百茎根 ももくきね


本文へ戻る  実利行者立像の讃解読  き坊のノート 目次





「実利行者立像」の「讃」の第1行目にでてくる難解語「ももくき根」について、調べたことを、ここにまとめておく。

本論の【3】で述べたように、当初わたしは「讃」の第1行目の「ももくき根」の意味が見当もつかず困りはてていたが、“「ももくきね」は美濃に関連する語ではないだろうか”と想像しながら手元の国語辞書(三省堂『大辞林』)を引いてみて、「ももきね」が万葉集に登場する「美濃の枕詞[まくらことば]」であることを知った。
今考えてみると、最初に国語辞書で「ももきね」を知ったことが、だいぶ後まで、万葉集を調べるときのわたしの姿勢にも影響してしまっていた。この小さなまとめを書く動機の中心は、その当初の姿勢を修正すべきだと考えるに至った過程を明らかにしておくべきだと思ったことである。

《1》 はじめに

万葉集の「ももきね」と、「讃」の「ももくきね」とは似ており、関連しているだろうと思い、その時点でわたしは次のように飛躍して考えた。
「ももくきね」は「ももきね」と同様に美濃にかかる枕詞であろう。というのは、
ももきね  百木根
ももくきね 百茎根
というふうに漢字を宛てるのが妥当だと考えられること、もしそうであるなら、多数の植物が茎や根を繁茂しているというイメージは美濃の枕詞としてふさわしいのじゃないか、そのように考えられるからである。
ここでわたしが宛てている漢字「百木根」も「百茎根」も、わたしが発案したものであって、万葉集の万葉仮名やその他の文献とは独立のものであった。
わたしはその時点では、こういう極く大ざっぱな考えで済ませた。というのは、冒頭のこの難解語に見当が付くようだったら「讃」の解読に挑戦してみよう、見当もつかないようだったらあきらめようと考えていたので、「ももくき根」が美濃を導き出すために使われている語であるようだ、という見当が付いたところで、それ以上の検討はやめて「讃」の解読へ進んでいったからであった。

しかし、ひとまず本論が仕上がって決定稿としてサイトにアップした(8/6-2010)後に、改めて読み直してみると色々と本論に疵があることが見えてくるが、なかでも「ももくきね」の扱い方に問題を感じた。しかも、大ざっぱな考えで通過したまま放置してあるので、あたかもわたしが「ももきね 百木根」や「ももくきね 百茎根」の漢字の宛方や、それらの枕詞としての考え方に結論を出しているかのようになっていることに気付き、それはまずい、と思った。たとえば
多数の植物が茎や根を繁茂しているというイメージは美濃の枕詞としてふさわしい
というような考え方がどの程度正当であるのか、または、誤っているのか、そういうことについての自己評価がまったくなされていない。このまま放置しておけば、当然、わたしがそれを正当と考えているということになる。
それゆえ、 などを、とりあえずの課題として調べてみることにした。

《2》 万葉集の「ももきね」

万葉集の「ももきね」を調べるのがいちばん取りつき易く感じられた。万葉集の解説書・参考書は図書館にいけば壁をうずめて無数にならんでいることを知っていたから。
手始めに、定評のありそうな岩波古典体系本の『万葉集』(一~四)から、巻十三、3242の長歌を引いておく。
 3242 ももきね 美濃み のの國の 高北たかきたの 八十一隣く  く  りの宮に 日向尓 行靡闕矣 ありと聞きて わが行く道の 奥十山おきそやま 美濃の山 靡けと 人はめども く寄れと 人はけども 心無き山の  奥十山 美濃の山 (岩波古典文学大系6『万葉集三』(1960)p347)
はじめの番号「3242」は、日本の主要和歌をはじめて集積し番号を振った画期的な書物『国歌大観』(松下大三郎ら、1901)の番号である。

万葉集約4500首で、「ももきね」という語は、ここに1回登場するだけである。
いうまでもなく万葉集の原典はすべて漢字の「万葉仮名」で記されている。上記 3242 は原典には次のように書かれている。
 3242 百岐年 三野之國之 高北之 八十一隣之宮尓 日向尓 行靡闕矣 (以下略、同上p346)
カタカナ・ひらかなが成立したのは平安時代であり、それ以前にできていた歌集である万葉集は、漢字の音や訓(や語義)を工夫して日本語の歌を文字に書きとめたのである。それが万葉仮名である。したがって、万葉仮名で書かれている万葉集をどのように読むかというのは、後世の鑑賞者にとっての難しい課題である。
つまり、上の原典 を岩波古典文学大系の編者たち(高木市之助ら)が読んだ(訓んだ)のが、 なのである。原典B は写本の繰り返しによって長い間伝わってきているのであるから、異本が生まれるのは当然である。それを、各時代の鑑賞者(学者)が色々の考えのもとに読むのであるから、訓読A は更に異説が発展するのも避けがたい。

当面のわたしのターゲットである「ももきね」について言えば、
百岐年  ⇒  ももきね
と、高木市之助らが訓読したのである(『万葉集 三』の初版は昭和35年1960)。この岩波古典体系本が原文を「百岐年」とし、「ももきね」と読んだことは分かるが、それがどのような変遷をしてきた説であるのか(または、変遷がなかったのか)というようなことは、この古典体系本を見ているだけではわからないのである。

