(1150)九月二十六日、忠実は深夜上洛し、頼長を伴って、東三条邸を接収した。実力部隊として源為義が軍勢を伴って控えていた。忠実は、忠通を義絶し氏長者を頼長に与えることを宣言した。頼長を摂関家の「氏の長者」とし、東三条邸を与えた。

頼長は内覧となり、執政の頂点に立つ。ところが、わずか5年後、悪左府・頼長の凋落は一気にきた。それは、病弱であった近衛天皇が久寿二年(1155)七月二十三日に、子供を残さずに死んだことがきっかけである。自動的に頼長の内覧も失効する。頼長の左大臣は、保元の乱で死亡するまでなので、保元元年(1156)七月十四日まで。つまり、頼長が左大臣であったのは、ほぼ7年間だったことになる。

子供のいない近衛の次の天皇選びが難航した。まず、事前に近衛の皇太子が決められていなかったことが、難航の理由である。
近衛の崩御の後、はじめて後継者の選考に入った、ということのようである。近衛が、本格的に病気が重くなったのは、死の前年、仁平三年(1153)八月ごろからで(十月二十八日に久寿と改元)、眼病を患い、目が見えなくなっていた。後に、これが崇徳と頼長の呪詛によるものとの噂になる。いずれにせよ、事故死などの急死ではないのだから、事前に皇太子が設けられてもよかったのだが、美福門院の思惑、崇徳の意志などが交錯して、簡単に宮廷がまとまらなかったのである。
近衛崩御のその日、ただちに、会議が持たれ、結局、翌日鶏鳴のころまでには、後白河の践祚が決まった。この会議に、頼長は息子の兼長を伴って駆けつけたのだが、会議に参加できなかった。その理由の最大のものは、同年六月一日に妻幸子が死に、服喪中であったということである(『兵範記』による)。もちろんそれは表向きの理由づけで、頼長を政権から排除する口実でしかなかった。

最高権力者は鳥羽法皇であるから、法皇の子供・孫の中から天皇選びが考えられたが、崇徳は憎まれていて重仁の可能性はなかった。孫の守仁(雅仁の息)の即位を望む美福門院の意向が強かった。慈円『愚管抄』によると、八条院・璋子を即位させる女帝の可能性さえ検討されたという。雅仁は“ひどい遊び人として評判になるほどで、とても、天皇の器量じゃない”と鳥羽院は考えていた。
院[鳥羽]ハコノ次ノ位ノコトヲヲボシメシワヅライケリ。四宮[雅仁]ニテ後白河院、待賢門院ノ御ハラニテ、新院[崇徳]ニ同宿シテヲハシマシケルガ、イタクサタダシク[評判になるほど]御アソビナドアリトテ、即位ノ御器量ニハアラズトヲボシメシテ、近衛院ノアネノ八条院ヒメ宮ナルヲ女帝カ、新院一宮[重仁]カ、コノ四宮の御子二条院ノヲサナクヲハシマスカヲナド[幼い守仁にしようか、など]ヤウヤウニヲボシメシテ、ソノ時ハ知足院[忠実]ドノ左府トイフコトハナクテ一向ニ法性寺殿[忠通]ニ申シアワセラレケル。(『愚管抄』古典体系本p216)
なお、古典体系本の頭注(岡見正雄・赤松俊秀)によると、「近衛院の崩後、鳥羽院は忠実・頼長よりは、法性寺忠通を信用するようになる。猶事実上、美福門院が新帝を決めるのに最も関係したらしい」とある。

美福門院の考えは、父・雅仁(このとき29歳)を中継ぎに即位させ、その後、本命の守仁を天皇にすればよい、ということだったらしい。この美福門院が予想もしていなかったのは、わずか1年後に最高権力者・鳥羽法皇が死んでしまうということである(53歳)。そこに突然ひらいた権力の空隙が、保元の乱を呼び寄せるのだが、同時に後白河天皇は在位三年で守仁に譲位し、その後、長期の院政を敷き勃興してくる武家権力と渡り合うという意想外の展開となるのである。


  (4) 貴族たちの保元の乱

『兵範記』に「崇徳と頼長の謀叛」の記事が最初に出るのは、鳥羽院崩御後3日目の七月五日条である。
蔵人大輔雅頼奉勅、召仰検非違使等令停止京中武士、左衛門尉平基盛、右衛門尉惟繁、源義康等、参入奉了。去月朔以後、依院宣、下野守義朝并義康等、参宿陣頭守護禁中、又出雲守光保朝臣、和泉守盛兼、此他源氏平氏輩、皆悉率随兵伺候于鳥羽殿、蓋是法皇崩御後、上皇左府同心発軍、欲奉傾国家、其儀風聞、旁被用心也、

蔵人大輔雅頼は勅によって、検非違使らを召して、京中の武士の移動を禁止するよう命じた。左衛門尉平基盛、右衛門尉惟繁、源義康らは、内裏[高松殿]に参入した。先月の一日以後、院宣[鳥羽院の命令]によって、下野守義朝ならびに義康らは、禁中守護のために泊まり込んで陣を組んでいた。
その一方で、出雲守光保朝臣、和泉守盛兼をはじめとして源氏や平氏のものどもが、みな兵を引き連れて鳥羽殿に伺候していた。つまりこれは、法皇が崩御されたら、崇徳上皇と頼長左大臣が一致して軍事行動に出て、国家を傾けようとしている、という風聞があり、それの用心のためである。
つまり、すでに1ヶ月前から天皇方は軍備配置も含めた手を打っていて、謀叛にたいして公然と備えていたのである。また、「欲奉傾国家 [国家を傾むけ奉らんと欲し]」という語句はこのあと『兵範記』で幾度も繰りかえされる決まり文句である。
天皇側は用意周到であったというだけでなく、「院宣」を出し、諸国の武士勢力の動員をかけているし、検非違使を用いて首都警備にあてていることが重要である。天皇側は国家権力として軍事動員の準備をしているのであって、けして、美福門院や忠通や信西らの私的策謀によって動いているわけではないのである。それゆえ「欲奉傾国家」という崇徳・頼長ら敵対勢力への決めつけは、“政治グループのレッテル張り”とはわけが違うのである。かたや国家権力であり、かたや私的徒党であって、そもそも対等な争乱ではないのである。

東三条殿の南隣の高松殿は、ちょうど内裏として後白河天皇が使用していた。東三条殿の留守を預かる武士たちが築山の上や木の枝に登って高松殿をうかがうというので、天皇側は七月三日に、源義朝に命じて留守役を捕らえて尋問した。天皇側はすでに敵対勢力に探りを入れ、挑発行為に出ているのである。
『保元物語』は次のような書き方である。
東三条には、院[崇徳院]のかたのつはものどもあつまりて、よるは謀叛をたくみ、ひるは木のこずゑ山の上にのぼりて、内裏高松殿をうかがひみるよし聞[きこえ]けるあひだ、あくる三日、下野守義朝におほせて、東三条の留守監物光員[みつかず]以下三人をからめとる。きのふ法皇崩御なりしに、いつしかけふ[早くも]かかる事のいできぬるは、いかなる事にかと万人あやしみあへり。およそ京中謀叛の聞えありて、軍兵東西南北より入[いり]あつまりて、兵具をば馬に負せ車につみ、慎みかくしてもむらがり、そのほかもあやしき事のみおほかりける。(岩波古典体系31 p62)
京中に謀叛の噂がたっており、実際兵馬の不穏な動きがすでにはじまっていたようである。『保元物語』によると、大和国から上京してきていた清和源氏系の宇野親治が、九条河原の法性寺で天皇側に戦闘の末捕らえられたのは、六日のことである。
天皇側の京内での警戒は、初めから油断のないもので、積極的に先手先手を打っていた。戦力も充実していた。それに対して、崇徳上皇側は南都の勢力をあてにしていた。興福寺は藤原氏の「氏の寺」であり、その僧兵勢力は国家権力側からしてもけして侮れないものであった。この段階で、崇徳自身はいまだ鳥羽の田中殿にいた。頼長は宇治にいた。崇徳・頼長側はいまだ武力対決の準備ができていなかった。

