吉村 正 著

『お産! このいのちの神秘』(春秋社)

を読んでの金井省蒼談

 これは、さのともこさん取材テープ(2003年8月4日収録)よりの文章で、以前ホームページに掲載していたものの一部を新しくしたものです。

    

 初出版の準備を進める中で、春秋社の担当編集者から参考までにと、自然出産についての吉村正先生のご著書『お産!このいのちの神秘』をお送りいただきました。

 この本を読み込むにつれ、ややジャンルは違えども、人間の自然という共通のライフテーマを持つ者として大いに感銘を受け、インタビュアーであるさのともこさんとの対話の中でこのような一文が出来ましたので読んでいただきたいと思います。

金井省蒼

【新装版】


     

「自然のお産」について

待つ・・・待つことは育てること、待つことは修行

さの 吉村先生も書いていますが、昔はほとんど家で産婆さんが来て産んでたわけでしょ。それが、1960年代にガラッと変わって病院で産むようになってきちゃったわけでしょ。70年代に最初の反動があって、女性解放運動と同時に、自分の体とかお産について自分で考えてみよう、という流れもあったんですよ。でも少数派で、なかなか表に出てきにくかったよね。今はむしろ、そういった運動とは切り離された形で、あまりにもお産の医療化ということが進み過ぎちゃったから、それに対する反動として、若い人たちの中にはそういうことに自覚的な人も増えてきたわけですよね。情報がいっぱい出るようになり・・・。

金井 そうだね。この本、もう一回きちんと読もうと思ったんだけど。こういうことなんだわなあ。吉村先生の前書きもいいんだわなあ。ほんとに、こういうことだと思うんだ。吉村先生に会ってみたいと思うんだけど・・・。

吉村正 『お産!このいのちの神秘』より

「人は私のことを変わっていると言うが、その修行とでも言えることを通じて、自分の人間としての根底が変わってしまったからこそ、医師としてのあり方も、お産の見方も、今の主流からまったく相違するものとなったのだ。」

     

金井 だから、普通にお産させよう、それを自然のお産と言うんだけど、それって昔は普通だったわけだな。普通のお産ということは、当然「待っている」わけだからね、今みたいに土日にかかると、先生は土日休みだから金曜日がお産、みたいなね。自然なこと、普通なこと、昔は「普通」だったことを今は「自然」って言わなくちゃいけない。
 自然を大切に生きてると、今度の土日家族デーで休暇、旅館の予約取ってあるって言ったって、お産の医者は出来ない。我々
(整体指導者)もそういうことがあるわけ。そうすると、つまりそれは修行だってことだな。まあ、グローバルと言ってもいいけど、アメリカ的な、アメリカンスタンダードの生活をしているとさ、そういう休暇とか言って、そういうわけにはいかない。
 つまりそれは修行、待ってなきゃなんない。自然ということは待ってなきゃなんない。昔は雨が降って今日は船が出ないとか、お産もそう、全部待ってる。待ってることが修行なんだな。だから、身体行だわな、これは。辛抱しなきゃなんないから、修行をすることで人間が変わるんだよね。こういう自然観なんだよね、やっぱし。

   

待つこと、苦しむこと・・・育つを育てる

金井 例えば、我々の仕事で言うとだよ、ここを押すとどこどこが治る、というのがある。例えば、君が7月13日(2003年)の「活元指導の会」後の座談会のテープの中で語ってるんだけど、東洋医学でも、鍼だと、こことここに鍼を打つことでこういう効果を期待するということがあるね。だけど、一応そういうものがあっても、「なる」とか、「ならない」とかっていうことは分からない。西洋医学の注射でも分からない。あの人には効いたけど・・・、ということは幾らでもあるわけだ。
 だからね、我々の場合でも、例えばここを押すと視力が良くなる、ここ押すと胃の痛いのがとれるって言ったって、押し方も色々あるわけ。あの場合は止まったけど、この場合は止まらないということは幾らでもあるわけ。ということは、自分の押し方が上手か下手かという問題もあるし、それ以上に、相手があって、時がある。そういう意味でな、自分の技量の最善は尽くさなければいけないんだけれども、野口整体で、野口先生に一番言われることはね、「待つ」ということを憶えることなんだわな。「待つ」ことは育てること、相手を育てる。自分も育つ。
 若い男女が結婚して子供を持った時に、子供を持って初めて親になるわけだな。つまり、親になってから子供が生まれるわけじゃない。子どもを育てながら、苦労して、つまり、相手の育つを育てながらね。何か、ミルクと、今度チーズ、肉、あとご飯、食わせて、詰め込めばどんどんでかくなるって、そういうわけにはいかないわけだ。ある時は食べるが、ある時は食べない、ある時は熱を出してる、ある時はぐずってる、つまり、そういうことによってだな、親としての修行をさせられるっていうわけだろ。だから、野口整体の世界はね、本当に「待つこと」。例えば、押す、刺激を与える、それを相手が受け取って変わっていくわけだろ。同じ「押す」だって、相手に届かなければ、それは刺激をしたということにはなんないね。
 「待つ」、忍耐と言ってもいいが、つまり、修行をすること、つまりそれは苦しいことだよな、苦しむということを積極的に行うことでね、人間は確かに変わるし、それによって、吉村先生が言うように、驚くほど幸せな気持ちになるということだよね。

