神戸市民交響楽団 物語

2002年事務局発行より

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 神戸コンサートオーケストラ、このオーケストラをご存知の方は、何人ぐらいいらっしゃるでしょうか? 

 実はこのオーケストラは、何を隠そう神戸市民交響楽団の創設時の名称で10年間この名前で活動していました。なぜ今の名前に変ったのか?ということを足がかりに、神戸市民交響楽団の歴史を振り返り、どのようなオーケストラなのかということを、シリーズで再検証してみたいと思います。今までに、このオケを支えてこられた方々のお話も企画中です。お楽しみに。

第1楽章   第1回 第2回 第3回

          第2楽章   第1回 第2回 第3回  第4回 第5回 

第3楽章   第1回 第2回 第3回


第一楽章 (10周年を迎えるまでに)

 まず、シリーズ第一楽章は、創立から10年までの歴史や、当時の方々のこのオケに対する思いをお伝えしたいと思います。

今回は、第一章 第1回という事もあり 10周年記念誌に掲載されています、2001年他界された 釜田彰夫 団長の書かれた、神戸コンサートオーケストラの歴史をご紹介したいと思います。

今の状況からは全く想像出来ない驚くような練習や団員・財政状況でした

 

第1回 神戸コンサートオーケストラの歴史 (10周年記念誌より転載)

    釜田 彰夫

 神戸コンサートオーケストラは昭和45年9月、約30名の音楽仲間達によって、第1回定期漬奏会がラジオ関西で開かれた」という潮崎団長の一文が初期のプログラムにあります。

私事を述べて恐縮ですが、小生はその演奏会の聴衆の1人でした。「なかなかすばらしい演奏をするなあ」と感心し、「僕みたいな下手なチェロでも入れてもらえるんやろか」とおそるおそる入団した次第です。練習に行って驚いたのですが、演奏会には大勢居たメソバーが殆ど来ていないのです。しかも驚いたことに、次の定演の日程がちゃんと決まっているのです。演奏会が近づいてくると、どこからともなくエキストラがやってきてはじめて形が整うというオケでした。ですから、コンサートのためのオケという訳で、現在の名称が残っているわけです。

当時のメンバーといえば、潮崎さんは勿論のことですが、オーボエの岸本さん、バイオリンの峰松さん、フルートの辻さん(今は指揮者)と私ぐらいで、ほんの5・6名が集ってシューベルトの「未完成」なんかに取り組んでいました。峰松さんに休まれたりすると、何の曲をやっているのやらさっぱり分らなくなってしまい、本当に淋しいというか、哀れなものでした。これぞ正真正銘の「未完成」でありました。5、6人でオケをまかなってゆくわけですから、会費は今よりも高かったように思いますが、そういうつらい思いをできるだけさせないように潮崎さんが相当自腹を切っておられたと思います。叉、自らパート譜を写されたり他の雑用を一手にひき受け、オケを存続させてこられました。この勲意と努力に対し深い敬意を払いたいと思います。

以上が神戸コンサートオケの初期の姿であります。

小生が高校生の頃、神戸フィルやYMCA交響楽団があって、まだ劇場がなかったので、王子体育館や栄光教会での演奏会によく足を運んだものです。しかしうまく存続せず消えてしまいとても残念です。オケ不毛の地といわれたこの神戸で、その灯を消すことなく頑張ってこられた我が潮崎氏は、オケの黎明期を支えてこられた最大の功労者であると思います。

 1974年4月第4回定演のあった同じ年の11月「オペラハイライトの夕」を辻さんの指揮で開きました。彼が声楽畑出身であるため、その仲間達がオケをバックにすばらしいノドを披露しました。この頃から少しメソバーが増えてまいります。第5回「キージェ中尉」、第6回「運命」ですから、依然としてトラの力を借りなければならないとはいうものの編成の大きな曲がとりあげられるようになってきた訳です。

以上が中期の姿であると言えましょう。

 第6回定演のあと、オケは根底から変身を遂げます。メンバーの中に、オケを組織化し、民主的な運営をしようという機運が一気に高まり、見事にそれが成し遂げられました。会議や討論会の多かった時代です。せっかくの練習日が座談会に変ったりしてしまって、うんざりする連中もあったようです。オケの役職が定められ、正式に潮崎氏が団長に選ばれました。事務局が設置され、事務局長の魚谷さんを中心に職務が分担され、オケが機能的に動くようになりました。今までのように、トラを雇ってまで演奏会を開くというコンサート中心のオケから、演奏会を目的とせず、その日その日の練習を充実させ、もしコンサートを持つのならば例え少人数でも絶対にトラを入れないというオケに変りました。定演はどこまでも練習の延長線上の1点にしかすぎないという考え方です。

アマチュアの中にも「練習はさぼりたいが、演奏会にはぜひ出たい」というのが居りますが、そういう連中には居りづらいオケになりました。それに「音楽さえやらしてくれたらそれでええんや」と思っていた連中も、何か雑用をやらなければならなくなりました。つまりお客様根性ではオケはつぶれてしまうというわけです。

 第7回定演ではヒゲの南さんがハイドンのトランペット協奏曲を演奏しました。団員の中からはじめてソリストが生れたわけで、これは記念すべき出来事であります。

我々はアマチュアですから音楽はどこまでも自分自身の楽しみにつきるものです。ですから、人に聴かせてお金をもらうようなプロの真似事は絶対にしたくないという理由で第8回定演からは入場無料になりました。

ブラームスの交響曲第1番の大曲をトラなしで、止まることなく名演できたのは、聴いておられた方々には大したことではなくても、団員1人1人にとっては輝やかしいことでした。2年前から芦屋の奥池で合宿が開かれるようになりました。寝食を共にすることにより数々の名アンサンブルが生れましたが、反面相当数のボトルが空になりました。

 第9回定演では「英雄」をやりました。叉我がジョン・ラーセンがモーツアルトのファゴット協奏曲を見事に演奏しました。団員の中から第2のソリストが誕生したわけです。どうか、第3、第4と続いてもらいたいものです。誰かドボルザークのチェロ協奏曲をやる団員は居りませんか??

