ポカンとするってどういうこと?

2004年6月29日(火)

谷山晴香さんへのインタビューより

(この文章は『会報2』No.14に掲載されています。)

 

谷山 活元会後のお茶の席で、一人の女性が徳田さん(啓哲塾塾生)と話をしていました。なんとなしに聞いていると、どうやらなかなか運動が出なかった様子で、徳田さんが「運動が出るようになるには、もう少し頭が弛まないとね」と話されていました。
その女性は半年以上活元会に参加しているものの、弛むことやポカンとすることがいまひとつつかめない様子でしたが、私を見て「頭を弛めると言っても、頭の中にいろいろなことが浮かんできて、考えや言葉を止めることができないから、ポカンとすることはむずかしいですよね」と同意を求めてきたので、「初めの頃は私も同じように感じました」と答えました。
会に参加するといろいろな方がいらっしゃいますが、特に活元運動を始められたばかりの方は、「頭を使いすぎている緊張がある」ことを自覚できない。今現状の体の使い方しか知らないから、頭を空っぽに、とか、上体の力を抜きましょうと言われても戸惑っている方が多いようですね。

金井 凝りが自覚できないんですね。

谷山 自覚できた時でも「肩が凝ったなあ、疲れたなあ。じゃあ、お酒飲んで寝るか!」と、そんなふうにしか疲れを取る方法を知らない人が一般的には多いのでしょうね。

金井 例えば緊張していると欠伸も出ないし、おならも出ないよね。だから、そういう意味で活元運動は、欠伸や伸び、つまり意識はあるものの意識によらないで、ついしたくなってしまう運動。欠伸は医学的にいうと脳内の酸素を増やすために自然に体がするそうです。
ですから、「自律調整的な働きである活元運動が起こるためには、緊張したままでは駄目なんですよ」と、そういう話をしないといけないんですね。意識でわかるように丁寧に説明をした上で「ポカンとしましょう」ということです。
初めポカンという言葉を聞いて、どう思ったの?

徳田 僕は、ポカンっていうこの音の響き、これが非常に心地よく感じたんですね。(笑)

谷山 はじめの頃、私はイメージとしてはわかっても、先ほどの女性と同じように、むずかしく感じました。「いろいろ思い浮かんでくるうちはやっぱりポカンとできていないのかな?」とか。活元運動も出にくかったですし。

徳田 みんなそうなんですよね。

金井 活元運動はポカンとしないと出てきにくい。だからポカンが必要だというのがあるし、それで、じゃあポカンとするってなんで大事なのかというと、頭も体も今晩休まりきれば翌日がまたキチンと働く。これが目的なんです。働くために、明日きちんと全力を発揮するために、眠る前にゼロになる。こういうことです。
体に力が入ったままだと深く眠ることができません。そして、どう体に力が入っているかは、頭がポカンとしないとわからないんです。
時々、「朝起きると肩凝りになっているんです」と言う人がありますが、一晩眠ることで頭が休まり、それがわかるようになったということなんです。
眠る前にポカンとし、体の感覚が働くと眠っている間に偏り疲労が調整されるんです。ですから気持ちよく目覚めるには、意識がある時にポカンとできることが大切なんです。
しかし頭のポカンは意識するだけではできません。頭がポカンとしない人はまず肩甲骨の力が抜けないので、肩甲骨を回して力を抜くようにするといいんですね。 その他、側復を伸ばすといい体もあります。アキレス腱まで含めて、自分の体に必要なストレッチが効果的ですね。

谷山 ゴムも伸びきったままでは、使えませんよね。何でも一回弛まなければ働かないということですね。
私も指導を受けるようになり、しばらくして自分なりにポカンがわかってきたのにはまず、自分の家で活元運動をやる時と、個人指導を受けている時の頭の中のモードが、全く違うことを体験として自覚できたことからだったと思います。弛むといっても、例えばお風呂に入ってホッとするとか、そういったものとはまた違うと感じました。愉気を受けての弛みは、もっと裡から弛むんだなあと。
私は活元運動がなかなか出にくかったのですが、今から思うと頭が弛まないまま緊張した状態が続いていて、本当に自分がどうしたいのか、体が何を要求しているのか、自分自身を置き去りにして生きていたと思います。自分の体も、考え方だけでコントロールできると思っていたぐらいでしたから。それで、活元運動は無意識の動きだからと言われて、今度は、「無意識の状態を身につけなければ!」と意識でこだわりすぎて余計に頭を使っていたっていうところがありました(笑)。
活元運動を始めるんですけど、「この動きは意識? 無意識?」って考えちゃって、動けなくなっちゃうんです。

金井 無意識を意識しちゃったのね。それで実際に運動が出始めると、それはどんな意識だったの?

