The Three Musketeers  三銃士  レスター監督版映画 「三銃士」 & 「四銃士」 

  全てはスィンギング・シックスティーズに連なる   
    
〜 レスター映画のキーワード〜

 レスター監督版の三銃士映画二作品を語る時、私が基本的な考え方として捕らえているのが、この映画が「イギリスの映画」である事です。原作,舞台はフランスであり、監督や数人の重要人物はアメリカ人ですが、この映画の基本は「英国」と、考えています。
 この点を踏まえた上で、私がなぜレスター版が好きなのかを理解,分析する上で、ヒントとなるカルチャーと人のつながりを、散文的に書き連ねてみました。
 題して。「全てはスィンギング・シックスティーズに連なる」。もしくは…「ショービジネス界は狭い!」

最初に…テリー・ギリアムの意見

 モンティ・パイソンの一員であり、“奇妙な”アメリカ人である
テリー・ギリアムの、イギリスのコメディに関する意見を紹介する。喋るのが得意な男ではないが、何を言おうとしているのかは、分かるような気がする。

「イギリスのコメディの根底にあるのは、大英帝国の没落だと思う。
 20世紀初め、世界の覇者イギリスは突然消えてしまったんだ。国民性は大きく変化し、かつての強大な帝国は、今やただの小さな島国だと気づく。そこに笑いが生まれるんだ。つまりイギリス人は、信じがたい傲慢さと過剰な自意識を有している。コメディは、そんな彼らが自己分析するのに最適の手段なんだ。没落した自分たちの素性を明かすためのね。バカ(silly)をやるには、絶対の自信が必要だ。自分を疑えばバカにはなれない。」
(映画「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」DVD特典コメンタリーより)

50年代 英国民の青春とザ・グーン・ショウ

 1945年。第二次世界大戦が終結。イギリスは戦勝国となったが、かつての大帝国は見る影も無かった。残ったのは、誇りと貧乏だった。
 1952年。国営放送BBCラジオで、
ピーター・セラーズスパイク・ミリガンらが、シュールでナンセスなコメディ「ザ・グーン・ショウ」を開始。

スパイク・ミリガンの証言
 「戦後最初の転換期だった。反抗的な空気が強くてね。出来るだけBBCの検閲に引っかかるように…実際引っかかったんだが。とにかく、兵隊上がりにウケるジョークのコツは分かっていた。厄介なのは民間人だった…。」

 
ミリガンの心配をよそに、グーンは人気を集め、1960年まで続いた。若者達からの支持も圧倒的だった。後にモンティ・パイソンを結成する、中流でインテリな5人のイギリス人たちも、全員ファンだった。ジョン・クリーズは、グーン嫌いの父親に、「パンチ誌」の好評記事を見せ付けた。
 一方、
リヴァプールの労働者階級で、ロックンロールを愛する4人の少年たちも例外ではなく、グーンに夢中だった。
 
ザ・グーン・ショウの音楽を担当していたのが、当時EMI傘下で音楽プロデューサーをしていた、ジョージ・マーティン。彼は、グーン以外でも、BBCの深夜風刺番組「ザット・ワズ・ウィーク・ザット・ワズ」の製作を手がけている。この番組には後に、パイソンのジョン・クリーズが参加した。
 一方、アメリカ出身,15歳でペンシルベニア大学入学,19歳で卒業した秀才
リチャード・レスターは、1954年ヨーロッパを放浪した後、イギリスでテレビ・ディレクターとなる。ザ・グーン・ショウのプロデューサーも務めた。その縁で、ピーター・セラーズと短編映画「とんだりはねたりとまったり」を製作。このシュールでナンセンスなコメディも大好評だった。

60年代 スィンギング・シックスティーズの開花

 1962年。ロンドンの
マーティンのところに、リヴァプールから来たロックバンドが売り込みに来た。バンド名をザ・ビートルズと言う。とりあえず、レコーディングを試したものの、本格的な録音スタジオに慣れないらしく、ろくに音に関する意見も言わないビートルズの若者達。そこで、マーティンが言った。
 「何か気に入らない事があったら、言ってくれて良いんだよ。」
すると、一番若い
ジョージ・ハリスン(19歳)が言った。
「あなたのネクタイが気に入りませんね。」
 
マーティンは、生意気なジョークの冴えるこの四人組 ― ジョン・レノン,ポール・マッカートニー,ジョージ・ハリスン,リンゴ・スターが、すっかり気に入ってしまった。
 
ビートルズの方も、この端整な感じのプロデューサーが、ザ・グーン・ショウの音楽担当だった事を知るや一気に打ち解け、しつこくグーンの話を聞きたがった。
 こうして20世紀の音楽を激変させた、
ビートルズが世に出た。マーティンと共に作り出すその作品は、音楽のみならずカルチャー全体を飲み込んでいった。正に、ロックのリズムに乗ったスィンギング・シックスティーズの始まりだった。