 いよいよ今年は創立10周年です。会社の出張の多い中で4年間の永きにわたって事務局長として御苦労願った魚谷氏に代って、新たに森さんが選ばれました。彼も叉、魚谷さんに負けない位アマチュア精神に徹した男です。オケきっての愛妻家で、酒を飲むとヨメさんをのろけます。「選ばれた以上事務局長をおひきうけするのが男でしょ!」とヨメさんが言ったのでやる気になったと申しております。彼の元で更に色気のあるオケになれることと思います。

又、7年間もの永きにわたってコンサートマスターの要職を務めて下さった峰松氏が、よりよいアンサンブルを作るために第2ヴァイオリンのトップに移られ、新たに加藤氏がコンマスになられました。学生オケでのコンマスとしての豊かな経験と、深い理論の持主で、円満な人格からほとばしり出る指導力には大きな定評があります。

 当面の問題は団員の不足解消(特に弦楽器)と条件のそろった練習場の確保です。オケの骨格は何といっても弦楽器が作るもので、常時最低4プルトの弦が揃うようになれば、もっとレパートリーが増え、出番の少い金管楽器群を喜ばすことができると思います。

叉練習場の問題ですが。昨年までは夜10時まで使えた県民小劇場が、夜9時までしか使用できなくなりました。あと片づけの事を考えると、8時半頃には音出しをやめなければなりません。原則としては7時練習開始ですが、皆な仕事をもっておりますので、やっと揃うのは7時半になります。実質的には1時間位しか練習できませんので練習時間が今までの半分になってしまいました。これは我々オケにとって大変な痛手です。

県の文化局に御理解を求めるか、どこか新しい練習場を探すかしなければなりません。練習が早く終るようになってからは二次会が長くなり、酒代が増えて困ります。これがオケの現在の姿です。

こういう問題をかかえながら、本日やっとのことで第10回定演を開くことができました。

 以上、非常に私見に満ちたオケの歴史で、本当の姿を伝えていないのではないかと心配ですが、何とかオケの心を描きたいという意図をもって書きました。どうかその点、おゆるし願いたいと思います。

(第10回定期演秦会プログラムより)

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第一楽章 (10周年を迎えるまでに)

 前回から配布している シリーズです。このオーケストラを再認識するため、オケの歴史や思いを掲載しています。

 今回は、このオケの基になるオーケストラをつくられた、潮崎 満 氏 の文章を紹介します。 このオーケストラは、1970年に潮崎 満 氏によってつくられました。 亡くなった団長の前回の文章によると、事務局が出来るまでの数年間、潮崎氏によってオケの運営の為の雑用を全てやっておられ、経済的にも支援をされていたようです。

 

第2回 コミュニティーオーケストラへの発想

      (10周年記念誌より)

                                   潮崎 満

 今私の手許に"Z00"と云う東京から送られて来た小冊子があるがこの"ZOO"というのはZenkoku Orchestra 0rganizationの頭文字をとったもので訳して全国オーケストラ連盟というが、この冊子はその連盟の機関誌である。この本によれば現在日本全国には大小とりまぜて約300位のアマオケがあるということであるが、之を読んでいると随分と色々のオーケストラがあるものだと驚く。中でも如何にもアマオケにふさわしい手弁当主義のオーケストラが多いのには感心した。"ZOO"という本の表題はユーモラスで面白いがこれはブレーメンの音楽隊のような楽しさと、映画「オーケストラの少女」のような感動をこめたものであると述べらているが、それは、何となく子供の頃読んだ童話の世界を想い出させ、叉楽しさと感動という表現はアマチュア精神などと共通していて大変興味深く楽しい。

 元来、アマオケなどというものは入団する人の音楽の上手、下手ということはあまり問題にしないものである。終戦后まもない頃だと思うが私の知人でH&Hクワルテットという名前の四重奏団を組んで勿論メンバーはアマであるが盛んにハイドンやべ−ト−ベンの四重奏曲を練習していたが、そのH&Hというのは誰かの頭文字かと思うとさらにあらず、何と弾いたり弾かなんだりという意味で、つまりむずかしい所に来れば弾かないでおくということで、これなどまさしくアマチュアの得たりとするところであろう、もっともあれから30年余りたった現在アマといえども技術的には随分と進歩していると思うが。

 アマオケにとって大切な事は人間関係であろう、神戸コンサートはこの人間関係を作り上げるのに10年の歳月を要したといって過言ではないと思う、オーケストラなどというものはアマにせよプロにせよ決して短期間で出来上るものではない。

 現在神戸コンサートには約60名余の団員が居るが、職業は多様で公務員、会社員、医師、教師、個人経営者、主婦、学生等でその総ては職業第1と考えているそして余暇のすごし方としてオーケストラに参加している、然しただ単に楽器を持って来て練習に参加し仲間との何の会話もしないで練習が終ればさっさと帰ってしまうのではあまりにも味気ないし、ハーモニーも調和のとれた音楽もそこからは生れて来ない。例え職業上や社会的な地位立場が異ってもオーケストラに来た限りはお互が仲間であり音楽野郎であるということを意識しない限りは、手弁当を提げてわざわざ出かけて来る事に意味がないし、仲間と協同して音楽を作り上げる努力をしない限り、音楽をやったという充実感がわいて来ない。私がコミュニティ オーケストラというのはオーケストラを一つの共同体として考えることを意味している。こういう仲間意識・連帯感の上に立ってこそハーモニーが生れ美しい音楽が流れると思う。

