『身体文化1』 第五章 野口整体を学ぶーーこの一年余の体と心の変化

鈴木 朗(横浜市在住 二十代男性)

 鈴木朗さん(仮名)は、現在、大学院で建築学の研究に励む二十○歳の学生さんです。昨年(二〇〇二年)の十月から東京の活元指導の会に参加され、今年の6月からは個人指導も受けるようになりました。前章の座談会に登場されていますが、その際のお話を含め、野口整体に出会ってからこれまでの約一年間の歩みについて、細かく綴っていただきました。
※金井省蒼先生の解説は青字にて表記してあります。

●はじめに

 野口整体に出会い、二〇〇二年十月六日の東京目黒、活元指導の会に初めて参加してから十四ヶ月が経過しました。活元運動を訓練し、個人指導を受けるようになってから、確実に私の体と心が変化しています。
 本文では、この一年余を振り返り、野口整体を学び始めた動機、私の日常生活における変化、本業である建築学の研究・デザインにおける変化、長年行っている武道の稽古における変化の主に四つについて述べていきたいと思います。

●野口整体をはじめた動機

 現在私は大学院に通う学生ですが、学業の他に少林寺拳法の稽古にも励んでいます。父親が少林寺拳法の指導者であることもあって、幼少のころから継続して行っています。
 少林寺拳法には、突きや蹴り等を主体とする「剛法」と、抜きや投げ等を主体とする「柔法」があり、またこれらの土台をなすものとして「整法(整体医法)」があります。昔から武道の修行では、武術と医術をバランスよく習得していくことが大切だと言われています。私はどちらかというと医術の方に興味があったため、武道を通して、相手を倒して勝つのではなく、ケガや病気などで苦しんでいる人を助けてあげられるようになりたいと考えていました。普段の稽古では、どうしても武術面の方に多くの時間を割いてしまうため、体の構造や機能についてはじっくり学ぶことができません。道場以外の場所で体に関して学べるところはないかと探していました。そんな時、去年の夏だったと思いますが、ある書店で筑摩書房の『整体入門』と出会いました。この本を読んだことが、野口整体をはじめるきっかけとなりました。以前まで私自身が抱いていた「整体」のイメージとはずいぶん異なり、とても新鮮に感じました。自己の再生力で自分の体を整えていくということに大変感銘を受けました。「自分を見つめ直し、拠り所にできる己をつくる」というブッダの言葉に基づいた少林寺の「自己確立」の教えとの共通性も感じまして、野口整体に強く興味を持ちました。
 また、野口整体にはじめて出会った時、ちょうど就職するか進学するかを迷っている時期でもありました。ほとんどの人が就職する中で、私は学問をさらに究めていこうと考えて進学することに決めました。しかし、進学を決断してみたものの、多くの人が歩む道と違うこともあって、自分の選択は誤っているのではないかという不安に悩まされていました。自分の決断に確信が持てませんでした。この不安感は、自分は一体何者で何をやりたいのか?ということが十分把握できておらず、心と体がきちんと整理されていなかったことによるものだと思います。
 この野口整体の指導を正しくしっかり受けられるようなところはないかと思い、早速インターネットでいろいろと探しまして金井先生を知りました。すぐに連絡をとって、まずは東京目黒で行われている活元会に参加させていただきました。
 はじめて活元会に参加した際、お茶の席で、運良く神谷さんの体験談をお聞きしました。野口整体を通じて自分を深く掘り下げていき、本当の自分というものを知ることができたというお話でした。そして今では頭ではなく、すごく深いところからやりたいことや動きたいことがあふれ出てくるのだと話されました。自分自身を開拓し生き方を変えていくというこのお話は、私が一番求めていた内容だったので感動しました。そして、私も真剣に野口整体に取り組んで、本当の自分の姿というものを知り、裡に潜んだ能力を十分に発揮できる己をつくっていこうと強く心に決めました。
 現在、活元会には月一回のペースで参加しています。個人指導の方にも今年の六月から通い始めるようになりました。

金井 後の文章で語られていますが、一年余の間に下記のごとく、多くの「体と心」を身につけたというのは、強い決心があったればこそであります。まさに、当人が心に決めたことが後に現実となるのです。

