「ももくきね」は「ももきね」と同様に美濃にかかる枕詞であろう。というのは、ここでわたしが宛てている漢字「百木根」も「百茎根」も、わたしが発案したものであって、万葉集の万葉仮名やその他の文献とは独立のものであった。ももきね 百木根というふうに漢字を宛てるのが妥当だと考えられること、もしそうであるなら、多数の植物が茎や根を繁茂しているというイメージは美濃の枕詞としてふさわしいのじゃないか、そのように考えられるからである。
ももくきね 百茎根
多数の植物が茎や根を繁茂しているというイメージは美濃の枕詞としてふさわしいというような考え方がどの程度正当であるのか、または、誤っているのか、そういうことについての自己評価がまったくなされていない。このまま放置しておけば、当然、わたしがそれを正当と考えているということになる。
はじめの番号「3242」は、日本の主要和歌をはじめて集積し番号を振った画期的な書物『国歌大観』(松下大三郎ら、1901)の番号である。
百岐年 ⇒ ももきねと、高木市之助らが訓読したのである(『万葉集 三』の初版は昭和35年1960)。この岩波古典体系本が原文を「百岐年」とし、「ももきね」と読んだことは分かるが、それがどのような変遷をしてきた説であるのか(または、変遷がなかったのか)というようなことは、この古典体系本を見ているだけではわからないのである。
元:元暦校本:古川男爵及高松宮家蔵という具合である。なお、校合に使った諸本は、底本とした寛永本以外にすべてで20種が掲げてある。
神:神田本:神田男爵蔵
西:西本願寺本:竹柏園蔵
元、天、訓ヲ附セズ。ここに登場しない「神」は、黒字で訓がほどこされている、ということになる。
西、細、温、矢、京、訓ヲ朱書セリ。
言うまでもなく「子」は「ネ」と同じである。百 岐 年
百岐年 ⇒ ももくきねと読んでいたことを意味している。国語辞典や岩波体系本のいう「ももきね」ではないのである。これは実に意外なことで、わたしはしばらく、このことの意味を理解することができなかった(下で詳述する)。
もゝくきね三野の國 「もゝくきのみの」トいふ詞也。「ね」と「の」ト五音通スレハ、「もゝくきね」とモいへり。下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)は、伝統的な訓であった「百岐年 ももくきね」には手を加えていないが、「ももくきねみの」は意味的には「ももくき・の・みの」すなわち「百茎の蓑」のことであり、「ね」と「の」は音が転訛しうるので、「ももくき・ね・みの」となったのであろう、と推論したのである。
これは、蓑を作るに、さゝめといふ草を刈て、其莖を用ル故に、「もゝ」はおほき心也。おほくノ草のくきにて、したる簑トいふ心也。此卷に、「もゝさゝのみのゝおほきみ」トいふうた有。可思合。亦云、「もゝさゝのみの」トハ、篠に實 のなる故に、或は「さゝのはの、み山」トもつゝく、其心也とも云り。
(「私設万葉文庫」という驚くべき多数の有用な文献をアップしてあるサイトからいただいた「萬葉集管見」をもとにしている。そこの「第十三巻」を探せ。ただ、引用には読み易いように多くのカッコを用いた。)
「小竹 しの」との関連をつけるのに、「百岐根 ももしね」と新たな訓を試みたのである。賀茂真淵『万葉考』は、この発想を更におし進めて、「岐」⇒「詩」の誤字説を導入して、「百詩年 ももしね」としたのである。百 小竹 の 三野の王
3242このように、賀茂真淵は 3242, 3327 において、「三野」=「美濃」の枕詞として事実上同一の「ももしね」=「ももしぬ」を考えていたのである。百詩年 三野 之 國 之