 神戸コンサートオーケストラの前途は決して生やさしいものではないと思う。ただでさえ不足し勝ちな弦の充実と演奏の向上が第1であろう。我々のこれからの課題はオーケストラ内部のコミュニティ意識に支えながら、更に地域杜会の支持を受けるべく努力することではなかろうか。地域杜会というコミニュティの中で生きてこそ、神戸コンサートオーケストラは輝ける未来を見出すことが出来るであろう。

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第一楽章 (10周年を迎えるまでに)

第3回 10周年までのまとめ(とりあえず) 

塩野 寿人

しばらく、発行をお休みしていましたが再開します。

 このシリーズは神戸市民交響楽団の歴史を残された文章や、当時の思い出などを掲載して、今後の活動に生かせたらという思いではじめました。前回までは、神戸市民交響楽団の前進の『神戸コンサートオーケストラ』の話を掲載いたしました。創設者の潮崎 満 氏 の文章と、故釜田彰夫団長 の文章から、発足当時から10年間の主な様子をまとめてみました。

 

  ・ほとんどが潮崎氏の手によって運営されていたが、民主的運営に変えていった

合言葉『自分たちのオーケストラは自分たちの手で』が原点となった

  ・火曜日の夜、県民小劇場で練習していたこと

  ・そこに楽器が保管することができていたが、できなくなったこと

  ・会場使用が午後九時までになり、実質的に練習場がなくなってしまったこと

  ・ 練習出席率が極端に悪かったこと

  ・ 団員が少ないので経済的に困窮していた

  など、アマオケの問題をすべて抱え込んで、もがき苦しんでいた時代でした。

それでも、暖かいお互いを思いやる人間的なつながりを重んじるオケをつぶさずに、問題を少しづつ解決していこうという、オケへの情熱が文章から感じ取ることができました。その流れが今も脈々と流れ続いており、受け継がれこのオケの伝統をつくっていったと思いました。

 私が入団したのがちょうど、10周年の直前でしたので、ちょうどこの時期にあたります。入団間もない団員としての自覚もあまりない時期の記憶ですので、完全に正確ではないと思いますが、エピソードを一つ書きたいと思います。

 ちょうどこの時期に、神戸コンサートオーケストラは、生まれ変わるため改称を考えていました。最有力の一つに神戸フィルというのがありましたが、神戸市がアマチュアオケをつくることになり、その名称が先に、新聞発表されてしまいました。活動の条件は、我々とまったく正反対のオーケストラでした。

 ほとんどの団員が活動条件・環境ともに整えられた神戸フィルへゆかず、あえてこのオケに残ることを選択されました。当時高校生であった私は、何と大人とは不思議なものだと思うと同時に、このオケにはきっとそれを越える何かがあるんだと気が付きはじめていました。

                               第2章へ続く

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第2楽章 10周年〜20周年

 

第2楽章第1回では、神戸市民交響楽団の象徴ともいうべき『楽器運び』についてPerc.の北村美穂さんに書いていただきました。

 

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 第1回

「楽器置場のいまむかし」

北村 美穂

 みなさまご存知のとおり、打楽器には多くの種類がありますが、ふだんオーケストラの演奏で使用されるものは、それらのうちの約20種類と言われています。大きさはこどもが持てるような軽い小さなものから、大人が何人かでやっと持つことのできるようなものまでさまざまです。

 神戸市民交響楽団でも大きな曲に取り組むようになってからは使用楽器が増え、楽器の運搬においても多くの方の手をお借りしなければならなくなりました。故釜田団長が、オーケストラの仕事の一つに「楽器運び」をあげておられましたが、みなさまのご協力のお蔭で演奏が成り立っていることは言うまでもありません。

 さて、今の楽器置場が5ヵ所目だということはみなさん知っていますか? 下の@〜Dには、現在までの楽器置場の推移を示しました。

@ 県民小劇場内の楽器置場(1970〜1979年頃)…当時演奏会も県民小劇場でした。

A 団員所有のマンションの一室(1979年)…仮の楽器置場として提供していただきました。

B 食品会社の倉庫兼住宅の3階の一室(1979〜1992年)

C 現楽器置場の西隣りの部屋(1992〜1998年)

D 現在の楽器置場(1998〜2002年…現在)

@Aについては、私はまだ入団しておらず、詳細はわかりません。よってここでは、私が入団した1982年当時の楽器置場(B)と、その頃の楽器運搬にまつわる話を書いてみたいと思います。

 この楽器置場は、現在の場所から少し山手幹線側に歩いたところにあります。1階は食品会社の倉庫、2階3階は住宅になっており、私たちはその3階の1室(6畳)を楽器置場としてお借りしていました。

 金曜日の19時頃(その頃、練習は金曜日で、練習開始は19時だった)、1階の扉を開け、「神戸市民交響楽団です!」と言って、目の前の急な階段を昇って行きます。そうです、1階は倉庫なので天井が高く、つまり階段はとても急だったのです。

 2階で靴をぬいでさらにそこから3階へ上がるわけですが、この2階の部屋にはおばあさんが住んでおられ、楽器を取りに行くといつも声をかけてくださいました。ある時、まだ打楽器パートが私と元団員Fさんの二人だった頃、楽器は練習場に運び終えているのに、Fさんが戻ってこないということがありました。しばらくすると、「おばあさんと話しこんでいた。」と言ってFさんは戻ってきました。おばあさんはとても話が好きで、また練習が夜のため、帰る時間が遅くなることを心配してくださったりと、私たちのことをいつもあたたかく見ていてくださいました。