●日常生活における変化

 以前は、毎日朝から夜遅くまで研究室に閉じこもって研究作業に没頭してしまうという、ハードな生活を多く続けていました。その日に済まなくても良い作業までを、フンギリをつけずに無理してまで作業を行っていました。そのような生活を送っている間は、常に自分の体の中に何かダルイ疲れのようなものが残っていて、スッキリしていなかったのですが、あまり大したことではないだろうと思い、そのまま気にせず放っておきました。しかし、野口整体をはじめるようになってから、より疲れが強く感じられるようになり、無理な生活は止めざるをえない状態になりました。危険信号みたいなものを自分の体が教えてくれるのです。以前はなかったのですが、無理が続くと胸の辺りが強烈に痛みはじめます。また眼の疲労も強く感じられるようになりました。このように疲れや痛みが生じることは、常識的には良くないことのように思われますが、自分の体に無理をさせているということを逸早く教えてくれますし、日ごろの生活を見つめ直すきっかけを与えてくれますので、このような敏感になった体を大変有り難く思っています。体の異常に気づかず、鈍感な状態のままで疲労を蓄積していれば、今ごろ大事に至っていたかもしれません。

金井 体力がなくなっての過敏な状態と、このように敏感になっていった状態とでは違います。おそらく、踏ん切りがつきにくかったときよりも能率的になっていることと思います。

 現在は、一日の作業の中でまず優先する事柄を選び、それらを丁寧に扱うようにして、一つ一つの作業に取り組んでいます。野口整体で身に付けた深い呼吸でもって、肚を据え、あらゆる事柄に対して粗末に扱わないようにしています。急がず慌てず丁寧に物事に取り組むゆとりある姿勢は、こまめに気が行き届いて良い仕事が出来ますし、精神的にもストレスがたまらず心に余裕が生まれます。たとえ完全に仕事を終えることが出来なくても、それは今日自分の出来る範囲なのだと、自分自身に愛情を注ぐようにして諦めるようにしています。
 無理なことをいつまでもこだわって諦めないという以前の私の姿勢は、自分を粗末に扱っていたと思います。「諦める」という言葉は、あまり良い言葉ではないように思われますが、日常生活の中でとても大事な行為だと最近感じるようになりました。どの本に書かれていたか忘れたのですが、心理療法関係の著述家である加藤諦三氏が「諦める」は「明らかに極める」という言葉である、というようなことを述べられていました。見切りをつけて次の行動に移すべき時に、いつまでも諦められず滞っているのは、自分が明らかになっていない、つまり今の自分の状態を把握できていない状態であり、体が硬くて鈍感な状態なのです。このことは、野口整体をはじめてから身をもって感じています。

金井 特に「優先する事柄を選び」とありますが、体が整ってきたことで、このように自ずと想いが至るということは、敏感な上、大変すばらしい感性を感じるものです。
 みぞおち(腹部第一)が虚であること。丹田(腹部第三)が実であることが力のある状態。力があるから、些末なことにとらわれず、大事なことを優先できるのです。とかく、みぞおちが硬いと些末なことが気になってしまうものなのです。優先する事柄を選べるようになった彼は、そういう身体状態になったということです。
 「本日これまで」と切り上げることができるのは、まさに腰のキレーー体が整っていることにより、人生において大事なことが何であるかということを感得できるのです。