万葉集の成立は奈良時代末(8世紀後半)と考えられており、平安時代にはすでに一般の人には難解で読めなくなっていた。天暦年間(947~957)に漢字ばかりの万葉集に平仮名の訓を添えることが行われた(源順・清原元輔ら5人)。これを「古点」という。そのあとをついで平安時代に、「古点」で訓みが与えられなかった長歌などにも訓みを付ける努力が行われたが、それを「次点」という。
鎌倉時代中期に仙覚が、当時見ることのできた十数本を校訂して1本にまとめた。これを「新点」という。そののち江戸時代まで伝わり、多くの伝本が行われたのは、ほとんどがこの仙覚の系統である。江戸前半の寛永二十年(1643)に板行された「寛永本」は江戸時代の流布本としてほとんどの学者が使用している。
佐佐木信綱らによって大正13年(1924)に完成した『校本万葉集』は、その時点で集められるすべての平安・鎌倉の古写本を集め、寛永本を底本として厳密に校合して完備した校合本である。昭和以降の万葉集研究は、すべてこの『校本万葉集』を基礎において発展した(この部分は、古典体系4『万葉集一』の「解説」をもとにした)。

『校本万葉集』は主要な公立図書館では所蔵していることが多いので、万葉集を調べる際にはぜひ利用すべきである。次図2枚は、『校本万葉集』の 3242 の本文が出ているところと、「百岐年」の「諸説」の部分のみを切りだしたところである。

これが、3242 の長歌の、寛永本の本文とそれに校合が書き込んであるところである。何よりも驚くことは、活字で組んでおらず、清書した原稿の写真版を印刷していることである。この『校本万葉集』が成るまでの苦心や関東大震災に遭った悲運などは、『校本万葉集一』に述べてある。難しい字など活字の一部は木活字を作って印刷するというような難事業にどの出版所も引き受けず、やむを得ず能書の人々十数名に原稿の清書を依頼し、写真版を印刷することにしたのだそうである。

一番上の欄外に、3242の『国歌大観』番号とこの長歌が載っている原典の諸本が漢字一字の略号で書いてある。「元神西天細温矢京」この8種の諸本に3242 が出ているので、それらと寛永本と対校したというのである。略号の説明は『校本万葉集一』のはじめに詳述してあるが、ちょっとだけ挙げておくと、
:元暦校本:古川男爵及高松宮家蔵
:神田本:神田男爵蔵
西:西本願寺本:竹柏園蔵
という具合である。なお、校合に使った諸本は、底本とした寛永本以外にすべてで20種が掲げてある。

次の段は、3242 が出ている8種に対する、注である。
元、天、訓ヲ附セズ。
西、細、温、矢、京、訓ヲ朱書セリ。
ここに登場しない「」は、黒字で訓がほどこされている、ということになる。

3段目が本文で、われわれのターゲットだけ、取りあげておこう。
モヽクキ
言うまでもなく「子」は「ネ」と同じである。
この本文は寛永本そのものに校合したあとの注が書き込まれた状態である。だが、「モヽクキ」には、(一)(二)とか(い)(ろ)とか注のある印がなにも書き込こまれていない。ということは校合に用いた8種の諸本のすべてが、寛永本と一致していたということを意味している。つまり、平安時代から江戸時代までの校合に用いた諸本すべてが、
百岐年  ⇒  ももくきね
と読んでいたことを意味している。国語辞典や岩波体系本のいう「ももきね」ではないのである。これは実に意外なことで、わたしはしばらく、このことの意味を理解することができなかった(下で詳述する)。

校合によって異った文が存在する例は、すぐ下の「三野之國之」の所にある。訓が「ミノノクニノ」と示されているが、「ミ」の右肩に「(い)」とある。これは訓についての異文が存在するという注である。以下、(ろ)、(は)、(に)と続く。
その注の本文は左数行先の[訓](い)の所にあり(上図には含まれない)、「神」本では、「ミノノクニナル」としていることなどが示されている。また、同様に本文の異文については(一)、(二)、(三)などが左側に示してある。

ここまでは、万葉集の本文とそれの訓読に関する校合であった。『校本万葉集』が一般の読書人(や研究者)にとって有用であるのは、万葉集に関する江戸時代までの有名な研究書・注釈書について、各歌の各句についての説や異見を取りあげていることである。[諸説]という項目である。そこに、われわれのターゲット「百岐年」が取りあげられている。

「百岐年」については3つの注が付いている。
はじめの「」は、荷田信名『万葉童蒙抄』(享保年間1716~35成立)で、「モヽシネノ」と「シ」音の入った訓読が示されている。
ふたつ目の「」は、賀茂真淵『万葉考』(明和五~天保六年1768~1835)のこと。「百詩年」と「岐」を「詩」に替え、訓みは「モヽシネ
3つめの「」は、鹿持雅澄『万葉集古義』(文政十年1827ごろ)で、「百傳布」と2字も替え、訓みは「モヽツタフ」とした。

「百岐年 ももくきね」という説が長い間行われてきたが、それが「三野」=「美濃」の枕詞らしいとはされても、どのような掛かり方で枕詞になるのか、不明のままであった。万葉集本文訓読において、はじめて「ももしね」という「シ」音の入った訓みを示したのが荷田信名『万葉童蒙抄』なのであった。『校本万葉集』は網羅的な探索を行っており、このような歴史的推論(『童蒙抄』が「シ」を入れた訓を最初に示したという推論)が十分な根拠をもって可能なのである。
ここまでで、『校本万葉集』の紹介とその利用は一応終了するが、ネット上に構築中の万葉集校本データベースというサイトを紹介しておく。奈良女子大などが中心になっている組織らしい。簡単に言うと『校本万葉集』を電子化したものであるが、実際には『校本万葉集』の幾倍かの分量の情報が盛ってあり、しかも、ずっと見やすい。各歌ごとに各句を多数の写本原典からの写真版で見せたり、多数の注釈本からの原文・訓読・解釈などを一覧表で参照できるようにしている。
現状では未完成で部分的にしかアクセスできない。登録制だが、登録には特別な制限事項はない。


