佐藤愛子の「血脈」

               

佐藤愛子の「血脈」が古本屋に出回るようになったら、手に入れようと思っていた。これは三冊続きの分厚い本で、新本で買えば相当高いことになりそうだったから、敬遠して手を出さないでいたのである。先日、ようやく古本屋の店先に出回っている「血脈」を発見した。あまり安くなっていなかったが(半値になっていた)、早速購入した。佐藤紅緑(佐藤愛子の父)の一族には、前々からちょっとした興味を持っていたからだ。

小学生だった頃に、佐藤紅緑の少年小説を二冊ほど読んだことがある。
読んだあとで子供なりに感動して、強く正しい人間にならなくてはいけないと思った。三島由紀夫に言わせると、戦前、少年小説の読み手には二つのタイプがあり、立身出世を夢見る地方の少年は佐藤紅緑を愛読し、都会の子供は江戸川乱歩の「怪人二十面相」の方に夢中になっていたという。

確かに、江戸川乱歩にくらべたら佐藤紅緑は泥臭く、ストーリーも型にはまっている。だが、それだけに彼の小説には、少年たちを「感奮興起」させる力があった。貧乏に屈せず、誘惑に負けず、けなげに頑張って周囲を感化していく主人公の少年が、貧しかったあの時代の子供たちにとって、導きの星のように感じられたのだ。

その少年小説は、佐藤紅緑が不良少年だった息子のサトウハチローに読ませるために書いたというゴシップを何かの雑誌で読んだのは、戦争が終わってからだった。サトウハチローが昔は不良少年だったというのは初耳だったが、「二十の扉」というラジオ番組での彼の応答ぶりを聞いていると何かしら頷けるところがあった。彼の言葉の端々に、我を押し通す愚連隊風の性格が感じ取れたからだった。

だから後年サトウハチローの夫人が自殺を企てたという新聞記事を読んだときには、彼女に同情したのだった。新聞にはサトウハチローの談話が載っている。妻の自殺未遂を隣家の責任に帰したもので、隣りの工事の騒音に悩まされた妻が発作的に死をはかったのだという談話だった。そんな苦しい弁明を試みるのも、彼の側に負い目があるからに違いなかった。無理が通れば道理が引っ込むというような横暴な夫の行動に、夫人も耐えきれなくなって死を選んだんだのだろう、と私は思った。

それから、更に時間がたって佐藤愛子の自伝的な作品を読む機会があった。その作品には、モルヒネ中毒患者だった最初の夫と伊那市内で新所帯を持ったことが記してある。伊那市で暮らしている私には、その文章から彼女が新婚生活を送った場所をほぼ特定できた。

つまり、私は遠い昔に愛読した佐藤紅緑の私生活を知りたかったし、その息子と娘の生活にも興味があったのである。サトウハチローの妻は本当のところなぜ自殺を試みたのか、佐藤愛子は伊那市を去ったあとどのような人生を歩んだのか、その子細を知りたかったのだ。そして、それらの疑問は「血脈」を読むことによって、あらかた解けたのであった。

                  

「血脈」は、佐藤紅緑・サトウハチロー・佐藤愛子を主軸にして、その周辺の人物を描いた長編「実録的」小説である。「実録的」と表現したのは、作品がほぼ事実に則して書かれているらしい上に、作者が登場人物のいずれの立場に偏ることもなく、第三者的な視点で一族の歴史を描いているからだ。この辺は、北杜夫の「楡家の人々」などとは大きく違っている。

作者は、この作品の中に佐藤家三代の関係者を洗いざらい登場させている。
スターターの紅緑は、最初の妻、二番目の妻、妾の三人に、数多くの子を産ませているが、作者はこの三人の女とその子供たち全員の「実像」を容赦なく暴いて行くのである。このやり方は、サトウハチローにも適用され、彼の最初の妻・二番目の妻・三番目の妻について詳しく叙述したうえで、彼の子供たちの放埒な生き方を白日下に暴露する。(一族のすべてを俎上に載せた佐藤愛子も、最初の夫との間に生まれた彼女自身の二人の子供については口を緘して語らない。この空白は妙に気になる)

父・佐藤紅緑

佐藤紅緑は女優上がりの若い女を妻にして、先妻と四人の息子を捨ててしまった。捨てられた四人の息子は、長男のサトウハチローを筆頭に相次いで「不良少年」になり、次々にトラブルを起こし、父親を悩ませるのだ。息子たちが成年に達した後も、佐藤紅緑は彼らの犯した不始末の尻ぬぐいと借金の返済に追われつづける。サトウハチローのすぐ下の弟(次男)などは、結婚後も父親から仕送りを受け、父が末弟の更生資金にと送ってきた多額の金の大部分を費消して、末弟を自殺に追い込んでいる。

