下は、「大和山林會報」版と「大坂朝日新聞」の相違を並べたもの。全文ではなく、牛石に達し更に、牛石から船津新田まで下山する最難関の場面についてとりあげた。相違の激しい部分である。


「大和山林會報」版より
青字の部分は右の朝日版で省略されている個所、 細字「ママ」は「山嶽」版との比較に用いたもので、ここでは無関係だが、「大和山林會報」版と「山嶽」版に相違がある個所。
大坂朝日新聞(明治18年11月5日)連載第3~4回より
空欄となっているのは、省略があったことを示す。 赤字は差違のある語であることを示す。ただし、連載第3回の末尾に、編集からの「追補」が入っている。
始め一行の前程を議するや道熊野の古津に出んとす而して中ご始め一行の前程を議するや道熊野古津に出んとす而して中ご
ろ此の議を止めて曰く古津は今春松浦の出る處人旣に之を知るろ此の議を止めて曰く古津は今春松浦の出る處人旣に之を知る
予等應さに人の未た蹈まさるの地を行くへし前人の跡を蹈襲す予等應さに人の未た蹈まさるの地を行くへし前人の跡を蹈襲す
る予黨の欲せさる處なり乃ち針路を東南にし舟津に出るに決する予の欲せさる處なり乃ち針路を東南にし津に出るに決す
其牛石に至るや天晴れて風なく正に熊浦を一眸の中に集むと磁其牛石に至るや天晴れて風なく正に熊浦を一眸の中に集むと磁
石を出し双鏡を開き以て觀望の備をなす戒三牛石に踞して休ふ石を出し双鏡を開き以て觀望の備をなす一行中の一人牛石に踞して休ふ
役夫曰く爲る勿れ山靈ママあり輕けれは則ち雲霧重けれは卽ち雷役夫曰く爲る勿れ山靈崇あり輕けれは則ち雲霧重けれは卽ち雷
霆神のママに觸れん頭を振て大に恐る須臾にして雲霧四塞茫々と霆神の怒に觸れん頭を振て大に恐る須臾にして雲霧四塞茫々と
して見る可らす乃ち諸器を収む衆皆戒三を譴めて措ます地旣にして見る可らす乃ち諸器を収む衆皆其一人を譴めて措す地旣に
大臺山を過くるに及ふまて一も風色を説かす説くべきの風色な大臺山を過くるに及ふまて一も風色を説かす説くべきの風色な
きに非すと雖とも數日密樹茂林の間にママ非されは雲霧茫々の内にきに非すと雖とも數日密樹茂林の間に非されは雲霧茫々の内に
在り恰も簾を隔てゝ花を見るが如き奚そ其花神を描くを得んや在り恰も簾を隔てゝ花を見るが如き奚そ其花神を描くを得んや
眞とに惜むべきなり然れとも炎熱燬くか如きの地を去て泉冷に眞とに惜むべきなり然れとも炎熱燬くか如きの地を去て泉冷に
樹綠なるの境に入る爽快に至りては正に人間の煙火を餐はさる樹綠なるの境に入る爽快に至りては正に人間の煙火を餐はさる
もの人々皆羽化登仙の想あり若し其道を修め其運輸を便にせはものゝ如く人々皆羽化登仙の想あり若し其道路を修め其運行を便にせは
三伏の盛暑居を此地に占むるも亦避暑一快事なるへし三伏の盛暑居を此地に占むるも亦避暑一快事なるへし
明治六七年の間此の地に道士あり實利ジツカガと云ふ能く秘法を修し山明治六七年の間此の地に道士あり實利ジツカガと云ふ能く秘法を修し山
靈のママを鎭すと乃ちママを此の地に結ひ行法を修す山麓の民相信靈の崇を鎭すと乃ち盧を此の地に結ひ行法を修す山麓の民相信