だが、『万葉童蒙抄』よりも半世紀前の下河辺長流『萬葉集管見』(寛文年間1661~73)は、すでに、つぎのような注目すべき見解をのべている。
もゝくきね三野の國  「もゝくきのみの」トいふ詞也。「ね」と「の」ト五音通スレハ、「もゝくきね」とモいへり。
これは、蓑を作るに、さゝめといふ草を刈て、其莖を用ル故に、「もゝ」はおほき心也。おほくノ草のくきにて、したる簑トいふ心也。此卷に、「もゝさゝのみのゝおほきみ」トいふうた有。可思合。亦云、「もゝさゝのみの」トハ、篠にのなる故に、或は「さゝのはの、み山」トもつゝく、其心也とも云り。


(「私設万葉文庫」という驚くべき多数の有用な文献をアップしてあるサイトからいただいた「萬葉集管見」をもとにしている。そこの「第十三巻」を探せ。ただ、引用には読み易いように多くのカッコを用いた。)
下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)は、伝統的な訓であった「百岐年 ももくきね」には手を加えていないが、「ももくきみの」は意味的には「ももくき・・みの」すなわち「百茎の蓑」のことであり、「ね」と「の」は音が転訛しうるので、「ももくき・ね・みの」となったのであろう、と推論したのである。
蓑を作るのに「ささめ」という草の茎を多数使うという事実を踏まえて、おなじ巻十三の少し先の長歌 3327 にある「もも小竹さ さの 三野のおほきみ」と較べてみるべきであろう、としているのである。 このようにして、下河辺長流は「蓑」=「美濃」の同音によって、「百岐年 ももくきね」が美濃の枕詞となる理由を説明しようとしている、と考えられる。ただ、そうであっても、長流は万葉集本文とその訓読は、伝統的なもののままにしておく、という立場であった。

荷田信名『万葉童蒙抄』は、下河辺長流『萬葉集管見』の発想と同じく、「百岐年 ももくきね」を理解するのに 少し先の長歌 3327 と関連させようとしている。
もも小竹しのの 三野のおほきみ
「小竹 しの」との関連をつけるのに、「百岐根 ももね」と新たな訓を試みたのである。賀茂真淵『万葉考』は、この発想を更におし進めて、「岐」⇒「詩」の誤字説を導入して、「百詩年 ももしね」としたのである。
上と同じく、「私設万葉集文庫」の『万葉考』から、3242, 3327の該当部分だけを引いておく。
3242 百詩年モヽ シネ 三野ミ ヌクニ

3327 百小竹モヽ シヌ 三野ミヌノオホキミ
このように、賀茂真淵は 3242, 3327 において、「三野」=「美濃」の枕詞として事実上同一の「ももしね」=「ももしぬ」を考えていたのである。
国学の伝統の中で、この考えは受けつがれ、橘千蔭『万葉集略解 りゃくげ』(文化九年1812)は、師の真淵の誤字説をそのまま引き継いでいる。
百岐[岐ハ詩ノ誤カ]年。三野之國之。

ももしね。みぬのくにの。
(日本古典全集『万葉集略解巻六』p154)
千蔭は注で次のように述べている。「百の下、岐は詩の字の誤か。モモシネ、枕詞
さらに折口信夫『口訳万葉集』(大正5年1916)は、
3242 もゝしね三野ミヌ

3327 もゝしぬの三野ミヌ オホキミ
と『万葉考』と同じ訓みにしている。興味深いことに、折口信夫『万葉集辞典』(大正8年1919)は、しの竹-蓑-美濃の連関に言及して、枕詞の掛かり方を説明しようとしている。上で説明したように、この発想は下河辺長流にさかのぼるものである。
もゝしぬ-の 枕みぬ。「ももしぬ」は百小竹で、「百」は数の極めて多い事。「しぬ」は小竹、或は柔軟な竹草の類をも言ふ。其「しぬ」で蓑を作る處から「みぬ」に言ひかけたのである。

もゝもしね 枕みぬの國。「ね」も「ぬ」も同じ事である。茲に更めて説明するにも及ばぬ。
(折口信夫全集6、引用のカギ括弧は原文は傍点)
武田祐吉『万葉集』(上下 角川文庫1955)では、「もも」と訓みを示しているが、脚注には次のような、独自の案が示されている。
枕詞。語義不明。百枝の稲か。(下p93)
つまり、「ももいね」が元の形で、それが転訛して、「もも」となったのだろうか、という案である。


《3》 万葉集の「ももきね」(続き)

本稿の読者は、奇妙な事態が起こっていることに気がついているだろうか。現代の国語辞典に「ももきね」が出ていて、それが万葉集の「美濃の国」の枕詞である、としてある。わたしはそれに気付いたところから本稿をはじめている。そうであるならば、万葉集において「百岐年」の訓としてまずはじめに「ももきね」が出てくるものと期待するであろう、最も標準的な訓として。
ところが、《2》で見てきたように、「百岐年 ももくきね」が伝統的な訓として最初に出てきて、それの修正案として「ももしね」が出てきて、その説は第2次大戦後にまで影響を与えている。また、別系統の「ももづたふ」もでてきた。しかし、どこにも「ももきね」は出てこないのである。このことは、大正13年(1924)に成った『校本万葉集』で確かめられる。その時点までの万葉集の基本文献の集大成である『校本万葉集』に「ももきね」は出てこない。
《2》において「百岐年 ももきね」の訓の例をあげたのは、いずれも戦後の岩波古典体系本『万葉集』と武田祐吉『万葉集』と国語辞典『大辞林』であった。これは、いったいどういうことであろうか。