谷山 そんなことがどうでもよくなった…。(一同笑)。人それぞれの表現があるでしょうけれど、私は自分の身体の要求に素直に共感して、意識と身体が一つになっていくような感じです。

 

行雲流水

谷山 頭にいろいろ思い浮かぶこともあるけれども、それも気にしなくなって、こだわらないようになったんです。野口先生の本の中にもこんな文章がありました。

徳田 それは『健康生活の原理』にこう書いてあります。特に相互運動について野口先生が、

 

「心を空っぽにすることは難しい、無心になろうとすると、あとからあとから雑念がわいてくるのですが…」と質問した人がありました。けれども雑念があとからあとから沸いてくる時は無心なのです。心が澄んできたから、雑念があとからあとから出ては消えるのがわかるようになったといえる。或る雑念が心から離れないで、次の雑念を生み出すようだといけないのです。だから浮かんでは消える雑念のまま手を当てていれば動き出してくるし、動き出せばひとりでに雑念がなくなって、統一状態になります。

 

と書いておられます。思いが流れているので、それでいいんですよ、ということですね。

谷山 止まらなければいい。流れるということですね。

徳田 流れて、それで、次から次に出てきても流れていく…。

谷山 先生は空に浮かぶ雲のようにとおっしゃっていましたね。

金井 そう。雲が流れていくよね。「行雲流水」という言葉がありますね。

谷山 何か一つの思いにとらわれていて、しかも「あっ、こんなこと考えちゃいけないんだ」というように戦ってしまうことがいけない。

金井 そういうことですね。人間は根源においては「良心」というものの働きによって、良からぬことを考えてはいけないんだということを知っているんですよ。元から知っているんです。
だから、良からぬことをした(と思っている)人は人相が悪い。それは良からぬことをしたことを知っているから。自らを責めているから。自分で自分を罰しているんです。それは良心の働き。それがあるからこそ、良くない思いにとらわれていると良くない顔になっているわけですね。
だから元々、そういう判断する力を持っているので、悪い思いが出てきた時に、止むに止まれず思いを駆り立てている自分と、そんなこと思ってはいけない自分が戦ってしまう。元々そういう構造になっているんですね。で、そこを超えていくためには、浮かんできたものをもう一つ肯定してしまえると流れやすくなっていくんですね。

谷山 戦っているという自分に気がつくまでも大変だったけれども、その後それ(雑念)と戦わないっていうのもすごく葛藤があって、難しい。とらわれたくないって思うのだけど、とらわれちゃって……(笑)。

金井 そう、それ自体がすでに最初から持っている良心の働きなんです。だからそこをさらに意識して肯定していく。
「本心の我」というのと、「肉体我」と言ったらいいでしょうか。お腹が空いただけでイライラしますね。こんな面を拡げて理解できるようになると、思いを駆り立てていた元は徐々に溶けてくるんですね。

谷山 しかし、例えば何か後悔するようなことがあったとすると、自分を責めてしまいます。

 

型を身につける

金井 そうそう。だからその時にこそ、なぜそうなってしまったか、そうしてしまったかというところを、後悔と分けて考える。分けて考えるということは「本来の自己」と「現象としての自己」を分ける。
本来の自己としては、好まないことになってしまったから後悔しているわけでしょ。だけどそれは本来の自己が一番奥に存在するもので、生身の自分というものの、潜伏感情だったり、潜動しているエネルギーだったり、そういうものに突き動かされて、してしまったというところがあるわけです。凝固、また圧縮されていたエネルギーが、勢いが出てきた時に爆発したりする。そういう時に余分なことをしてしまったりもするわけだね。例えば、「一つ叩けば十分なのに、五つ叩いちゃった」みたいなね、そういうことが出てくる。
だからそういう意味で、本来の自己が欲するように、言動も含めて行動できるように自分を整える。活元運動を長く行じていくと、いつしかそうなってきます。
それは、自分の身体を把握すること。自分の、心の運転のために身体を把握する。と、こういうことになります。そういう意味において日本人の、旧来の身体文化というものは、型を通じてそのようにしてきたんだ、ということがはっきりと私には観えてきたわけです。