   

そして、溢れる喜び

金井 ここに写真(p.107、131)が載ってるじゃん。いや、本当にいい写真だよ、これ。赤ん坊抱いてるこの女の人。そして、この赤ん坊の顔。吉村先生もこういう顔を見て、自分の仕事のやり甲斐を感じてるんだよ、喜びを感じてるんだよね。だから、自然ってそういうことなんだよね。

   

お産は骨盤から、そして男も・・・

金井 ちょっと話し飛ぶかもしれないけど、そういう風に、僕も、腰、骨盤にキチッと力が入らないとね、集中力だとか、これ(愉気)とか、いいことキチッと出来る気がしないぐらい・・・。だから、骨盤なんだな。第一、骨盤(腰椎4番)に力が入らないと心を落ち着けて待てない。女の人だけがお産の時に骨盤が大事なんじゃなくて、相撲取りもそう、相撲取りも骨盤でやっている。イチローもだし、僕も骨盤でやっている。つまりね、すべて「産み出す」ということは、骨盤なんだよ、男でも。そういうことなんだよ。

   

芸術的感性が育つ

金井 吉村先生が原始宗教的な話をしてるでしょ。それから、文学、美学、芸術についても・・・。例えば、僕で言うと、芸術なんてものは本当に無縁な環境に育ったから、無かった私がだよ、「美空ひばり」の歌ってもんはね、ほんとうによく分かる私になってるよ(三十代半ばより)
 それから、例えば、よく憶えている印象的なのは、『五重塔』だなあ。幸田露伴作『五重塔』を、前進座っていう劇団があるでしょ・・・。ああいうもの観た時に、お寺の境内が出てきて、ゴーンって鐘が鳴ってね。セリフは少ないんだけど、それだけに間の美しさというか、凄さにズーンと感じて、涙してしまうという、そういった、広く言うと芸術的な感性が、この道をやってくる中だけで育ってきたものがあるよね、私が。だから、日本の文化、伝統、芸術のことをのたまうようになったわけだよ、私も。そういう半生を歩んできた。
 吉村先生のものを読んでいると、里山が好きで山の中を一人で歩いたとか、ジープに乗ってるとかね、原始宗教的な気持ちとか、神秘なものへの畏敬の念とかね、全くこう、何か同じところに感動していると思うんですよ。もっと吉村先生の方がたぶん人物がずっとずっと出来てる、そこは違うだろうと思うけど・・・。だから、人間に関わってね、「待つこと」、「育てること」をしていくと同じものが共感できるんだな。それは、現代的な教育では得られないもんなんだな。結局、修行、「体行
(からだぎょう)」をやらないから、そこに来ないのよ。本当にそういう意味で、「身体智」、これだわ!

     


      

祈り(愉気)

金井 「待つ」というのは“貧乏ゆすり”とかをして待ってることではありません。心を静かに、落ち着いて相手の為に祈ることです。このことは腰が座り、呼吸が深くなることによってのみ可となるのです。

   

深い呼吸・・・調息。

金井 これは又息を長くするといっても良いのですが・・・。何故息が乱れるかというと、頭が関係しているのです。多くの医学的知識によって悪いことが空想される。頭の良い人程、知った事で振り回されるのです。瞑想を通じて、不断に息を整えることが大事です。

    


    

金井 この本の帯には名文が掲げられています。

     

医療のくびきから解き放たれ、

大いなる自然に依拠すれば、

原初的生命力がよみがえり、

お産は深いよろこびに満たされて女性は浄化され、

真実の母子が誕生する

吉村 正

     

          

その表現を借りて、私の世界を一つ表してみました。

     

医療および種々の健康法のくびきから解き放たれ、

大いなる自然、活元運動に依拠すれば、

原初的生命力がよみがえり、

妙なる動きに包まれて心身は浄化され、

真の人生が開眼する。