して日々燒香するもの數人是に於て大臺ヶ辻及東の川より信徒して日々燒香するもの數人是に於て臺ヶ辻及東の川より信徒
の登るもの大都一月に二三十人なりしを以て路經僅に存すと雖の登るもの大都一月に二三十人なりしを以て路經僅に存すと雖
ども今や廢絕十年過くるを以て榛荊再ひ閉ちて又認む可らす然ども今や廢絕十年過くるを以て榛荊再ひ閉ちて又認む可らす然
れとも斷續其形跡を存す此實利ジツカガなるもの牛石の南東邊に一碑れとも斷續其形跡を存す此實利ジツカガなるもの牛石の南東邊に一碑
を建つ面に孔雀明王左に陰陽和合右に諸魔降伏の字あり脊に實を建つ面に孔雀明王左に陰陽和合右に諸魔降伏の字あり脊に實
利及丞の花押あり左側に明治七年戊三月と記す後奈良縣官其民利及丞の花押あり左側に明治七年戊三月と記す後奈良縣官其民
を惑すを疑ひ道士を逐ひ其ママに火す其殘礎今猶存せり民今に至を惑すを疑ひ道士を逐ひ其盧に火す其殘礎今猶存せり民今に至
るまて之を憾みとするまて之を憾みとす
序に記す前号来海面上幾何英尺とありて其何の地より測りたるものなるかを掲げざりしは記者偶然の誤脱に出るなり今因て之を左に追補す
九日は柏木(但し本文に九百三十尺のを脱せり)。十日は入の波(但し振り仮名にいりのなみとあるは、しほのはの誤なり)。十一日は天ヶ瀬。十三日は開墾跡。十五日は塩辛谷。十六日は船津新田より測量せしものに係る
牛石を出て道を南東に取る是より人跡曾て至らさる處其白崩谷シラクエダニ牛石の右を出て道を南東に取る是より人跡曾て至らさる處其白崩谷
より二ノ股を過く之を伊勢大杉谷の南端とす此の間篠竹を披きより二ノ股を過く之を伊勢大杉谷の南端とす此の間篠竹を披き
樹根を緊縮し手足を以て稍く進む其登るや仰けは前行の跗を見樹根を緊縮し手足を以て稍く進む其登るや仰けは前行の跗を見
其降るや俯せは前進の頭を蹈む僅に一歩を離るれは篠竹跡を埋其降るや俯せは前進の頭を蹈む僅一歩を離るれは篠竹跡を埋
めて前者後者を見る能はす後者前行の跡を蹈むを得す前呼後應めて前者後者を見る能はす後者前行の跡を蹈むを得す前呼後應
以て進む稍くにして堂倉谷に出つ出れは則ち溪流にして左右以て進む稍くにして堂谷に出つ出れは則ち溪流にして左右
に渉る幾百回なるを知らす其行くや石の僅に水面に出るものをに渉る幾百回なるを知らす其行くや石の僅に水面に出るものを
拾て進む其石なき處は水を渉る水動もすれは脛を沒す或は深淵拾て進む其石なき處は水を渉る水動もすれは脛を沒す或は深淵
渉る可らさる處は巉巖を攀ちて行く恰も蠏の石を爬行するか如渉る可らさる處は巉巖を攀ちて行く恰もの石を爬行するか如
戒三身体輕捷能く走り能く跳る皎と文三は然らす文三は石と
共ににママ轉んで其臀を傷し皎は歩を誤て其右膝に傷く戒三獨り全 
し石を跳るの狀正に羚羊の岩上を行くか如し此の日三名は皆轉 
倒せざるなし戒三の如きは誤て水中に滾し半身皆滋る午後三時午後三時
殆んと谷口に達す谷口は紀州北牟婁郡に在り其山を小木森コゴモリの官殆んと谷口に達す谷口は紀州北牟婁郡に在り其山を小木森をぎもりの官
