合気道を「日本武道の思想史」から理解する

湯浅 泰雄
『気・修行・身体』平河出版社
第一章 東洋的心身論と現代

6 日本武道の特質より抜粋

(55頁)武道では、心と身体の関係はどのようにとらえられているのでしょうか。私の考えるところでは、その基本はやはり、仏教の修行法である運動的瞑想(常行三昧)の考え方をついでいるようです。つまり、身体運動の訓練を通じて、瞑想が深まったときにひらけてくるような三昧あるいは「無心」の状態に達するのが、武道一般に見出される目標だといえるように思います。ですから、身体の「動」の状態の中心には、いつも三昧とか無心とよばれる静かな「不動」の中心が見出されます。(中略)

(58頁)柳生流の『兵法家伝書』では、人間の心を「本心」と「妄心」の二つに分け、両者の関係をつぎのように説明しています。「本心」は仏教でいう「仏性」、禅では「本来の面目」とよんでいるような、すべての人間にそなわった真の自己ともいうべきものです。これに対して「妄心」というのは、「血気」であり「私(ワタクシ)」である、といわれます。「血気」とは激しやすい心、「私」とは自分中心に動きやすい感情です。(中略)

 愛憎にとらわれて自分本位の感情の動きから脱しえない状態が「妄心」とよばれています。このような妄心がはたらくと、剣をとっても弓をとっても、馬に乗っても、すべてうまくいかない。武道の稽古は、そういう妄心の動きを克服し、本心のはたらきを実現していく努力である、というのです。(中略)

(59頁)つまり武道の名人は、禅の達人と同じように、無意識から起こる情動にふりまわされず、それをコントロールできる人間であると考えられています。武道の究極の目的は、禅の修行と同じように、人間としての人格の円熟した発達に求められています。
 このように日本の武道は、仏教の修行論の影響を受けることによって、自己の精神を鍛練し、向上させる技術という性質をもつものになっていきました。
(中略)

 合気道では、試合をして相手に勝つとか、勝負を争うということは目的にはされません。「合気」とは相手と気を合わせるという意味です。それは、相手の心身の動きと自分の心身の動きを合わせることですが、より一般的にいえば、相手と調和し、一体になり、他者を包容した自他一体の状態に至ることが目標であるわけです。このように、他人と対立し他人に勝つことを目標として生まれた武術が、自分自身に勝つ技術に変わり、さらに他人と和し、他人と一体になる技術にまで変わっていったところに、日本の武道というものの重要な思想史的意義があると思います。