朝日カルチャーセンター新宿

特別活元指導の会
「 野口整体 思想を通じて身につける 活元運動 」I

2012年7月28日(土)

   

 2012年7月28日(土 午後3時半〜)朝日カルチャーセンター新宿にて、「思想を通じて身につける活元運動」第一回を、受講者が60名を越えるという盛況の内に行なうことができました。

 一部は、金井省蒼先生の講義で、受講者には講義内容をまとめた教材が配付され、当会広報室長・伏島隆興の司会により進められました。
 二部は、金井とも子先生の指導による、活元運動の実習でした。

 3時間を超える講座となりましたが、受講者の集中が途切れることなく、大変「気」の緊まった良い講座であったと思います。
 聴講者の学びに対する意欲の高さを感じるものでした。

     


      

一部 広報室長・伏島隆興司会による、金井省蒼先生の講義 


金井省蒼先生(左)、広報室長・伏島隆興(右)

(講義内容)

一 現代と野口整体 ― 科学の知・禅の智

1 開会挨拶 金井省蒼先生と近著の紹介 ―「思想を通じて・・・」とは

2 自他対立と自他融合(近代科学と東洋宗教)

(1) 科学とは何か ― 客観に信頼を置く科学・主観を磨く野口整体
(2) 主観を排除することで成立している科学
(3) 命に対する科学的・客観的観方の限界
(4) 数値からは子どもは見えない

二 野口整体の全生思想
 「 自分の健康は自分で保つ」

1 野口晴哉「健康の原点」について

(1) 「身心一元」である健康とは
(2) 修養の目的
(3) 現代人の生活と「鈍っている」ことの関係
         ― 鈍りについて「頭の忙しさ
(理性至上主義)

三 修養・養生としての野口整体の道 ―「科学」には生き方は含まれていない

1 健康と生き方が一つになっている野口整体

(1) 感受性の訓練が生き方を変えていく ―「道」としての野口整体

       

        

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(講義録より)

『「気」の身心一元論』を著したことについて

伏島 それでは宜しくお願いいたします。
 まず、金井先生の方から『「気」の身心一元論』を著したことについてお話を頂きまして、そこから音読に入っていきたいと思います。宜しくお願いいたします。

    

     

金井 はい。教材にありますように、実は私の、(ここに目立つように置いときますが・・・)これが二冊目の本というわけです。
 今年の9月16日になりますと、一冊目の本に取り掛かってちょうど10年になります。
 野口整体の道を歩み始めて、今年度で46年目となりましたが、今から10年前までは、いろいろな本を読むとか、自分が文章を書くとか、そういうことは大変苦手でした。
 それは、野口整体の指導を行うには、「感覚」というものが何より大切なんですね。自分の感覚という「主観的な判断」によって、物事を成していくわけです。
 その感覚が正しいものである為に、私で言いますと、30年、時を要したと思っております。その感覚、主観というものが一定の普遍性を持つという事ですね。
 ここ数年「科学」というものを持ち出しておりますが、「科学」というものは大変客観的で、普遍性が高いものなんですね。
 ですから、それに対する「主観的なもの」の普遍性ということ、これを追求したということが、まず30年間あった。そして、私流というものが出来たと感じた時に本を出したいと思い、それが、ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、一冊目の『病むことは力』
(春秋社 2004年)という本になりました。