3327百小竹 之 三野 王
百岐[岐ハ詩ノ誤カ]年。三野之國之。千蔭は注で次のように述べている。「百の下、岐は詩の字の誤か。モモシネ、枕詞」
ももしね。みぬのくにの。(日本古典全集『万葉集略解巻六』p154)
3242 もゝしねと『万葉考』と同じ訓みにしている。興味深いことに、折口信夫『万葉集辞典』(大正8年1919)は、しの竹-蓑-美濃の連関に言及して、枕詞の掛かり方を説明しようとしている。上で説明したように、この発想は下河辺長流にさかのぼるものである。三野 ノ 國
3327 もゝしぬの三野 ノ王
もゝしぬ-の 枕。みぬ。「ももしぬ」は百小竹で、「百」は数の極めて多い事。「しぬ」は小竹、或は柔軟な竹草の類をも言ふ。其「しぬ」で蓑を作る處から「みぬ」に言ひかけたのである。武田祐吉『万葉集』(上下 角川文庫1955)では、「
もゝもしね 枕。みぬの國。「ね」も「ぬ」も同じ事である。茲に更めて説明するにも及ばぬ。(折口信夫全集6、引用のカギ括弧は原文は傍点)
枕詞。語義不明。百枝の稲か。(下p93)つまり、「
ももきね――旧訓モゝクキネとあり、代匠記に「百岨嶺[クキネ]ト云義ニテ、山ノ多キ意歟」とし、童蒙抄にはモモシネノと訓み、「百小竹之[モモシノノ] 三野王[ミノノオホキミ]」(3327)の例ある事を述べ、「岐の字枝の字の誤り歟」とし、考に「百詩年[モモシネ]」とし、「しなゆる草のみぬといふは、いまも沙草さゝめなどいひて、ほそく長き草もてみのは作れり」といひ、古義に「百傳布[モモツタフ]」の誤とした。全釈に文字のまゝモゝキネとして以来その説が行われるに至ったが、そのかかりのわからない枕詞である。「百小竹之」との関係について、古典体系本に「シ→キという変化は少ないから、モモキネの方が古い形と思われる。あるいはモモキネの意味が当時すでに不明になってモモキネを変形して意味の分かるモモシノノ(多くの小竹の生えている)という新形が作られたのではあるまいか」といふ試案を出されてゐる。たしかにさうした事も考へられる。(『万葉集注釋』巻第十三 p56)ここには時代順に主要な説が並べてあるが、圧縮して書いてあるので難解なところがあるので、一つずつ取りあげておこう。
旧訓:奈良時代後半に成立したとされる万葉集の、伝統的な訓読のこと。平安、鎌倉と受けつがれ、江戸時代に至るまで「ももくきね」が唯一の訓みとして行われていた。
代匠記:契沖『万葉代匠記』貞亨四年(1687)に「初稿本」、元禄三年(1690)「精撰本」が成った。「ももくきね」と訓むのだから「百岫嶺」(多くの山々)の意味だろうと推量している。だが「岐」を「くき」と読むことはできないので、不審であると記している。テキストに即したバランスの取れた正攻法を示している。
童蒙抄:荷田春満・信名『万葉集童蒙抄』亨保年間(1716~1735)に成る。荷田春満[かだのあづままろ]が第1巻を書き、後を継いで信名(弟)が全17巻を完成させたという。「ももしねの」と訓んで、3327 との関連を指摘した。そして「百枝年」の誤りの可能性を示唆している。
考:賀茂真淵『万葉考』宝暦十年(1760)に成立。「百詩年」と誤字説を出し、よくしなる草で蓑を作ることから美濃に言いかける枕詞の考え方を示した。ただし、「しなゆる草・・・」の引用元は不明。
古義:鹿持雅澄『万葉集古義』天保十三年(1842)に成立。「ももづたふ」という訓みに、次のような注をつけている。
百岐年は、もと「百傳布(ももづたふ)」とありけむを、「傳布」を「岐年」に誤れるなるべし、さてもこれ、「百と多くの處々を、經傳ひ行く御野」と云意にて、集中に、「百傳布(ももづたふ)八十之島廻(やそのしまみ)」といひ、古事記に、「毛々豆多布都奴賀(ももづたふつぬが)」、書紀に「百傳度逢縣(ももづたふわたらひがた)」、などあるに、おなじかるべし。
