野口整体の指導と「自我の再構成」

 生活禅・修行 ── 成長・自己実現

金井省蒼

「お知らせ」[10] より

   

整体指導者としての修行は自身の成長とともにある

 野口整体の指導の中には、さまざまな要素がありますが、私は「潜在意識」に強く興味を持ち、学び、指導を行ってきました。
 「体」を扱うのが「整体」だと一般に思われていますが、体を通して「心」、いや、もともと「一如」であるところの「心身」を〔身体〕
(註)として扱うのです。このためには相手の「人間」を知る必要があります。
 「人が人の心に向き合う」には、科学的な方法と違い、自分の心に向き合ってからでなければ、できることではありません。
 野口整体では身を先んじますが、師野口晴哉は、指導者が自らの体と心を耕し、また使いこなした分だけ、相手をして「そのようにせしむる」ことができると教えています。
 それは、心の世界では「自他一如」だからなのです。
 このようにして鍛えられた体と心のありようを「自己を主体的に把持する」と言いますが、指導を受ける人においても、自身が「確かな自分」と感じられるその時は、「自己を主体的把持」しているのです。

 「25歳はお肌の曲がり角」という言葉がありますが、オリンピック競技に代表される「スポーツ的能力」はほぼ25歳をピークとして、下降します。また医学的に肉体を調べると、脳細胞の数はその年齢から減る一方であり、その他の肉体的諸能力も衰えていくことを認めています。
 このように体を物として研究すれば、それは減っていく一方であり、目に見えるもののみを対象とすればこのような観方になるのです。これが西洋的な考え方の基礎となっています。
 しかし、野口先生から教えられたことの大きな一つに「年を取ると増えるものがある」ということがありました。それは「は使えば増える」ということです。いや、「使わなければ増えない」のだと言ってよいでしょう。
 「気」を中心とした、東洋的な、「修行的生き方」を身につけていくと、年齢を重ねるごとに精神的な能力が成長していきます。

(註)金井の用法では一般に身体と書くのに対して、〔身体〕と書く場合は「心身」の意味です。

  

「自我を再構成する」ことがなぜ必要か

 河合隼雄氏が学んだ「ユング心理学」において、ユングは「個人の無意識の深層には集合的無意識がある」と述べ、無意識の中心である「自己」を実現することが人間完成への「道」であると言っています。もちろん、野口先生から、私は同様のこと ─「全生」─ を学んだので、この「自己実現」を取り上げています。それには、「潜在意識を整理する」ことが肝要で、これが私が掲げている「自我の再構成」なのです。
 また「自己」へと向かう道筋は、「個性化」の道筋であるとユングは言います。人間が生きる意味を知り、本当に個性的に生きるために「自己」が必要なのだと言うのです。ユングが「自己というはたらき」にこそ真の「個性」があると考えたのは、「自己」を探求した成果と東洋の宗教・「道教の瞑想法」に強く影響を受けているからです。「自己」とは道教や仏教、またヨーガにおいて伝統的に求められてきた「本我・真我」というものです。

 戦後日本において、「自由」、「平等」とか、「個性」などという言葉がもてはやされてきましたが、この場合の「個性」というのは「自我」の段階における「個性」であり、真の「個性」とは「自己」の段階にこそあるのです。

 「自我」は、心(魂)全体の中心にあるとされる自己元型(註)との心的エネルギーを介しての力動により、変容し、成長することで、理想的な「完全な人間」を目指すとされています。

 「自我」から「自己」へ、というのは限りない人間完成への道ですが、「自己」へと歩を進めるのが、「自我の再構成」です。

(註)元型…無意識の機能を人格化した象徴

 臨床心理学における、このような作業は依頼者に先立ち、療法家が行うものですが、このことと同様、野口整体の指導者においては、「自己」へと向かう「自我の再構成」と、「心」のみならず、とりわけ自分の「身」について、鍛練することが重要です。

 「心でも体でも異常を感ずれば治るのです。」という野口先生の言葉がありますが、身体行に加えて、深層心理学における「分析」は、〔身体〕の持つこのようなはたらきを助けるものだと思います。
 もとより感覚を内に向けて、深く自分を感じていくのが日本的な伝統 ―― 伝統では始めから「自己」を形成するものだった ―― ですが、「自我意識」により、「自己探求」を進めていくことができるのです。

  

「自己」への道と潜在意識の整理

 ユングの言う意味における「自己」を実現するためには、30代までに「自我」を一定の強さにする必要があります。それは、30代前半には、20代までの人生とは違う、40前後からの人生の道筋 ―― 自己に向かう真の「個性化」―― をつけることが求められますが、「自我」が弱いという場合、理性的に意識がはたらかず、自分の無意識を客観的に捉えることができないからです。

 今、自分の身の回りに起きていること(そうだと受け取っていること)が自身の反映としてあるのですから、これを敏感に受け取ることから、自身の感受性生い立ち体癖によって、現在にまでどのようであるか ―― 現在の心のはたらきは過去からつながっていること ―― を知ることが分析です。
 分析に知識も必要ですが、自身のありようを考えていく思考力は、先ほどの「自我意識」によるもので、各人においてコンプレックス(感情複合)を研究することが必要です。
 修行とは、自我の再構成と本来の「自己性のはたらきを発揮する」ことにより、自身とその感受性がどのようになっていくかなのです。