 そうしまして、その本が出ますと、雑誌など、取材を受けることがありました。或いは、例えば慶応大学の湘南キャンパスで話をするということもありました。こういうことを通じまして、「野口整体って何なんだ?」ということを、改めて自身に問うことになりました。
 それは、ここ
(教材)にありますように、社会的な立脚点というものです。一般に、野口整体に近いものと思われているものに東洋医学があります。対比するものとして、西洋医学というものがあります。こういうものに対して、「野口整体とは何なんだ?」ということを、自ら、広く深く考えることで二冊目を著そうとしたのです。整体操法という技術的な面を「how to的に」著したものは多いのですが・・・。
 そういう道程の中で、「科学というもの」を思いっきり勉強することになりました。それは、物理学や化学を勉強したわけではなく、「科学哲学」というものを勉強することでした。
 或いは、もちろん野口整体は東洋的世界観から生まれたものですから、それに対する西洋的な世界観、価値観というものですね、そういうものが何なのだ、ということを学ぶことによって、対比的に野口整体というものが、私として解ってきたと。そこを通じて、「みんな知れよ!」みたいな感じで、本
(『「気」の身心一元論』)を著したという訳です。

 西洋では、とにかく言葉を大切にします。言葉の意味や思想性が理解できると、大変、素直にその道に従うというですね、西洋人の良さがあります。
 日本人はなにしろそういうことに中途半端なのですが、今回は私自身が、科学的に進歩した
(言語を緻密に使い、論理的に表現する)ということでありまして、これ、すべて「科学」を批判しているということではなく、「科学」というものをしっかりと理解し、相対的に、野口整体・日本の文化というものを理解していくことが、正しく身につける道筋であると。
 現代では、特にこういった思想的な進め方が必要だと思って、このように著したということです。

     

       

伏島 ・・・今、金井先生からもお話がありましたように、科学の問題、科学自身が悪いという事ではなくて、科学が絶対的なものになってしまっていることの問題を、理解していただければと思います。
 そして、金井先生の言葉にありましたように、科学を相対化していく、簡単な言葉でいうと、科学を一つの道具として使う、科学に従属し支配されるのではなくて、科学を使いこなすような主体になっていく。そういった事について、理解を深めていく事が出来ればと思います。

「科学」と言いましても、皆さんすべてが科学の勉強を専門的になさったわけではないだろうと思います。「自分は科学とは全然関係ないんだよ」という風にお考えになっている方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ここではですね、科学的な物の見方、考え方というものが、如何に日常生活の中に浸透しているか、ということに関する気付きを深めていただければと思います。

   

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金井 はい。教材を読んでまいりますが、

 私がこの道に入った1967年当時、すでに「病気は医者が治すもの」というのが世の常識となっていましたが、これは、明治になってから導入された近代医学による影響なのです。

 リーフレットに〈「健康は医療が管理する」西洋医学〉と書きましたが、通念として「病気は医者が治すもの」と思うようになったのです。それは、背景に科学があるからです。
 この科学というものは、ルネサンス以後西欧において、個人の意志というものが確立していくようになり、理性的にものを考えていくという傾向が強まってくるわけです。
 そうして、教会の絶対的権威から個人として自立していくという歴史がありました。そして、「理性」の力によって自然を支配していくという、それが「近代科学」であったわけです。
 そういう科学的方法が医学にも導入され、人間の自然をも、医師が管理・支配するというようになって行くわけです。

 一例を挙げると、分娩台というものがあります。私は乗ったことは無いんですが(会場笑)、あの形を見るなりですね、あれはもう産まれにくいだろうと感じます。
 実はですね、トイレの大小用足しする時においても、人間は自分に合った形を取っているんです。
 ずっと以前、当会のホームページに「和式便所における一考察」という文章がありましたが、用を足している時に、右足を前に出していることに気付いたから、右足を引いてみたんです。そうしたら全然出ないと。つまりその目的を達するように、無意識に姿勢をとっているんです。
 あるいは寝相というものは、実は大変動いておるわけです。そうやって、身体は、調整しているんですね。
 ところが、産科の医師の「理性」によっては、女性をああいう形にして、胎児を生ませるようにさせるってわけです。
 医師の「理性」によっては(感性のなさというか)、あれは生まれにくいということが、実は分からないわけです。分からないから、ああいうことが行なわれているんです。理性によっては「身体性」は理解できないということになります。

