『「気」の身心一元論』

 

読 書 会

(2017年版 読書会の紹介ページです)

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科学を相対化し
 「禅文化としての野口整体」を
          思想的に理解する

― 明治以来の近代科学文明と伝統的な東洋宗教文化
そして、敗戦後の「道」の喪失について

 

金井 蒼天

2017年2月2日

 

 現代日本の多くの人々は、敗戦(1945年)後の科学至上主義教育により、無意識的に、科学絶対主義(科学的世界観が唯一)となっているのです(これは、意識が理性偏重となっていることを意味する)

 こうした人々においては、敗戦以前の伝統文化を基盤として成立した野口整体(の「身体性」)を、真に理解することは容易ではありません。

 それは、敗戦以前の日本では、東洋宗教文化が結晶した「道」というものが、日本人の共通感覚となっていたのであり、現代では、この共通感覚を失っているからです。

 そこで、理性に偏って意識が発達した現代の人々が、野口整体を身に付けて行く上では、先ず、科学を相対化し、野口整体の東洋宗教(とくに禅)文化性を、思想的に理解することが肝要なのです(註)

 

(註)野口整体を身に付けるとは「整体を保ち全生する」こと。

整体とは意識が明瞭(雑念に支配されることが少ない状態)で、主体的に生活が出来る「身心」を言う。

科学を相対化 科学という絶対的とされてきたものの見方を、それが唯一ではない、と提示すること。

 

 養老孟司氏は、三島由紀夫事件(1970年)、オウム真理教事件(1995年)を取り上げ、日本の伝統「道」、「型」が失われた現代日本社会での「対話の様子」と「身体性」について、次のように述べています(読売新聞「わが二十世紀人 ―― 三島由紀夫」1996年)

 

 昨年、オウム真理教事件が起こった。私の頭のなかでは、三島事件とオウム事件とが、もはや分かちがたく一体化している。私が知っていた東大医学部の学生がオウム真理教に入信していったのは、ヨーガを通じてである。三島が日本の伝統へ入っていったのは、歌舞伎の鑑賞を通じてだが、それは続いて武道つまり剣へ向かった。しかし三島は運動神経のない人だったので、最後にはボディービルになった。

 三島もオウムの学生も、なにより自己の身体を通じて、人生により深く関わっていこうとした。当人からすればやむを得ぬ仕儀、一種の必然かもしれないが、安易なそれがいかに危険かを、三島とオウムという二つの事件が示している。しかし現代人の常識では、なぜそんなことが危険か、と思うであろう。

 日本の伝統では、身体を通じて人生を深く理解していくことは、先達(せんだつに学びつつ、一生を賭けるべき仕事だと了解されていたはずである。それがすなわち修行であろう。個々の修行が具体化したものが「道」であり、それが完成したものが「型」だった。それを自分一代の、しかも単純な思いこみを通して完成出来る。そう思ったのが「天下の秀才」三島であり、東大医学部の学生であろう。

 三島とオウムの前に類似の事件があるか。ないはずがない。それが軍国主義と敗戦であろう。軍もまた身体がらみであることは、だれでも知っている。さらにその背景にあるものはなにか。そこで私は唐木順三(からきじゅんぞう)の『型の喪失』という論文を思い出さざるを得ない。唐木順三は昭和二十四(1949)年、敗戦の反省をこめて書く。われわれの文化は明治以降、型を徹底的に失ってきた。大正教養主義はその典型的な表れであるただし滔々(とうとう)たる教養主義の流れのなかで唯一、型を残したのが軍である(註)。その軍にすべてが引きずられ、とうとうこういうことになった。唐木順三はそう嘆く。畏(おそ)るべきは型である。

(註)日本の近代(西洋)化に伴う軍国主義の下、軍隊は身体を通じて、集団心理を支配する技術を持っていた。近代的軍隊の「型」とは、日本の伝統的な「型」とは違い、重心位置が全く異なるものである。

 では「型」とはなにか。それは無意識的表現であろう。すべての文化は、意識的表現と無意識的表現によって成り立つ。言葉や芸術は意識的表現だが、身体はほとんどが無意識的表現である。それが無意識だからこそ、日本の芸事では一切を師匠のする通りに真似することになった。それでなければ「無意識的」表現など保存出来るわけがない。現代人は実在するのは意識のみだと信じている(これが、意識が理性偏重)から、そうした教え方を馬鹿げた封建的なやり方だと思っているだけである。

