Welcome to Kenzo's Web Site
今月の映画批評
『失われた週末』 |
ワイルダーがこの問題に真正面から向き合うこととなったそもそものきっかけは、『深夜の告白』(Double Indemnity, 1944)の脚本を手がけたときの探偵作家チャンドラー(Raymond Chandler, 1888 – 1959)だった。気性の激しいワイルダーとの共同作業によるストレスで、アルコール依存症からやっと回復しつつあったチャンドラーが再び酒に向かった姿を目の当たりにし、ワイルダーは「酔っ払いが笑いの対象にならない最初の映画をぜひとも作りたい」と思うに至ったのである。そんな折、ジャクソン(Charles R. Jackson, 1903 – 68)の小説 The Lost Weekend (1944)を読み、心打たれた彼は、さっそくパラマウント社に映画化権の購入を依頼する。そして1936年以来、コンビを組んで数々の脚本を世に送り出してきたブラケット(Charles Brackett, 1892 – 1969)にその作品を手渡した。妻と娘がアル中で悩んでいたブラケットは「これまで読んだどの恐怖小説よりも恐怖に満ち溢れている」と叫び、諸手を挙げて賛成する。 実際、ジャクソンの小説は単なる想像力の産物ではなく、作者自らのすさまじい体験を綴ったものであるだけに実に迫力のあるものだった。彼のアルコール依存症による苦悩に満ちた日々を綴ったこの告白本は、酒に溺れていく自分の姿と、酒で身を滅ぼした『華麗なるギャッツビー』(The Great Gatsby, 1925)で知られるロストジェネレーション時代の作家フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald, 1896 – 1940)を重ね合わせて描いたものだ。ただし映画ではフィッツジェラルドへの言及はなく、バーナムの本棚に彼の作品が置かれているに過ぎないが、この屈辱的で自己破壊的な主人公の間接的なモデルが彼であったことは明白である。フィッツジェラルド同様に、バーナムがアイビーリーグの教育を受け、端正な容姿と、誰もが好きになる好人物、そしてフィッツジェラルドの文学が語られる際にしばしば使われる「あれほどの才能とひらめき」といった表現がそれを暗示しているだろう。 さて、こうした主人公であればこそ、そのキャスティングは難しい。破滅的な雰囲気もさることながら、繊細な表情や知性を感じさせる役者でなければならないからだ。そのためワイルダーが酔っ払い作家に考えていたブロードウエイの悪役ホセ・フェラー(Jose Ferrer, 1912 – 92)をパラマウントの重役たちが一蹴したのは当然だったのかも知れない。彼らは誰もが助けてやりたいと思えるような魅力的で好感の持てる人物を念頭に、イギリス人俳優ミランド(Ray Milland, 1905 – 86)に白羽の矢を立てた。とはいえ、パラマウントのプロデューサー、シルヴァ(Buddy De Sylva, 1895 – 1950)から「これを読んで勉強しろ。君はこれをやるんだ」という走り書きしたメモと原作を渡されたミランドは躊躇する。1931年から多くの作品で二枚目俳優としてならしてきた彼が、執筆の苦しみ、想像力の枯渇、そして差し迫った破滅の恐怖から安酒に逃避し、溺れる惨めな作家を演じるのは余りにも危険な賭けだったからである。 悩むミランドに冒険を勧める妻と、成功の階段を着実に昇りつつあったワイルダーとブラケットの脚本という厳然たる事実が彼の決断を促した。そして酔っ払いのやつれや衰えた表情を出すために、体重を落とすとともに、アル中患者の実態を自分の目で確かめるべく、ニューヨークにあるベルビュー病院のアルコール中毒患者病棟に潜り込む。「その場所はさまざまな臭いが漂っており…..なかでも汚水溜めのごとき悪臭は最悪だった。そしてうめき声、静かな泣き声がこだまするなか、1人の男が意味不明のことを口走っていた」と彼は言う。そして、その夜、叫び声を発しながら飛び込んできた患者によって病棟がパニックに陥ると、彼は映画のシーンさながらに、その場から着の身着のままの姿で外の通りへと逃げ出したのだ。だが、たまたま居合わせた警察官に呼び止められ、解放されるまで30分にわたって事情を説明しなければならなかったという。後に、この出来事を聞いたワイルダーは面白がって、映画にベルビュー病院の同じ病室を使い撮影した。ただし、病室の描かれ方があまりにひどかったことから、ショックを受けた病院側はハリウッドには二度と撮影を許可しないと宣言し、やがてその通り実行する。 1945年11月16日の公開に先立ってサンタバーバラで行われた覆面試写の結果は散々だった。そのため重役たちの間からは一般公開に対する慎重論まで飛び出した。また酒造業界もこの映画の公開による打撃を恐れ、密かに暗黒街の首相といわれたギャングのフランコ・コステロ(Frank Costello, 1891 – 1973)を仲介役に立て、500万ドルでネガの買い取りを申し出る。だが、社長のバラバン(Barney Balaban, 1887 – 1971)の「製作した映画を簡単に放棄するといった愚かなことはすべきでない」の一声で、背景音楽を穏やかなガーシュイン風のものから、映画の内容に合わせて、観客に異常な緊張感とスリルを与える電子楽器テルミンによる不気味な音に変えるなどの工夫を凝らし、何とか公開にこぎつけた。もちろんバラバンの判断が正しかったことは言うまでもない。1946年3月7日、グローマンズ・チャイニーズ劇場で行われた第18回アカデミー賞授賞式では7部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、主演男優賞、脚色賞で受賞した。わずか数ヶ月前の悪夢がまるで嘘のような、有無を言わさぬ圧倒的な勝利であった。 (2011年6月15日) |