全釈:鴻巣盛広『万葉集全釈』昭和5~10年(1930~35)。「百岐年 モモキネ」と訓んでいる。下で再掲するが、澤瀉とほとんど同様の説明(旧訓、契沖、真淵、雅澄を挙げる)を示した上で、
よい説と思はれるものもないから、文字通に訓んで暫らく後考を待たう。としている。これが昭和10年であり、それ以来「ももきね」が定説となっているのである。
古典体系本:高木市之助・五味智英・大野晋『万葉集三』(昭和35年1960)。説明は略。
けれども、やがて不安が胸裡に湧いて来た。それは現在流布している万葉集は、真淵・宣長らが唱へたやうに、果してそれほど多くの誤字を含んだものであらうか。かうして猥りに誤字と推定して改訂して行くことが、当を得た研究態度であらうか、といふことであった。(第1巻 p2)したがって鴻巣は大正13年(1924)に完成した『校本万葉集』の考え方に独自に接近していたのであり、『校本万葉集』の利用を大いに推奨している。
百岐年[モモキネ]――旧訓モモクキネとあり、契沖は百岫嶺ある美濃とつづくと解してゐる。下に百小竹之三野王[モモシノノミノノオホキミ](3327)とあり、考には百詩年[モモシネ]の誤であらうと言っている。古義は百傳布の誤として、「集中に百傳布八十之島廻[モモツタフヤソノシマミ]といひ、古事記に毛々豆多布都奴賀[モモツタフフヌガ]、書紀に百傳度逢縣[モモツタフワタラヒガタ]などあるに同じかるべし」といってゐる。よい説と思はれるものもないから、文字通に訓んで暫らくは後考を待たう。(『万葉集全釈』第4冊 p223)このような、いわば事務的な冷静な処置によって「モモキネ」説が登場したのであり、そのあとの学者の解説書、辞書などの訓みはすべて「モモキネ」となっているのである。
【初稿】もゝくきねみのゝ國の 此枕詞は、長流が『燭明抄』に出せり。今案「百岐年」とかけるを、「岐」は唐の山の名なり。いかて「くき」とはよめりけん。「くき」とよめるは「岫」の心にや。しからは、「年」は「嶺」にて、やかて下に「おきそ山、みのゝ山」なとよめれは、美濃は山おほき國にて、「もゝのくきみね有」といふ心に、「百くきねみの」とはいふなるへし。漢和辞典をみると、「岫」は[シュウ、ユ;みね、くき]で、本義は山にある巌穴のことであるが、転じて峯・頂の義とする。
【精選】百岐年三野之國之 「百岐年」ハ百岫 嶺 ト云義ニテ、山ノ多キ意歟。ヤカテ下ニ「奥十山三野山」ナトアリ。梓杣モ此國ニアリ。字書ヲ考ルニ、「岐」ヲ「クキ」トヨムヘキ意見エス。不審ナリ。此巻下ニハ「百小竹之、三野王」トツゝケタレト、今ノ義ト通フヘクハ見エス。(岩波版契沖全集5 p494)(引用文中の「」はすべて引用者による)
下河辺長流が枕詞を集めた『枕詞燭明抄』が、すでに「ももくきね」を出している。この「くき」は「岫」であって、「多くの山嶺」の意味であろう。ただし、それは「岐」が「岫」の誤字であるとした場合で、字書によれば「岐」を「くき」とは読めない。したがって、「百岐年」を「ももくきね」と読むことはできず、不審である。また、この巻の先のほうに「百小竹之三野王」という歌があるが、これは美濃の枕詞だとしてもいまの場合に直接参考にはならないだろう(「梓杣」は不明)。契沖の意見はこんな所であろうが、とても抑制が効いていて、好感を持つ。安易に想像をもとに自説を述べてはいない。