 勝海舟と西郷隆盛が、江戸弁と薩摩弁で現代風の「話し合い」をしたはずがあるまい。それを通じさせたのが型であろう。以心伝心とはそのことだった。それが通じない時に、不信が生じる。だから戦後の日本は、言葉は氾濫(はんらん)したが、不信の社会となった。医師と患者も、教師と学生も、それなりに思い当たることがあろうか。この社会では、相互に通じていないのは言葉ではない。身体という表現なのである。

※緑色の部分は金井による補足

 

 この意味において、日本人は戦後「日本人の身体」を失ったのです。敗戦後の科学至上主義という時代においては、大正教養主義を凌駕して「型」が失われたと考えます。

 このように、「身体性」という共通基盤が失われ、「理性」が発達した現代、野口整体を身につけて行く上で、「その思想を理解(哲学的に思考)することが第一である」と、私は考え、野口整体を科学に相対化し、論理的に表現する(思想として表す)ことを重ねてきました。

 

 

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○ 鎌倉支部 読書会

広報室 室長 真田興仁

 

 鎌倉支部では、毎月第4日曜日に、金井蒼天先生のご著書『「気」の身心一元論』の読書会を行っています。

 野口整体金井流においては、野口整体を東洋宗教(とくに禅)文化、すなわち「道」の流れを汲む養生・修養・修行の文化と位置付けています。このような身体文化は、本来、身体行を通してのみ理解され継承されるものでした。しかし、身体性そのものを喪失した時代に生きる私たちにとって、言説化されずに継承された文化を理解することは容易ではありません。私自身にとっても、その理解は雲を掴むようなもので、大変難しいことでした。

 金井蒼天先生は、このような現代の事情を慮り、日本の身体文化の流れを汲む野口整体に、諸学の光をあてて再解釈し思想的に体系化されました。

 この体系を学ぶことによって、私たちは野口整体が単なる一療術ではなく、まぎれもない日本の身体文化であるということを理解することが出来ます。しかし、何よりも重要なことは、本著に著されている体系を学ぶことによって、現代に生きる私たちが「身体に取り組む」ことの必要性や、その意義を思想的に理解することが出来るということです。

 実は、私自身にとって最も理解が難しかったことは、まさに、この「自己の内なる世界」を探求するために「身体に取り組む」ことの意義でした。私はアメリカで哲学・神学を学びましたが、その際に多くの私の指導教授であった哲学者・神学者たちから、禅などの東洋的修行の意味について尋ねられましたが、全く答えることが出来ませんでした。

 それどころか、東洋の「身体行」と言われる修行が、かつてキリスト教文化圏で実践され、後に排斥された、極端な禁欲的・苦行的な行のように本質的な価値のないものとすら考えていたところがありました。キリスト教のそれは、肉体を痛めつけ、あらゆる欲を滅ぼすことによって、高い精神性に至ることが出来るというものであったので、そのことに言及しながら、彼らに、東洋の「身体行」も、同様のものであろうという意見を表明したことがありました。

 ところが指導教授は、私の見解に同意せず、東洋的、特に日本の禅に見られるような「身体行」は、そのような陳腐な苦行や禁欲主義ではなく、もっと深い意味を有しているはずだと反論してきたのです。この反論は、「身体的」な実践が宗教的であることの意味への問いかけでした。その反論に対して、当時の私は答える術を持っていませんでした。

 なぜ、自己を知るために、「身体行」に取り組むのかという問いは、その後、私の心の片隅で、哲学的な課題として、くすぶり続けていました。これは、西洋的な哲学的思考だけでは理解出来ない命題です。

 その後、師金井蒼天と出会い、整体指導を通じて多くを学びました。その結果、私は「身体に取り組む」ことによってこそ自らを理解し、身体が整うことで澄んだ心となり、このような身心を保つことで「自己実現を果たしていくことが可能になるのだ」、ということを少しずつ体験的に、また知的に理解していくことが出来ました。

 

 『「気」の身心一元論』は、現代社会に生きる私たちの根本的問題を明らかにし、それを克服し、私たちが十全に活き活きと生きていくための著書です。それは、「禅文化」としての野口整体を体系化した現代日本思想とも言えるもので、現代を生き抜くための「教養」であるといえます。

 この本によって、私たちは、なぜ野口整体に取り組むのかということの真の意味を理解することが出来ます。それは、この言説化されなかった「行」に取り組む私たちにとっての力強い助けになります。私自身も、この「行」に積極的に取り組むことが出来るようになったのは、金井蒼天先生が体系化された思想によるところが大きかったと確信しています。