崇徳上皇の側からすると、現政権(後白河天皇を戴いた信西らと武士勢力の多く、および美福門院)はまったく妥協の余地のない敵対的なものである。なぜなら、鳥羽院にだまされて近衛天皇に譲位した後、自分の息子・重仁に皇位が戻ってくる一縷の望みが後白河即位によって完全に絶ちきられてしまったからである。後白河の後継は守仁(後の二条天皇)であることは美福門院の意向で動かし難い。つまり、崇徳は現政権に対して「欲奉傾国家」とする動機をはっきり持っていた。崇徳がもつ武力はいわゆる「院近臣」の平家弘・康弘・盛弘らでしかない。
それに対して、頼長は現政権から排除されていることに不満を持っているのである。言い換えれば、近衛天皇の時代の内覧として執政の力を発揮した、そういう活動の場を与えてもらいたい、と考えていたのである。つまり、現政権に受け入れて欲しいのであって、現政権を打倒する必然性はなかった。この点について、すでに橋本義彦は次のように明瞭に指摘している。
以上近衛天皇の崩御後における頼長の行動を通観して最も注目されるのは、もともと頼長が新しい朝廷に反抗する意志は全くなく、逆に何とかして前朝[近衛朝]と同様に内覧の臣となり、さらに新東宮の傅[]にも任ぜられたいと念願していることである。その点崇徳上皇とは立場を全く異にしており、まして重仁親王の践祚を計る気持もなく、ただ後白河天皇の登祚と守仁親王の立坊によって生れた新しい朝廷においても、執政の座を確保したいと念願していただけであって、結局その願いがかなえられず、その上ことごとに宮廷さらには政界から排斥・疎外されるに至って、初めて新体制に対する反抗に走った、いな走らされたと見るべきであろう。
そしてその機会は、鳥羽法皇の崩御によって、意外にも早く訪れて来たのである。(『藤原頼長』p152)
崇徳と頼長がどの段階で結びついたのか、いずれにせよ、武力を持って「欲奉傾国家」ほどの結びつきが生まれてきたのは鳥羽法皇の死の前後からであって、けして、前もって武装蜂起の計画を練っていたとは考えられない。ギリギリの段階に来て、やむを得ず“野合した”というのが近いのではないか。
そのギリギリの時というのは、天皇側が探りを入れていた東三条殿をついに七月八日に接収してしまう挙に出たことで訪れた。留守番の武士らがいるだけの“敵”の根拠地をなんなく奪い取ることで、天皇側が“ケンカを売った”のである。

七月八日には、依然頼長らが宇治にいるときに、その留守宅である東三条殿に義朝が踏み込んで、天皇呪詛をしていたという相模阿闍梨勝尊を捕縛し、頼長からの書簡などを押収し、崇徳-頼長の謀叛の企てが明らかになったとした。東三条殿を接収した。
この段階に至るまで、いまだ、崇徳・頼長は入京していなかったことで、彼らが争乱の準備をしていなかったことが明らかである。天皇側は奪い取った東三条殿に天皇以下文武百官が集まって、戦いのなりゆきを見守ることになる。

九日の夜半に、崇徳上皇が鳥羽の「田中御所」から密かに上洛して、白河の「前斎院御所」に入った、前斎院・詢子内親王は鳥羽法皇の葬儀で鳥羽殿へ出かけていた。これは『兵範記』の述べるところだが、『愚管抄』はすこし違っている。
サテ新院[崇徳]ハ田中殿ノ御所ニヲハシマシケルホドニ、宇治ノ左府[頼長]申シカハシケム、ニハカニ七月九日鳥羽ヲイデテ白河ノ中御門河原ニ、千体ノアミダ堂ノ御所トキコユルサジキ殿[千体阿弥陀堂ときこゆる桟敷殿]ト云御所ヘワタラセ給ニケリ。(前掲書p219)
「千体阿弥陀堂ときこゆる桟敷殿」というのが、『兵範記』の「前斎院御所」と同一なのかどうかよく分からないのだが、いずれにせよ、崇徳上皇は鴨川川原の東のいずれかに入ったことは分かる。「ニハカニ 俄に」とあるように、事前に十分な準備などのなく、早々の間の思いつきのようにして頼長の提案に従って上洛した。
十日には、崇徳上皇は前斎院御所が手狭だったためか、近くの「白河北殿」へ移っている。
十日、上皇於白川殿被整軍兵、是日来風聞、已所露顕也、散位平家弘、大炊助同康弘、右衛門尉同盛弘、兵衛尉同時弘、判官代同時盛、蔵人同長盛、源為国等各伺候、又前大夫尉源為義、前左衛門尉同頼賢、八郎同為知、九郎冠者等引率初参、頃年以来、依故院勘責各籠居、今常此時懇切被召出也

十日、上皇は白河北殿で軍兵を整えられた。これはこの頃伝えられている風聞であって、すでに露顕しているところだ。(以下、集まっている平家の武士の氏名が列挙される。ついで為義の名が挙げられ、その息等を初めて率いてきたとする。為朝は「為知」としている。)為義はこの何年か、故鳥羽院の勘責を受け籠居していた。このたび崇徳上皇から懇切な声が掛かって、召し出されたものである。(『兵範記』)
この時、為義はすでに67歳という老齢で、しきりに辞退したのを、崇徳上皇側がむりに召し出したのである。その引き連れてきた子息・郎等らが上皇側の主たる戦力であった。そもそも、為義は摂関家の「家人」であって、忠実いらい仕えていた老将である。氏長者を頼長に譲ることによって、頼長の私兵として崇徳・頼長側につく理由があった。源氏の郎等は多くが義朝について天皇方に回った。なぜなら一月前に院宣によって国家機関の武力として動員が掛けられていたからである。
『愚管抄』は為義が固辞するのをむりむり召したいきさつをのべて、
上皇側は)為義ガホカニ、正弘・家弘・忠正・頼憲ナドノ候ケル。勢ズクナナル者ドモ也(前掲書p220)
と、戦力的にも弱小であったことを指摘している。
つまり、重要な点は、天皇側が一月前から国家権力による公的動員を掛けた武力と警察力によって、十分な余裕を持って準備しているのに対して、崇徳・頼長側は頼長の手勢と崇徳の院近臣らという身のまわりの私的勢力を集めただけのものであったことである。

十日の「晩頭」になって、頼長が宇治からやってきて合流した。翌朝戦闘があるというのに、ほんとうにギリギリになって頼長は駆けつけたのである。兵力についても、準備の余裕についても、上皇側はまことに非力であった。
これらは『兵範記』が書いている記事である。『兵範記』の作者平信範は忠通の家司であるから当然天皇側にいたはずで、崇徳上皇方の動勢が、細かく天皇方に知られていたことになる。上皇の下に集まっている武士の名前を細かく書き出している。情報戦でも、天皇方が圧倒していたと言ってよいだろう。
十一日 鶏鳴清盛朝臣、義朝、義康等、軍兵都六百余騎発向白河 清盛三百余騎自二条方、義朝二百余騎自大炊御門方、義康百余騎自近衛方(『兵範記』)

