6.ライブ Concert for George コンサート・フォー・ジョージ
  〜 残された友情の姿 〜

  このサイトの所々にあらわれるのでお分かりかと思いますが、私はロック好きです。中でも一番好きなロッカーは、ジョージ・ハリスン。
 彼が長い癌との戦いの末に58歳で亡くなったのが、2001年11月29日の事。それから1年後、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで彼の追悼コンサート「コンサート・フォー・ジョージ」が行われ、その模様が2003年11月にDVDとCDになって発売されました。各方面から絶賛されている通り、コンサートは出演者,選曲,演奏,映像,すべてが最高です。心からジョージに出会えて良かったと思える、幸せなコンサートでした。

 さて、ここでは「コンサート・フォー・ジョージ」に垣間見えた、一つの友情について述べようと思います。即ち、エリック・クラプトンについてです。


 I miss him, terribly.

 エリック・クラプトンと言いますと、90年代以降はもっぱら「素敵なバラードの、素敵なオジサマ」というイメージがついてしまいましたが、私にとっては「60,70年代ロック黄金期のいかしたエレキの天才。しかもジャンキー(薬物中毒)」。
 ジョージとは長年の大親友です。ジョージが亡くなった時、大勢の友人達が即座に彼を追悼するコメントを発表し、ジョージの友人の多さ、その友情の深さに改めて感銘を受けたものですが、肝心のクラプトンだけは沈黙を守りました。その日、クラプトンは日本でのツアーの最中で、親友の死については「知っている」と言っただけでした。

 そして、クラプトンが親友への思いをやっと表現したのが、「コンサート・フォー・ジョージ」だったのです。クラプトンは事実上すべてを取り仕切り、正にコンサートのホスト役を務めています。

 コンサートに参加したミュージシャンの多くは、幸せそうな笑顔に終始しています。彼らは「ジョージを失った悲しみ」よりも、「ジョージに出会えた喜び」の方が大きいようです。リハーサルや、本番のステージ上でそんな表情と顔を合わせると、クラプトンもとても楽しそうです。しかし、一人で演奏の世界に入ると、悲愴な表情になり、うっかりすると泣き出しそうなのです。
 クラプトンはコンサートに先立つインタビューで、こう言っています。

「(ジョージの事を)あまりこうやって話したくないんだ。感情を抑えられないから。今でも寂しくてたまらない。ひどくね…(I miss him. terribly)。」

 ジョージ・ハリスンとエリック・クラプトンは、60年代半ばから非常に親しく付合うようになりました。気の合う友人であり、音楽を尊敬し合っていた彼らは、互いの家に入り浸り、レコーディングやジャムセッションを楽しんでいました。
 70年代、クラプトンがジョージの妻を奪った挙句に、結婚するという最悪の事態に見舞われますが、結局二人は友情を保ち続けました。彼らはある種の「修羅」を抱え、それを「愛情」が凌駕したようです。二人の「修羅と愛情」は決して他者には理解できるものではなかったでしょう。
 クラプトンは60年代からかなりの薬物中毒で、70年代には死んでもおかしくない状況でした。ジョージはいつもそんなクラプトンを励まし続け、音楽の第一線に連れ戻してきました。
 80年代末、クラプトンはジョージから奪い取った妻と離婚し、ヘヴィな状況に陥りましたが、その頃のレコーディングのクレジットにもジョージの名前が見られます。
 1991年、クラプトンは息子を事故で失いました。その葬儀はごく近しい人しか参列しませんでしたが、その中にジョージの姿もありました。悲しみのために家に引きこもってしまうクラプトンを励まそうと、ジョージは「絶対にやらない」と決めていた自分のライブ・ツアーを、クラプトンと一緒に行う事になります。クラプトンの方も、自らは一線から退こうとするジョージを、本格的にカムバックさせたがっていたのです。実際、ソロになってからのジョージのアルバム製作には、ほとんどクラプトンが参加しているのです。

 90年代、クラプトンはロックのカリスマとして成功を収め続けました。一方ジョージは狂乱の60年代を振り返りつつ、マイペースに自分の音楽製作に取り組んでいました。しかし彼は、96年に患った喉頭癌に始まり、大怪我、肺癌、そして脳腫瘍との戦いを強いられます。
 2001年春、クラプトンは新たな人生の伴侶との間に子供を授かり、一度失った家庭人としての幸せを取り戻します。その5ヵ月後、ジョージは二人目の妻と、その間に生まれた息子に看取られて旅立ちました。愛する家族、友人、ファン、そしてクラプトンの元から…。


 The guitar gently weeps, with slowhand.