サトウハチローも、三人の息子にはほとほと手を焼いている。長男と三男は何をやっても長続きしないで、死ぬまで定職に就かずぶらぶらしているし、次男は家庭内暴力の兆しを見せて、ハチローを震え上がらせている。

佐藤愛子は最初の結婚で生んだ二人の子供を夫の実家に渡し、手許には二度目の結婚で生まれた娘がいるだけだった。このため子供の不品行に悩むことはなかったけれど、彼女の男運はきわめて悪く、最初の夫が麻薬中毒なら次の夫は借財魔で、その穴埋めのため彼女は必死になって稼がねばならなかった。二番目の夫と離婚してからも、相手は愛子の留守中に家に上がり込んで、こっそり貯金通帳から金を引き出すようなことをしている。

社会的に成功した佐藤紅緑・サトウハチロー・佐藤愛子の周辺に、よくもまあ、これだけの「ロクデナシ」がそろったものだと感心するが、作者はその原因を佐藤家の「血脈」に求めている。つまり、佐藤紅緑が残した遺伝子のためだというのだ。この解釈には首をひねらざるをえない。

                  

佐藤愛子の作品を読みながら、ずっと頭にあったのはテレビで見た「淀川長治物語」という映画のことだった。淀川長治の父親はたくさんの遊女を抱えた風俗業者で、金回りが大変よかった。そのため子供たちは栄耀栄華の生活に馴染んで、気ままな日々を送っていた。活動写真が好きだった淀川長治が、朝から晩まで活動小屋に入り浸っていても、誰も注意する者はなかった。かくて10人近くいた兄弟姉妹はそろって「ロクデナシ」になり、紅緑家と同様に淀川家の子供の一人も自殺している。

佐藤家と淀川家は、専制的な父親の支配下にある点で共通していた。
この二人の父親にも、なにがしかの善意はあった。だが、彼らは自分の欲望を追うのに急で、子供たちに目を配る余裕がなかったのだ。

文筆業者や風俗業者の家で育った子供たちは、父親が生計のために刻苦精励する場面を目にしていない。それでいて、湯水のように金が流れ込むので、彼らは人生に対してイージーなイメージを持ってしまう。大富豪ロックフェラー家の当主は、子供たちが堕落するのをおそれて、定額の小遣い以上の金を持たせず、週末には小遣いの使途を1セントまで記した小遣帳を提出させていたそうである。自転車などは、1台を兄弟で共用させていたという。このくらいにしないと、金持ちの子供はどうしてもスポイルされてしまう。

父親が仕事にかまけて家庭を顧みなかったら、母親がしっかりしていなければならない。ところが、佐藤家の先妻も、淀川家の妻も、夫の圧力に押しつぶされて無気力になり、家事・育児について投げやりになっていた。佐藤紅緑の最初の妻は、女中に家事一切を任せて、主婦としては全く無能力だった。家の中に居ても居なくてもいい存在になり下がっていたのである。

佐藤紅緑は三人の女に子供を生ませているけれど、箸にも棒にもかからなかったのはこの先妻の子供たちに限られていた。妾が生んだ男の子はまともに育ち(著者は、この異母兄を愛情をもって描いている)、二番目の妻が生んだ愛子姉妹も、まず、まともに育っている。問題は遺伝子にあるのではなく、夫と妻の力関係にかかっているのである。

佐藤家・淀川家の共通点は、稼ぎのいい夫が正妻を上から押さえ込んで無気力にしてしまったことにあったが、こうした父母の下で育った子供たちにも共通点がある。金銭というものに特殊な感覚を持っていることだ。金は努力して獲得するものではない。「所与の現実」として常に身近にあるものだから、単に費消さるべきものとしてあるのである。パッパと使ってしまわないと落ち着かない気持ちにさせるのが、金という代物なのだ。

淀川家の子供の一人は、「財産を減らして無一文になっていくのが快感だった」と語っている。サトウハチローの弟たちも、父親から金をせびり取るやいなや、すぐさま仲間におごって所持金を使い果たしている。

そういう「ロクデナシ」の中から、佐藤家ではサトウハチロー、淀川家では淀川長治だけが落伍者にはならなかった。二人が「成功者」になったのは、彼らが好きな世界をとことん追求していく「不良少年」の馬力と執拗さを持っていたからだった。ほかの兄弟はこうしたバイタリティーがなかったのである。

        
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「血脈」を読むと、サトウハチローは子供のように純情な面と一種酷薄な性格とを併せ持っていたようである。その辺は「二十の扉」を聞いていて、私が薄々感じていたことだが、彼の妻が自殺を企てたのは私の想像していたような理由からではなかった。ハチロー夫妻は、夫婦ともアドルム中毒になっていて、妻の自殺未遂も薬物中毒のためだったのである。この件についてハチローが無理な弁解を試みたのも、自分も同じ弱みを持っていたからなのだ。