この疑問が一挙に晴れたのは2001年出版という新しい本で、澤瀉久孝[おもだかひさたか]『万葉集注釋』(巻第十三 中央公論2001)だった。これの 3242 についての【訓釋】というところに、次のように、江戸時代以前から昭和の岩波古典体系本までの主要な説が概観してあった。
ももきね――旧訓モゝクキネとあり、代匠記に「百岨嶺[クキネ]ト云義ニテ、山ノ多キ意歟」とし、童蒙抄にはモモシネノと訓み、「百小竹之[モモシノノ] 三野王[ミノノオホキミ]」(3327)の例ある事を述べ、「岐の字枝の字の誤り歟」とし、に「百詩年[モモシネ]」とし、「しなゆる草のみぬといふは、いまも沙草さゝめなどいひて、ほそく長き草もてみのは作れり」といひ、古義に「百傳布[モモツタフ]」の誤とした。全釈に文字のまゝモゝキネとして以来その説が行われるに至ったが、そのかかりのわからない枕詞である。「百小竹之」との関係について、古典体系本に「シ→キという変化は少ないから、モモキネの方が古い形と思われる。あるいはモモキネの意味が当時すでに不明になってモモキネを変形して意味の分かるモモシノノ(多くの小竹の生えている)という新形が作られたのではあるまいか」といふ試案を出されてゐる。たしかにさうした事も考へられる。(『万葉集注釋』巻第十三 p56)
ここには時代順に主要な説が並べてあるが、圧縮して書いてあるので難解なところがあるので、一つずつ取りあげておこう。 鴻巣盛広[こうのす もりひろ]は旧制第七高等学校(鹿児島)の教授、のちに第六高等学校(金沢)の教授となった万葉学者で、浩瀚な『万葉集全釈』を完成させている。この稿が成るまでの苦心は第1巻「緒言」に詳述してある。なお、その中に、『校本万葉集』の完成間近の原稿・資料などの多くが関東大震災で失われた際に、佐佐木信綱を東京に見舞ったことが書かれている。
鴻巣は『万葉集全釈』として完成するまでに、その前身となる試稿をいくつか書いているが、その試みの中で次のような疑問にぶつかったと、告白している。
けれども、やがて不安が胸裡に湧いて来た。それは現在流布している万葉集は、真淵・宣長らが唱へたやうに、果してそれほど多くの誤字を含んだものであらうか。かうして猥りに誤字と推定して改訂して行くことが、当を得た研究態度であらうか、といふことであった。(第1巻 p2)
したがって鴻巣は大正13年(1924)に完成した『校本万葉集』の考え方に独自に接近していたのであり、『校本万葉集』の利用を大いに推奨している。

万葉集本文の「百岐年」は尊重してそのままにし、鴻巣は次のように考えたのである。なぜかこの「百岐年」に対する「旧訓」(伝統的な訓み)は「モモクキネ」であるが、それは、契沖も苦心して結局あきらめたように、説明がつきがたいのである。無理に説明を付けようとして本文の誤字説を持ち出すよりも、しばらくは「モモキネ」と文字通りに読んでおいて、後世に良い説が出るのを待つことにしたい、と。
百岐年[モモキネ]――旧訓モモクキネとあり、契沖は百岫嶺ある美濃とつづくと解してゐる。下に百小竹之三野王[モモシノノミノノオホキミ](3327)とあり、考には百詩年[モモシネ]の誤であらうと言っている。古義は百傳布の誤として、「集中に百傳布八十之島廻[モモツタフヤソノシマミ]といひ、古事記に毛々豆多布都奴賀[モモツタフフヌガ]、書紀に百傳度逢縣[モモツタフワタラヒガタ]などあるに同じかるべし」といってゐる。よい説と思はれるものもないから、文字通に訓んで暫らくは後考を待たう(『万葉集全釈』第4冊 p223)
このような、いわば事務的な冷静な処置によって「モモキネ」説が登場したのであり、そのあとの学者の解説書、辞書などの訓みはすべて「モモキネ」となっているのである。
まことに意外なことに、「モモキネ」説は昭和10年(1935)ごろに登場した新しい説に過ぎないのである。

とすれば、わが「実利行者立像」の成立が明治後半ぐらいであったとすれば、「讃」を書く際に伝統的な万葉集の訓みである「ももくき根」を使うのは当然なのであった。


《4》 万葉集の「百岐年」

「百岐年」は、そのまま音を読めば「ももきね」となる。それをなぜ、「ももくきね」と読んだのかという新しい問題が登場する。そして、さらに「ももくきね」とは何を意味するか。

契沖『万葉代匠記』は岩波版契沖全集(全16巻 1975)が普及していて、多くの図書館に所蔵されていて参照することができる(私設万葉文庫では、入力途中)。
契沖(1640~1701)は真言宗の僧侶、下河辺長流と交わって影響を受け万葉集の研究を行う。徳川光圀の依頼で『万葉代匠記』を書いた(「代匠」は真の「匠 たくみ」に代わって著作する、という謙遜の表現)。契沖においては、古典文献に対して安易に私意・私見を加えない学問的方法が自覚されており、仏典漢籍の非常に広汎な知識が生かされ、現在においても十分に鑑賞の参考となる。
なお、長流が光圀の依頼で万葉集注釈を行っていたが、病気で果たせず契沖を推薦した。契沖が長流の稿を引き継いで完成させたのが「初稿本」、そのあと水戸家からの新資料も加えて改訂したのが「精選本」だという。岩波版契沖全集は「初稿本」(1687)と「精選本」(1690)とが並記されているので参照に便利である。
【初稿】もゝくきねみのゝ國の 此枕詞は、長流が『燭明抄』に出せり。今案「百岐年」とかけるを、「岐」は唐の山の名なり。いかて「くき」とはよめりけん。「くき」とよめるは「岫」の心にや。しからは、「年」は「嶺」にて、やかて下に「おきそ山、みのゝ山」なとよめれは、美濃は山おほき國にて、「もゝのくきみね有」といふ心に、「百くきねみの」とはいふなるへし。