 

何かにとらわれることと、
しっかり頭を使って考えることの違い

谷山 先ほどの女性もそうでしたが、「今の人は頭を一つ余計に使っている」と活元会などでも指摘を受けますが、決して頭を使うなということではないのですよね。

金井 そうだね。頭も良く使うべきですが、余計に使うというのではありません。
意識と無意識のバランスが大切なんです。意識が濃くなり過ぎた時は「意識を閉じて無心に聴く」というんです。頭を使い過ぎるというのは「頭でっかち」ということで、実は大切はことがわからず、自然から遠ざかっているんです。

谷山 私が前回の体験談(『病むことは力』第一章の収録、2003年9月16日)の後、さらに一年半経って、一つ自分の「癖」のような状態に気がついたんです。ぼんやりと何かにとらわれて考えているのと、きちんと向かい合ってしっかり頭を使って考えることとの大きな違いを知りました。
何か気になることがある時、ぼんやりしている時は、例えば「困ったなぁ」とか「いやだなぁ」といった感情にひたっているんです。友人を見ていてもよくあるのですが、悩み事をいつまでも抱えて悩んでいる。こんな事で悩んでいても仕方がないと、ポジティブに考えようとしても悩みの元は解決されないままやはり悩んでいる。そうなっている時は心も体も滞っていると思うのです。

金井 とらわれているのとは違い、しっかり取り組んでいくというのはいいんですよ。このことは、どうしたらよくなっていくのだろうか、とね。それはいいことなんだけど、ボーッととらわれて虜になっている、というのは良くないんです。

谷山 はい、それがわかってきました。

金井 それも活元運動による感受性の進化によってわかるのですが、それがわかると「おーっ、いけない、いけない」って、戻れるの。だからとらわれてボーッとするってことは心を盗まれちゃって、主人公がいないみたいな、そういう心の状態になっているわけです。

谷山 考える時は積極的に取り組むという感じでしょうか。悩みの部分にしっかり光を当てて、自分がどうしたいのかしっかり考えていくような…。

金井 考える前に感じることが是非に大切です。そしてそれから考える。

 

とらわれを振り払う
感受性のクリーニング

金井 「全生」ということはね、全力を発揮する、生命を全うするということだから、積極的、能動的ということだね。そのために、とらわれているとか、自分にこびりついたというものは振り払う気持ちになれば振り払えるわけだね。それが活元運動!

谷山 振り払うんですか?

金井 振り払うつもりになって活元運動が起こると払うことができる。
「活元運動」というのは野口先生が言われた言葉なんだけど、その前には霊動法と呼ばれるものがあって、その霊動法のことを「密教的易行道」というように本に書いた人が「お祓い」ですと。だから神道の神主が玉串で「シャッ、シャッ」と払うでしょう。それは、いろんな思いというのが人間にくっつくから、ざわざわしている邪気を払う。そういうことをお祓いと言うのです。滝行も同じですね。
自分がとても心地よくスッとなっている状態が神との一体感だとすれば、そうでなくなった時は、どっかが凝っていたりして、思いも晴れなかったりする。活元運動が本当に出てくると、それを払えるわけです。活元運動をしようとする意志は必要なんだけど、あとは体の方で動いてそうしてくれちゃう。自動クリーニング。

谷山 便利ですね。

金井 そう、そこまで訓練すれば大変便利。本当に振り払いたくなったら、例えば「汚れついちゃった」って手でパッパッと払ったりするでしょう。くっついていてもいい人は別に払わない。だから心地よい状態が好きにならなければ駄目ですね。

谷山 そうですね。

金井 綺麗好きな人は毎日掃除機かけるが、汚れていてもいい人は、めったにかけない。

谷山 「掃除も毎日やれば大変じゃないけど、一ヶ月に一回だと大掃除になっちゃう。活元運動も同じだよ」と前に先生がおっしゃったことがありましたね。たしかに、活元運動の後はいろんなものが取っ払われて、シンプルになり、自分がどうしたいのかはっきりとわかるように思います。

 