林とす牛石より此の官林に達するまて開けは則ち岑上行くママ林とす牛石より此の官林に達するまて開けは則ち岑上行くへし
此に至り南西すれママ古津に出て南東すれは則ち舟津に達す若し此に至り南西すれは古津に出て南東すれは則ち舟津に達す若し
運輸の便を熊野に取らんと欲すれママ此に二條路あるのみ牛石よ運輸の便を熊野に取らんと欲すれは此二條路あるのみ牛石よ
り此の兩村に達する古津は四里舟津は四里に過く役夫曰く公等り此の兩村に達する古津は四里舟津は四里に過く役夫曰く公等
足を折る舟津の行必す可らず如かず早きに及んママ此の溪間に居足を折る舟津の行必す可らず如かず早きに及んて此の溪間に居
を朴せんには皎等可かすして曰く糧を餘す處幾許なし足を憩ふせんにはと予等可かすして曰く糧を餘す處幾許なし足を憩ふ
て腹を空ふす更に利害の償ふ處なし糧舟津に在り糧を得れは足て腹を空す更に利害の償ふ處なし糧舟津に在り糧を得れは足
亦從て憩はん艱難素より期する處譬へ足を折るも足猶數里を亦從て憩はん艱難素より期する處譬へ足を折るも足猶數里を
行くママし乃ち衆を勵まし鼓行して進む稍くママ小木森の官林を過ママ行くへし乃ち衆を勵まし鼓行して進む稍く小木森の官林を過く
れは僅に路形あり皎の足益ママみ又歩す可らママ道坊主峠に出つ峠れは僅に路形ありの足益み又歩す可らす道坊主峠に出つ峠
は直立六十町の峻阪にして恰も梯子を竪てゝ之を降るママ如し役は直立六十町の峻阪にして恰も梯子を竪てゝ之を降るか如し役
夫頻に皎を負はママ事を請ふ皎許さママ而して疲足を曳き山を下る夫頻にを負はんことを請ふ許さす而して疲足を曳き山を下る
四十町日稍く暮ママ樹下道黑くして危險云ふ可らママ役夫曰く公の四十町日く暮樹下道くして危險云ふ可らす役夫曰く公の
如くすれママ則夜半に達するも山下に出る能はママ公を負ふは則ち如くすれは則夜半に達するも山下に出る能はす公を負ふは則ち
予輩を助くるなり强て皎を脊にして下る是より先き戒三、文三予輩を助くるなり强てを脊にして下る
役夫二人を携へ峻阪を滾下し去る皎の阪を降る比ほひ阪下に叫
ママものありママ岈相應す意らく戒三一行道に待つなりと降れママ
ち文三一人岩上に踞して待つ曰く予ママ臀痛む以て彼等獮猴的に
追遂する能はず以つて子等の下るを待つは獮猴行く旣に遠し乃
ち相携へて行く此より路形あり然れママ雨益々甚しく日暮るゝ時に雨益々甚しく日暮るゝ
に垂んたり樹下暗黑認む可らず役夫道に檜ママ六尺許のもの一本に垂んたり樹下暗黑認む可らず役夫道に檜枝六尺許のもの一本
を拾へり碎て松明とす木濕って火を發せず僅に爝火を得たり且を拾へり碎て松明とす木濕って火を發せず僅に爝火を得たり且
つ吹き且つ行く雨甚しくして火小なり動もすれば滅せんと欲すつ吹き且つ行く雨甚しくして火小なり動もすれば滅せんと欲す
旣にして一破屋を認む皎等山に入てより此に至るまで柱と壁と旣にして一破屋を認む等山に入てより此に至るまで柱と壁と
あるものを見ず是に至り始めて家を見る擔傾き屋根漏る雨益甚あるものを見ず是に至り始めて家を見る擔傾き屋根漏る雨益甚
し其漏らざる處を擇で居る先づ木の乾けるものを拾ひ火を焚きし其漏らざる處を擇で居る先づ木の乾けるものを拾ひ火を焚き