百足らず、百伝ふ、百枝槻[ももしつき]、百重なす、百夜、百年[ももとせ]、百千たび、百代、百鳥[ももとり]、百舟[ももふね]、百木[ももき]「百足らず」、「百伝ふ」はいずれも枕詞で、数詞としての百をもとにしている。それ以外は、みな「沢山の、多くの」という意味で使われている。この38首のなかに「百岐年」も入っているわけであるが、意味は不明ながら「多くの岐年」であろうことは、かなりの蓋然性がある、と考えてよい。
秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の宮処の仮廬し思ほゆ原文を参照すると「仮廬 かりいほ」が「借五百」となっている。多くの例(21例)が、「いほ」という訓みを表すのに「五百」としている。特異なもとしては「百舌 もず」、「百合 ゆり」などもある。33首のすべてを読んでみることは容易にできるが、それによって「百 ひゃく」という使い方はないことが分かる。
Nen. ネン(年)Toxi(年)年.常に複合語として用いられる.例,Nannen.(何年)何年か.¶Sunen.(数年)多年『平家物語』(高野本)の冒頭の「祇園精舎」のところに、すでに、
Toxi. トシ(年・歳)年.例,Toxiga Tsumoru(年が積る)年をとる.(以下略 、なおカッコ内の語は、ローマ字綴りを日本語で書いたもの)
などというところがあり、『日葡辞書』の通りであることが分かる(『平家物語』は語り物であって、全文仮名書きのものなどがあり、発音が分かるのである)。供養 は天承 元年 三月 十三日 なり。
百岐年 三野之國之からして、「百岐年」が三野=美濃の国の枕詞であることは、すでに下河辺長流『枕詞燭明抄』が認めており、それに続く学者でこの説を否定するものはいない。ただし、中西進『万葉集全訳注』(著作集20 四季社2008)では、「ももきね」に注して
他に美濃の形容として百としている。つまり、美濃の形容であることは明瞭であるが、それが万葉集で1度しか登場していないし、どのようにして「美濃」を必然的に呼び起こすような枕詞としての機能を持つのか不明であるから、安易に「枕詞」であると断定できない、という立場であるように思える。小竹 とあり(3327)、ここも多くのキネの意だろうが、キネの意味不明
多くの小竹がはえる美野の意で、三野(美濃)の形容。としている。ここでも「枕詞」という語を使っていない。この中西のような態度もあり得る、と思う。が、問題の解決にはならない。
みのめいさいき 美濃明細記 美濃国の地誌。はじめ『百茎根(ももくきね、茂茂久岐禰)』と題されていたが、のちに『美濃明細記』と改題されて流布した。幸いに「美濃明細記」はその画像を龍谷大学図書館が公開している。必ずしも全文にアクセスできないようであるが、どのような文書であるかを知るには十分である。「美濃明細記 冒頭」、この画像の第1行に「百茎根」とあることがわかる。(画像をクリックすると拡大表示になる)(なお、本文の各巻毎についている表題が「美濃明細記」となってるのが巻 1,3,5 で、残りの8巻はすべて「美濃名細記」となっている)
伝わる写本に二系統がある。一つは元文三年(1738)に伊東実臣が著した旨の序があるもので、巻一美濃国・山・川筋之駅・温泉・道程、巻二行幸之地、巻三神社、巻四美濃国守護・土岐系・斉藤系・織田系、巻五城地・領主、巻六古城、巻七古戦場、巻八人物、巻九寺院・美濃国三十三所観音、巻十名所和歌・旧跡、巻十一土産の全十一巻から成る。
他は編者著者・成立時期ともに記載がなく、構成も前者の巻四・六を欠き、別に美濃国郡村記と茂茂久岐根付録を付して全十一巻とされている。後者に付された二巻は付録と見なし得るもので、構成から考えれば、前者がより原本に近いものであろう。