 就寝前などに余裕がある時は、活元運動を行い、補助的にストレッチも行っています。野口整体をはじめてから、体の手入れを行う習慣も身につきました。
 また、野口整体をはじめてから薬の服用や塗布を止めています。以前は風邪などの病気になった時には、反射的に薬を服用していました。先日、風邪を引いた時に実験的に何も服用せずに風邪を経過させました。時間はかかりましたが、そのまま自然に治り、より体が丈夫になったようです。
 シャンプーも(ボディー用も)実験的に止めています。洗う回数を減らし、できるだけ自分の体がもっている洗浄能力に頼るようにしています。整体で体が敏感になったせいか、最近は痒みを感じるようになり肌の荒れが気になっていましたが、シャンプーから石鹸に変え、洗う回数も減らしたところ、肌の痒みは止まりました。シャンプーや化粧品に関して文献やインターネット等でいろいろ調べてみたところ、これらにはさまざまな添加物が含まれていることがわかりました。ねずみの皮膚にシャンプー液を塗布した様子の写真がありましたが、肌が赤くただれ、ひどい状態になっていました。
 今の世の中、本当ではない情報が常識として流されていることが多いのではないかと思います。コマーシャルで有名人が宣伝すれば、その商品をそのまま信じ購入してしまいます。現代人は、体で感じることができないために自分で判断することもできず、情報だけに頼りすぎているのではないかと思います。人間の身体感覚は、より退化していく一方だと思います。自分の体と心を整え、感じやすい状態にしてゆけば、体で判断ができ、嘘は簡単に見抜けるはずです。このような時代に、本当に拠り所にできる強い自分というものを作っていくには、体を整えて感じやすい状態にしておくことがより重要であることが理解できます。

金井 このような若者が、身体智を求めて野口整体を学ぶということは、大変好ましく感じるものです。

●建築学の研究・デザインにおける変化

 現在、大学院で建築構造を専門にして研究を行っていますが、もともと私は昔から絵を描いたり模型を作ったりすることが好きで、デザイン志望で建築学の道に入りました。建築を学んでいくなかで、表面を飾るデザインでなく、建物の中身つまり構造体からデザインしていきたいと考えるようになり、構造の知識の必要性を感じて建築構造という専門分野を選び今日にいたっています。整体と同じで、建築物を創っていくことにおいても中身からデザインして、普遍的な「自然美」をめざしていきたいという想いがあります。
 はじめて金井先生から指導を受けた時、君は左右型の体癖であり、理屈でものを考えない感覚人間だから、本来理数系ではないというようなことをおっしゃいました。

金井 左右型が結構あって、感性派だね、というふうに言ったと記憶しています。

 確かにそうですし、改めて自分というものがわかったような気がしました。本来、美術の方を得意とする自分が、不得意な理数系の専門分野に足を踏み入れたため、実は悪戦苦闘をしている毎日です。不得意な部分を養いつつ、研究作業に取り組んでいます。個人指導を受けたことで、自分は何者なのかということを整理できたし、気持ちが楽になりました。まだまだですが、今後の自分の建築に対する取り組みかたというものが薄っすらと見えてきた感じです。少しずつ方向を修正していきたいと思っています。

金井 自分の質(たち)が把握できるということは、同じ建築界の中でも、いかなる取り組み方をすればいいかが分かってくるわけですね。

 アルバイトで、時々ポスターのデザインを行うことがあります。紙面に絵を表現する際、その時の自分の状態が驚くほど反映されます。野口整体をはじめてから、そのことを強く実感しています。何かいやなことや辛いことがあった時には、絵がなかなかうまく描けず、本当に冴えません。独り善がりなものになっていたりして、依頼主からの評価も悪いですね。絵は、自分のその時の状態をそのまま映し出してくれます。以前、整体指導を受けた後の心身が充実している時にポスターを描く機会があったのですが、短時間で何の迷いも無く、一発で書き上げました。デザインしている時は本当に楽しくて、気持ちがいいのです。見た目もスカッとして気持ちが良いものに仕上がりました。デザインを依頼した方も、その作品に対して大変良い評価をしてくださいました。デザインを依頼した方の要求と、自分が表現したいものとのバランスが良くとれていたのだろうと思います。そのポスターは、ある大学教授の講演会の情報を示すものだったのですが、その講演会の後、参加者にアンケートをとって、講演会の情報を知ったきっかけについて調べてみました。そしたら、今までになくポスターを見てきた人が多かったのです。このような経験をすると、やはり、ものづくりを行う人間は、整体なる状態がより重要であることがわかります。昔から多くの「人の心を動かしている作品」というものは、その製作者が充実した心身であったからこそ生みだされたのではないかと思います。ものや環境を整え人々に感動を与えていくデザイナーは、最も身近な存在である自分自身をまずは整えるべきだと感じています。今後さらに野口整体に励まなければと思っています。