暖を取る更に松明を作り以て暗照の備をなす將さに屋を出んと暖を取る更に松明を作り以て暗照の備をなす將さに屋を出んと
す雨幸にして止む此より船津に至る五十町とす行く須臾にしてす雨幸にして止む此より船津に至る五十町とす行く須臾にして
河を渉て南す誤て道を失し沙磧を行く數町更に松林道なき處を河を渉て南す誤て道を失し沙磧を行く數町更に松林道なき處を
穿て再び道に出づ河を渉る三回道を往く三十町提燈星の如く人穿て再び道に出づ河を渉る三回道を往く三十町提燈星の如く人
聲喧噪南よりして来るものあり是れ船津より皎等を迎ふる者な聲喧噪南よりして来るものあり是れ船津より等を迎ふる者な
始め戒三の峻阪滾下するや途にして文三を捨て走て南す意ら
く二將其ママと膝とに傷つけ一卒亦其膝を傷つく早く人家あるの
處に至り援助を求むるに如かずと奔馳して火光ある處を認めて
往く或は炭竃に至り或は守猪者に逢ひ稍くママ嚮導を得て船津新田
に達す乃ち肩輿を求む輿なしフゴを得たり役夫に令して皎等を迎
へしむ恰も皎等の逢ふ處は船津より河を溯ママる二十町の處とす
皎平地を往く膝甚しく疼を覺へずと雖ども同行の苦心亦水泡に
歸すべからず試みに畚に乗る人は畚に人を盛て擔ふに慣れす皎
は畚に乗て人に擔はるゝに慣れず擔棒に吊下せられ繩縮て頭を
緊紮す一歩一轉旋回して行く其苦や寧ママ疲足を曳くの勝れるに
如かず稍くママにして船津新田に達す時に午後十一時とす始めて家船津新田に達す時に午後十一時とす始めて家
に入り浴を操る實に再生の趣あり之を此の行最極艱難最終艱難に入り浴を操る實に再生の趣あり
とす
山中更に恐るべきものなし猛獣蛇蝎を見ず只猪鹿の痕あるのみ山中更に恐るべきものなし猛獣蛇蝎を見ず只猪鹿の痕あるのみ
因て經歷する處に就て案するに山に入る須らく役夫十人を携ふ因て經歷する處に就て案するに山に入る須らく役夫十人を携ふ
べし(一行を三四人として)糧十日を貯ふべし山に入るの前豫めべし(一行を三四人として)糧十日を貯ふべし山に入るの前豫め
板屋を三四ヶ所に設くべし獵犬獵銃を携へ猪鹿を獵て糧を助く板屋を三四ヶ所に設くべし獵犬獵銃を携へ猪鹿を獵て糧を助く
べし毛布の衣を着くべし書を携ふべし雨あるとき消遣すべきなべし毛布の衣を着くべし書を携ふべし書なければ雨あるとき消遣すべきな
し酒を携ふべし酒なければ身体を害すべし行く者は最も强健なし酒を携ふべし酒なければ身体を害すべし行く者は最も强健な
るものを擇むべし尫弱のものは假令山に堪ふるも山を出でゝ必るものを擇むべし尫弱のものは假令山に堪ふるも山を出でゝ必
ず病を得べし皎脳を患ふ故に高きに登り空気の壓力大に減ずるず病を得べし
處に至れば眩暈して其勞餘の兩人に倍せり
始め戒三船津に達するや戸長某北牟婁郡の地圖一張を携へ以て
示して曰く本村より入之波に入る道六里に過ぎず往くもの必ず
一日にして達す其道とすべき處更に其難きを見ず今や之を大瀧
土倉氏に諮る未だ回答を得ずと以て北牟婁人の大和に達するの
道を求むる知るべし故に之を大臺に導びき其歩を轉ぜしむる蓋
し難きに非ざるが如し