【精選】百岐年三野之國之 「百岐年」ハ百クキト云義ニテ、山ノ多キ意歟。ヤカテ下ニ「奥十山三野山」ナトアリ。梓杣モ此國ニアリ。字書ヲ考ルニ、「岐」ヲ「クキ」トヨムヘキ意見エス。不審ナリ。此巻下ニハ「百小竹之、三野王」トツゝケタレト、今ノ義ト通フヘクハ見エス。(岩波版契沖全集5 p494)(引用文中の「」はすべて引用者による)
漢和辞典をみると、「」は[シュウ、ユ;みね、くき]で、本義は山にある巌穴のことであるが、転じて峯・頂の義とする。
下河辺長流が枕詞を集めた『枕詞燭明抄』が、すでに「ももくきね」を出している。この「くき」は「岫」であって、「多くの山嶺」の意味であろう。ただし、それは「岐」が「岫」の誤字であるとした場合で、字書によれば「岐」を「くき」とは読めない。したがって、「百岐年」を「ももくきね」と読むことはできず、不審である。また、この巻の先のほうに「百小竹之三野王」という歌があるが、これは美濃の枕詞だとしてもいまの場合に直接参考にはならないだろう(「梓杣」は不明)。
契沖の意見はこんな所であろうが、とても抑制が効いていて、好感を持つ。安易に想像をもとに自説を述べてはいない。

「百岐年 ももくきね」について、契沖の見解を越えることは難しいのであるが、わたしは「実利行者立像」の「讃」が「ももくき根」と書いていたことから、「百岐」について“おや?”と思っていた。それで、以下のように、「百岐年」の文字遣いについて調べてみた。たとえば、万葉集の中で「百」を「もも」と訓んでいるのは幾例あるのだろうか、というようなことである。「ひゃく」と読まなかったのだろうかと疑問を持つ。

わたしがここで使用した有力な道具は、山口大学教育学部のサイトが公開している万葉集検索である。
この有用なサイトが実際にはあまり利用されていないようなので(訪問者数累計)、使い方を紹介しておく。
万葉集原文で「」であって、その読み(訓み)が「もも」である歌を検索する。


山口大-万葉集検索の使い方(1) 上の「万葉集検索」のサイトに行くと、<条件検索>と書いてある。
まず、次の熟語を理解する必要がある。番号は歌の国歌大観番号。原文は万葉集原文。仮名は原文を訓んだ仮名表記のこと。訓読は仮名表記に適当な漢字を宛てた伝統的な表記。その他はサイト内の「データの説明」などを読むこと。
その画面で上から、
  • 2択式になっているところを、「全ての条件が一致」にする。
  • 選択項目1で、「原文」が「百」「を含む」とする。(「原文」は選ぶ、「百」は自分で記入
  • 選択項目2で、「仮名」が「もも」「を含む」とする。(「仮名」は選ぶ、「もも」は自分で記入
とする(選択項目で、はじめは「番号」となっているが、右隣のボタンを押して選択窓を開き、「原文」、「仮名」などを選ぶ)。

[検索]のボタンを押せば、直ちに、条件に該当する歌が“巻数/国歌大観番号-訓読”のデータを示して、一気に一覧表示される。
今の場合は、該当するのが57首あることが分かる。そして、「訓読」の窓を1首ずつ読んでいくとわかるが、「ももしき」が多いことに気付く(19例)。「ももしき-大宮」である。
「百 もも」と訓む57首のうちから「ももしき」以外の訓みはどんなものがあるのか、ちょっと調べておこう。(注意:上のような、「選択項目1」と「選択項目2」によって、この2つの「条件が一致」したとしても、「百」の訓みが「もも」であることは少しも保証されていない。ゆえに、選び出された57首について「百 もも」という組み合わせになっているかどうかは、いちいち、確かめる必要がある。
なお、各「選択項目」のふたつ目の窓(「百」や「もも」を書き込んだところ)を空白にすれば、“無条件”となる。つまり、その「選択項目」は考慮しないことになる。

山口大-万葉集検索の使い方(2) 「万葉集検索」のサイトの<条件検索>の画面で、上から、
  • 2択式になっているところを、「全ての条件が一致」にする。
  • 選択項目1で、「原文」が「百」「を含む」とする。
  • 選択項目2で、「仮名」が「もも」「を含む」とする。
  • 選択項目3で、「仮名」が「ももしき」「を含まない」とする。
これで「検索」ボタンを押す。
該当するのは38首。いくつか拾い出してみると
百足らず、百伝ふ、百枝槻[ももしつき]、百重なす、百夜、百年[ももとせ]、百千たび、百代、百鳥[ももとり]、百舟[ももふね]、百木[ももき
「百足らず」、「百伝ふ」はいずれも枕詞で、数詞としての百をもとにしている。それ以外は、みな「沢山の、多くの」という意味で使われている。この38首のなかに「百岐年」も入っているわけであるが、意味は不明ながら「多くの岐年」であろうことは、かなりの蓋然性がある、と考えてよい。