 その頃。ナショナル・ユース・シアター・カンパニーでシェイクスピア劇を演じていた
マイケル・ヨークが、オックスフォード大学に入学した。同校の演劇サークルには、ヨークと同い年のテリー・ジョーンズと、1歳年下のマイケル・ペイリンが居た。ヨークとジョーンズは学科も同じ ― 英語学科だった。ヨークはあくまでもシェイクスピアを中心とした演劇志向だったのに対し、ジョーンズとペイリンはコメディに転じた
 この時期の演劇界は、ローレンス・オリヴィエの次世代の活躍の時代であり、映画にも盛んに進出していた。それを担ったのが、リチャード・バートンであり、
フランク・フィンレイであった。アメリカ人リチャード・チェンバレンはイギリスに渡り、やはりシェイクスピアを演じていた。ハムレットを演じた数少ないアメリカ人である。

 1964年。爆発的なブームを巻き起こしていた
ビートルズの、主演映画が製作される事になった。ビートルズ人気の継続に多少の疑問を抱いていた映画会社は、徹底的に経費を抑えようとした。フィルムは白黒。監督には金のかからない、若手を起用した。それが、リチャード・レスターだった。
 
レスターがザ・グーン・ショウの演出だった事を知ると、ビートルズは大喜びだった。直ぐに彼らは仲良くなり、ビートル達はレスターを「ディック」と呼んだ。
 レスターはテレビで培った手法を持ち込んだ。ハンディ・カメラを用いたチェイス・シーンや、コメディの手法であるロングショットの多用、そしてプロモーション・ビデオの誕生と言われる音楽シーンの丁寧な撮影が行われた。このため、レスターは「MTVの父」と称されることになる。彼はその話題のたびに、「血液鑑定を求めます!」と、お決まりのジョークを言うことにしている。
 ビートルズの四人があまりにも「それらしい」会話をしているので、アドリブが多いのかと思われたが、これが違った。やはりイギリスのコメディらしく、入念に練られた脚本に忠実だったのである。脚本は、アカデミー脚本賞にもノミネートされた。
 こうして作られた映画「ア・ハード・デイズ・ナイト」は、レスターの名を世界に知らしめ、不朽の名作ロック映画となった。

 翌年、やはりレスターの監督でビートルズの映画第二弾が製作された。「ヘルプ!」である。ドキュメンタリー・タッチだった前作に対し、この作品はパロディ色の強い本格コメディに仕上がっている。
 元々ビートルズにはコメディの才能があったが、レスターは強力な脇役を配する事で、更に質の高
いコメディに仕上げた。その一人が、ロイ・キネアである。彼の役どころは、ビートルズを追い掛け回すマッド・サイエンティストの助手。本来は動物学をやりたかったが、何故か電気工学に。アースの存在を忘れ、コードの色をポールに指摘される…とにかく全編に渡って、笑いを取りまくったのが、この小太りの俳優である。

 第二のエルヴィスになるのを回避したかのよ
うに、ビートルズは映画制作をひとまずやめるが、レスターとの交流は続く。演技に興味のあったジョン・レノンは、レスターの次の映画「ハウ・アイ・ウォン・ザ・ウォー」に出演。戦争の馬鹿馬鹿しさを描いた、シュールなコメディである。ここにも、やはりロイ・キネアが出演して、素晴らしい演技を披露している。
 ビートルズが彼らのショップを開店した時のパーティには、親友達が招
待された。エリック・クラプトンや、キース・ムーン(60年代イギリスを代表するバンドの一つ,ザ・フーのドラマー)に混じって、レスターの姿がニュース映像で紹介されている。

 1967年。元グーンの
スパイク・ミリガンは、BBCテレビでコメディ番組「Q4」を制作。モンティ・パイソンの出現のさきがけとなる、シュールでハイセンスなコメディを展開した。

70年代 長い長い、スィンギング・シックスティーズ

 1969年。早くも成熟し切っていた
ビートルズは、バンドとしての終焉を迎えようとしていた。映画に強い関心のあったリンゴは、グーンのピーター・セラーズと、映画「マジック・クリスチャン」を製作する。この時、脚本に加わっていたのがグレアム・チャップマンである。リンゴとグレアム、そしてキース・ムーン。このアル中三人組は、大親友だった。「マジック・クリスチャン」に、ヒロインとして出演していたのが、60年代のセックス・シンボル,ラクウェル・ウェルチである。