夜明けに、清盛・義朝・義康らが総てで六百余騎の軍兵で、白河に向かって発した。清盛は二条から三百余騎、義朝は二百余騎大炊御門から、義康は百余騎を率いて近衛から。
これは、第1節ですでに示したところだ。これの続きは次のようになっている。
此間主上召腰輿、遷幸東三条殿、内侍持出釼璽、左衛門督殿取之令安腰輿給、他公卿并近将不参之故也、殿下令扈従給、両殿直衣、出自西門、自西洞院北行、入御東三条西門、経中門并透廊、御輿暫安寝殿南庇階間、此間内府参入、直衣
賢所同渡御、奉安上官座廊、職事近将奉副如常、
(『兵範記』)

この間に後白河天皇は腰輿[ようよ 手で長柄を腰あたりに提げて支えて進む輿]で東三条殿にお移りになった。内侍が釼璽を持ち出し、左衛門督殿がこれを取って輿に安置した。他の公卿や近将が不参のためである。殿下(忠通)は扈従された。両殿下とも直衣姿である。
ふたつの輿は西門から出て西洞院より北へ行き、東三条殿の西門から入った。中門と透廊を経て、お輿はしばらく寝殿の南の庇と階の間で休んだ。この間に内大臣(徳大寺公能)が直衣姿で参入した。
賢所(八咫鏡)も同じく渡御なさって、上官座廊に安置し奉った。
御所のあった高松殿から北隣の東三条殿に移動するだけなのだが、「釼璽」と「賢所」をも一緒に移している。単に天皇の印ということではなく、神秘な「神」の扱いで、丁重にうやうやしく扱っている。
おそらく、広い東三条殿のほうが警備もしやすくより安全だという判断もあったであろうが、なんといっても頼長がその所有者である摂関家の象徴的邸宅を乗っ取っているという心理的優越が大きかったであろう。『保元物語』では、
この御所は分内[敷地の内]狭くして、自然のこと[万一のこと]あらん時悪しかるべしとて、御用心のためなり。(古典体系本p95)
と説明している。
続いて、女御らが網代車で移動し、門の警備が配置される。
女御御網代車同渡御、御車立東中門外、三面門々各差着武士守護、差[金+巣]固内外也、滝口輩着甲冑、毎門二人、差定押領使、

女御は網代車で同じく渡御なさった。お車は東の中門の外に立てた。三面の門々はそれぞれ閉鎖し、武士の守護がついた。内外を固く鎖錠した。滝口の者たちは甲冑を着て、門毎に二人押領使をおいた。(「差」はつかわすの意、「三面の門」は北・東・西。南は隣邸の「高松殿」)
『兵範記』の作者・信範が天皇側の現場にいるのだから、情報が詳しくなるのは当然であるが、それでも、天皇方は用意周到で、十分な余裕があるように思える。
つづいて多田源氏の頼盛が郎従数百人を率いて、東三条を囲繞して警護を固める。頼政らは、すでに戦闘の行われている「白川」方面へ第2陣として重ねて派遣される。
前蔵人源頼盛、依召候南庭、同郎従数百人囲繞陣頭、此間頼政、重成、信兼等、重遣白川了

前蔵人源頼盛は、召しにより南庭に伺候している、その郎従たち数百人が陣頭を取り囲んでいる。この間に頼政、重成、信兼等は重ねて白川へ遣られた。
鴨川川原から白河北殿あたりで、この間に激しい戦闘が行われたと『保元物語』は筆を振るうのであるが、天皇方の貴族たちは十分な兵力に護られて、東三条殿にもたらされる戦況にかたずをのんでいた。都の間近で戦闘が行われることは初めてであり、よほど緊張しただろう。
彼是合戦已及雌雄由使者参奏、此間主上立御願、臣下祈念、

こうしているうちに、すでに合戦は勝敗を決する段階に至っていると、使者が参って現況を奏する。この間に主上[後白河天皇]は勝利の御願を立てられ、臣下は祈念した。
東方2kmも離れていないところが戦場である。そこから状況を知らせる伝令がたびたび駆けつける。東三条殿では、天皇の名前で願を立て、その場の貴族一同が必死に祈っている。
8時ごろになり、東方に煙が上がるのが見えた。
辰剋、東方起煙炎、御方軍已責寄懸火了云々、清盛等乗勝逐逃、上皇左府晦跡逐電、白川御所等焼失畢、斎院御所并院北殿也、御方軍向法勝寺検知、又焼為義円覚寺住所了

8時に東方に煙や炎が上がるのが見えた。我が方の軍が攻め寄せ、火をかけた。清盛らは勝利の勢いに乗って逃げる者を追っている。上皇[崇徳]と左大臣[頼長]は行方をくらませ、逐電した。白河御所などが焼け落ちてしまった(前斎院御所と白河院北殿である)。我が方の軍は法勝寺が無事かどうか調べに向かった。また、為義が住んでいた円覚寺も焼けてしまった。
現場にいた貴族たちにとって「御方軍」というニュアンスがどういうものなのか、微妙なところがある。わたしは「我が方の軍」としておいたが、後世のわたしたちが考えるような「我が方」という意識があったのかどうか。
天皇方の勝利がはっきりしたところで、後白河天皇はただちに高松殿に戻っている。この戦いは一方的なものであって、敵方残党からの報復的な攻撃の危険性などがまったくないことがすぐに感得されたものと思われる。
主上聞食此旨、即還御高松殿、其儀如朝、賢所還御、午剋清盛朝臣以下大将軍皆帰参内裏、清盛義朝直召朝餉、奉 勅定、

主上[後白河天皇]はこの勝利の報告をお聞きになって、ただちに高松殿にお帰りになった。その儀礼は朝と同じである。正午に清盛以下の将軍たちが天皇の下に帰ってきた。清盛と義朝はただちに朝餉に召され、勅定を奉[うけたまわっ]た。
正午には将軍たちは内裏である高松殿に戻り、清盛と義朝には朝餉が用意され、天皇からお褒めの言葉があった(「奉 勅定」は、そういう意味だろう)。
清盛、義朝らは、次のようななまなましい情報をもたらした。
上皇左府不知行方、但於左府者、已中流矢由多以称申、為義以下軍卒同不知行方云々、宇治入道殿聞食左府事、急令逃向南都給了云々、
左府雖中矢被疵、其命存否、今日不分明云々、


「上皇[崇徳]と左大臣[頼長]は行方不明です。ただし左大臣は流れ矢にあたったと多くの者が申しております。為義以下の敵の軍卒はやはり行方知れず。宇治入道殿[忠実]は左大臣のことをお聞きになって、急いで南都へ逃げ向かってしまわれたということです。」
左大臣は矢にあたり疵を負っているが、その命の存否は、今日の時点では不分明である。
十三日になって崇徳上皇は出家して仁和寺にいることが分かる。頼長は首に流れ矢を受けた疵がもとで十四日に死亡し、奈良の般若野に葬られたのだが、それが朝廷側に判明したのは二十一日のことである。


  (5) 戦術のこと

保元の乱の準備段階からして、後白河天皇側が圧倒的に有利であった。というより、準備をしていたのは天皇側だけで、崇徳上皇・頼長側は彼ら二人の“野合”がギリギリまで成立していなかった。天皇側は積極的に頼長を追い詰め“ケンカを売り”、挑発して“敵”に仕立て上げたのである。

ただし、宮廷から完全に干されていた崇徳上皇と、美福門院をはじめ多くの貴族から嫌われていた頼長の間に親交があったことは事実である。和歌をほとんどやらない頼長は、忠実の七十の賀のための和歌の代作を崇徳上皇に頼んでいるという。また上皇の第一の近臣教長は、家産の乏しい窮状を頼長に訴えて、忠実の所領2ヶ所を給わっているという(橋本前掲書p158)。