 さて、話を戻しましょう。2階から3階へもまた階段が続きます。階段を上がって行くと途中からそれはUの字に曲がります。大人がやっと一人通ることのできる幅の階段です。その階段を上がった正面が、楽器置場としてお借りしている部屋でした。6畳ほどの部屋には、棚が部屋の壁際に一つ、あとのスペースはコントラバスと打楽器群が占めていました。

 さあ、ここからが大変です。まず、手締めティンパニの足を充分に縮めます。狭い階段を通すためです。しかし、大きなものは足を縮めても通らず、そのような場合は足を抜きます。準備が整うと、次は3階から2階へティンパニを下ろしていくわけですが、ここの壁や階段は木でできており、それらを傷つけないよう、慎重に下ろさなくてはなりません。階段がUの字に曲がっているのでなおさらです(それでもやはり傷をつけてしまいました)。2階までなんとか下ろすと、楽器を持ったままの状態で靴をはきます。そして急な1階までの階段をまた下ろします。階段の幅が狭いので、ティンパニは上側・下側と二人で持ちますが、下側を持つ人は楽器のほとんどの重量を受けているので、ほんとうに大変でした。

 しかし、ここまでは楽器を部屋から出したに過ぎず、次には練習場へ運ぶということが残っています。1988年頃までは、打楽器パートは一人だけでしたから、他のパートの方のご協力がなければ楽器を運ぶことは不可能でした。それでも今のように団員は多いわけでなく、また練習が金曜日だった頃は、ほとんど練習開始時間前に人は集まっていないため、二人で楽器を運ぶこともありました。

 たとえば、手締めのティンパニ大小2台を少ない人数で運ぶため、1台の台車に2つのティンパニを載せる、つまり小さい方のティンパニを上下反対にし、大きなティンパニの上に載せて運ぶという、今ではとても考えられないようなことをしていました。また、1986年に愛車「パセリ」を買ってからは、ティンパニを車で運ぶことが多くなりました。後ろの座席を倒せば大きい方のティンパニが、助手席には小さい方のティンパニが載ったため、3階からとりあえず下ろすことができれば、リハーサル室や練習室まで一人で運ぶことができました。もちろん、車に載せるまでと、車から下ろす際には誰かに手伝っていただきました。「この車は楽器運びのために買ったの?」と何人かの方に言われたことがありますが、結果的にはそうなっていたように思います。

 このように、1979〜1992年頃は、団員が少なく経済的な余裕がないため、広い楽器置場にはかわることができず、よって「ペダル式のティンパニ」も買えない(細い階段を通すことができない)という状態が続いていたわけです。楽器運びのたびに故釜田団長は「どこかこの辺でええ部屋はないかなあ」と言っておられました。ですから、現楽器置場の西隣りの部屋(C)が見つかったときには、打楽器パートのメンバー以上に、団長が喜んでおられたように思います。それほど、ずっと楽器置場のことを、そしてオーケストラのことを考えておられたのです。

 現在の楽器置場も、最近では狭く感じられるようになりました。これ以上楽器が増えることになれば、また今よりも広い部屋を探すことになるのかもしれません。しかし、かつての団員数の少ない頃に比べれば、今は多くなり(経済的余裕もあり)、何事においても実現するに十分可能な力を持ったオーケストラに成長したのだなあと、昔を振り返るたびに感じます。

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 本当に大変な時代でした。北村さんの入団前の@Aについて記憶している範囲で補足しておきます。

@ は当時の劇場の館長のご理解をいただき置かせてもらっていたところ、当局より指導があり置けなくなった。また会場の使用時間が、午後9時までに短縮され、事実上練習会場として使用できなくなった。

A は記憶が曖昧ですが、チェロのA氏所有のマンションの一室を楽器の緊急避難先として、半年程度使わせていただいた。場所は現在の練習場所近くらしく、ここから県民小劇場まで毎週、団員運転の車で運んでいました。

そして、文化ホールのリハーサル室を使用するようになり、北村さんの書かれている泣く子も黙る、あの!3階の通称『おばあちゃんの楽器置場』を当時の事務局が探し出してきて、必死の思いで契約にこぎつけたということです。

しかし、今では考えられないような、『楽器運び』があったからこそ、今の神戸市民交響楽団がここにあるわけです。現在と比較すると、たしかにとんでもない場所でしたが、『そこを出る=オケの活動停止』 でありましたので選択の余地はまったくありませんでした。そのつらい重労働?を支えていたものは『自分たちのオーケストラは自分たちの手で』の合言葉です。そして、結果として団員の結束を固める基になっていきました。

ですから形態こそ変わり条件が整備されましたが、現在でもつづいているこの『楽器運び』こそが、我々のアマチュアオーケストラとしての『健全度』を示す『バロメーター』ではないかと思います。

 自分のオーケストラで音楽をするためには、ちょっとした雑用でもお互い協力をするという、『義理と人情』の精神が無ければこのオーケストラは存在し得ないということでもあります。たとえ楽器を運ぶことができなくても、楽器を運んでいる人の荷物番をすることでもいいのです。そしてそれを決して強制しない、各団員の自主性にできるだけまかせた、大人の関係で成り立っているというのも、このオケの独特のサウンドとハーモニーを創っているのではないでしょうか。