 私の古い知人で、野口整体の指導もしている人が、お産を、夫婦間でした時にどうしたかっていうと、(加藤君立ってくれる?)私がその人の奥さんだとしますと、こう、その彼にこうしながら(抱き付きながら)ずーっと下がって行って(下写真)、良く産めたっていう話でした

     

        

 野口整体の世界では、こういう話が様々にあるわけです。四つん這いとか、昔ながらに天井からのロープにつかまってとか色々な産み方、これが「身体性」という問題ですね。
 ところが医療では、一定の枠に嵌めて支配しようとする、「普遍性」の適用ということになりますか、そういうものが「科学」なんです。私が科学の勉強をして、まず印象的だったのは、「科学は身体性から離れる」ということでした。
 自然を支配できるということで、とうとう昨年の福島原発が象徴的なことになってしまいましたが、全て自然を人間理性によって支配できるという思いが「科学」の根本にあったわけです。

    

     

伏島 ありがとうございます。では進めていきますが、確かに医師、あるいは医療制度、そういったシステムに従属して、健康あるいは生きることすらが管理されている傾向があるだろうと思います。
 そしてそこに疑問を挟む余地が中々無い。いくら不自然でもそれには従わざるを得ない、といったところが今の時代にあるだろうと思います。

 また「自分の健康を自分で保つ」ということについて、たまたま昨日でしたか、NHKの朝の連続ドラマ『うめちゃん先生』で面白い場面がありました。ご覧になった方がいらっしゃるかも知れませんが、主人公の隣の家の町工場の若いお兄ちゃんが、何か明日までにどうしても製品物を作って納めなきゃいけない。ところが熱が出てしまって主人公「うめちゃん先生」の診療所に行くわけです。
 それで「うめちゃん先生」は医師として「今熱があるから今日は休まなきゃダメだ」って言うんです。「明日納品だから休むわけにはいかない」、「いや、熱があるんだから絶対ダメだ」、そしたら「お前が熱を下げろ。治すのが医者の仕事だろ」っていう風に言うんですね。
 それは自分のことなんですけど、医者に「熱を下げろ」と言ってしまう。そのように考えてしまう傾向は、日常的に、よくあることだと思います。「あたかも家電製品などの自分の持ち物を修理に出すかのように、自分の身体を治してくださいと医者に頼んだり、薬を処方するように願ったりする」。このようなことはよくあることだとと思いますけれども、野口先生のお考えは全然違っているということになります。

 そこで野口晴哉先生の言葉を改めて読んで頂きます。
「健康の原点」というところです。

    

野口晴哉「健康の原点」
(『月刊全生増刊号』「晴風抄」より)

健康の原点は自分の体に適(かな)うよう飲み、食い、働き、眠ることにある。

そして、理想を画き、その実現に全生命を傾けることにある。

どれが正しいかは自分のいのちで感ずれば、体の要求で判る。

これが判らないようでは鈍っていると言うべきであろう。

体を調え、心を静めれば、自ずから判ることで、他人の口を待つまでもあるまい。旨ければ自ずとつばが湧き、嫌なことでは快感は湧かない。

楽しく、嬉しく、快く行なえることは正しい。

人生は楽々、悠々、すらすら、行動すべきである。

     


     

二部 金井とも子先生による活元運動の指導


金井とも子先生

   

最初に、とも子先生から「活元運動」についてのお話がありました。

    


活元運動の準備運動 1 邪気の吐出法(鳩尾を弛める)

   


2 背骨を捻る運動(体側・側復を弛める)

   


3 訓練法(延髄に刺激を与える)

  

準備運動を終え、活元運動へ。
両先生と塾生が、活元運動誘導の為の「愉気
(ゆき)」を行っています。

  

活元運動後に、身体を伸びやかにする体操を行いました。

   

       

正坐をして、落ち着いた身体(=心身)を以て、とも子先生のお話を聞きました。

          

最後に省蒼先生がお話をされ、第一回講座を締めくくられました。