天皇側の周到な準備に対して、上皇・頼長側がほとんど何の準備もしていなかったことをよく示していることは、なんといっても、天皇側が平安京内部にいて守りを固めているのに対して、崇徳上皇側は鴨川向こうの白川の地のいわば「別荘地帯」に臨時に拠点を定めたにすぎなかったという点である。これでは、天皇側と上皇側が対峙するという関係になることさえ無理であり、一瞬のうちに勝敗が決してしまったのは、当然であった。
ある程度の両勢力の対立が成立するためには、例えば、上皇側が興福寺の悪僧らを軸にして南都(奈良)に拠点をかまえ、軍事的な小競り合いをくり返し、ある程度の長期戦を可能にする情勢をつくり出すというような、準備と展開が必要であった。前節の最初に述べたように、朝廷側(鳥羽院政-後白河天皇)は、すでに鳥羽院の死を前提として一月前から、謀叛を想定して軍備配置をしていたのであった。鳥羽院が死んだ直後から天皇側は東三条邸に探りを入れ軍事的な圧力をかけていたが、七月八日にはついに東三条邸を接収した。これらは、いわば既定方針通りの争乱の仕掛けであった。上述のように、これらの軍事作戦に使用されたのは、国家権力の行使としての武力・警察力であった。
それに対抗するだけの準備が上皇側にはまったくできていなかった。この段階でさえ上皇は鳥羽に、頼長は宇治にいたのであり、近臣や私兵を集めて上洛し、川向の白川殿に入ったのが前夜である。白川殿ではなく東三条殿を拠点にできていたら、争乱の様相もだいぶ変わっていたであろう。

やっと乱の前夜(七月十日)、白河北殿に合流した悪左府・頼長が、為朝の「先手を取って夜襲し火を掛ける案」を、国家を取りあうような戦にふさわしくない「十騎廿騎のわたくしいくさ(私戦)」の戦法だとして退けた、というところを読み直してみよう。ネット上の多くの論者がこれについて、頼長の事大主義を指摘して、敗因としているからである。
此の条[為朝案]荒儀なり[あらぎ 粗暴である]。臆持なし[問題にならん]。若気のいたす處か。夜討ちなどといふ事は、十騎廿騎のわたくしいくさなどの事也。さすがに主上・上皇の国の争ひに、夜討ちなんどしかるべからず。なかんづく今度の合戦に、源平両家の名を得たる兵共[つわものども]、数をつくして両方にひきわかるる。故実を存じ、互いに思慮をめぐらすべし。用意おろそかにしては甚だかなふべからず。およそ合戦といふは、謀[はかりごと]をもってほんとし、勢をもって先とす。しかるに今院中にめさるるところの軍兵ども、もっていくばくならず。卒爾に[けいそつに]発向せむ事、しかるべきともおぼえず。(古典体系本p85 漢字表記は読みやすく改めている)
わたしは頼長の論は、「主上・上皇の国の争ひに、夜討ちなんどしかるべからず」という事大主義で為朝案を一蹴しているところに問題があるのではなく、十分な戦術的な見通しもなく天皇側の根拠地から2kmほどの至近の位置に来て、怱卒の間に自分らの拠点をつくることを肯定していることにあると考える。上皇側の軍兵が「もっていくばくならず」という評価をみずから持っているのなら、一気に叩かれる可能性のある至近地に近寄るべきではない。ましてその前夜に敵前で議論している場合ではないのである。
げんに『保元物語』は、頼長が上洛する「あやしげなる張輿[はりごし]」を警戒中の天皇側兵士が見つけて確保し朝廷にその報せを入れるのだが、智恵者の信西は、わざと「左府の乗らせ給ふにはよもあらじ」ととぼけて輿を解放し、頼長を上皇と合流させた、としている。

元木泰雄は、頼長が為朝の夜襲作戦を一蹴して退けたという『保元物語』の記述に対して、よく目の行き届いた周到な評価を行っている。
(頼長が為義の夜襲作戦を尊大に拒否したことは)事実とすれば、それは単に武士を見下した結果というだけではない。ひとつには同書(『保元物語』)にあるように興福寺悪僧の来援を待つ目的があったし、また為義と主従関係にあるだけに、その意見の可否も自身が決定するという意識もあったと考えられる。また、軍勢が僅少なだけに、防御を中心とする態勢をとらざるを得なかったし、何よりも合戦を一種の政務、すなわち儀式と考え、夜襲のような無法なだまし討ちを却下したのである。

これに対し、信西を参謀とする後白河陣営では、勝利を至上目的として、坂東で自力救済による合戦に明け暮れてきた義朝の作戦が受容された。(元木前掲書p159)
「合戦を儀式と考える」という頼長の保守的な思考を指摘しているのは注目される。それに対して「坂東の自力救済による合戦」は、中世の武士同士の“勝ちゃあ、いい”という戦闘力を露出させる時代のものなのである。

『保元物語』では、為朝の超人的な武勇談が述べられる。おそらくそれに釣り合うように、合戦前夜の崇徳上皇の御前での議論も、為朝が献策したことにしたのであろう、為義は上皇から「合戦の次第」=戦術を訊かれて、次のように為朝に論を譲るのである。
以前に申上げ候ひつるごとく、為義いまだ合戦に錬せざるものにて候。為朝冠者を召されて仰せふくめらるべく候(同前p81)
「以前に申上げ候ひつるごとく」とは、67歳の老齢を理由に召しを固辞したときのことをさす。為義の祖父は八幡太郎・義家であり、父は『平家物語』冒頭で数え上げられる本朝の五大反逆者の第3番目の「康和の義親」である。義親は平正盛に討たれるので、為義は義家の養子となって清和源氏の嫡男を継ぐ。為義は『平家物語』の「釼の巻」(下)では次のように紹介されている。
義家の嫡子対馬守[義親]、「出雲の国に謀叛の者あり」とて、因幡の正盛を下され、[義親は]かの国にて討たれしかば、四男六条の判官為義に[釼は]つたはる。十四にて叔父[義綱]を討ち、左近将監に任ぜらる。十八歳にて南都の衆徒の謀叛をたひらげ、栗子山の峠より追っ返し、(以下略 新潮日本古典集成『平家物語』下p281)

つまり「為義いまだ合戦に錬せざるもの」どころではなく、少年の頃から近親・親族を討つ厳しい戦いをくぐってきている。十四歳で叔父・義綱を討った、というのは、はじめに養父となっていた義忠の暗殺事件(1109)の下手人として義綱の嫌疑が浮かび、義綱は義弘・義俊らの子息を伴って近江の甲賀山に立てこもった。朝廷は義綱以下の討伐を源家嫡流を義忠から継いだ為義に、義綱以下の討伐を命じたのである。これは、西国で争乱を起こした義親の討伐を義家に命じたのと同じ源氏内紛を醸成したい朝廷の手法である。
為義に急襲された義弘ら子息はつぎつぎに自殺して果て、義綱のみ残って佐渡に流されるが、そこで殺害される。こうして河内源氏の重要な一翼が消滅するのであるが、後に義忠暗殺は冤罪であったことが明らかになる。真相は不明であるが、もう一人の叔父・義光が策謀したものという説もある。
こうして義家が68歳で没して(1106)わずか3年後に、源家嫡流を継いだ義忠が殺され、義綱とその子息たちが亡び、義光は北関東へ去り、その子孫に佐竹氏や武田氏など有力な源氏が生まれ、のちに頼朝の源家再興に力を発揮することになる。そして、若い為義には、河内源氏の嫡流を担うという重責を果たすべき長い人生が待っていたのである。(ここは安田元久『源義家』吉川弘文館1966のp171以下を参考にした。

