オリジナル小説「ハル&デイヴィッド」を読んで下さり、ありがとうございます。ここでは毎回、「ハル&デイヴィッド」に関わる史実について、少し述べています。
 今回は、ポルトガルの王家についてです。
 「ハル&デイヴィッド」を書くにあたり、系図なども多少見ていたので、有名なエンリケ航海王子がハルの従兄弟であることは知っていました。彼を物語に絡めたら面白いのではないかと思ったのですが、彼はやや歳が若く、うまく行きません。そこで、エンリケの父親から話を始めることにしました。



ジョアン一世

 「ハル&デイヴィッド」の第六話,「サー・ジョージの贈り物」では、亡きサー・ジョージの親友として名前があがるジョアン一世は、父ペドロ一世の妾腹の王子でした。王位継承の見込みはなく、アヴィシュ騎士団の総長を務めており、武勇に優れた人物と伝えられています。
 父と兄が死んだあと、ポルトガルでは王位継承争いが勃発します。兄王フェルナンドの娘ベアトリスはカスティーリャ国王に嫁いでおり、このため十一歳のベアトリスが女王となると、ポルトガルはカスティーリャの支配下に入ることが明らかでした。
 その上、ベアトリスの母親で摂政をつとめるレオノールはリスボン市民から酷く嫌われており(結婚の時、暴動まで起きた)、そんな空気の中で、ジョアンは市民からの支持を受けて兵をあげます。
 カスティーリャはポルトガルのこの混乱に乗じてポルトガルへ侵攻しますが、ジョアンはこれを迎え撃ち、1385年アルジュバロータの戦いで圧勝。カスティーリャを退けました。
 これにより、ジョアン支持の空気が決定的となり、二十八歳の若いジョアンはジョアン一世としてポルトガル国王となりました。
 ジョアンは戦いでの勝利を聖母マリアに感謝すべく、バリャータ修道院を建立します。この修道院は、こんにち世界遺産に登録されています。

 私はまず、このジョアン一世という希有の人物に大きな魅力を感じました。王子とはいえ国王になる見込みはなく、騎士団の長として、実務的な活躍をしていた青年ジョアン。時代とポルトガルは彼を必要とし、彼はそれに応えるだけの優秀な頭脳と、行動力と、思慮深さがあったようです。


 司馬遼太郎 「街道をゆく 南蛮のみちU」

 さて、イングランドとポルトガルの関係の話をしましょう。
 もともと、イングランドとポルトガルは、1294年からすでに同盟関係にあり、「ハル&デイヴィッド」の時代ですでに百年以上経過していたことになります。
 イングランド国王エドワード三世の王子、ランカスター公爵ジョン・オブ・ゴーントは、二人目の妻の権利をもって、カスティーリャ王位を要求したことがありますが、これは失敗に終わっています。彼はカスティーリャ対策としてもポルトガルとの同盟を強固なものにしようと考えていたのでしょう。そこで娘フィリッパをジョアンに嫁がせたのです。
 フィリッパはヘンリー四世とは母親も同じ兄妹ですので、ハルにとっては叔母にあたります。ですから、フィリッパとジョアンの間にうまれた、エンリケほか、王子王女たちは、ハルにとっては従兄弟たちということになります。

 この経緯について、司馬遼太郎が「街道をゆく」の「南蛮のみち」で以下のように書いています。少し長くなりますが、引用してみましょう。

 
ポルトガルにとってスペインは後門をうかがう狼のようなものであった。このため、ジョアン一世は同盟を英国にもとめ、条約をむすんだ。以後六百年、こんにちまで一度も破られることがなく、外交史上、奇跡の条約とされる。(中略)
 ジョアン一世が、王位についたときはまだ若く、同盟国の英国の王族から王妃をめとった。彼女は同盟のきずなであっただけでなく、聡明であった。さらには女性にはめずらしく航海術や地理学に強烈な関心をもっていて、息子たちに影響した。
 この英国うまれの王妃は、ほとんどお伽話めくほどに賢い王子を三人生んだ。次男は彼女の地理学好きを伝承した。この次男はヨーロッパの各地を旅行し、マルコ・ポーロの『東方見聞録』をはじめてポルトガルにもたらした。おそらく十四世紀に成立したラテン語写本であったろう。
(中略)
 その後、写本が出まわるについれてこの(ジパングの)くだりを、地理好きの次男が航海好きの三男に読ませ、
「おもしろいだろう」
 と、いったはずである。三男こそ、母親の航海好きを相続したエンリケであり、のち、ポルトガルが海へ出てゆくためのあらゆる準備をし、指揮をとる人物になる。ついでながら、やがて王になる長男は、法典や制度の整備がすきであった。ポルトガルの黄金時代は、この三兄弟によってひらかれた。むろんかれらに相続争いなどはなく、エンリケは王子のまま生涯を送った。
(中略)
 大航海時代の前夜、ポルトガルの宮廷は一つの学院のようであった ― といまは亡い日本におけるイベリア学の創始者井沢実氏はその著『大航海時代夜話』のなかでいう。思慮ぶかいジョアン一世は、どちらかといえば舞台の暗がりにすわっている。イギリスから輿入れしてきた聡明で、弾むような知的好奇心に富んだ王妃フィリッパが、この空気のつくり手であった。彼女のよく遺伝をうけた三人の息子たちのうち、長男は法律の知識を、次男は地理の知識を、三男エンリケ航海王子は天文、航海、造船に関する知識を吸収し、集積した。


  司馬遼太郎は一部の王子を省略して記述していますが、ポルトガル王家の雰囲気がよく伝わります。王妃フィリッパの描写が特に印象的です。
 ジョン・オブ・ゴーントは野心家ではありましたが、実行力はいまいちで、これといった業績は残せていません。その一方で、息子や孫は積極的な行動者ですし、娘たちも西欧の歴史に大きな足跡を残すことになります。ポルトガルに嫁いだフィリッパと、その息子たちも同様でした。

ポルトガルの輝かしき時代

 若くして武勇に優れ、聡明にして国王となったジョアンと、同じく聡明なフィリッパ、その子供達。1415年に驚くべき事にモロッコへ進出し、セウタを攻略したのはこの一家のリーダーシップのなせる技だったのでしょう。
 もちろん、歴史は個々人やひとつの家族だけで動くものではありません。地理、経済、文化、時の流れ、さまざまな要員が歴史を作りますが、ジョアンとフィリッパの家庭は、当時の溌剌としたポルトガルの活躍を象徴しているように思えます。

 司馬遼太郎も書いているとおり、エンリケは航海術に興味を持ち、大航海時代を拓きます。彼自身は航海をしたことはありませんが、大航海に必要な知識、技術、計画力などを発揮し、育成し、その時代の扉を大きく開け放ったのです。
 その大航海の行く先に、王子たちが興味深く読んだであろう、極東の島国もあったと思うと、感慨深い物があります。
 ジョアン一世とその王妃フィリッパ、そして息子のドゥアルテ一世や、エンリケ航海王子は、ジョアンが建立したバリャータ修道院に眠っています。この優秀で行動力のある一家を、小説や映画にしたら面白いだろうと、思うのです。

                                  21st July 2013

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  「ハル&デイヴィッド」の史実 6 / ポルトガル王室のひとびと
                           
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