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第2楽章 10周年〜20周年

 今回は、神戸市民交響楽団のセカンドネームともいうべき「義理と人情のオーケストラ」について、木村さん(2ndVn.)に熱く語っていただきましょう。

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第2回

イワユル「義理ト人情」ナルモノ

                                Vn 木村 雅一

この2楽章は、10周年から20周年までの歩みをテーマにしています。私が入団しましたのは、

ちょうどその真ん中頃のことでした。前回執筆された北村さんを頼って(共通の知人がおりました)練習を覗きに来たのです。ともかく、むかしのことで、練習会場も練習していた曲もとんと記憶にありません。ただ記憶にあるのは、下手ながら何故か居心地の良い雰囲気でした。もっとも、若者の比率が概して低いように感じられたことと元来の練習嫌いが重なってか、最初の2年間に何と2度も休団し、あげくの果てには団費滞納にて自動退団となる始末でした。でも不思議な縁と申しましょうか、そのままどこかへ吹き飛んで行くでもなく、まもなく再入団と相成りました。

 当時でも70名程度は団員名簿に名前があったと思います。が、全ての団員の存在を知るまでには非常に長い時間を要しました。現在ならば120名ですので相当な困難も想像がつきます。しかし当時は別の意味での困難もあったのですが。そうなんです、練習に現れない団員が(私自身を含めて)実に多かった!練習から足が遠のく理由のひとつが、参加者の少なさにもあったのでしょう。弦楽器などは、ヴァイオリンが数名、ヴィオラとチェロが各1名なんて状態がザラでしたね。(極端に誇張してません。そんな時代もあったのです。)それでも、体育会もどきの大学オケに疲れ果てていた私には、そのふにゃふにゃさ加減が何とも心地よく、どっぷりと浸かっていくことになります。

初めは「オジサンばかり」と遠のいていた足が練習に向くようになったのも、よくもまあこれだけの個性派を集めたもの!と感心するばかりのタレント揃いのお陰か?団員数が少ない分、係も頻繁に巡ってきました。レク係を担当していた頃、一度仁川にハイキング&BBQを企画しました。古参の団員からは「昔は結構頻繁にこういう企画をやっていた」と感激されたものでした。奥田さんが家族を引き連れて参加された記憶などが蘇ってきます。まあ、その後そんな企画は全く実現しておりませんがね。今やパート毎の宴会企画が目白押し?で、そんな時はヴィオラやチェロがとっても羨ましい限りです。(ヴァイオリンは一匹狼が多いんかな、それとも単に人数が多すぎて収拾がつかない?)

 そのように神戸市民オケと係わりつつ、私は知らず知らずのうちに、このオケの根本原理とも言うべき「義理と人情」に触れてきたような気がします。オケにやってくる団員たちの目的は一体ナンデあろうか。或る人は純粋に音楽を楽しむためでしょうし、また或る人は練習後の一杯への単なる序奏に過ぎないかも知れません。指揮者が何と言おうが俺はオレの好きなように演奏する!なーんて人もいるに違いありません。様々な考え方を持つ人間の集団でありながら、何故か皆週末になるとつい練習に足を運びたくなる魅力的な集団。むかしは不良団員で鳴らした私も、今では本当に毎週の練習が楽しくて仕方ありません。皆さんはどうでしょうか?演奏会だけを目指すような、記録や結果が全ての体育会的な思考では、これほどまでの楽しみを味わえるとは思えません。

 横道ばかり走っております。さて、我々をひとつのオケに繋ぎ止めているものは、決して高水準の演奏を目指す姿勢ではありません。言っては見たいけれど絶対にちがいまーす。恐らくは、接着剤は音楽そのものではなく仲間意識でしょう。音楽を通じて偶然知り合った仲間ですが、入団の動機である音楽それ自体よりも大切な存在になるなんて、何とも奇妙な逆転現象ですねえ。でも、そうなればシメタものです!オケ活動はもうあなたの生活の重要な部分を占めているハズ。自然とオケに対する愛着というか、愛情も湧いてくるでしょう。これが居心地の良さの正体なのか、オケはまるで大きな家族のようだなー。「義理と人情」という言葉は、この「愛情」にすっかり置き換えてしまっても構いませんよ。ただ、「愛」という言葉はおっちゃん達には少々恥ずかしかったので、極めて古風な表現に落ち着いたのではあるまいか?私は勝手にそのような想像をしております。 

最近入団された方々には「団員も多く練習も充実していて演奏会の出来も素晴らしい!?」オケと映るかも知れませんが(ちゃうのん?)、何もせずに今の状況が維持される訳でもありません。それなりの努力も必要なのです。

 楽器を運ぶことも愛情表現のひとつの手段ですから、たまには運んであげてください。で、もしあなたが独身ならば、ホンモノの愛情がオマケ?で付いて来る場合もあります。詳しい話がお知りになりたければ、最寄のパートリーダーまでお問い合わせ下さい。


第2楽章 10周年〜20周年

第3回

 今回は、わがオケにさまざまな名文を残されておられる、元団員の大野さんが神戸市民交響楽団を非常に上手く表現されている文書を、20周年記念誌から紹介いたします。このシリーズが始まり何名かの方から、ぜひこの文章を知らない方に読んでいただきたいとリクエストがありました。さて我々のことをどう表現されているか、お楽しみに♪

オケのみなさんへ

大野 靖史

 創立20周年、そして第30回記念演奏会おめでとうございます。みなさんと一緒にチェロを弾かせてもらっていたのはついこのあいだだとばかりと思っていましたが、久し振りに在団当時の1983年12月の演奏会のプログラムをひっぱり出してみると「第19回定期」とあり、思わず時(歳?)の経つ非情さに1分弱程、感慨に耽ってしまいました。また、それにもまして私が入団する前後まではメンツが揃わず練習が危ういことも時にあったように記憶しますので、オーケストラの成長ぶりと成熟ぶりに正直驚いています。