『平家物語』も『保元物語』も取りあげている為義の有名な逸話は、彼は勧賞の際に陸奥守を強く望み、朝廷は頼義・義家以来の地縁のある陸奥守に為義が任ずることを警戒し、許さなかった。為義は「先祖の国賜はらずしてなにかせん」(『平家物語』)として他国の受領を拒否し、終生、検非違使で終わった。それで「六条判官」という。
しかも、為義は各地に愛妾を儲け、男子46人をつくった。それは源氏の棟梁としての戦略的な行動であったと思われる。長男は義朝であるが、熊野別当・長快の娘ととの間に女傑・鳥居禅尼として知られる女性をも得ている。為義は、一筋縄ではいかない、独自の個性のある人物であったようだ。
為義には)おもひものあまた有ければ、腹々の子ども多かりけり。為義日来[ひごろ]願けるは、男子を六十六人まうけて、六十六ヵ国に一人づつをかんと思ひけれ共、心に任ぬ事なれば、男子は四十六人を持ったりけり。(前掲『保元物語』p146)
上引の『平家物語』の上巻「解説」で、水原一は為義の存在感ある人柄を次のように述べている。
朝廷は他の国守に任じようとしたが為義は陸奥以外に望みはなく、生涯検非違使尉[けびいしのじょう]で通した。その代わりに多くの子女を儲けて諸国に置いた。源氏の天下を実現させる布石だというのだから怖ろしい。事実、後年頼朝挙兵に呼応して平家に矛先を向けた遺児は、三男義教、十男行家の他にも多くいたし、熊野別当に嫁いだ娘の鳥居禅尼は熊野勢力を平氏から源氏へ転回させてしまった。平家を滅亡に追いこんだ力は、頼朝・義仲・義経だけのものではなかったのである。(新潮日本古典集成『平家物語』上巻p387)
「おもひもの」のことだけでなく、為義には全国的な視野があったと思われ、次に引用する『愚管抄』で慈円はよくそれを示している。「十一日議定アリテ」としているが、十日の夜の崇徳上皇の御前でのことだと思われる。
為義ハ新院[崇徳]ニ参リテ申シケルヨウハ、「ムゲニ無勢ニ候。郎従ハミナ義朝ニツキ候テ内裏ニ候。ワヅカニ小男二人[四郎左衛門頼賢 よりかた、八郎為朝]候。何事ヲカハシ候ベキ。コノ御所ニテ待チイクサニナリ候テハ、スコシモ叶候マジ。イソギイソギテタダ宇治ニイラセヲハシマシテ、宇治橋ヒキ候テ[橋板を取り払って]、シバシモヤ支ヘラレ候ベキ。サ候ハズハ、タダ近江国ヘ御下向候テ、甲賀ノ山ウシロニアテ、坂東武者候ナンズ[坂東武者が防いでくれるでしょう]。[坂東武者が]遅クマイリ候ハバ、関東ヘ御幸候テ、足柄ノ山キリフサギ候ナバ、ヤウヤウ京中ハエタタヘ候ハジ物ヲ[堪えきれないだろうに]。東国ハ頼義・義家ガトキヨリ為義ニ従ハヌモノ候ハズ。京中ハ誰モ誰モ事柄ヲコソ伺イ候ラメ。セメテナラバ[出来ることならば]、内裏ニマイリテ、一アテシテ[一合戦して]、イカニモナリ候ハバヤ」ト申シケルヲ、左府、御前ニテ、「イタクナイソギソ。只今何事ノアランズルゾ。(以下略)」(古典体系本p220 漢字は読みやすく改めた)
これと極めて類似した内容が、『保元物語』の「中」のはじめに、出てくる。「仙洞には左大臣殿又為義をめされて、世間のことをのどのどと御談合あり」として、未明には合戦となるという夜に、のんびりと世間話をしていた、ということになっている。

何と言っても、『愚管抄』のこの部分で驚くのは、為義が自軍を語って「まったく無勢です。郎従はみな義朝について内裏に行ってしまった。わずかに小男ふたりがこちらに残っているだけだ」としていることである。為義が息子のうち頼賢、為朝について述べたところである。為朝は『保元物語』が口を極めてその超人的な体格や能力を描き出しているからである。為朝が初めて崇徳上皇・頼長と接見される場面から冒頭だけ引用する。
器量・事柄・面魂、誠にいかめしげなるもの也。そのたけ七尺にあまりたれば、普通の者には二三尺ばかり指しあらはれたり。生まれつきたる弓取りにて、弓手[ゆんで]のかいな馬手[めて]より四寸長かりければ、弓束[ゆづか]をひくこと十五束、弓は八尺五寸、長持ちの朸[あふこ]にもすぐれたり[よりも頑丈なものだ]。(以下略 同前 p81)
『保元物語』では、この後延々と伝説的な武威・武芸が述べられ、「人目をおどろかし、舌をふらずといふものなし[恐れおののかない者はなかった」と言うところまで、「古典体系本」で2頁続く(p81~83)。
為義が自分の息子を紹介するのにすこし謙遜して言うことは考えられなくはないが、『愚管抄』と『保元物語』の正反対な書きように驚く。『愚管抄』の「小男」が事実に近く、後に伝説化した「鎮西八郎為朝」の描像が『保元物語』なのであろう。そう考えないと、存在感ある為義の人間像との整合性がとれない。


  (6) 乱後の処理

戦闘の勝敗は一方的にけりがついた。即死者はほとんど出ず、敗北した上皇側の貴族や武士は姿をくらました。
天皇側の智恵者・信西は、流刑処分を行う方針であるという情報をわざと流して、主だった者たちをおびき出そうとした。実際に数日後から次々に、相談したかのように出家して、降伏してきた。
また平馬助忠政[]、伊勢国へ落たりけるが、死罪を止めらるる由伝え聞て、それも出家して安芸守[清盛]の許へ出でにけり。およそ今度の輩[ともがら]、或は深山にかくれ入、或は遠国に赴き、行方[ゆきかた]もしらざりければ、少納言信西が謀[はかりごと]に、皆死罪を宥[なだめ]られて、流罪にて有べし、その人はその国へ、かの人はかの国へなんど、座異名を定めて披露しければ、道せばき身とならむよりも、配所に至て心安き事もやなんとおもひければ、ここかしこより這出[はひいで]て、悉[ことごとく]きられにけるこそ無慚なれ。(前掲『保元物語』p140)
先に述べたように、崇徳上皇は出家して仁和寺にいることが(七月)十三日に判明した。式部大夫源重成が出向いて上皇を確保した(『兵範記』の表現では「勅定により、守護し奉る」)。よく知られているように、崇徳は讃岐国に流されるわけだが、『兵範記』では同月二十三日に武士が囲んだ網代車で鳥羽まで行き、そこから乗船し讃岐へ向かったことが記載されている。

『兵範記』は十四日に、成隆、忠実、教長の3人が降伏するのが記事になっている。これは“賊軍”側の貴族の主要人物たちである。
皇后宮権亮成隆朝臣出来、去十一日随順左府、被追散御方軍、日来逃隠於仁和寺辺、一昨日出家、即日向別当亭、大理奏聞了、
入道帰住八条家、今日志兼成、依勅定、奉別当宣、向八条相具参内、入道乗車、随兵下部囲繞、於内陣陣頭、西御藏町、蔵人判官俊成志兼成等召問云々、次下給兼成、兼成相具向私宅、付郎従云々、
又右京大夫教長卿、同於広隆寺辺出来、今同参上、左衛門尉季実召具之、其儀如成隆、但不被召問、可有議定云々、

皇后宮権亮[ごんのすけ成隆朝臣が出てきた。さる十一日に左府[頼長]に従っていて、天皇軍に追い散らされ、それからずっと仁和寺のあたりに逃げ隠れていた。十二日に出家した。その日に検非違使の別当[藤原忠雅]亭に向かい、出頭した。大理[検非違使別当]が奏聞した。