ついでに、「百」の「もも」以外の訓みの例はどんなものがあるのか、調べてみる。
山口大-万葉集検索の使い方(3) 「万葉集検索」のサイトの<条件検索>の画面で、上から、
  • 2択式になっているところを、「全ての条件が一致」にする。
  • 選択項目1で、「原文」が「百」「を含む」とする。
  • 選択項目2で、「仮名」が「もも」「を含まない」とする。
これで「検索」ボタンを押す。
該当は33首ある。最初に出ているのは巻1の0007番で(以下、これを 1-0007 と表記する)、
秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の宮処の仮廬し思ほゆ
原文を参照すると「仮廬 かりいほ」が「借五百」となっている。多くの例(21例)が、「いほ」という訓みを表すのに「五百」としている。特異なもとしては「百舌 もず」、「百合 ゆり」などもある。33首のすべてを読んでみることは容易にできるが、それによって「百 ひゃく」という使い方はないことが分かる。
このような、興味深い使い方が自由にできるのである。

【岐】について。
そもそも「岐」はそれほど頻出しておらず、使用されているのは27首である。そのうち訓読においても「岐」という文字として使用されているのは、「讃岐」が出ている 2-0220 のみである。それ以外はみな「き」ないし「ぎ」という訓みの中に入っている。例えば、「君を思ふと ⇒ 岐美乎於母布得」(5-0831)、「時は来にけり ⇒ 登岐波伎尓家里」(17-3987)のように。そして「岐」を「くき」と訓む例はない

【年】について。
万葉集原文に「年」を含む歌は161首ある。
この161首の中で、「年」の使い方はさまざまである。それを分類しつつ、検索していく。


以上を次のようにまとめておく。

「年」の使い方 万葉集原文には「年」を含む歌が161首ある。そのうち、細字注記の「舎人吉年」2首と、長文の山上憶良「沈痾自哀文」1首を例外として除外すると、残りは158首である。
  1. 「年」の語義(年・歳)を生かして使っているもの142
    • 「年 とし、とせ」と訓読で読ませているもの 131
    • 「去年 こぞ」と読ませるもの 4
    • 年魚(鮎)や早稲など、 7

  2. 音の「とし」を表すために使っている
    • 強調の「とし」 3

  3. 音の「ね」を表すために使っている13
    • 歌の末尾の「ね」 7
    • 峯、寝、常、かねてなど 5
    • 「ももきね」 1
「百岐年」を「ももきね」と読むことは最も蓋然性があり、この読みには特別な例外的なところは全くない。とくに「年」を「ね」と読むことは、万葉集において特別なことではない。

「年」を「ねん」と読むことについては、例えば『日葡辞書』(17世紀初頭)には次のような適切な記載がある。
Nen. ネン(年)Toxi(年)年.常に複合語として用いられる.例,Nannen.(何年)何年か.¶Sunen.(数年)多年


Toxi. トシ(年・歳)年.例,Toxiga Tsumoru(年が積る)年をとる.
(以下略 、なおカッコ内の語は、ローマ字綴りを日本語で書いたもの)
『平家物語』(高野本)の冒頭の「祇園精舎」のところに、すでに、
  供養クヤウ天承テンセウ元年グワンネン三月サングワツ十三日ジフサンニチなり。
などというところがあり、『日葡辞書』の通りであることが分かる(『平家物語』は語り物であって、全文仮名書きのものなどがあり、発音が分かるのである)。
このような「*年」という複合語として用いられる場合に「ネン」が出てくるのだが、その例がいつの時代まで遡れるのかは不明。いずれにせよ、万葉集には登場しないのである(すくなくとも、山口大の検索においては)。


《5》 「ももくきね」

万葉集の「原文」には「百岐年」とある。これを「ももきね」と読むのは最も自然で無理がないのであるが、この訓みが広く用いられるようになったのは、意外なことに、昭和初年以降(1930年代以降)のことであり、それまでは長年「ももくきね」と訓まれてきた。
「ももくきね」と訓まれてきたのだが、その訓をうまく説明することができず、手堅い手法で定評のある契沖『万葉代匠記』は、「百岐年」が「百年」の誤字である可能性を示唆しているが、結局「不審なり」ということで終わっている。

この 13-3242 の長歌のはじまりの形
百岐年 三野之國之
からして、「百岐年」が三野=美濃の国の枕詞であることは、すでに下河辺長流『枕詞燭明抄』が認めており、それに続く学者でこの説を否定するものはいない。ただし、中西進『万葉集全訳注』(著作集20 四季社2008)では、「ももきね」に注して
他に美濃の形容として百小竹し のとあり(3327)、ここも多くのキネの意だろうが、キネの意味不明
としている。つまり、美濃の形容であることは明瞭であるが、それが万葉集で1度しか登場していないし、どのようにして「美濃」を必然的に呼び起こすような枕詞としての機能を持つのか不明であるから、安易に「枕詞」であると断定できない、という立場であるように思える。
3327 の「百小竹」にも注をして
多くの小竹がはえる美野の意で、三野(美濃)の形容。
としている。ここでも「枕詞」という語を使っていない。この中西のような態度もあり得る、と思う。が、問題の解決にはならない。

しかしながら、枕詞の掛かり方が不明であっても「百岐年 ももくきね」が「三野(美濃)」の枕詞であると長年信じられてきた、という歴史的な経過も事実であろう。
万葉集原文の「百岐年」とは離れて、「ももくきね」という語が独立して「美濃」の枕詞として扱われ、使われてきた可能性がある。そして、「ももくきね」に漢字を宛てて「百茎根」とすることも大いに考えられる。何も知らなかったわたしが、「実利行者立像讃」の冒頭の「ももくき根」を見て、それはきっと「百茎根」のことであろう、辞書で美濃の枕詞だとされる「ももきね」は「百木根」のことだろう、と想像したように。