 「ジョージの曲は全て好きだ。驚くほど美しい。特に純粋さを歌った曲は、彼の心の声が聞こえる。」
そう語るクラプトンは、「コンサート・フォー・ジョージ」のステージ上で全てを愛しむかのように、最高の演奏を聞かせてくれました。ゲストがメインで歌う曲でも、冒頭部分を歌ったり、曲の後半を担当したりして、ジョージへの思いとコンサートに対する執念のようなものを見せ付けます。
 サポートメンバーやゲスト達も、彼の気持ちをよく分かっていたのではないでしょうか。クラプトン自身も語っているように、ジョージを失った悲しみを乗り越えるために、こうする事が必要なのでしょう。

 コンサートも終盤、Something辺りになると、クラプトンの表情は危険度が高まります。
 そして二人の友情を象徴するWhile my guitar gently weepsになると、いよいよ見ていられないほど悲痛な表情になります。かつてこの曲をジョージと演奏した時、二人は互いの顔を見つめながら笑みを浮かべ、「ロックの最高に幸せな瞬間」を実現してくれました。しかし今、クラプトンが笑顔を向けるべきジョージは居ないのです。曲を終らせるためにバンドの方を振り返ったクラプトンの表情は鬼気迫り、そして歓声に応えるのも忘れて俯いてしまいます。
 しかしその肩を叩き、声をかける青年がありました。ジョージの息子ダーニです。24歳の彼はプロのミュージシャンではありませんが、父のために集ってくれたミュージシャンに混じって、このコンサートに参加していたのです。その顔立ちは、「似ている」などという次元ではありません。小柄な点を除いては、正にジョージその人なのです。この時、クラプトンの目に映ったのは誰の姿だったのでしょうか?

 コンサートは、総勢30名余りによる渾身の演奏後、ジョー・ブラウンが優しくI’ll see you in my dreamsを歌い、会場に花びらが舞うフィナーレを迎えます。
 ギターを置き、舞い散る花びらを見つめるクラプトンは放心気味。傍らのダーニがそっとクラプトンに寄り添うと、クラプトンは泣きそうな顔で微笑み、ダーニの肩を強く抱きました。
 普通なら、父親を失ったダーニを、クラプトンが励ます立場にあるのですが、逆なのかも知れません。ジョージが死んで1年。ダーニは素人ながらも頑張ってステージに立ち、ゲスト一人一人に礼を言ったりして、結構しっかりしています。一方、クラプトンは未だ悲しみの中。ジョージの妻オリヴィアとダーニが抱き合う姿を見ると、もう視線のやり場に困ってしまい、潤んだ眼を宙に彷徨わせるのです。このコンサートに打ち込む事で悲しみを乗り越えようとしたクラプトンにとって、側に居たダーニの姿が救いになっていたのではないでしょうか。

 結局、様々な出来事と、修羅と愛情、そして最高の音楽を残してジョージは去り、クラプトンは取り残されてしまいました。でも、ジョージは知っていたに違いありません。エリックには愛する家族と、彼の音楽、大勢の友人、そしてジョージが残した音楽と思い出がある。きっと、エリックはこの悲しみを乗り越える事が出来るだろう、と。


 Mystical one

 実を言うと、ここ数年のアルバムが気に入らない私は、クラプトンの評価が下がる一方だったのです。今年の来日公演も行きませんでした。しかし「コンサート・フォー・ジョージ」でその評価がかなり持ち直しました。もう一度だけでも良いから、60,70年代を彷彿とさせる大傑作を残して欲しいものです。ジョージもクラプトンに向けて、こう歌っているのですから。

  きみはその歌で ぼくの深い祈りにこたえてくれる
  きらめくようなスローハンドが すべてを拭い去り
  ぼくを突き動かし 心をすっかり溶かしてくれるんだ

   (Mystical One 1982 George Harrison, スローハンド=クラプトンのニックネーム)

AmazonのDVD購入ページ:素的なコメントがいっぱい。廉価版もでていますよ。
George Harrison 公式HP:下部ののConcert for Georgeへどうぞ!

DVD コンサート・フォー・ジョージ (ワーナー・ミュージック・ビジョン)
CD コンサート・フォー・ジョージ (ワーナー・ミュージック・ジャパン)            31st Dec.2003




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