入道忠実]は八条の家に帰っていた。今日志[さかん]兼成が勅定によって別当宣を奉り、八条に行き(忠実を)相具して参内した。入道は牛車に乗り、兵や下部が車を取り囲んだ。西御藏町の内陣陣頭において、蔵人判官俊成と志兼成らが尋問した。つぎに兼成に身柄を下し給わり、兼成が私宅まで相具して護送し、郎従を付けた。

また右京大夫教長卿[正三位]は、同じく広隆寺のあたりで出てきた。いま同じように参上した。左衛門尉季実が召し具したが、成隆の場合と同じやり方である。ただし尋問はせず、議定を行うことになった。


:「志 」は、律令官制の四等官[しとうかん]の「かみ・すけ・じょう・さかん」の「さかん」で、検非違使庁・衛門府・兵衛府の場合「志」と書いた。
成隆は、頼長とは父方・母方の双方で従兄弟同士の間柄であり、その近しい関係から頼長の家司として活動し、頼長とともに崇徳上皇方に参加した(前掲 貴族系図)。首を射られ重傷の頼長を馬に乗せ、ずり落ちないように同乗して支えて逃走したのが、成隆である(ただし、岩波体系本では「成澄」となっている)。

忠実はすでに保延六年(1140)に出家し、宇治入道などと呼ばれていた。乱の際、忠実は宇治にいたのだが、むろん頼長と気脈を通じていた。したがって、頼長が疵を負ったことを知ると、いったん南都へ逃げた。重傷の頼長は父・忠実との面会を望むのだが、忠実は罪人となることを避けるために拒絶した。そして、上洛して八条第に入っていたのである。
かつての摂関全盛時代とはちがう院政時代の関白・太政大臣ではあるが、さすがに、その扱いは丁寧である。忠実を車に乗せて移動させているが、その際、「随兵下部囲繞」としているところに注目したい。検非違使庁の「志」である兼成が責任者として八条第で忠実の身柄を拘束し、車に乗せて内裏まで護送するのであるが、その車を検非違使庁の「随兵」と「下部 しもべ」が取り囲んでいた。ここに登場する下部は、放免のことである。この点については、次節で再論する。

“賊軍”側の武士の主要人物と言えば、なんといっても為義であるが、出家した上で十六日に長子・義朝のもとに出頭した。
為義出来義朝許、即奏聞、依 勅定、令候義朝宿所、日来流浪、横川辺出家云々

為義は義朝のもとに出頭してきた。ただちに奏聞された。勅定によって義朝の宿所に留める。ずっとあちこちに潜伏していたが、横川辺で出家した。(『兵範記』七月十六日)
『保元物語』には、6人の息子たちとの別れが長々と述べられ、単身義朝に捕らえられる。その後、為朝を除く5人は捕らえられる。為朝はひとり包囲網をやぶって、行方をくらます。
為義と5人の息子が、義朝によって斬首されるのは同三十日のことである。『兵範記』の記事は次のようになっている。
 為義、頼方[]、頼中、為成、為宗、九郎[為仲
已上左馬頭義朝、於船岡辺斬之、但為義、検非違使季実、依 勅定実験云々、

以上は、左馬頭義朝が責任者となって、船岡あたりで斬首した。ただし、為義については勅定により検非違使の季実が首実検を行った。
平清盛は叔父・忠正(貞)とその息子4人を六波羅あたりで斬首しているが、それは同二八日のことである。それ以外に、崇徳上皇の近臣の武士たち、平家弘・同康弘・同盛弘ら7名が、蔵人判官義康[前掲の源氏系図に出ている。義家の孫、義国の子で足利氏の祖となる]によって、大江山辺( 《注》参照)で斬首された。


上掲系図には、『尊卑分脈』に載っている限りを記入した。『兵範記』では、清盛が扱ったのが「前馬助平忠貞(正)」以下5名。義康が扱ったのが「右衛門大夫平家弘」以下7名、義朝の扱ったのが「前大夫尉源為義」以下6名である。

天皇側の一方的な勝利に終わり、重要な戦死者も出ない短時間の戦闘であったにもかかわらず、武士に対しては厳罰が行われたことは注目される。嵯峨天皇以来347年間死刑がなかったことを『保元物語』自身が指摘している(誠文堂版(1931)の「為義最後のこと」)。特に、義朝に父為義と弟5名を斬らせたこと、清盛に叔父忠正とその息子4人を斬らせたことは、貴族権力の常套的なやり方である。彼らは武士の武力に依拠しつつ、しかしその勢力が大きくなりすぎないように調節するのに絶えず同族の内紛を醸成してきた。既述のように、義家に義親討伐を命じ、為義に義綱討伐を命じた。その狡猾・陰険な手法が遺憾なく発揮されたのである。
武士の死刑について、元木泰雄は次のように述べている。
これまでも反乱鎮圧に際して謀反人の殺害はあったし、武士はもちろん摂関家内部でも私刑として死刑はみられた。しかし、反乱でも降伏した者を処刑することはほとんどなく、公然と死刑が行われたのは異例の事態であった。(元木前掲書p167)
次節で扱うが、上皇側の貴族たちには死罪は適用されず、流罪であった。

ここまでで触れていない重要事は、老練な大物政治家忠実の身の処し方である。
宇治にいた忠実は、上皇・頼長側の敗北を知るとただちに南都におもむき、興福寺の僧兵らのとりまとめをしている。これは、万一の場合の自由になる武力を確保しようとしていたのであろう。その状況下に瀕死の頼長から最後の面会をもとめる使者が来る。忠実はその段階で摂関家の膨大な資産を防衛することを至上命題と考えていた。つまり、「権門」を守るということである。老練な政治家として、断然私情はたち切り、頼長とは会わない。つまり、そのことによって忠実は「乱において中立であった」という証を立てたのである。
忠実は天皇側に、忠実・頼長が保持する摂関家・権門の資産を「没官 もっかん」されてしまうことを最も恐れていた。そのために、彼は天皇側にいた息子・忠通と(書簡によって)接触し、共同戦線を張る。摂関家の財産を天皇側に巻きあげられることの不利は、摂関家の一員として忠通はよく分かっていた。ゆえに、従来のいきさつを忘れて、父・忠実の策に乗るのである。

鳥羽院の死去をチャンスと見て、崇徳上皇をたたきつぶし、氏長者・頼長を敗北させてその所有する摂関家資産を没官することを目論んだのが天皇側であった。崇徳上皇をつぶすことは文句なく成功した。頼長は敗死したが、老練な忠実の粘り腰と忠通との共同戦線によって、摂関家資産はかなりの程度守り通すことができた。元木泰雄は『藤原忠実』の「むすび」でつぎのように総括している。
忠実の最大の功績は、多大の荘園を集積して中世摂関家の基礎を築いたことにある。その荘園の多くは、保元の乱における没官の危機を乗りこえて子孫に伝領され、近衛家以下の基盤となったと考えられる。こうした荘園集積と関連して、管理する武力も整備され、また武力を通して藤原氏の宗教的権威興福寺の統轄も可能となったのである。私領と主従関係を基軸とした権門を確立した点に、忠実の新たな時代に対する鋭い見通しを看取することができる。忠実には、従来の摂関家当主の殻を破る大胆で果断な性格が具わっていたと言えよう。(元木前掲書p197)
《注》大江山について
「大江山」というと多くの人は丹後半島の大江山のことだと思うだろう。酒呑童子の鬼や、百人一首の「大江山生野の道は遠ければ・・・」などを連想するところだ。しかし、丹後半島の大江山は遠すぎるのではなかろうか。