思いがけないことに、いつもお世話になっている「実利行者の足跡めぐり」の安藤氏が、「ネット上に、『ももくきね』と『美濃明細記』という書物とに関する情報がある」と教えて下さった(8/19-2010)。『美濃明細記』は江戸中期の美濃国の地誌で、美濃に関する体系だった書物として最初のもの。作者は伊東実臣。面白いことに、この書物ははじめは『百茎根』と名づけられていたというのである。

『国史大辞典』(吉川弘文館)に「美濃明細記」という項目があった。次がその項目全文。
みのめいさいき 美濃明細記 美濃国の地誌。はじめ『百茎根(ももくきね、茂茂久岐禰)』と題されていたが、のちに『美濃明細記』と改題されて流布した。
伝わる写本に二系統がある。一つは元文三年(1738)に伊東実臣が著した旨の序があるもので、巻一美濃国・山・川筋之駅・温泉・道程、巻二行幸之地、巻三神社、巻四美濃国守護・土岐系・斉藤系・織田系、巻五城地・領主、巻六古城、巻七古戦場、巻八人物、巻九寺院・美濃国三十三所観音、巻十名所和歌・旧跡、巻十一土産の全十一巻から成る。
他は編者著者・成立時期ともに記載がなく、構成も前者の巻四・六を欠き、別に美濃国郡村記と茂茂久岐根付録を付して全十一巻とされている。後者に付された二巻は付録と見なし得るもので、構成から考えれば、前者がより原本に近いものであろう。
美濃国についての体系だった著述としては最古のものである。二系統の写本を合わせて全十三巻とし、『美濃雑事記』と合本された刊本(昭和七年(1932)一信社刊、同四十七年大衆書房復刻)がある。(谷口研語)
(改行は引用者)
幸いに「美濃明細記」はその画像を龍谷大学図書館が公開している。必ずしも全文にアクセスできないようであるが、どのような文書であるかを知るには十分である。「美濃明細記 冒頭」、この画像の第1行に「百茎根」とあることがわかる。(画像をクリックすると拡大表示になる)(なお、本文の各巻毎についている表題が「美濃明細記」となってるのが巻 1,3,5 で、残りの8巻はすべて「美濃名細記」となっている

その序文を試読したのを、次ぎに示す。(右図は、龍谷大図書館の公開画像から。本文はきれいな草書体なのだが、恥ずかしいことにわたしには読めないところがあった。その後、国会図書館の「近代ライブラリー」に岐阜史談会による解読・ガリ版刷の『美濃明細記』(昭和4年1929)が公開されていることに気づいた(ここです)。この岐阜史談会の底本は龍谷大学図書館本とは相違があるようだが、わたしのような和文草書体に未熟な者にはとても有用であった。
下右側の茶色細字は、岐阜史談会本の相違部分を書き出したもの。


   百茎根

美濃の國山川郷邑名所古跡より人物に到迄
久しきを経て其事実を失ハんことをおしミ
笑ひくさをもかへりみす拙き筆をもて書
集侍り和歌のまくら言葉茂ヽ久岐と名      茂々久岐根と
つくるものならし元より見聞の廣ふしも      名付くるならはし
あらすあるハ残簡の内より取またハ古老の
物かたりを聞けるまヽに志るしぬれは
そのあやまる所多かるへし 猶後明ならん
人 も 及さる所を正し給ハん事を希ふのミ    人其の及ばざる

  元文三戌午の春  伊東實臣著

  右之表目百茎根之枕言葉ヲ別略シ自是    製略し
  美濃明細記ト令改名者也
                 田中平氏信次誌
田中信次が「百茎根という枕言葉を別略し(全体の題名であったのを序文の先頭に移し)、これより美濃明細記と改名せしむるものなり」と述べている。原著者伊東実臣は『百茎根』(または、『茂茂久岐禰』)と題したのであるが、その題名では書物の内容が美濃国の地誌であることがわからないので、『美濃明細記』と改めた、ということであろう。(この試読部分は、2013年2月18日に書き改めた。

なお、国会図書館はこの数年来かなり精力的に著作権切れの出版物を複写・公開していて、「近代デジタルライブラリー」が充実してきている。大いに利用すべきである。PDFファイルでコピーをとれるが、そのやり方に最初はとまどう人もあるかも知れない。特にPDFに慣れない人。拙サイトではここでそのやり方を示しておいた。


『美濃明細記』の「巻二行幸之地」は、「くくりの宮」(景行紀、万葉集、夫木集)と「野上行宮」(天武紀)の2つのトピックスからなる。前者のなかに、万葉集3242 が引いてある。
万葉集十三
百岐年モゝクキ子三野国ミノゝクニ之○高北タカキタ之○八十一鱗ク ゝ リミヤ[○日向而]○行靡ナヒ闕矣カクヲ○有登聞而○吾通路ワカカヨヒチ奥礒山ヲキソヤマ三野ミノノ靡得ナヒカスト人雖ヒトハトモフメ如此依等カク ヨレト○人ハトモ ツケナキ コゝロ○山ノ奥磯ヲキソ山○三野之山