 本著全体は、精緻な構築物のように編まれており、言葉の一つひとつが厳密に適用されています。ですので、鎌倉支部読書会においては、時間を十分にかけ、言葉の一つひとつを丁寧に読み取り、可能な限り正確に、野口整体金井流の思想を理解出来るよう、努めながら読むことを旨として進めております。

 難解だと敬遠されがちな部分に関しても、敢えて正面から向き合い、多少の努力を参加者に求めながらも、兎に角読むことが肝要だとの思いで行って参りまして二年余りとなります。私たちに野口整体の真の価値を伝えたいという金井蒼天先生の切なる思いをひしひしと受けとめ、甚だ微力ながら、今後も読書会を続けて参る所存です。

 

 

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○ 自由が丘 読書会

湯河原支部 徳田 一

 

 昨年12月より、活元指導の会・自由が丘会場にて『「気」の身心一元論』読書会を始めました。金井蒼天先生の『「気」の身心一元論』を丁寧に読み進め(正坐による音読)、野口整体の「全生」思想への理解を深めます。

☆参加費 1,500円
☆自由が丘会場(詳細は申込時にお知らせします)
☆日程:第3日曜日 16:30〜19:30

☆申し込み  ki-shizenkh@sky.email.ne.jp までメールでご連絡下さい。

 

 『「気」の身心一元論』出版後、金井先生は改訂・増補版の執筆に取りかかられました。そして、『「気」の身心一元論』を基に大幅加筆され、上・中・下巻の全三巻に及ぶ大著となっていきました。

 昨年、啓哲塾では上巻(『野口整体と科学 活元運動』)を教材として、「科学を相対化し「禅文化としての野口整体」を思想的に理解する」ことをテーマに、「近代科学と東洋宗教」の相違について学び、その学びのまとめとして、塾生全員が上巻第一部第一章・第二章を読んでの感想文を提出しました。

 上巻第一部第一章・第二章は次のような内容になっています。

第一部 教養編(理論・思想) 野口整体と科学
      
― 科学を相対化し 「禅文化としての野口整体」を 思想的に理解する

「科学の知」は心身分離(二元論) 「禅の智」は身心一如(一元論)

金井流整体指導の「心身医学」的解説

第一章 野口整体と西洋医学

身心一如(一元論)と心身分離(二元論)

第二章 野口整体の生命観と科学の生命観

― 東西の自然観の相違より生じた 生命観の違い(自然治癒力の有無)

 

  以下は私が纏めた感想文の一部です。

 

 

上巻第一部第一章・第二章を読んで

― 私はこのように捉えた
徳田 一

 

1 心身二元論と身心一元論における「心」の差異
2 親世代と子ども(私)世代の「心」の問題
3 身体性の教育が「主体性」を育む
4 東洋の身心論を学ぶためには
5 西洋医学と野口整体

 

 1 心身二元論と身心一元論における「心」の差異

 ここ数年にわたる学びの大きなテーマは、上巻「第一部 教養編(理論・思想)野口整体と科学」の副題となっている、「科学を相対化し「禅文化としての野口整体」を思想的に理解する」ことにありました。

 そして私自身において、このテーマについての大きな学びは、「近代科学」と「東洋宗教」の間には、「心」というものの捉え方に大きな差異があることを、思想的に理解できたことです。

 以下の文章は、近代科学(=心身二元論)と野口整体(=身心一元論)における「心」の差異について、先生が端的に著されたものです(特に傍線部)

 

上巻 序章 本書へのアプローチ ― どのようにしてこのような思想に至ったか

 野口整体の指導において必要とされる、人間を扱う「感性」というものは、このような理性・現在意識というものとは対極にあると言えます。

 近代科学の頭にある心(理性)に比し、野口整体の心(感性)は体にあるのです。

 東洋宗教の基にある身心一元論では、精神(霊魂)とは「肚」であり、「身体性」を重視し「人間の中心(心)は丹田にある」としています。これに基づく野口整体では「心と体は同じもの」であり、この「心」は近代科学(心身二元論)が定義した心とは大きな差異があるのです。

 