清盛が叔父らを斬首したのは六波羅あたりの鴨河原、義朝が父や兄弟を斬首したのは船岡あたり(京の北辺)とされるのに対して、ひとり蔵人判官義康だけが数日の旅程を必要とする丹後半島まで崇徳上皇近臣ら7名を率いて行って、そこで斬首したとは考えにくい。よほどの理由が有れば別だが、もし、そうなら『兵範記』などがその理由について触れるはずである。

そういう疑問を持っていたところ、元木泰雄『藤原忠実』(人物叢書 吉川弘文館2000)の巻末の地図「平安京・宇治周辺」(p206)に、「大江山」の記載があった。場所は、桂川(大井川)対岸の嵐山近くである(本文中には記載がないようだ)。京都の地名に通じている人にとっては常識に属することかも知れないが、この辺りには「大枝」という地名があり「大枝山」という山名もある。
京都盆地から山陰道へ出る峠道の「老の坂峠」(現在は京都縦貫自動車道路のトンネルがある)の所である。「老の坂」は「大枝坂」の転訛で、酒呑童子もここが本家だともいい、酒呑童子の首を祀った「首塚」神社もある。ここは古代からの要路・重要地点で、「大枝」は京都の「四堺 しさかい」のひとつである(残りは、山崎・逢坂・和爾。和爾は北国街道への出口で逢阪と同じく大津市)。こういう所に「鬼」が棲みつくのは、ありそうなことだ。
蔵人判官義康が崇徳上皇近臣の平家弘ら7名を斬首した「大江山」は老の坂峠の「大枝山」であった。ここには「大枝の関」という関所が設けてあったといい、謀反人を斬首する絶好の場所のひとつであったと考えられる。
平安京からの山陰道は鳥羽作り道を西におれ大縄手を西に進み桂川を渡り丹波国境の老坂に向かう。最初の駅は丹波の国にあったとされる大枝駅である。(古代交通研究会編『日本古代道路事典』八木書店2004 p21)
小式部内侍の「大江山生野の道の遠ければ・・・」は、まちがいなく丹後半島の大江山である。母の和泉式部が丹後に滞在しているのをからかわれたときに小式部内侍が切り返した和歌であるから。だが、鬼伝説は大江山にも大枝山にもあったようである。

ついでに為義塚のことに触れておく。為義らは上述のように船岡山あたりで斬られたと『兵範記』に明記されているが、『保元物語』(中巻、「為義最後の事」)では「七条西の朱雀」で家人の鎌田二郎正清が為義の首を落とし、北白川円覚寺(現存せず)で火葬にしたとなっている。そのためか、為義塚は下京区千本七条あたりにあった(『都名所図絵』巻四)。今はそのちかくの権現寺に「墓」が設けられている。






  (7) 『保元物語』の〈放免〉

頼長が首に矢疵を負ったことは戦闘のあった当日(七月十一日)に分かっていた。しかし、そのあとの頼長の消息が不明であった。朝廷では、その確実な情報を得ようと、真剣な探索が行われていたらしい。たとえば、十三日の『兵範記』には、戦闘当日に頼長に扈従していた者がつかまり、内裏に送られて調べられたことが記録されている。
左府職事、蔵人大夫清頼被搦出、彼合戦日扈従者也、副武士、自殿下被献内、於禁中、蔵人俊成召問云々、彼在所并生死猶不分明云々、

左府職[頼長]のことだが、蔵人大夫清頼というものを搦めいだした。この者は合戦の日に左府に扈従していた者である。警護の武士をそえて殿下[忠通]より内裏に献上した。蔵人俊成が取り調べた。が、頼長の居所や生死はなお明らかになっていない。
21日の『兵範記』の書き出しは、次のようなものだ。
左府生死日来未定、被召出之輩、各称申趣、皆有疑殆

左府[頼長]の生死は何日もずっと定まらない。召し出された者たちの各々の申す趣は、皆ほとんど疑わしい。
ところだが、同日、ついにかなり確度の高い詳報が、頼長の従弟の僧玄顕から入った(貴族系図)。
顕憲息玄顕申云、十一日合戦庭被疵、十二日経廻西山辺、十三日於大井川辺乗船、同日申刻付木津辺、先申事由於入道殿、依不知食、扶持輩渡申千覚律師房、其後一夜悩乱、十四日巳刻許薨去、即夜乗輿竊葬於般若山辺、骨肉五体併雖不違、直殯了者、依此申状、今朝差定官使史生并滝口三人、相具彼玄顕遣南京了、

顕憲の息子の玄顕が申し立てたところによると、頼長は十一日に合戦の最中に疵をうけた。十二日には西山あたりをへめぐった。十三日には大井川の辺りで船に乗り、同日夕方5時頃木津あたりについた。まず、事のよしを忠実入道殿へ申し上げようとしたが、知ろしめさぬということなので、お世話している者たちの判断で千覚律師[頼長の母方の叔父]の房にお渡し申した。それから一夜苦しまれて、十四日午前10時ごろに亡くなった。その夜に輿に乗せてひそかに般若山あたりに葬った。お体は五体そろって間違いはなく、直にもがりをした(骨肉五体併雖不違、直殯了)。この申すことにより、けさ、官吏史生と滝口3人を定めて、かの玄顕をつれて南都へ遣わした。
翌日、墓を確認してきた者たちが帰参し、仔細を奏聞している。それで頼長の死が確かなものとなり、朝廷は安心したのであるが、二十一日に玄顕が詳細を申し立てているのと並行して、事情を知っているとみられた盛憲らに対する厳しい拷問が実行されていた。
『兵範記』の二十一日の最後の行は、次のようになっている。
今日盛憲法師、於左衛門府庁、拷訊覆問、杖七十五度、

今日、出家している盛憲に対し、左衛門府の役所で、杖75回の厳しい拷問による尋問が行われた。
盛憲は『尊卑分脈』によると「昇殿、正五位下、少納言」であり、れっきとした地位のある貴族である。それに対して、公然と拷問が加えられることは、異例のことで、衝撃的であった。『保元物語』では、日にちを七月十五日に引きあげて、経憲もおなじ拷問の扱いであったとしている。しかも、その場面に放免が登場する。
同十五日、左京大夫教長卿・四位少納言成澄・能登守家長・式部大夫盛憲、蔵人大夫経憲以上五人、三条[東三条邸]にして推問せられけり。
其中に盛憲・経憲は、左府[頼長]の外戚なれば、事の趣をも存知、近衛院・美福門院を呪詛し奉り、徳大寺を焼きたりし事[同年五月に内大臣徳大寺の堂に乱入し放火するという事件]もしりたるらんとて、滝口の奏資泰に仰せて、靭負庁[ゆげいのちょう]にして拷訊[ごうしん]を加へ、放免の者、庁の前に引出[ひきいだ]して、衣裳をはぎとり、頸に繩をかけ、この人々手をあはせ、こはいかにしつることぞやと、もだえこがれけるこそあさましけれ。
座につらなる官人ども、目もあたられず、面[おもて]をそばめて居たりけり。されども刑法かぎりありければ[刑法の定めであるから]、七十五度の拷訊を経、はじめは声をあげさけびけるが、後には声もせざりけり。悶絶びゃく[足+辟]地して絶え入りけるこそむざんなれ。五位以上の者、拷訊によせらるる事、先例まれなり。
(漢字、送りがなは一部変更した、前掲書p133)
盛憲、経憲兄弟に拷問を加えて、頼長の行方に関する情報を吐き出させようとした。その後で、庁の前に引き出して裸にして頸に繩をかけ、動物と同じ扱いにしておいて、放免に杖の刑75回を加えさせた。公開の刑罰である。
その際、実際に暴力的な刑を加える役として放免が登場するのである。刑の執行という「汚れ役」に、通常の社会生活の埒外にいる存在として放免が使われたと思われる。そのような「汚れ役」にも使える者たちを検非違使庁では「下部 しもべ」として常に用意していた。本来は、役所や街区の清掃のために使役した囚人などが起源であったのではないか。この点は、重要な問題なので、改めて別の論文で考えてみる予定である。

