8.モーツァルトは子守唄を歌わない 森 雅裕
私がこれまで読んだ中で、「もっとも読んだ回数の多い本」が、今回ご紹介する推理小説「モーツァルトは子守唄を歌わない」です。長さが手ごろという事もあるのですが、やはりストーリーの面白さ、歯切れの良い文体、魅力的なキャラクター、どこを取っても素晴らしい作品だと思います。
私が物書きをしたいと思うきっかけにもなったこの作品の、ご紹介をしてみようと思います。
簡単な作品紹介
「モーツァルトは子守唄を歌わない」は、推理小説です。1985年に第31回江戸川乱歩賞を受賞しています。
天才作曲家モーツァルトが死んでから、18年後のウィーン。作曲家ベートーヴェンは、モーツァルトの私生児と噂される女性歌手シレーネが、楽譜屋と大喧嘩している所に出くわす。彼女の戸籍上の父が遺した「子守唄」が、モーツァルト作とされたことに憤慨したのだ。「何かあるに違いない」とシレーネは訴えるが、ベートーヴェンは興味がない。しかし、ベートーヴェンのピアノ協奏曲公演の練習中に、楽譜屋の死体が発見された事から、彼は「子守唄」と「モーツァルトの死」に関する謎を追い始める。
ベートーヴェンの相棒は、弟子でピアニストのチェルニーに、事の発端となったシレーネ。協力者となるのが、少年シューベルト。謎はモーツァルト殺しの犯人と噂されるサリエリ,秘密結社フリーメイソン,モーツアルト未亡人,ウィーン宮廷警察,折りしもウィーンを占領していたナポレオンのフランス軍などを巻き込んで行く。
「モーツァルト謀殺説」をモチーフに、当時の政治的背景や、音楽史上の転換期などを活かしながら、飽きさせない謎解きストーリーが展開します。
何と言っても魅力的なのが、テンポの良い会話と、切れの良い文章。非常に読みやすく、印象深いフレーズばかりです。
そして、史実とフィクションを上手に織り交ぜた展開は見事です。クラシック音楽の話題も、堅苦しくなく非常に楽しめます。特にピアノを弾く人は、とにかく読んで欲しいです。出来れば、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」のCDを用意しておくと、さらに楽しめます。
さて、この小説の謎解きと事件の社会的・政治的背景はかなり複雑です。しかし、それを苦痛に感じさせない楽しさを、文章と魅力的な登場人物達がフォローしてくれます。ここで、登場人物の紹介をしましょう。
素的な登場人物
ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン
耳の病気を抱える、自称37歳作曲家。ワインに目がなく、「マスとヤマメの見分け方」や「梅毒の薬」など、雑学もかなり…らしい。およそ愛想というものがなく、口を開けば憎まれ口。結構はったりも利く。きめ台詞を言う時は、「俺は格好いいことをいわせてもらう。」と断りを入れる律義者。物語は、主役である彼の一人称で語られる。彼の性格と、探偵による一人称という構造が、「ハードボイルド」と評される所以らしい。
カール・チェルニー
ベートーヴェンの弟子でピアニスト。18歳の生意気盛り。平気な顔をして師匠に突っ込みを入れる、命知らず。(実在人物としては、ピアノ教則本で有名。教育者としても有名で、リストは弟子である。)
シレーネ・フリース
モーツァルトの私生児と噂される18歳のソプラノ歌手。「ころころと丸まった愛嬌のある体型,およそ似合わない化粧」と、散々な事を言われているが、性格は明るくさっぱりしており、男勝りなしっかり者。
フランツ・シューベルト
ベートーヴェンを崇拝する音楽学生で、サリエリの弟子。歯の浮くような台詞を言う。彼も丸い。
アントニオ・サリエリ
ヴェローナ出身のイタリア人作曲家。味にはうるさい。
その他、宮廷警察のブルーノ,フリーメイソンのスウィーテン男爵,何を考えているのやらモーツァルト未亡人,ハゲのホルン奏者などなど…けっこう登場人物は多いのですが、それぞれが非常に個性的に描かれているので、混乱はしないと思います。
森雅裕という、魅力的な作家と私
この小説の著者・森雅裕は、東京芸術大学美術学部絵画科卒業という、学歴の持ち主です。美術学部にして音楽に対する造詣の深さは、個性派揃いの芸大においても、異色の存在だったのではないでしょうか。美術,音楽の他にもバイクや刀鍛冶など、多岐にわたる博学振りは、著作によく表れています。
「モーツァルトは子守唄を歌わない」をはじめとする楽聖シリーズのほかに、プリマドンナ鮎村尋深シリーズなど、彼の作品には、根強いファンが大勢居ます。かく言う私もその一人で、「モーツァルト…」は私が「物書き」をするきっかけとなり、私の書く会話や文体は彼の影響を非常に強く受けています。
ですから、より多くの人に彼の作品を読んで頂きたいのですが、やや残念な事情があります。まず、森雅裕があまり多作ではないと言う事。そして、その作品の多くが「絶版」という事実です。
彼の作品は非常に読みやすく「面白い」ので、需要がないとは到底思えないのです。これはネットで仕入れた情報ですが、どうやら出版元における「大人の事情」が絡んでいるようです。詳しくは分かりません。
ただ、私がその作品から感じ取る森雅裕像は、ベートーヴェンと同じで、真面目で、一本気で、正義感が強く、融通が利かず、妥協を許さず、やや不器用な感じ…という事を、記しておきましょう。
森雅裕と同時に乱歩賞を受賞した東野圭吾の活躍を見るにつけ、東野氏のファンが羨ましくもあり、「彼はとは違う森雅裕」だからこそ、その作品が好きなのだという事も、事実だと思います。ともあれ、「モーツァルトは子守唄を歌わない」は乱歩賞受賞作にもかかわらず、講談社文庫からは絶版になっています。数年前にKKベストセラーズから「森雅裕幻コレクション」として復刊しましたが、重版はされていないようです。
しかし、古本ネット市場にはかなり出回っています。「モーツァルトは子守唄を歌わない」は、読んで損はさせない面白さですので、ぜひとも探してみて下さい。
続編とマンガ化作品
続編:「ベートーヴェンな憂鬱症」
探偵ベートーヴェンと、弟子のチェルニーが活躍する続編で、短中編4作品から成る。続編とは言っても、年代的には1800年から1823年までで、チェルニー初登場の年齢は何と9歳である。いずれも期待を裏切らない面白さ。特に最後の「わが子に愛の夢を」は、人生と時間の重なりがもたらす悲哀と、味わい深さが滲み出ていて、かなり胸に迫るものがある。講談社から出版されたきり重版されていないが、古本市場には出回っている。
有栖川るい によるマンガ「モーツァルトは子守唄を歌わない」(エニックス 全4巻)
かなり原作に忠実なマンガ版。ただし、ベートーヴェンは長身痩躯の美青年であり、チェルニーは金長髪碧眼の美少年であり、しかもシレーネがスタイル抜群の美少女になっているのには、度肝を抜かれた。少女漫画なのだから、仕方がない。時々絵が雑になる所が気になるものの、18世紀初頭ウィーンの風景,生活,服装などはよく描かれていると思う。台詞も原作に忠実なのには好感が持てる。
蛇足だが、私が所有している数少ないマンガは、これと「動物のお医者さん」,「コミカル・ミステリー・ツアー」である。
12nd
May .2004
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