 東洋宗教文化(道=「腰・肚」文化)が失われ、近代科学の生命観(心身二元論と機械論的生命観)が蔓延した戦後日本に生まれ、理性至上主義教育(意識偏重教育)のみで育ってきた私が、無意識に「心」としてきたものとは、体(感覚・感情)と切り離された「頭にある心(理性)」でした。それは、「心と体は一つ」と野口整体で言っている「心(感性)」とは異なるものだったのです。

 このことを思想的に理解するためには、石川光男先生の思想を学び、近代科学を生んだ西洋の自然観(非連続自然観)と、野口整体(東洋宗教)を生んだ東洋の自然観(連続的自然観)の違いから生じた、東西の「心身観」の差異を知ることが重要でした。以下の文章はこのことを示しています。

 

上巻第一部 第二章 一

 ギリシア文化(ヘレニズム)の論理的思考と「神の代りに自然を統御する(人間は自然の主人)」というヘブライズムの融合(=キリスト教)を土台とした西洋思想では、人間は自然の外へ出てしまっていて、そこから自然を客観として見ています。

 このような西洋思想を基に成立した近代科学(の考え方)は、客観主義の観点に立ち、物理学的な観察から得たモデルを基本にして、その延長上に生命現象や人間を研究する(生物学・近代医学など)ものです(近代科学は物理学が基盤)

 一方、多種多様な生態系を持つ自然を背景に生まれた東洋的自然観は連続的であり、東洋宗教である儒教・仏教・道教は「人と人、人と自然とのつながり」を教えていると石川光男氏は説いています。

 東洋的な考え方は、人間は本来、自然のはたらきとの調和と共鳴のなかで生きているというもので、自然の中に溶け込むことを良しとしたのですこれが「近代科学と東洋宗教」)

 気候風土や地理による人と自然の関係(自然観)が、心と体の関係にも反映し、西洋では、人間が自然を支配する非連続的自然観から、(理性)が体(自然)を支配するという「心身二元論」が生まれました。そして東洋では、連続的自然観から「身心一元論」が生まれたのです。身体における二元論の中心は頭(理性)で、一元論の中心は肚(丹田)なのです。このような東西の「心身観」の差異は、文化の差異となって随所に表れてくるのです。

 

 こうした学びを通して、野口整体に出会う前までの「頭が心(心とは理性)」であった自身の生き方と、野口整体を修行し「体が心(心とは感性)」である身体が徐々に養われての自身の生き方との違いを理解することが出来ました。そして、身心一元である野口整体を体得・体認することへ通ずる道を啓くことになったと思います。

 

 (中略)

 

 3 身体性の教育が「主体性」を育む

 私が通った愛知県立旭丘高校は、管理教育のメッカと言われていた愛知県の中で、当時唯一自由な気風(旧制中学・愛知一中以来の蛮カラな校風)を持っていた高校でしたが、日本中を占める「受験戦争」という風潮の中では、「大学受験のための教育」という点で他の高校と変わりありませんでした。周囲は、東大、京大、名大、慶応、早稲田など一流大学を目指す者ばかりで、私もまた、親から良い大学に進むことだけを望まれていました。

 高校生の私には「如何に生きるべきか」という思いはありましたが、自分を知り、身心を養うこと(養生・修養)を教えてくれる教師は皆無でした。

 そして、理性至上主義教育(意識偏重教育)により、「如何にしたら良い大学に入れるか」ということのみが心(頭)を占めるようになっていきました。一生懸命に受験勉強をして、頭に知識を詰め込み、「大学に合格する」ことが強迫観念のようになっていました。

 今思うに、当時は頭(心)が止まっていました。それは心身分離の状態になっていたからだと思います。浪人して通っていた予備校(河合塾)では、「すべては合格してから。とにかく今は問題を解く機械になれ!」と教えられ、意識的に「感情」を切り離すようになっていきました。それは、頭(=理性)が体(=感覚・感情)から切り離された「閉鎖系」の状態であり、そして「感覚・感情」の排除による「主観の未発達(未分化)」な状態にあったと言えます。

 以下の文章から、この当時の私の状況が理解できます。

 

『「気」の身心一元論』(101頁)

上巻第一部 第三章 近代科学(二元論)と 東洋宗教(一元論)の身心観の相違
― 「自分の健康は自分で保つ」ために 必要な身心一元性(主体性)

 触覚や味覚という「感覚」による判断は主観的であり、「普遍性」がありませんが、「理性」による認識は客観的であり、「普遍性」があるというわけです。ここに、「普遍的真理」を探究する科学は理性至上主義となっている理由があります(ただし感覚の中で使われる唯一の例外が視覚)