既述のように武士たちの斬首は七月二十八日と三十日に行われた。貴族たちの罪刑はすべて流刑であった。それの実施は、八月三日に行われている(崇徳上皇を讃岐へ流すのは既に七月二十三日に行われた)。
「謀叛」(これは『兵範記』の語)に与った武士たちと貴族たちの罪刑が違うこと、いまわたしたちが千年以上前の保元の乱をふりかえると、主犯は貴族たちで武士たちは兵力として声をかけられ集められたに過ぎないのに、貴族は流刑、武士は斬首となっていることについて疑問を感じる。わたしは保元の乱では、武士と貴族では扱い方がまったく異なっている、と考えたい(信西が死刑制度を復活させたということになっているが)。武士は“首狩り族”的な決着の付け方がとられていた。貴族は“追放刑”である。しかし、もし、頼長が生きていたら、どうであったであろうか。
3年後の平治の乱では、まさに信西自身の首が斬られた様子は『平治物語絵詞』で印象深い。源光保が埋められている信西の墓を暴いて首をとったというが、切腹しようとしていた信西が見つけられて斬首されたという異説もある。信西の弟子にあたる西光法師が清盛の怒りをかって「五条西の朱雀」で斬られた(『平家物語』巻二)という例もあるが、この鹿ヶ谷事件の際も、成親らことごとく流罪になっている。流罪先で暗殺されるということもあるが、源平合戦のなかでも、貴族は基本的に流罪である。

さて、元に戻って、保元の乱後の貴族たちの流罪を書き出しておく。『兵範記』の八月三日条で、「謀叛輩」と書いている。先ず、いずれも頼長の4子(貴族系図)。
兼長卿:出雲  師長卿:土佐  隆長朝臣:伊豆  僧範長:安房
『保元物語』は、この4人が配所へ送り出されるまでを、次のように述べていて、『兵範記』との食い違いを見せている。4人は「南都禅定院」(興福寺内の一院)に拘留されていたが、二十八日に「山城国稲八妻[いなやづま]」というところに移された。三十日にそれぞれの配所に向かって、送り出された。
追立[おったて]の官使[くはんし]は検非違使正重・資能[すけよし]也。御馬にめさるべくは[もし馬を使うのなら]、丁[ちょう 検非違使庁]の下部しもべ]承って取寄むとて、取りよせたりければ、鞍具足以下あさましげなるにめされて、各[おのおの]色の御姿[いろのおんすがた 喪服の色の姿で]東西南北へ趣わせ給ひける御有様、めもあてられず哀れ也。(前掲書p167)
馬の口取りをする男が「庁の下部」であり、これは放免とは限らないが、放免であった可能性もある。「牛飼」という特殊な階層であった可能性もある(拙論「〈放免〉と〈着ダ〉」の(8)参照)。

筝や琵琶の名手として知られる妙音院師長は罪を許されて9年後に都に戻り、後白河法皇の側近として活躍し、父頼長も果たせなかった太政大臣になる。が、治承三年(1179)の清盛のクーデターでは再び流罪となり、尾張国へ流される。『平家物語』で詳しく述べられるところだ。残りの兄弟たちの運命もそこに述べられているので、引用する。
太政大臣師長は、官をやめて、あづまのかたへ流され給ふ。去んぬる保元に、父悪左府大臣殿[あくさふおほいどの]の縁座によて、兄弟四人流罪せられ給ひしに、御兄右大将兼長、御弟左[ひだん]の中将隆長、範長禅師、三人は、帰洛を待たずして配所にて失せ給ひぬ。(以下略 新潮日本古典集成『平家物語』上 p273)
すなわち、師長以外の3人はみな配所で死んだ。

『兵範記』が記録したこれ以外の流罪者は、つぎの9人である。この中には、拷問をうけたという盛憲の兄弟経憲・憲親も含まれている。
教長卿:常陸  成雅朝臣:越後  盛憲:佐渡  経憲:隠岐  実清朝臣:土佐  成隆朝臣:阿波  俊通:上総  憲親:下野  正弘:陸奥
盛憲は『尊卑分脈』で「二条院召返」とあり、佐渡から帰京できたことがわかる。経憲については不明である。他にも帰京が確認できるのは、教長・成雅・成隆である。

流刑は、近流・中流・遠流などの形式的分類では実態に迫ることのできない、難しい問題があるようだ。現地での扱い、気候条件、本人の健康状態などによって結果は大いに異なる。頼長の4子の場合のように、流刑地で死亡することも多かったと思われる。
したがって、武士に対して行われた斬首に対して貴族に対して行われた流刑が軽い刑であると、結果を見れば、必ずしも言い切れない。しかし、上述のように信西が流刑をわざとほのめかすことによって逃亡していた者たちが次々とあらわれてきたように、斬首と流刑の差は厳然たるものがあったのは、これまた、事実であろう。

最後に、「下部」と「放免」の関係について、指摘しておきたい。まず、盛憲が拷問をうけるシーンを、異なるテキストから引用してみる。
 皇后宮権大夫師光入道・備後守俊通入道・能登守家長入道・式部太夫盛憲入道・弟、蔵人大夫経憲入道をば、東三条にて推問せらる。内裏より蔵人右少弁資長・権右少弁惟方・大外記師業、三人承って奉行せり。
 中にも盛憲兄弟、先[さきの]瀧口秦助安等をば、靭負庁にて拷問せられけり。是等は左大臣の外戚にて有ければ、事の起り知りたるらん。又近衛院并に美福門院を呪咀し奉り、徳大寺をやき払ったるゆへをとはるゝに、下部先衣裳をはぎ取て、頸に縄をつけければ、盛憲下部に向って手をあはせ、「こは何事ぞや。吾をたすけよ。」といひければ、座につらなる官人共、目もあてられず覚けり。然れども刑法限ある事なれば、七十五度の拷訊をいたすに、始は声をあげてさけびけれども、後には息絶て物いはず。(以下略 誠文堂『保元物語』(1931)
古活字本『保元物語』(岩波古典体系31の「付録」になっている)も、ほとんど同一である。
先に岩波古典体系本『保元物語』から七月十五日の拷問の場面を引用したのと比較してもらいたいが(ここ)、そこで「放免」としていた個所を、こちらでは「下部」にしているのである。つまり、よりふるい本文で「放免」としていたのを、後世には「下部」とした場合があった、と考えられる(「放免」の語義が忘れられ難解になった、などの理由か)。
このことを普遍すれば、検非違使庁の「下部」と述べている個所は、「放免」の可能性があるということになる。『平家物語』の最初の戦闘シーンとして印象深い、長谷部信連[はせべのぶつら]が、高倉宮以仁王[もちひとおう]の留守宅を独り守っての奮戦に、大力の「下部」が登場する。
下部のなかに金武[かねたけ]といふ大力[だいぢから]の剛の者あり。大長刀の鞘をはづし、信連に目をかけて斬ってあがれば、同類ども十四五人ぞ続いたる。(新潮日本古典集成『平家物語』上p316)
この「下部」およびその「同類ども」は、「放免」の可能性がある。すくなくとも、「放免」が混じっている可能性はおおいにある(拙論、「長谷部信連をめぐって」の(3.3)参照)。




保元の乱について、  併せて『保元物語』の〈放免〉のこと --- 終り


2010年  1月26日(増補)
T.U.氏のご指摘により、誤記4カ所訂正 2011-8/22



図表の一覧

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