『秘伝』(BABジャパン)2011年 7月号(6月14日発売)掲載

整体とヨーガを結ぶ

心身一元論

対談 金井省蒼 × 友永淳子

   

    

   

    

2011年3月1日(火)の午後、荻窪の友永ヨーガ学院にて行われた、当会主宰・金井省蒼先生と友永ヨーガ学院院長・友永淳子先生の対談の模様が、6月14日発売の『秘伝』7月号(BABジャパン)「整体とヨーガを結ぶ " 心身一元論 " 」として掲載されました。

 ここでは、お二人の対談風景を、写真と対談内容の抜粋とともにご紹介します。

    

◆学院内のカフェにて、対談前の打ち合わせ風景。

      

レッスンルームに移動して、対談が始まりました。
では、『秘伝』に掲載されている対談内容から、そのほんの一部を紹介していきます。

     

     

   

金井 野口整体は背骨を観察してその「表情」を読み取ることが中心であり、実に背骨には、その時々の「感情」が表現されているんです。
 それは、潜んで今も働いている「心」で、「意識」では忘れていることが背骨には残って現れているんです。ですから背骨を読んで、そう話すと「あ、そういえばそうだ」と、相手と大概話が繋がるんです。
(中略)
 その背骨自体が、変化するわけです。「心」の使われようで。
 皮膚、筋肉、骨、あるいは内臓、実は全部「心」を反映しているのですが、顔を観ているよりも、背骨にはもっとそれが反映されているわけですね。
 「背骨は人生の歴史である」という事は、どの様に生きてきたかということです。昔、大宅壮一という人が「男の顔は履歴書だ」と言いましたが、背骨にはもっと人生が刻まれ集約されている。
 ちょっと話が飛ぶようですけども、明治の時代は背骨を意識していたんです。「明治の人は強かった」というのは、背骨をピンとさせるという文化があったからで、それが大正、昭和、戦後と崩れていくわけですね。
 この本来、表であり、中心であるところの「背骨」の文化というのは、野口整体ならずとも、東洋に伝統としてあったのです。それが、ヨーガであり仏教であり、そして禅であるという、これらが伝わってまた日本的土壌の中で育まれてきたという事だと思うんです。

――その土壌から離れているわけですね。

金井 「腰肚文化」という言葉は斉藤孝という人が作りました。私はそれの向こうを張ってですね、ちょっと前に「頭肩文化」という言葉を作ったんです。
 洋服というのは、ネクタイをするわけで、胸を強調します。それに対して和服では、特に女性は高価な帯を腰にする。あれは欧米人にとってみると意外な話のようです。彼らの常識では胸元を飾るわけですからね。また軍人さんは必ず胸や肩に徽章を付けますね。
 つまり日本の「背骨」や「腰」を重要視する文化と、肩や胸の文化、また「科学」を発展させた「理性」と自我意識で発達した「近代西洋文明」では大いに違うわけです。
    

      

    

          

友永 そうですね、ヨーガでは体を動かす事と、呼吸法をする事と、坐って瞑想するという事があるんですね。あと何か外的な形でお掃除をするとか、そういう作務のような事があるわけですけどね。
 体を動かすという事、私達はやはり静かな動きで、動物的な感覚を活かして体を動かしてやる、筋肉を柔らかくしてあげるという事がもの凄く大事な事だと思うんですね。
 そういう意味で手を挙げたり体を動かしたり、先生が仰る背骨の内側を良く解
(ほぐ)すと頭が解れると。足首を解していけば腰が弛んで、腰が弛めば、首が弛んで頭の中が弛んで、非常に心がオープンになっていく。
 そういうものが自動的に起こってくる、そういう動きをアーサナって呼んでいるんです。先生のところでは、前屈してハーッと
(活元運動の準備運動第一・邪気の吐出法)なさいますね。
 それから背骨を捻る運動
(活元運動の準備運動第二)をされますね。ヨーガでは細かく、ゆっくり捻ったら、そのままかなり時間を掛けて保ちどこに響いているかという事を感じ取らせていきます。そうするとそれが即自分と向かい合うという、自分の体を通して心のレッスンをしているわけです。
 そういう状態が出来上がってくると、解いた時に「ハーッ、何て素敵な体を持っているんだろう」という、そういうものを感じられる感性を甦らせて、今まで何か攻撃的だったとしても、それを受け入れる、「なんて素敵な気持ちなんだ。少なくともこの息を吐いてから、あとで考えよう」と、それくらいの余裕が出てくる。
 それが、体を動かすところのある種の瞑想なんですね、自我から解き放すと言いますか。