金井 心がこもっているとか、気が満ちている作品、さらには魂のこもった作品ということですね。

●武道の稽古における変化

 武道の稽古において変化を感じたこととして、まず技がきまりやすくなったことが挙げられます。このことを文章で説明するのは難しいのですが、例えば手首をきめる固めや投技等を行う際、自分の足腰から手の末端までの力の流れが感じられ、またそれと同時に相手の体へ力がどのように伝わっているかが感じられるのです。そして以前よりも増して技がきまるのです。また、自分が気持ちよく楽しく体を動かせる時、技がきまりやすいことを発見しました。上半身の余計な力が抜けて下半身が安定し、力むところがないためでしょう。意識的に体を操作しているのではないので、無心に近い状態なのかもしれません。技をかけながら自分の体がほぐされているような感じでもあります。しかし、いつもこのような状態にはなれないので、これからも鍛錬が必要なようです。
 武道における足・腰・肚の重要性は、以前から知識としてはありましたが、体が感じやすい状態に変化してからは、この足・腰・肚が意識しやすくなり、改めてその重要性を理解できるようになりました。

金井 あらゆる運動の根本に、意識しない動きが重要であり、意識して動かすことも意識しない動きがあればこそ行えるのです。活元運動は意識しない動きを訓練いたします。

 一度、個人指導の際に金井先生から技をかけていただいたことがあります。日本の武道は「力」ではなく「技」なんだということを再認識する体験となりました。かけていただいた技は、互いに正座で相対し、私が先生の両手首をつかみ、先生からの押し込みに対して倒されないようにするもので、一種の押し相撲です。この技をかけられる際、私は絶対に倒されまいと必死になって耐えていたのですが、いとも簡単に倒されてしまいました。一瞬の出来事なのですが、その時の感覚を述べてみますと、まず先生は腕の力をほとんど使われてないことを感じました。腕の力で押しているのではなく、体全体でもって、特に腰や肚の力で押されているのを感じました。先生からの押しは、私の手のひらから、腕、肘、肩へと流れていき、私の重心を一度上にあげられたかと思うと、すぐさま下に崩され、背中から畳へ叩きつけられました。この技を決められた際、痛くもなく悔しさもなく、気持ち良くて楽しくて、不思議とうれしくなって笑いがこみ上げてきました。私の理想としては、武道の技はこういうものでありたいと考えています。武道は本来、争いを起こすものではなく止めるもので、平和的なものです。もし、武道の技を使わざるを得ない状況になった場合には、先生から技をかけられた時の私のうれしくなった状態のように、相手の心を和ませ改心させて、平和的に争いを解決できれば最高だと思っています。まだまだそういう域に達するまでには時間がかかりそうですが、いずれそうなれるよう、これからも腰や肚の力による武道の技というものを身に付けていきたいと思っています。

金井 相手を倒そうとして力む時には、心の面で言うと、「くそ〜」とか「こいつ〜」という心が働くと思いますが、逆に言うと、こういった類の心がほとんど無い状態になることが腰や肚ができることだと思います。
 武という字は、「矛(戈)を止める」と書きます。腕や肩、あるいは上半身の力は相手に作用するとき、やはり相手の腕や肩、上半身にしか作用しません。腰・肚という中心の力が相手に作用すると、相手の中心に働きかけることができ、上記のようになったのです。本誌第二章の「乗馬と野口整体」を熟読されたい。

 恥ずかしいことですが、日本人として生まれ、しかも長年武道を続けてきていながら、何気なく行っていた正座の優れた効用というものを、野口整体に取り組んで体が敏感な状態になってからはじめて知ったのです。今まではあまり感じなかったのですが、正座を行うと気持ちが落ちつき、上虚下実の状態がよりわかるようになったのです。こういう優れた身体文化を有する日本人に生まれてうれしく思うし、正座を習慣として行っている武道の人間として大変誇りに思えます。

金井 これは、鈴木君が整体指導を通して、本物の正座を身につけていったからに他なりません。日本人であれば、ほとんどの人が一応正座はできますが、本物の正座をできる人が少なくなっています。

