生い立ち/軌跡


“始まり”は、先ずお互いを知ることからでし
た・・・

■きっかけ・・・・
昭和40年代から始まった、金沢駅西の“ケヤキ通り”(通称50m道路)を中心とした
金沢駅西地区の区画整理事業にともない、都市的な開発は大きく進んだのですが、近所同士の
いわゆる、「お付き合い」的な関係が少なくなり、青壮年の人たちの間での交流もあまりなく、
お互いの顔もあまりよく分からないといった現象が起こるようになってきました。
そしてこの事が将来の金沢駅西地域にとって、あるいは子供たちの将来にとって、はたして良いことなのか、
といった疑問が沸きはじめ、それではまず青壮年達の交流から初めようと、
1990年に「広岡青壮年会」として発足したのが始まりでした。

■矢口大獅子舞への挑戦・・・・
それから数年後、ケヤキ通り(通称50m通り:金沢駅西口から金沢港へ続く幅50mの道路)で、
地域の賑わい作りのため歩行者天国(ホコ天)が開催されることになり、
主催側から地元として何かPRするものはないかという要請がありました。
そこで、しばらくおこなわれていなかった、「矢口大獅子舞」の上演をやろうという案が出たのです。
しかし、この時点ですでにホコ天の20日前、メンバーの選定から練習期間、その他の準備期間を考えると、
当然のごとく出来る、出来ないの賛否両論が噴出、それでもとりあえずやってみようということにはなったのですが、
経験者も少なく、ほとんど初心者、不安だらけの出発となりました。

以前から矢口大獅子舞保存会という、ちゃんとした組織もあるにはあったのですが、
この会もメンバー不足で活動がほとんど滞っておりました。
その代行者としての「けやきの会」が、初めて実施する一大イベントとして、勢い臨んだのですが、
時間が経つにつれて、さまざまな難題が山積していったのでした。

練習、指導、参加者の募集、資金集め、そして周囲の理解の取り付けなど、大変な労力が必要でした。
しかし、そんな中でも、この地域の伝統文化である“矢口大獅子舞”の名を聞きつけてか、
たくさんの人が集まってくれました。
教える人、やる人、世話をする人、・・・大勢の人たちがやって来てくれました。
このときは本当に感謝感激でした。表には出さないけど皆同じ気持ちだったのだと・・・・


初めて持つ長刀に戸惑いながらも、一生懸命に習う

そして迎えた当日。
ケヤキ通りでの初めての歩行者天国が始まりました。

地元の報道TVの取材の中、いよいよ矢口大獅子舞の始まりとなりました。
江戸時代のレオナルドダビンチといわれた、大野弁吉が作った獅子頭のなかでも最大級の大きな獅子を
懸命に振る大人達と、練習の成果を一生懸命披露する子供達。
練習期間が短いせいか動きもぎこちなさは否めず、加賀獅子を知る人々からは、
まだまだ未熟とも言われました。
それでも、金沢駅西の郷社「平岡野神社」への奉納として興行される勇壮な“矢口大獅子舞”を、
いま、この場で演じているという誇らしげな皆の姿がそこにありました。


報道カメラを前に堂々と                   「エイッ、ヤー」

■今も、これからも。
そして、初めての獅子舞が行われてから、数年間はこのホコ天での上演が主となり、
金沢駅構内や、近隣のホテルのロビーでの上演など、金沢駅地域の伝統芸能として、
披露させていただく機会をたくさん得ることができました。
その後、本来の平岡野神社の10月の秋祭りの奉納として、神社での奉納上演や
町周り興行が行われるようになり、現在も続いています。


金沢駅西口にて記念撮影         ホテルのロビーで披露

けやきの会は、この矢口大獅子舞のほか、年末年始にかけての大晦日の振る舞い
(平岡野神社初詣参拝者への暖かい鍋物の振る舞い)や、
餅つき、春まつりの賑やかな露店など、地域の皆さんに楽しんでもらえるために、
また心の拠りどころとしての平岡野神社を中心として、
この街がいつもなごやかであることを願っています。
  
されど餅つき    留学生も飛び入り参加  古くから金沢に伝わる子供達の遊び“旗源平”を再現



私たちはいろいろな願い事や、結婚の誓いを“神前”で行います。
ところが、身近な“神々”たちは、いつも私達を静かに見ているだけです。
このことを、もう少し真摯に考えてみたいと思います。
私たちは、“縁”と“愛情”をとりもつ 平岡野神社への活動を通じて、
この地域のつながりを大切にし、この地域がほのぼのとした街で、
いつまでも思い出深いふるさとになること、
そして、この地の子供達が、心豊に育ってくれることが
一番大切なことだと思っています。

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