 河合氏の文章にあるように「ひとつのコップを見て、「感じがいい」とか「これは花をいけるといいだろう」とか言うときは、コップとその発言者との「関係」が存在し、その人自身の感情や判断がはいりこんでいる。」これは、主観に因って物と人間が一つになっている「物心一元論」ということになります。そして「切断がない」ということになります。

 「心」全体から見ると、「理性・意識」のはたらきは一部のものですが、「理性」による思考は客観的であり、何より「普遍性」があるのです。

 そのため「感覚や感情」といった主観は、「普遍性」のないものとされ、否定されるようになったのが、科学的認識というものです。

 こうして、「心と体をつなぐ」はたらき(感受性)である「感覚・感情」は、近代科学では排除されるもので、対象を捉える手段とはならなかったのです。ですから、敗戦後行われてきた科学的(理性至上主義)教育のみでは、主観は発達しないのです(全体性・関係性を捉える能力は主観による)

 これに比し、野口整体の指導は、相手とのつながりの上で「主観」による観察での判断に依っているのです。主体的に感覚・感情を使うことで、心の力としての主観が磨かれていくのです(これを絶対主観と言う)

 

 こうして、「頭が心」である「心身二元論」が私の潜在意識に定着していったと思います。学びの愉しさなどなく、苦しさばかりを感じつつ、他に為す術がありませんでした。

 今思えば、十代にしてなんとも頭が硬く(閉鎖系思考)、視野の狭い(非連続的自然観)、無抵抗な自分(機械論的生命観)だったかと、悲しく思いますが、修養・養生という身体性の教育がなく、感情が未発達(未分化)のままでは、「自分を生きる」という自発性や主体性というものは全く養われていなかったのだと思います。

 現在、活元運動指導を行う中で、感情の未発達(未分化)、「主体性」の未発達により、日々の暮らしの中で不整体な状態を続けている人が大変多いと感じています。身体性の教育による「主体性」の発達については、第三章にある以下の文章より学ぶことが出来ました。

 

上巻第一部 第三章 近代科学(二元論)と 東洋宗教(一元論)の身心観の相違
― 「自分の健康は自分で保つ」ために 必要な身心一元性(主体性)

 身体性の教育とは、「主体性」を育むためのもので、「無意識」に具わる可能性(=自己・Self)を啓く上で「主体性」は不可欠です。

 禅には「随処に主となれば、立処皆真なり」という言葉があります。これは「どんな環境にあっても自己の主体性を失わず、何者にも影響されること無く、常に自らが主人公となって物事を処理してゆくことができれば、どこにいても真理を具現することが出来る」という意味です。

 このように外界にはたらきかける主体性を発揮するには、自己の身体を主体的に捉えることから始まるのです。これが「腰・肚」文化でした。

 しかし、敗戦後の伝統文化の衰退・道の喪失と戦後の科学的教育においては、日本人としての「身心の成長のあり方」を失い、科学的理性のみの発達をもたらしました。

 理性の教育は意識の能力を育て、身体性の教育は無意識に具わる能力を啓くものです。

 フロイトに始まる深層心理学は、無意識が身体にあることを解明してきました。この無意識(=主体的身体)を忘れたのが現代日本人の問題です。意識・無意識の能力とは、頭脳知・身体智と言い換えることができます。

 科学は理性至上主義ですから、意識(頭)に偏り身体性が衰退するのです。つまり「科学は身体性から離れる」という、ここに、私が「身心一元論」を主張(=「腰・肚」文化の復活を提唱)する理由があるのです。

 

 (中略)

 

 先生が丁寧に推敲を重ねられ、熟成されていく上巻の内容を、何度も音読し少しずつ理解していき、それを活元会や個別指導の場で自分の言葉で話し、また上巻を読み、ということを繰り返す中で、「科学を相対化し「禅文化としての野口整体」を思想的に理解する」ということが徐々に進んできました。

 それは、西洋医学との比較、両者の優劣というような二元的な捉え方を超えて、西洋医学(近代科学)の本質を知り、その長所と短所を捉え、西洋医学に相対して「野口整体」を、「心(潜在意識)」を対象とした学、西洋医学とは次元・世界が異なる知(「生活しているの人間」を知るための智)として実感出来るようになってきたことだと思います。

 これからが本当の意味で、身体性に基づく思想として野口整体を学んでいくことが出来るのだと感じています。