 稽古の前には、ストレッチと共に必ず正座を行い、一度気持ちを落ちつかせます。稽古の前は、日常の生活で意識が頭の方に偏っていますから、正座をして自分をリセットするつもりで心と体をニュートラルな状態にします。そして稽古に望む構えを作っていきます。日常生活のことが頭にあると稽古に集中できませんし、またケガもしやすいので、気を落ちつかせるために必ず稽古前の正座を慣行しています。アグラでも試してみましたが、正座の方が腰が入りやすく、臍下丹田に意識をもって行きやすい。仙骨の利いた状態であり、坐骨の前を踵で刺激することで骨盤部全体に力が入り、頭・首・肩・胸の力がはやく抜けます。即効的に心身を整え、気を落ちつかせるには、アグラよりも正座の方が良いようです。
 現在、少林寺拳法の稽古は、主に大学で行っています。学年が皆より上だということもあって指導する立場にあるのですが、技術指導において、野口整体で学んだことを反映させるようにしています。下半身を安定させること、呼吸を整えること、できるだけ力まないことなどを心がけるように教えています。そして、できるだけお互いに技を掛け合うようにしています。力の伝わり方が体で感じやすくなったので、相手の技の状態がよくわかり、後輩の正すべきポイントを以前よりも的確に指導することができるようになりました。また、気の感応によるものだと思いますが、理屈より、やはり直接手を触れ合い、体でもって指導することのほうが後輩の技の習得が早いようです。
 今までは少なかったのですが、近ごろ不思議と後輩達が私に寄ってきて、教えを受けにくる頻度が増えました。特に、活元会または個人指導で気が充実した直後の稽古時に、みんなが慕って寄ってきます。気が満ちている時は、相手をリード出来る構えになっているのが自分自身で感じられます。気が満ちていると、私自身が何か気持ち良いし楽しいし、また相手を良くしてあげたいという与える気持ちがたくさんありますから、後輩たちもそれを無意識に感じて集まってくるのだろうと思います。
 後輩ではないのですが、一緒に稽古した相手の方から、何か憑いているものが取り払われたような感じで体調が良くなったと言われたことがあります。そして翌日の朝、早く目が覚め、しかも疲れが全然無かったと感謝されました。これはとても印象に残る出来事で、言われた私も大変うれしかったです。この時どのような稽古を行ったかというと、意識的な突きや蹴り等の攻撃を行わず、また防御時も意識的な防御を行わない。お互いにリラックスして何も考えず、無意識の体の動きに任せてやってみました。戦っているというよりはダンスしている感じで、ほとんど力強さを出さず軽く流す程度で楽しく行いました。活元相互運動とまで言えませんが、少しそれに近い状態だったと思います。
 このように、野口整体で学んだことを武道の稽古においても十分反映させています。将来は体癖も学んで、武道においても各人が持っている才能をより引き出せるような技術指導が行えるようになりたいと考えています。

金井 感無量。パチパチパチ…(先生、拍手)。

●むすび

 これまで述べてきたように、この一年余で私は大きな変化を遂げることができました。感じやすい状態になったことで自分自身に注意力が生まれ、自分との対話ができるようになりました。そして以前は「体を治す」ことを考えていましたが、今では「体は治る」という認識へと変化しています。これは大きな収穫です。人間の体のすばらしさを実感し、自分そして他人を尊敬し感謝する心が養われたような気がします。表面的ではなく、心の奥深いところでそのようなことを感じています。人生をよりよく生きて、持てる能力をいかんなく発揮できるよう、これからも野口整体を学んでいきたいと考えています。

金井 合掌。

●まとめ

金井 少林寺拳法を通じて(体を通して)、長年心を求めてきた鈴木君だからこそ、短期間にこのような面を獲得、体現できたと思うのです。人によって様々な活かし方があるものと思いますので、良き参考例としてお感じいただきたい。


「野口整体を学ぶ  ーーこの一年余の体と心の変化」を読んでーー身体智を思う    神谷 晴奈

 鈴木朗さんが初めて参加された活元会で、神谷さんのお話に感動されたわけですが、それから十四ヶ月後の鈴木さんの文章を神谷さんに読んでいただきました。鈴木さんの成長ぶりに驚かされた神谷さんが一文を寄せてくれましたので、掲載いたします。