払った後は感情として
思い出さない

谷山 以前、先生から「何か嫌なことがあっても、体の動きが出て一つ越えると、そのあった事実は思い出すが、感情として思い出さなくなる」と言われて、そんなものかなぁと思っていましたが、心が停滞しないで生活することを意識するようになって、やっと身をもってわかりました。思い出しても、みぞおちがキュッと固まる感じがないんですね。

金井 あったことの記憶がなくなるというわけではないけれど、感情をエネルギーとして処理できた場合には、その時の感情にまではもう戻らない。
思い切り泣いたら悲しいことをすっかり忘れてしまった、というように体運動として発散するとエネルギーの分散ができます。だから後々辛かったりするのは、エネルギーとして内在させているからですね。
一つわかりやすい例を挙げると、私が若い頃車を飛ばしていた時にスピード違反で捕まって嫌な思いをしたことがある。その後何年かして車を走らせている時に、パトカーの音を聞いただけで「ズキッ」ときたりする(笑)。そういうのは感情がエネルギーとして残っているわけです。「あっパトカーの音だな」みたいだったらいいが、それがいきなり心臓が「ドッキン!」とくる、というのは感情として残っていて、エネルギーとして記憶しているわけです。いろんなことをそういう状態で記憶していると辛いということだね。 これがトラウマということでしょうね。

 

みぞおちと感情エネルギー

金井 個人指導の時整体操法で、みぞおちをグーッと押さえると、その人が「痛い」と感じる。だけど私は、みぞおちが虚の人を押さえても痛くない方法で押さえているんです。だからみぞおちが硬いために痛く感じるのです。それでその人もみぞおちに、力が入っていたんだ、ということをそこで初めて知ることになります。
今週の日曜日の指導で、永井さんが今月初めに「ズン」ときたことがあって、それで三週間ほど経っているんだけれども、背中に手を当てて愉気しながら話を聞いていく中で、弛んできたら「あっ、私こんなにみぞおちが硬いんだ」というようにわかってきたんですね。
そういうようにエネルギーとして内在させているということなんだね。だから、みぞおちが硬い人が硬いということがわかったということは、もう、一つ山を越したということになります。
そういうように、凝りというものがエネルギーなんですね。『病むことは力』の中にも出ていますが、「感情を抑制し、病気を治療し、人為の硬結を作ってしまうと体が歪んで、平衡を保つことが難しくなり」と、「エネルギーの集散を行って歪んだ体の動き、固まった感情を平常に帰す方法として整体操法があるのです」(野口晴哉)ということですね。

谷山 「人間の構造」(野口晴哉)ですね。

金井 そう。おそらくこういうように体を捉えた人はきっと野口先生が初めてだろうと思います。
野口先生は、おへそとみぞおちの間に手を当ててね、「感情というのはここにある。だから、怒っていると言ってもみぞおちが柔らかければ、それは怒っているふりをしているだけなのです」と、そんな表現されていましたけど。だからみぞおちが虚で、つまりおへその上は柔らかく、おへその下に力があるのが人間本来の自然な状態ですと。

 

 

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『別冊宝島220 気で治る本』(宝島社、1995年)

小林幹雄「野口整体における気の研究」より

  

 活元運動の訓練が進むと、裡の緊張と弛緩の平衡が保たれ、病気を必要としない心身が育ってきます。病気が治るのではなく要らなくなるというところに事柄の本質があります。しかし病気の不要な身体の育成ということは、活元運動の消極的な効用にすぎません。ヴァイオリニストの偏り疲労をなくすことだけではなく、より積極的には、音楽家が今まで演奏したくても出しえなかった音色やリズムを、心身の弾力の開拓によって可能にすることが、活元運動のめざす方向なのです。からだを育てることで感受性を高め生活を豊かにし、自己の可能性を追求していく、そこにこそ整体法が「体育」であることの真義があるのです。

 さらに言えば、何かのために活元運動を行うことすら不要になり、すべての行動が活元運動になるのが最終的な目標なのだと思われます。意識運動なのか無意識運動なのか区別できないまま、生命のリズムとともに心身が躍動し安らぐとき、私たちは一息一息に快を感じ、一挙手一投足に愉しさを見出すことでしょう。活元運動とは、その極まるところにおいて、存在することそのものの歓びに至る、自己の内部との尽きることのない対話の技法なのであります。