 私が在団していたのは1983〜84年にかけてのわずか二年足らずの間でしたが、数多くの楽しい思い出を作らせてもらいました。なかでも、忘れもしない84年11月10日(といっても忘れるとたいへんな目にあいそうですが)。新聞記者に転職、既に退団していた私の結婚式に団員のみなさんが楽器をそれぞれ担いでわざわざ六甲山の上までかけつけてくれ、結婚行進曲で祝ってくれた時の感動は強烈です。つまり私の第二の人生のスタートファンファーレこのオーケストラの音色というわけです。

 さて、大学のオケを少し経験していただけの私にとって入団当初、十代から五、六十代までもの様々な年代が集り、学生、会社員、先生、医者や主婦などいろんな仕事を持ったメンバーからなるオーケストラはたいへん新鮮なものでした。これは全国どこのアマオケでも当り前のことかもしれませんが、神戸市民交響楽団の最大の魅力は、これら多彩なメンバーの連携と調和が実に見事なことでした。なかでも中年軍の活躍には目を見張るばかりで、本来の演奏だけでなく、団の運営、さらには"宴騒会"、ギャルの白眼をものともしない三の宮でのディスコ大会……等と、若手をどんどんリードしてくれ、それがまたあまり押しつけがましくないところが団風ともいえ、"神戸"らしいスマートさに思えました。

 この、押しつけがましさがない、というのは民主的ということでもあり、とかく独裁者が君臨しトラブルの少なくないアマオケが二十年も長続きする秘訣かもしれません。

 このほか「お金がない」というのも、皮肉でなくこのオケの隠れた"魅力"の一つでした。少なくとも演奏会で"黒字を出さない"(最近では大胆にもプロ並みのチケット代を取るアマオケもあるようですが)ことがアマチュアオーケストラの絶対条件だと思えるのですが、「金がない」といいながら行政の妙なヒモつき拒否するなど、デイレッタンテイズムの心意気を持ったオケだといえそうです。

「へたでも平気、元気に歌え」と娘の持っているいろはカルタにありますが、この果敢な音楽への挑戦心もこのオケの長所です。定期演奏会の練習以外に、機会あるごとの団内演奏会や気の合った同士での室内楽の楽しみは大きなものでした。また、私のいたチェロパートでは独自に、"神戸セロ・アンサンブル"なるグループまで生まれたほどで、いまでも独自の演奏会を続けていると聞いています。

 ところで、私はかねがね「音楽の究極の美は地平線のようなもので、たしかに逢か向こうに見えてはいるが、どこまで行っても近付けないものだ」と思っています。とすると、さしずめ音楽をする人はかなわぬ旅をめざす旅人に似ているかも知れません。世界には旅人の数だけ地平線があるように、人それぞれに音楽への思いは様々です。それでも、同じ様に地平線を目指す仲間を持づことは心強く、幸福なことです。

 「同志」。幕末の時代劇かポーランドの連帯めいてきそうですが、私にとって神戸市民交響楽団はこんな言葉がピッタリなオーケストラなのです。 


 第2楽章 10周年〜20周年

第4回

今回は、リクエストがありました、神戸市民交響楽団の名前決定のいきさつについてかかれた文章を、20周年記念誌より掲載いたします♪ はたして、このどこにでもあるようなアマチュアオケの名前ですが、神戸市民交響楽団らしい、決まり方でありながら、重要な意味を持った由緒正しい、誇り高き名前であるということを確認したいと思います。

20周年記念誌より

神戸青空オーケストラのこと

塩野 寿人

 『神戸青空オーケストラ』、この名前を読んであなたはニャッとされましたか?それとも「何やこれ」と思われたでしょうか? 私たちのオーケストラがまだ神戸コンサートオーケストラと呼ばれていたとき、さまざまな理由から名称を新しくするために会議をもちました。 当日は団員の数からいえば会議の出席はよかったように記憶しています。団員の中には神戸フィルハーモニーを考えていた方が何人かおられましたが、残念ながら叶_戸市おかかえのオーケストラの名称として数カ月前に新聞に発表されてしまいました。そのためか最初はおおくの案が出ませんでした。やはりごく普通の「神戸交響楽団」「神戸管弦楽団」の2つだったために、しばらくの間は新しい案もなく行きづまっていました。

 そこで、私たちのモットーである「義理と人情」を生かした、親しみやすい庶民的な名前にしようという1つの条件をきめました。その例として出てきたのが 「神戸青空オーケストラ」 さすがに、これには出席者全員いすから転げ落ちそうになりました。しかしこの一声で、会議の雰囲気はがらりとかわりました。そのためかこの「神戸青空オーケストラ」と言う名称はいまでも強烈な印象が残っています。これがきっかけとなりユニークな名前が提案されました。

「元祖神戸フィル」「本家神戸フィル」の案も出てきました。 もう1つ忘れられない名前がありました。その名も 「上方交響楽団」 これは、なかなか的をえた名称であると、発案者のかたは、いっておられます。「我々のオーケストラは毎週ティンパニーを運んでいる。すなわち、全員が太鼓持ちである。また、となりには相方が座っている。」という、ふか〜い意味があるそうです。

 そうこうするうちに、もう1つの条件が提案されました。それは、アマチュアを強調できる名称にしようということです。というのは、我々のオーケストラは、企画・運営、全てが団員自らの手で行われているだけなく、どこからも援助を受けていない「本当の意味でアマチュアのオーケストラである」ということからです。