乾史氏(友永先生のご子息) 特に現代の男性がレッスンにみえると「俺、体があったんだ」って言う社会ですよね、今。そういう意味で体に振り向かせる切っ掛けを与えていると言えますね。

友永 最初は号令をかけて「手を挙げて下さい。息を吸って、吐いて」とかいう風にやってますけど、そういうものが恐らく自動的に起こってくるんだろうと思うんです。
 もう一つは「プラナヤーマ」と呼んでますけども呼吸法です。呼吸というのは、唯一心と体を結んでいて、私達の無意識の世界に上手に入れるし、また非常に意識的なものをより意識的に何かする事が出来る、これが呼吸だと思うんです。要するに時の如く息が自分の心というくらい、呼吸を操作すると、呼吸によって、自分が操作されてしまう、そういうものを持っていると思うんですね。
 もう一つは呼吸法をやったり、体を動かした後に「静かに心を坐らせる」という事を通してそういう状態に入る。そういう意味で、本当に先生が仰ったような、一つひとつみんな当てはめて「あーそうだ。なるほど」という風に納得のいく事ばかりです。

    

        

金井(中略)身体の良い人はですね、部分がはっきりしているんです。頭、首、肩、背中、腰、骨盤、お尻、太股、或いは足首といった部分部分が、きちんとしているんですね。そういう人達は、身体意識が高いということになります。
 そういった人達は、何処がどうなったか判るんです。それが何処がどうなっているか判らなくなるのが酷いんです。頭に偏りますと、「腰ってどこだったっけ?」と本当に判らなくなるのです。それは記憶の問題ではなく、感覚であり意識で、そういう身体意識を発達させることが大事なんです。
 そういう身体意識がもともと高かったのが、日本の文化の特徴でしたが、現代は極めて低くなっていますね。それが「科学は、身体性から離れる」ということの影響で・・・・・・。

――その原因の第一はなんだと思われますか?

金井 科学的教育、戦後民主主義教育ですけれども、それが行われた時代に、高度経済成長下に「坐の文化」が無くなっている事と、二重の原因があるわけですね。ちゃぶ台の生活があったまま、戦後の科学教育が進めば、マイナス20だったかもしれないけど、「坐の文化」を失って、頭だけ教育なので、マイナス50ですね、今回の講義の私のテーマの一つである「からだ言葉」ですね。本当に、その通りだなとつくづく思うのです。 
 若い人は「溜飲が下がらぬ」というからだ言葉が全然判らないですね。

友永 そうですよね、大人が全然使っていない、使えないという、そういう時代になっているんだと思いますね。

金井 鳩尾が固くなっている人に、お腹に触れて「溜飲が下がらぬ」と言うと、年配の人は、言葉は判っているので「ここが溜飲の事を言っていたんですね」と、そして下がってきますと、「あー清々した」と。

友永 まさにそれですね。ヨーガでは、ポーズをきちんとすることも大事ですが、もっと感覚を大事に、感性を高める事の方がずっと大事なんです。体が柔らかく強いことはもちろん素晴らしいわけですが、もっと原初的に持っている身体感覚というものを、ちゃんと大事に受け止めるということだと思うんですね。

    

       

近藤(啓哲塾塾生) 色々なものの時間の速度というのが、人間の生命の速度とは全く違う時代なので、ヨーガも野口整体もゆっくりなのは、生命のリズムでやるからなんですね。

金井 そうですね。判りやすく言えば、東京から熱海まで東海道線で乗ってきますと、平塚あたりから風景が違ってきますね。東海道線の各駅停車で来るとですね、人間らしさを感じるのですが、新幹線で半分の時間で来ると感覚が違いますね。要するに、「ひかり」さらに「のぞみ」という速度は、やはり自然から離れるんですね

