オリジナル小説「ハル&デイヴィッド」を読んでくださり、ありがとうございます。このコーナーでは毎回、小説に関連する史実に関して書いていますが、今回は第五作「複合的な家庭の事情」に登場したカンタベリー大司教と、アランデル伯爵家について、少し述べてみたいと思います。
 本当は系図が書きたかったのですが、あまりの複雑さにギブアップしました。



カンタベリー大司教

 ローマ・カソリックにおいては、各地域に教区があり、それを統括するのが司教(bishop)です。「ハル&デイヴィッド」に登場する人物で言えば、「叔父上」こと、国王ヘンリー四世の異母弟ヘンリー・ボーフォートがウィンチェスター司教でした。
 特にキリスト教にとって重要な拠点には大司教区が設定され、そこを統括する大司教(archbishop)が居ました。所によっては、大司教が複数の司教区を束ねる役割を持っており、イングランドもこれにあたります。イングランドの大司教区はカンタベリーと、ヨークにあり、前者がイングランドにおけるカソリック界の主席,後者が次席と言うことになります。
 (イングランドの場合、16世紀にカソリックを離脱し、独自に英国国教会を設立。カンタベリーとヨークも,国教会の大主教座に変わります。日本語ではカソリックの「司教」と、国教会の「主教」を使い分けていますが、英語では同じbishopです。)

 歴史上、長い間キリスト教は世俗の権力 − イングランドで言えば国王を頂点とする統治機構にも強い影響力をもっていました。影響力どころか、高位の聖職者が実際に為政者だったことも、珍しくありません。
 有名なところでは、12世紀にヘンリーニ世の大法官(総理大臣のような役職)トマス・ア・ベケットが居ます。また、「ハル&デイヴィッド」のウィンチェスター司教も、大法官です。実は、彼が実際に大法官だった年代は、物語の年代とは多少ずれているのですが、私は大法官ということにして、創作しています。

 さて、「複合的な家庭の事情」に登場したカンタベリー大司教は、トマス・フィッツアラン。その出身伯爵家のタイトルにちなんで、トマス・アランデルと呼ばれることのほうが多いようです。
 1353年にアランデル伯爵の三男として生まれ、ヨーク大司教を経てカンタベリー大司教となりました。これがリチャード二世の時代なのですが、彼はリチャードによって更迭されます。その話は次項で再度出てきますが、ヘンリー四世が即位した時に、国王によってカンタベリー大司教の座に返り咲き、更に大法官に任ぜられました。
 このことからも分かるように、彼はヘンリー四世に非常に重用されました。ヘンリー五世の時代になっても大司教の座にあり、1414年に亡くなりました。ですから、ハルが即位した時の大司教はトマス・フィッツアラン。シェイクスピアの「ヘンリー五世」冒頭に登場する大司教は、どうやら次代のヘンリー・チチェリーだったようです。
 トマス・フィッツアランは、14世紀中盤からイングランドを舞台に起こった宗教運動,ロラードに対し、批判的な態度で臨んだことも良く知られています。ロラードと、これに関わった人々に関しては、また別の機会に譲るとしましょう。
 ここでは、カンタベリー大司教トマス・フィッツアランの出身家である、アランデル伯爵家にお話をすすめます。


アランデル伯爵

 アランデル伯爵位は、イングランドでも最も古い爵位の一つです。1138年と言いますから、スティーヴン王の時代。ウィリアム・ダービニーにアランデル伯爵位は授けられました。もっとも、この頃はサセックス伯爵という呼び名もあったようです。
 その後五代にわたってダービニー家による相続が続き、第六代の時、女性相続人を経て伯爵位はフィッツアラン家に引き継がれました。
 小説では「第何代アランデル伯爵」という表現を、避けました。たとえば、最終章に登場した現アランデル伯爵は、伯爵位全体として数えると十二代目なのですが、フィッツアラン家の伯爵位としては七代目となり、資料によって数え方がまちまちなのです。
 この項では、伯爵位全体での通しで数える事にしましょう。