 そこで提案されたのが、「神戸アマチュアオーケストラ」「神戸素人オーケストラ」。これらは、あまりにも、ストレートすぎました。それで、「『市民』という言葉をつかおう。」という意見が出されました。これについては、当時より数名の神戸市外在住の団員がおられましたが、「市民」というのは、あくまでも「アマチュア」を意味するものであり、けっして神戸市民だけを意味しているのではない。ということで話はまとまりました。

 そんなこんなで、最終的に「神戸市民交響楽団」「神戸市民管弦楽団」の2つの案にしぼられました。このようにして我々の神戸市民交響楽団の名称が誕生したのです。

この我々のオーケストラの名称は一見単純なものですがこういう大きく大切な意味を持っているのです。

「白分たちのオーケストラは、自分たちの手で。」「自分たちのオーケストラは、市民オーケストラである。」これらは、我々の先輩方が20年間かけて築き、守ってこられたすばらしい伝統であると思います。この伝統を100年、200年と続けられるような活動をこれからも続けたいと思っています。このすばらしい財産を、未来に残してゆきましょう。


第2楽章 10周年〜20周年

第5回

いよいよ、第2章の最後を締めくくる、故釜田団長が20周年記念誌に書かれた歴史です。

1970年の創立から創立20周年までを、見事な文章でまとめあげられています。このオーケストラの苦しみながらも、少しづつ成長していく過程と、問題点がかかれてあります。このような過程を経て現在の姿に少しづつ近づいてゆきました。

 

神戸市民交響楽団の歴史

(創立20周年記念誌より転載)

釜田彰夫 (団長、Vc.)

昭和45年9月(1970年)前身である神戸コンサートオーケストラの第1回定演がラジオ関西で開かれた。指揮は潮崎満先生で、モーツアルトの交響曲第40番のもの悲しい調べが美しかった。私はその時の聴衆の一人であった。大学のオケとは縁が切れ、社会人団体に入りたいと考えていた時であった。西宮交響楽団へ入ろうかと迷ったこともあったが、地元の団体へ入るべきと考え入団した。ところが練習場である県民小劇場へ行ってみると、演奏会にいた大勢のメンバーが殆ど見えない。ほんの5,6人が集って練習をやるのである。指揮は潮崎さん、バイオリンは峰松さん、オーボエの岸本さん、チェロは殆ど私が一人、ヴイオラやファゴットなどは夢のまた夢であった。演奏会になるとエキストラの音大生がやってきて形が整うというコンサート用のオケであった。しかし、その基盤を支えているのは俺達アマチュアであるという気概を大いにもったものである。第3回定演ではシューベルトの「未完成」をやったが、山本さん(現名古屋フイル)と2人だけで弾いたあのテーマは忘れがたい。

少人数でオケをまかなってゆくわけであるから、会費は今の貸幣価値でいえばもっと高かったようだ。潮崎さんは相当出費されていたように思う。コピーの無い時代である。自らパート譜を写されたりトラの交渉等、雑用を一手にひきうけオケを存続させてこられた潮崎さんの熱意と努力がなければ今日の我々は無いのである。オケ不毛の地といわれたこの神戸で、その灯を消すことなく頑張ってこられた我が潮崎先生はオケの黎明期を支えられた最大の功労者である。

 第4回定演(1973年4月)のあった年の11月、「オペラハイライトの夕」を辻さんの指揮で開いた。この頃から当時芸大生であった李さん(現指揮者)がヴィオラをもって時々やってこられた。ヴィオラが美しく鳴るオケの魅力にしびれたものである。メンバーも増え始めた。

大久保さん入団の裏話をしよう。チェロを持って私がタクシーに乗ると、運転手がどこでやっているのかと聞く。知り合いでオーボエをやっている若者がいる、ぜひ紹介しようということで入ってきたのが、名手大久保さんである。今は仙人のような顔をしてヴィオラを弾いておられるが。

 第5回「キージェ中尉」、第6回「運命」であるから、依然としてトラの力を借りなければならないものの、編成の大きな曲がとりあげられるようになった。当時、南さんと広野さんのトランペットコンビは黄金時代をきづいていた。この頃、女性団員では最古参(失礼!)の安田さんや渡辺さんが入団された。第6回定演のあとオケは根底から変身を遂げる。オケを民主的な運営にしようという機運が一気に高まった。会議や討論会がよく開かれた。せっかくの練習日が座談会に変ったりしてうんざりする団員もいた。事務局が設置され種々の役職が決められた。団長に潮崎さん、事務局長に魚谷さん(フルート)が選ばれた。彼を中心に職務が分担されオケが機能的に動くようになった。トラを雇って演奏会を開くというコンサート中心のオケから、その日その日の練習を充実させ、定演はその延長線上の一点にすぎないという団体になった。「練習はさぼりたいが演奏会には出たい」という態度はゆるされなくなった。また、オケを支えてゆくために皆なが雑用をしなければならなくなった。つまり、トラ根性、お客様根性の追放である。今後もこの精神はもち続けられねばならない。

 この頃から芦屋奥池ユースホステルで合宿が開かれるようになった。夜中に数々のアンサンブルを楽しんだものだ。

第7回定演ではヒゲの南さんがハイドンのトランペット協奏曲を演奏した。団内からはじめてソリストが生れたわけで記念すべき出来事である。この頃加藤さんがヴィオラで入団してきた。団員は60名になった。

第8回定演では辻さんの指揮で、ついにブラームスの交響曲第1番をやり遂げた。とにかくこれは団員一人一人にとって輝かしい出来事であった。終ったあと、魚谷さんと抱き合って感激にむせんだことを思い出す。