近藤 ですから、そうなってくると、普段の現実で生きている自分と野口整体やヨーガをやって生きる自分と、統合していくのがとても難しいんですね。
 だから、ヨーガをやっているときはヨーガで、会社に戻ると、それは打ち捨てて、会社の生活をする。そうすると、生活全体が自分として一つの統合性が取れていかない難しさというか。

友永 せめて自覚して、そういう時間を持つことによって心身の統合を計ることが大切かと。

――「この時間はこれだけど、この時間はこれ」と、本来はヨーガも野口整体も現実との連続性を持った根本の部分なのですが、現実との折り合いのなかでクラスが終わったら、「終わった。楽しかった」ということで処理してしまっている。

金井 そうですね。そこら辺が難しいですね。私なんかは、二十四時間野口整体の指導者の生活をしていると思うんですね。
 寝る時も、ちゃんと明日の為に、体を弛めて、出来れば脊髄行気法が出来る状態で寝ようと心掛けています。休むことも、働くことも、考えることも一日中、仕事の為にある。それは考えてみれば、昔の職人さんはそういう生活をしていたと思うんです。

友永 そういう中に安らぎがあったと思うんですね。

金井 昔の大工さんは、家を建てる途中に、ずっと腕組をして考えている。施主からすれば、「もうどんどんやってくれないかな」と。だけど、遊んでいるのではなく、設計図で説明したりはしないけど、自分の中でずっと考えていて、良いものを造ることができたんです。そういうのが職人の生活で、私もそれをやっています。

友永 私も、そういう意味では、一日中瞑想状態です。ほんとそうですよね。寝てるあいだだけ。

金井 ヨーガ漬物(笑)

友永 寝てる時もその状態(笑)

――生徒さんがヨーガや野口整体の学びをうまく社会にフィードバックできる方法論というのはどうでしょう。

友永 そうですね、そういう教えは一杯あるんですね。例えばどういう仕事であっても、それに没頭してる、専心してる状態というのは、時間の流れは随分違うと思います。ゆっくりな呼吸をしていれば、どんなに忙しい時間を過ごしていても、意識はゆったりといられるのです。実質的には分刻みに動いていても中身は全然違ったものになります。そういう時の流れの質の変化というのがあると思うんですね。
 そういうことをヨーガは教えているんだと思います。

金井 野口整体の「全生思想」という意味は、全力の発揮なんですけど、統一体を以て、本気でやるということですね。
 やはり戦後、アメリカ的な考えが入ってきたと思うんですけど、自分の労力を時間で切り売りするような考え方ではなくて、全身全霊で物事に向き合うという。禅では「随処作主」と言いますけど、そういうことがかえって仕事や人生に喜びをもたらすんだというかね。

       

    

金井 科学の価値観に、数値で測るというのがあります。走るのも、100メートルでもマラソンでも、時間で良し悪しを決めますね。今は赤ん坊の頃から保健師さんがばね秤を持ってきて測ってね。「今は生後何日で、これだけの重さあるから大丈夫」とか「お宅は足りないわよ。もっとミルクをあげて」とか、人生の始めから数値化なんですね。
(中略)
 数値というのは、自分の責任の無いところで判断しますので、「こういう数値だったから、こうだった」というと科学的にそれは妥当性があるわけですね。主観的なものだけで観える世界と、科学的なものでしか見えないというような、実は両方あるのですが、科学的な方ばかりが重要視されるようになり、子どもをフッと抱き上げた時の良い感じだとか、「どうしたのかしら? この子何かあったのかしら?」というような、そういう部分がどんどん衰退してしまったわけですね。その結果、子どもに問題があった時に、母親が、脳内物質ということで、安心している時代が来ているということだと思います。

――その感覚を取り戻す為のものだということは、野口整体とヨーガの共通点だということですね。

友永 それには正しい食事をするというところが大事で、伝統的な内容のあるものを食べて、日本人の腰腹文化の感覚を育てていく。それが出来てくることによって、モノサシで測れない金井先生の仰る " からだ言葉 " が作られてゆくのだと思います。

金井 そういうことですね。「感覚」ということですね。

――本日は長時間ありがとうございました。