美濃国についての体系だった著述としては最古のものである。二系統の写本を合わせて全十三巻とし、『美濃雑事記』と合本された刊本(昭和七年(1932)一信社刊、同四十七年大衆書房復刻)がある。(谷口研語)(改行は引用者)
田中信次が「百茎根という枕言葉を別略し(全体の題名であったのを序文の先頭に移し)、これより美濃明細記と改名せしむるものなり」と述べている。原著者伊東実臣は『百茎根』(または、『茂茂久岐禰』)と題したのであるが、その題名では書物の内容が美濃国の地誌であることがわからないので、『美濃明細記』と改めた、ということであろう。(この試読部分は、2013年2月18日に書き改めた。百茎根
美濃の國山川郷邑名所古跡より人物に到迄
久しきを経て其事実を失ハんことをおしミ
笑ひくさをもかへりみす拙き筆をもて書
集侍り和歌のまくら言葉茂ヽ久岐と名 茂々久岐根と
つくるものならし元より見聞の廣ふしも 名付くるならはし
あらすあるハ残簡の内より取またハ古老の
物かたりを聞けるまヽに志るしぬれは
そのあやまる所多かるへし 猶後明ならん
人 も 及さる所を正し給ハん事を希ふのミ 人其の及ばざる
元文三戌午の春 伊東實臣著
右之表目百茎根之枕言葉ヲ別略シ自是 製略し
美濃明細記ト令改名者也
田中平氏信次誌
万葉集十三万葉集本文で、[○日向而]は、行右に細字で書き加えてある。われわれのターゲットは言うまでもなく
百岐年 ○三野国 之○高北 之○八十一鱗 ノ宮 而 [○日向而]○行靡 闕矣 ○有登聞而○吾通路 ○奥礒山 ○三野 山靡得 ○人雖レ蹈 ○如此依等 ○人ハ雖レ衝 無レ意 ○山ノ奥磯 山○三野之山
抄曰百岐年美濃枕詞也小峯アマタ有ヲ云百岐年ハ数多也年ハ峯ノ略語也或説ニ百茎ノ草ノ蓑トウケシ詞云々奥磯山美濃国也
抄曰く、「百岐年」は美濃の枕詞也。小峯あまた有るを云う。「百」(岐年)は数多く也。「年」は峯の略語也。或る説に、百茎の草の蓑(=美濃)と受けし詞云々。「奥磯山」は美濃国(にある山)也。
北村季吟 万葉拾穂抄 貞亨3年(1686)このうち「僻案抄」は万葉集第13巻は扱っていないので対象外である。「童蒙抄」は《2》で既述のように、「百岐年」を「モモシネ」と訓もうとする立場であったから、『美濃明細記』が引いている註とは合わない。
荷田春満 万葉集僻案抄 亨保年間(1716~1735)
荷田信名 万葉集童蒙抄 亨保年間(1716~1735)
ももくきね 美濃の枕詞也。見安云、小峯あまたあるを云。愚案、ねは峯也。百くきはあまた有也。或説 百茎の草の蓑とうけし詞云々鑿せり。(以下略 「鑿せり」は不明)語句通りではないが、『美濃明細記』が季吟の『万葉拾穂抄』を参照して引用していることはまちがいない。
とあって、『万葉拾穂抄』とよく合っている。百 岐年 三野之 國 小峯ノアマタアルヲ云也
わかれてもまたあふみ路をかくる身は あわづてふ地をよけてこそ行 (細香)細香が近江路を帰って行く際に大津の粟津(あわづ)を掛けて、“またお会いしたいので、あわづという地はよけて行きたいものだ”と歌いかけたのに対して、山陽は、別れてから間もないという意味を、百千(ももち)に満たぬと表し、それを百九(ももく)と受け、「ももくきね」を出してきたのである。この美濃の枕詞によって“美濃=身のある限り、会いたいものだ”と答えたのである。理詰めの技巧であるが、美濃へ帰って行った細香への返歌として、適切な言葉遣いであったわけである。
わかれてももゝちにみたぬもゝくきね みのあるかきりあわんとそおもふ (山陽)(『江戸漢詩選3 女流』注・「解説」福島理子、p317 岩波1995)