第十代アランデル伯爵

 まず登場するのは、第十代アランデル伯爵リチャード・フィッツアラン(1313〜1376)。国王エドワード三世と同世代です。彼には成人した子供が五人居ました。
 長子が次代アランデル伯爵リチャード。末子が前項で述べたカンタベリー大司教です。
 長女のジョアンは兄リチャードの夫人エリザベスの兄,ノーザンプトン伯爵ハンフリー・ド・ブーンと結婚。エレノアと、メアリーという二人の娘を残します。そしてエレノアはエドワード三世の末子グロスター公爵トマス・オブ・ウッドストックと結婚します。さらに妹のメアリーは、ダービー伯爵ヘンリー・オブ・ボリンブロクと結婚して、生まれたのがハルです。グロスター公爵とダービー伯爵は叔父と甥ですが、同時に義理の兄弟という間柄になりました。
 さて、第十代アランデル伯爵の次女のアリスは、ケント伯爵トマス・ホランドと結婚。その娘が、「複合的な家庭の事情」に登場したサマーセット伯爵夫人マーガレットであり、そのまた息子がハルとデイヴィッドにジュースをおごったヘンリーです。「複合的な家庭の事情」の第12章で、「サマーセット伯爵夫人もまたカンタベリー大司教の姪なので、大司教の陰謀をそのまま説明するのに気が引ける」と書いたのには、このような事情がありました。


第十一代アランデル伯爵
 
 十代目はエドワード三世が亡くなる年前に死去。後を継いだのが、第十一代アランデル伯爵となった、リチャード・フィッツアラン(1346〜1397)です。母親はヘンリー三世の曾孫エレノア・プランタジニット(ヘンリー三世の次男,レスター伯爵エドマンド “クラウチバック” の孫)― つまり王族の一人でしたから、第十一代アランデル伯爵は名門中の名門と言えるでしょう。
 そのことはアランデル伯爵が、十歳で即位したリチャード二世の戴冠式で、王冠を運ぶ役割だった事にも、表れています。
 再度確認しますが、この十一代目アランデル伯爵の実の弟が、カンタベリー大司教トマス・フィッツアランです。

 一方、幼いリチャード二世には三人の叔父が存命しており、そのうち真ん中のヨーク公爵エドマンドが摂政職につきます。ヨーク公爵は王を守りよく補佐しましたが、他の二人の叔父はそういう訳にも行きませんでした。「ハル&デイヴィッド」にも度々名前の出てくるランカスター公爵ジョン(オブ・ゴーント。ハルの祖父)は、王位をも窺う野心家であり、最も若いグロスター公爵トマスも公然と王の施策に非難を行う人物でした。
 アランデル伯爵はこのグロスター公爵と行動を共にします。グロスター公爵とアランデル伯爵は主に王の対フランス政策に介入し、さながら彼らによる摂政政治のような様相を呈します。王もこの状態を期限付きながら認めざるを得ませんでした。
 しかし1386年夏、王はグロスター公爵とアランデル伯爵を遠ざけ、その代わりに自分の身辺を寵臣で固めます(宮廷派)。これに対しグロスター公爵とアランデル伯爵は同盟者たち(Lords Appellants)と共に兵を挙げ、逆に寵臣たちを駆逐,もしくは逮捕に及びます。王は事態収拾のために寵臣たちの追放,人によっては処刑に応じ(無慈悲議会)、グロスター・アランデル側の勝利かと思われました。

 ところが1397年アランデル伯爵はグロスター公爵や、無慈悲議会で宮廷派追放を求めたほかの貴族たちと共に、王に対する反逆罪で逮捕されます。アランデル伯爵の弟,カンタベリー大司教が、王によって追われたのも、この時期です。
 グロスター公爵は王の叔父であり、幽閉にとどめられますが、その後幽閉先で死にます。一方、アランデル伯爵はただちにウェストミンスターにおいて、反逆罪で裁判にかけられ、有罪を言い渡されます。逮捕の二ヵ月後にはロンドン塔で断頭刑が執行されたのですから、あっという間の転落と言うべきでしょう。

 こういう場合、罪人が保持していたタイトルはその子に相続されるかどうかは、王の裁断によります。この時、アランデル伯爵位は一旦フィッツアラン家から剥奪されました。
 これまでにも何度か書いた事がありますが、結局1399年国王リチャード二世は従弟のヘンリー・オブ・ボリンブロクによって王位を奪われます。
 この時アランデル伯爵の遺児トマスは、すばやくボリンブロク側につきました。小説ではカンタベリー大司教のアランデル伯爵家での発言権を強調するために、叔父が甥にそうさせたと書きましたが、上記のような状況で、もとよりアランデル伯爵家がリチャードに味方するはずもなかったのです。
 ボリンブロクがヘンリー四世として即位すると同時に、トマス・フィッツアランはアランデル伯爵位を十二代目として取り戻し、カンタベリー大司教もその座に戻りました。