第9回では「英雄」と共に、JohnLarsenがモーツアルトのファゴット協奏曲を演奏した。団内から第2のソリストの誕生である。

第10回定演のあと、4年間事務局長を務められた魚谷さんに続いて、森さん(チェロ)が第2代目事務局長に就任された。又、7年間コンサートマスターをされた峰松さんに代って、加藤さんが就任された。この時期、本拠地にしていた県民小劇場の楽器置場が使えなくなり、夜の使用時間が10時から9時に早められたりしてオケが試練の時を迎えた。練習が1時間早く終るので二次会が長くなり喜ぶ連中もいた。練習のあとは皆なでかたまって飲み、よく語り合ったものだ。その中にはオケ唯一人の明治生れ故竹田さん(バイオリン)がいつもおられた。ご健在であれば団員の大きな目標になられたことであろう。とにかく、森さんを中心に団員が結束し、この苦境を乗り切ることができた。心から敬意を表したい。結果的には文化ホールリハサール室への進出ということになる。

 第10回記念定演は文化ホール(中)で開かれた。はじめてのホールが光輝くように思えたものである。潮崎団長が今後は神戸市少年少女合奏団の発展に力を入れたいといわれ、最後の指揮台に立たれた。「田園」であった。

第11回では再び県民小劇場へ戻ったが、それ以後はずっと文化ホールで演奏会を開いている。

名称が神戸市民交響楽団と改められ、年2回の公演となった。第13回では大久保さんがハイドンのオーボエ協奏曲を演奏した。第3の男の誕生である。その後事務局長は山下さん(バイオリン)、高橋さん(フルート)と続き、任期は1年間となる。団員は更に増加をたどる。定演の幕間に奥田さん(ヴィオラ)の名調子のごあいさつが始まった。演奏よりもこれを楽しみに来られる方々もいた。

第15回定演で、はじめて文化ホール(大)へ進出した。石谷さん(ホルン)が事務局長の時代である。他の合唱団との共演で、フォーレのレクイエムを演奏した。

第16回定演では、コンサートマスターの加藤さんがモーツアルトのハフナーセレナードのソロをやり、第4のソリストが生れた。第17回では菱川さんがモーツアルトのクラリネット協奏曲を演奏し第5のソリストとなる。団内からのソリストが続出、それはオケのレベルが上ってきた事を意味する。

 この頃、モンタナ州出身のMrs.EloiseKirk(バイオリン)が入団された。チャーミングな人柄のため団員から親しまれた。全団員を自宅のパーティーに招待して下さったこともある。横田さん(チェロ)が事務局長時代、外部に指揮者を依頼する制度が生れた。

第20回記念定演は田中一嘉氏を東京から迎えた。これまで出演したゴールドブレンドオーケストラのトレーナーとして、田中先生とは親しくしていたからである。これ以後、春の定演は指揮者不定、秋は李先生の常任という形になった。

 事務局長は、藤本さん(バイオリン)、榎さん(チェロ)、丸山さん(フルート)、藤村さん(チェロ)と移り今日の早水さん(ホルン)に至っている。諸氏のご尽力に深謝したい。加藤さんが転勤のあと、長谷さんが当団最初の女性フンサートマスターに就任され、第23回定演を成功に導かれた。第25回では李先生と共に、藤田謹也さん(トロンボーン)が「白鳥の湖」を指揮した。 辻さん以来第2の団内指揮者の誕生である。

コンサートマスターは複数制になり、塩野さん、大島さんが加わった。現在は、西海さんと塩野さんが務めておられる。

 第29回定演では嬉しい出来事が起った。神戸出身の世界的トロンボーン奏者、山本雅章さん(西ドイツ、シュトウトガルト放送交響楽団首席)が演奏旅行で帰国されており、忙しい合間をぬって我が金管楽器群を指導し、定演に友情出演して下さった。シベリウス交響曲第2番の金管がとても美しく鳴り響いた。心から感謝したい。幕間のごあいさつは、数年前から横山さん(バイオリン)が引き継ぎ、奥田さんに負けない楽しいおしゃべりでタレント性を発揮しておられる。

 ここで団の美わしい伝統の一つをご披露しよう。団員の結婚式には有志が集ってメンデルスゾーンの結婚行進曲を演奏することである。これは十数年続いている。団員同志の結婚が増えてきた。嬉しいことである。若者たちよ、後に続かれんことを!

 これまで、定演を中心に歴史をたどってきた。それ以外に、兵庫県交響楽祭、ゴールドブレンドコンサート、関西アマチュアオーケストラフェスティバル、東はりま音楽祭(兵庫県芸術文化祭ふるさとの心をうたう)、西播磨音楽祭シンフォニックコンサート(神戸市民交響楽団を迎えて)等に出演してきた。今春には最初の試みで、サマーコンサートを開いた。指揮は藤田さん、バイオリン独奏は西海さんであった。

このような歩みを経て今ここに第30回記念定演を開こうとしている。団員は90名、年令は20才、晴れの成人式である。これからも文化ホールが本拠地になるだろう。早急に至近距離で格安の楽器置場を探さなければならない。ティンパニーとコントラバス数台が置ければいいのだ。どなたかのご協力を切にお願いする次第である。

 以上、私見に満ちた歴史を書いた。本当の姿を伝えていないのではないかと一抹の不安はあるが、神戸にも「ここに泉あり」があったこと、そしてこれからもそれがあることを知っていただければ本望である。

 最後に、これまでオケを育てて下さった幾多の方々、ここに名前を記していない多くの団員、そしてその家族の方々に深く御礼申し上げる。


現在、製作続行中 発行したものから順に掲載してゆきます。  

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