 同年。BBCでは新しい深夜のコメディ番組が製作されようとしていた。起用されたのは、オックスブリッジ出身の5人 ―
グレアム・チャップマン,ジョン・クリーズ,エリック・アイドル,テリー・ジョーンズ,マイケル・ペイリンである。アメリカ人テリー・ギリアムは、高校を主席で卒業し、オキシデンタル大学政治学部を卒業したインテリだったが、アメリカを嫌い、イギリスに活躍の場を定めた点、レスターと同類の若者だった。5人にギリアムが加わり、「空飛ぶモンティ・パイソン」が製作された。
 パイソンの初回放送は好評とは言えず、BBC上層部では打ち切り案も出た。ところが、そこに
ジョージ・ハリスンからの投書があったのだ。「最高だった」と。ジョージ曰く、「ビートルズの精神を継承するのはパイソンだ。」彼は熱狂的なまでのパイソン・ファンだった。ビートルズ解散に絡んだ色々辛い時期、パイソンがあったからこそ、乗り越えられたとまで言っている。後年、パイソンのメンバーとジョージは親しい友人となり、特にエリック・アイドルとは親友だった。

 パイソンは、ビートルズと「同い年」の集団だった。ビートルズが60年代に全てのバンドとしての仕事を成したのに対し、7年遅れのデビューである。これは、パイソンたちが高学歴だったためである。
 深夜の時間帯、カルトで本物のコメディ・ファンで、パイソンの意図を完全に理解していた視聴者達は、60年代の長い続きとしてのカルチャーを満喫した。

 パイソンは、当時盛んにショー・ビジネスを賑わしていた様々な人を取り上げている。

 第13話 子供インタビュー(その2)
  「16トンの重りに押しつぶされたい?」 ― 「分かんない。」
  「ぼくはね…
ラクウェル・ウェルチに押しつぶされたい。」
  「おしり、おっきいもん。」

 第14話 BBCからのお知らせ
  「BBC2では、『キルケゴール・ジャーナル』のエピソード3,最終回のひとつ前が、始まります。出演は
リチャード・チェンバレン,ペギー・マウント,ビリー・ブレンナー。そしてBBC1では『カエルのエセル』を、お送りします。」

 そうして、1973年。
リチャード・レスターは二部作の映画を製作した。主役級のの俳優はマイケル・ヨーク,オリバー・リード,リチャード・チェンバレン,フランク・フィンレイ。シェイクスピアに多かれ少なかれ関わっている布陣である。女優陣はラクウェル・ウェルチ,フェイ・ダナウェイ。正に時代のセックス・シンボル。そこに、もう一世代前のスター,チャールトン・ヘストン
 そして、レスターはコメディ要素に強力な俳優を加える事を忘れなかった。
ロイ・キネアである。更に、「三銃士」ではボナシュー役にスパイク・ミリガンを配した。戦後英国の青春時代を俯瞰するかのように、ミリガンの演技は、冴え渡っていた。
 そうして出来たのが、舞台も原作もフランスでありながら、限りなくイギリスのスィンギング・シックスティーズの熱気が溢れる映画
「三銃士」「四銃士」が、世に出たのである。
 ― 少なくとも、私にはそう思えるのだ。

少しの後日談と、更にもう一つのトピックへのイントロ
 
 
ビートルズは60年代の終焉と共に解散したが、その影響力は生き続けた。メンバーの半分が死んだ今もだ。そして、いまだに彼らはロック界の稼ぎ頭である。
 
モンティ・パイソンは79年に映画「ライフ・オブ・ブライアン」を製作。そのメイキング映像には、ロケ現場を訪れ、パイソン達と親しく歓談するスパイク・ミリガンの姿が見られる。
 パイソンはビートルズとは異なり、完全な解散というものがなかった。しかし80年代の末にメンバーの一人が死んだため、やはり二度と帰ってくる事は無かった。
 2002年、ジョージ・ハリスンの追悼コンサートに、パイソンと縁の人々が集まり、笑いと不思議な涙と感動を故人に捧げ、家族,友人,ファン達と共有した。
 
リチャード・レスターは今も、イギリスに住んでいる。映画監督として活躍を続け、ポール・マッカートニーのツアー映像も製作している。レスター監督の爆弾映画の秀作「ジャガーノート」は、イギリスからアメリカに向かう豪華客船を舞台にしており、船員の一人としてロイ・キネアが出演して,存在感を発揮している。

 唐突だが、四銃士のキャスティングには、一つ顕著な違いのある人がいる。オリバー・リードである。今は亡きリードだけは、いわゆる「シェイクスピア役者」ではなかった。四人の中でも一番、台詞が聞き取りにくい。しかも、原作の「貴族的な」イメージとは、いくらか距離がある。
 なぜ、アトスはオリバー・リードなのか?なぜ、疲れた太り気味の、目つきのギラギラした男なのか?
 私には、この点に対しても、「スィンギング・シックスティーズ」というキーワードが、ヒントになるような気がする。その話しについては、また改めて…。
                                              21st April 2004

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