 第十一代アランデル伯爵の夫人は先ほど書いたように、ノーザンプトン伯爵の娘エリザベスで、彼女が第十二代アランデル伯爵や、ウィンチェスター司教との間にジェニーを生んだチャールトン男爵夫人アリスの母親です。

 更にエリザベスの死後、アランデル伯爵は第三代マーチ伯爵エドマンド・モーティマーの娘フィリッパと、再婚しました。
 このフィリッパのは母方を通じて、エドワード三世の次男ライオネル・オブ・アントワープの孫にあたります。このため、フィリッパの兄である第四代マーチ伯爵エドマンドは、リチャード二世によって王位継承者に指名されていました。さらに姉のエリザベスはホットスパーこと、ヘンリー・パーシーと結婚しています。
 このことは、「モンマスの祝宴」でも少し触れましたが、のちにヘンリー四世即位後の内乱の原因とならり、さらには薔薇戦争の泥沼を引き起こしました。
 結局、再婚したアランデル伯爵とフィリッパの間に、子供はできませんでした。もし居たとしたら、(ノーサンバランド伯爵やホットスパーのように)王位継承をめぐる諍いに、一枚噛んだかもしれません。


第十二代アランデル伯爵

 第十二代アランデル伯爵トマス・フィッツアラン(1381〜1415)は「複合的な家庭の事情」の最終章に、若い伯爵として顔を出します。彼はヘンリー四世即位後の内乱に、国王軍として従軍,活躍しました。
 つまり皇太子ハルと同じ戦場に向かったという訳で、小説の中でケイニスが「伯爵はウェイルズ方面に出陣中だった」と報告したり、若いアランデル伯爵がハルと気安く会話をするのは、このためです。
 その後伯爵はヘンリー四世の異母弟であるボーフォート一族との繋がりを深めます。特にボーフォート三兄弟の末弟トマス・ボーフォートとの繋がりは密接で、さながら先代アランデル伯爵とグロスター公爵の再現でした。
 ヘンリー四世は晩年にボーフォート達の強権を警戒して遠ざけましたが、次代のヘンリー五世はボーフォート一族を再び重用します。トマス・ボーフォートはエキセター公爵として、ヘンリー五世が再開した対フランス戦線の先頭に立ちました。
 アランデル伯爵もこれと行動を共にし、1415年アーフラー攻略に参加しました。この作戦自体はイングランドの勝利となりますが、その後陣営に蔓延した疫病のため、アランデル伯爵は病死しました。

 彼は未婚のままで子供がなく、アランデル伯爵位は弟のジョンに引き継がれます。このジョンの子孫によって、アランデル伯爵位は代十九代までフィッツアラン家が保持しました。

 フィッツアラン家最後の第十九代アランデル伯爵ヘンリーは、エリザベス一世に対する反逆罪で逮捕,処刑されました。1998年の映画「エリザベス」では、このアランデル伯爵をワトスンでおなじみのエドワード・ハードウィックが演じています。その後のアランデル伯爵位は、女子相続人を通じて、ノーフォーク公爵家に移りました。


現在のアランデル伯爵

 現在でも、幾つかの爵位を兼持するノーフォーク公爵ですが、姓はフィッツアラン=ハワード家を用い、主な居住地も代々アランデル伯爵の居城だったアランデル城を使用しているそうです。

 現時点でのアランデル伯爵位は、ノーフォーク公爵(1956〜)の長男ヘンリー(1987〜)が保持しています。
 彼はヘンリー・アランデルの名でプロのレーサーを目指し、フォーミュラ・カーレーサー育成機関のひとつ、フォーミュラBMWにおいて、2006年ルーキー・チャンピオンになりました。そのため、さらに上のエリート育成ドライバーに選ばれ、現在修行中。第二のルイス・ハミルトンを目指しています。
 2007年8月には元F1チャンピオンのナイジェル・マンセルの教えを受けていました。この時マンセルはカーレースの厳しい現実として、「実力のほかに莫大な資金が必要だ」と語りました。
 それに対し、ヘンリー・アランデルは「ルイス(ハミルトン)のように、生まれつきの才能があって、経済的支援を受けられたらいいのにと思うよ」と、語ったとか。
 今や筆頭公爵家とは言え、台所事情は様々。お貴族様も懐具合は楽ではない…と、言うところでしょうか?



                                    29th September 2007
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  「ハル&デイヴィッド」の史実 5 / カンタベリー大司教とアランデル伯爵
                           
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