 金井先生に指導していただくようになって、約2年半になりました。体験談(『感応道交2』第一章 人生が変わったとき)に書かせていただいたように、初めの1年半は自分の在り方への気付きと、身体の変化に伴う心の変化に自分の事ながら感動しました。しかし、体験して気づいた後からが本当の意味での勉強で、指導を受けながら、身体の使い方の偏りを不快なものと感じ取り、少しでも良い状態を身に付けるようにするには、時間と根気、日々の暮らし方がいかに丁寧であるべきか、痛切に感じながら勉強を続けているところです。
 今年も色々なスポーツの話題がありましたが、陸上男子200メートルの末績選手が銅メダルを獲得したのは、かつての日本人の身体の使い方をヒントにした走り方なんだと聞きました。科学的でないと切り捨てられてきたものが、実は私たち日本人の身体にいかに理にかなったものだった事かと先生とお話しさせていただいた事がありました。そのような使い方は、一人一人の身体の感覚を磨いていく事が大事で、一方、便利になり過ぎてしまい身体の感覚を使わなくても暮らしていける今の生活に危機感すら覚えます。自分だけでなく、子供たちを見ていると「感覚」を身に付ける生活からどんどん遠ざかって行くような気がしてならないのです。
 明治維新以後、日本は西洋に「追い付け追いこせ」という勢いで、より豊かな生活、より便利な生活を追い求めて進んできました。戦後は、また加速し、私達の生活は本当に便利なものになりました。スイッチ一つで何でもできる。家にいながらにして世界中の情報を集める事だってできる。その恩恵を受ける一方で失ったものも大きい。いろいろとあると思いますが、その一つはかつて日本人が培ってきた身体の使い方だと思うのです。便利さは裏を返せば身体を使わずに人がいかに楽ができるかということですから。
 西洋では道具をどんどん機械化して発達させてきましたが、日本では、優れた職人さんにみられるように、人の身体を使い、その感覚を通して道具を使いこなしていく技が発達し受け継がれていったと思います。また、そのようなことは、ある一部の特別な世界ではなく、日常生活における様々な家事労働においても行われていたと考えられます。しかし現代では身体をこまめに使って何かをする機会が普段の生活の中で奪われてきてしまっています。そして「身体智」が何なのかすっかり分からなくなってしまっている人が大変多いのを実感いたします。
 鈴木さんが野口整体と出会われ、指導を受けて、わずかな時間の中で身体感覚や自分の在り様を敏感に感じ取っていった背景には、幼少から武道の稽古に励んできたことが土台となっていると思います。武術は単に勝負や技のみを重要視するのでなく、常に心身の有り様が同時に語られます。言ってみれば、相手と自分、いざというときの真剣勝負なのですから、「この場合はああする、こうすると」頭で考えていては間に合わない。無意識に体が動かなければやられてしまうわけです。そのように集中した状態で身体感覚や自分の在り様を鍛練するベースがあり、自分が何を学ぶのかはっきりとした感覚を持って整体指導を受けられている。そしてまた稽古を通し自分と相手の状態を直接組んで感じていく結果、「身体智」をただ知識や概念で捉えるのでなく、体を動かし実践、体感していった事は大きな意味があると思われます。より積極的に感覚を磨くのに武道は最適かもしれない、と思ったのです。しかし武術に限らず、たとえば、スポーツの競技、舞踊、音楽の演奏など、身体全体を使って行うものは同じような意味を持つのかもしれません。より質の高い身体の構えを身に付け、整体指導を実践的に日常の生活に活かしていく事がとても大切だと思います。そして、体感を通じてすべてを学んでいく姿勢が今の日本人に一番求められる事ではないでしょうか。
 私は、この体験談を拝読し、改めてピアノを演奏するときの裡の動きを意識するようにしてみました。腰と上体、指の感覚に新たな気付きがあり、手ごたえを感じたのですが、何よりも自分のもどかしいほどの鈍さに気が付いた事が一番の収穫かもしれません。自分とは違ったいろいろなフィールドにいらっしゃる方の体験に触れる事で、視野を広げ、それを自分に応用してまた新たな気付きにつなげる。そんなつながりをとてもありがたく思います。本の企画に携わっていらっしゃる方々、本当に感謝です。