抄曰百岐年美濃枕詞也小峯アマタ有ヲ云百岐年ハ数多也年ハ峯ノ略語也或説ニ百茎ノ草ノ蓑トウケシ詞云々奥磯山美濃国也


抄曰く、「百岐年」は美濃の枕詞也。小峯あまた有るを云う。「百」(岐年)は数多く也。「年」は峯の略語也。或る説に、百茎の草の蓑(=美濃)と受けし詞云々。「奥磯山」は美濃国(にある山)也。
万葉集本文で、[○日向而]は、行右に細字で書き加えてある。われわれのターゲットは言うまでもなく百岐年モゝクキ子と、伝統的な原文と訓みが行われている。
註がいうところの「抄」が何をさすか、が問題である。『美濃明細記』の成立が元文三年(1738)であるから、それ以前に成立している万葉集の注釈書で「抄」がついているものを探すことになる。わたしが知り得たのは次の3つのみである。
北村季吟 万葉拾穂抄  貞亨3年(1686)
荷田春満 万葉集僻案抄 亨保年間(1716~1735)
荷田信名 万葉集童蒙抄 亨保年間(1716~1735)
このうち「僻案抄」は万葉集第13巻は扱っていないので対象外である。「童蒙抄」は《2》で既述のように、「百岐年」を「モモシネ」と訓もうとする立場であったから、『美濃明細記』が引いている註とは合わない。
残る「拾穂抄」は、幸いにネット上「私設万葉文庫」に全文が公開されている(ここ)。そこから、該当部分を引く(3242本文は省く)。
ももくきね 美濃の枕詞也。見安云、小峯あまたあるを云。愚案、ねは峯也。百くきはあまた有也。或説 百茎の草の蓑とうけし詞云々鑿せり。(以下略 「鑿せり」は不明
語句通りではないが、『美濃明細記』が季吟の『万葉拾穂抄』を参照して引用していることはまちがいない。
ついでに『拾穂抄』の中に「見安云」とあるのを調べてみた。どうやら『万葉見安』(まんようみやす)という刊本(万治四年1661)が存在するらしい。著者は伝・尭位といい、「万葉集注釈」という異称もあるという(「万葉目安」ともいう)。しかもこれは国文学研究資料館が全文公開しているので、参照できる。
「国文学研究資料館」の公開している「万葉見安 万葉集注釈」によると(61コマ目 ここ
モゝ岐年クキネ三野之ミ ノ ゝクニ 小峯ノアマタアルヲ云也
とあって、『万葉拾穂抄』とよく合っている。

伊東実臣がどういう人物であるのか、わたしには不明であるが、江戸中期のおそらく美濃国の知識人として美濃の地誌をまとめたのであろう。その著書の題名を『百茎根』と名づけたことから想像されるように、万葉集 3242 の「百岐年 ももくきね」を知っていて、その読み(訓み)から「百茎根」という字句を発想したのであろう。彼は万葉集を北村季吟『万葉拾穂抄』から学んだようである。

既述のように、わたしも独自に「百茎根」という字句を発想していたので、その符合に驚いたのであるが、わたしの場合は、「実利行者立像讃」に「ももくき根」とあったことに影響されていたのだと思う。「根」を前提として「ももくき」を考える際に「百茎」とすることにはかなりの蓋然性があるだろう。万葉集のように「年」を「ね」に宛てるということから出発すれば、まるで違った字句に到達したかも知れない。
万葉集の原文は「百岐年」であり、それをなぜか「ももくきね」と訓んできた。そこには、何かの理由があったと思われるが、それが、見えなくなっている。伊東実臣の「序」に「和歌のまくら言葉茂ゝ久岐となつくるもの」と述べているのは、いくらか違うニュアンスを感じる。彼は『百茎根』を『茂茂久岐禰』とも題していたという。伊東実臣には、何か見えていたのだろうか。

季吟は「ねは峯也」と言っていた。契沖も「嶺」を宛てていた。「ももくき・ね」が「ももくき・峯」の意であるというふうに仮に考えたとすると、“たかき峯、ひくき峯、しづけき峯、けだかき峯、かずおおき峯、・・・・ももくき峯”というような流れで考えられないか。これは一つの試みの方向として、記しておく。
しかし、なぜ「ねは峯也」なのだろう。「ねは根也」はあり得ないだろうか。

最後に、頼山陽が漢詩の弟子として指導していた江馬細香と交わした最後の和歌に「ももくきね」が詠み込まれていることを知ったので、述べておく。山陽は京都に、細香は大垣にいた。細香は美濃の女流画家であり、漢詩も良くすることが知られていた。山陽は漢詩の弟子としての彼女に長年の恋情を保っていた。天保元年(1830)に山陽のところに上京していた細香が大垣に帰った後の和歌の往復。
わかれてもまたあふみ路をかくる身は あわづてふ地をよけてこそ行 (細香)

わかれてももゝちにみたぬもゝくきね みのあるかきりあわんとそおもふ (山陽)

(『江戸漢詩選3 女流』注・「解説」福島理子、p317 岩波1995)

細香が近江路を帰って行く際に大津の粟津(あわづ)を掛けて、“またお会いしたいので、あわづという地はよけて行きたいものだ”と歌いかけたのに対して、山陽は、別れてから間もないという意味を、百千(ももち)に満たぬと表し、それを百九(ももく)と受け、「ももくきね」を出してきたのである。この美濃の枕詞によって“美濃=身のある限り、会いたいものだ”と答えたのである。理詰めの技巧であるが、美濃へ帰って行った細香への返歌として、適切な言葉遣いであったわけである。
山陽はまもなく天保三年(1832)に結核で没する。五十三歳。そのとき細香は四十六歳。

頼山陽という大知識人だから可能だったのだろうが、万葉集に使われていた「美濃」の枕詞が、このように生きた和歌の言葉として使われていたことは、嬉しい驚きであり、感動を誘う。そうだとすれば、昭和になってから万葉集原文の「百岐年」は「ももきね」としか読めないという(それ自体は正当な)見解によって、伝統的な読み「ももくきね」を消し去ってしまった万葉学者たちのやり方は妥当だっただろうか。どうも、合理的に過ぎたのではないか。

江戸時代に、伊東実臣、頼山陽と受けつがれていた「ももくきね」は、明治時代後半の、わが「実利行者立像」の「讃」の作者へも伝わっていたのである。


「百茎根 ももくきね」

(9/25-2010、最終更新2/21-2013)

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