異母兄サトウハチロー

父紅緑・異母兄ハチローが矛盾した性格の持ち主だったように、佐藤愛子も同型の性格の持ち主だった。

「血脈」には次のような一節がある。苦境に立った著者が、下積み時代の父の手記を取り出して読む場面である。

──お父さんもやった……。
それは「やった」としか表現出来ないどん底の苦闘だった。父の軽率さ、単純さ、信じ易さはそっくり愛子に伝わっていた。なんて馬鹿な情熱だろう。(今、その情熱に愛子は押し潰されそうになっている)だけどお父さんは乗り越えた、と愛子は思った。誰からも助けられなかった。理解されなかった。一人で闘って一人で脱け出た。

彼女は次に父の日記を開く。

その父の日記を読み返しては愛子は笑いながら涙を拭いた。この悲痛な楽天性は苦境が深まれば深まるほど増幅され、そのために更なる苦況を呼ぶが、すると更にそれを上回る楽天性が押え込みに現れる。それが沿六の生きる力だったことを愛子は理解した。

──人は負けるとわかっていても、どうしても戦わなければならない場合がある。
                                        バイロン

ショペンハウエルは自身と周囲を観察した結果、性格は父から、知能は母から受け継いでいるという結論に達した。確かにそうした傾向は広く認められるけれど、これをあまり定式化してしまうのは危険で、事実は「学習」の効能ということに過ぎないのだ。サトウハチローも、佐藤愛子も、現世に臨む父の行動を見習って、知らず知らず父と同様の生き方をするようになったのである。

父との相似は、母に対する愛子の態度にもあらわれている。
愛子の母シナは、父紅緑が家庭を捨ててまで手に入れようとした二番目の妻である。夫から熱愛されながら、彼女の方では冷淡だった。紅緑の手で女優として未来を奪われたという深い恨みを心に持っていたからだ。

佐藤紅緑は、シナが自分を愛していないとを知りながら、彼女に執着し続けた。そして妻を相手に終わりのない葛藤を繰り返していた。

 母・シナ

娘の愛子は、最初の結婚に破れて家に戻り、母と二人で暮らすことになる。母のシナは、産んだ子を手放し何もかも振り捨てて転がり込んできた娘を冷静に観察し続ける。作家を目指し、同人雑誌の資金集めに有名作家の私宅を歴訪する娘を「お乞食さんみたいだ」と冷評し、文学仲間の一人と結婚しようとする娘に「あんたは結婚には向かない女だよ」と忠告する。

母の冷たさに逆上した愛子は、食膳を蹴返して家を飛び出す(家出した彼女は伊那市の知人を頼り、そのツテで山の中の温泉宿にこもったりする)。母に反発しながら、彼女は結局また母のところへ戻ってくる。母との間で対立と妥協を繰り返した愛子の行動は、父親のそれによく似ているのである。

夫を怒らせ、娘を逆上させるシナという女性は、「血脈」のなかでは異色の存在である。彼女は、荒ぶる佐藤一族を冷たく照らす灯台のような役割を果たしている。だが、彼女の内面にもマグマのような情熱が隠れていた。シナが、自分の人生を狂わせた佐藤紅緑を最後まで許そうとしなかったのも、このためだった。

シナと同じような冷たい熱情を隠し持っていたのが、愛子の実姉早苗だった。早苗は妹と違って感情にまかせて突っ走るようなところはなかった。貧しい研究者と結婚した彼女は、ミシンかけの内職をして家計を助け、二人の子供を育てながら、家を建て、将来に備えて西所沢に130坪の土地も購入している。夫が大学教授になったのも、早苗の献身的な努力のお陰だといってもよかった。

その早苗が60になって、いきなり夫に反旗を翻すのだ。彼女は西所沢の土地の半分を売り払って1400万円を手に入れ、勝手気ままな暮らしをはじめる。もう彼女は家の中にいても、夫とは口を利かなくなった。その変わり様は早苗の身体に別の人間が入り込んだようだった。早苗は、数十年間「良妻賢母」として生きた後に、隠し持っていた不羈奔放な本性をあらわしたのである。妹が父から生き方を「学習」したとすれば、姉は母シナの生き方を学習したのだった。

                  

最も注目すべき点は、佐藤愛子が十数年かけて「血脈」を「別冊文藝春秋」に連載し続けながら、作中人物に対するスタンスと姿勢を変えていないことだろう。長い時間をかけて一つの作品を書き継いで行けば、作中人物に対する作者の見方も変わり、内容に対する比重のかけ方も違ってくるのが普通なのに、「血脈」は最初から同じスタイルを保ったまま最後まで押し通しているのだ。

実は、これこそ紅緑・愛子父娘の作品に共通する特色なのである。

佐藤紅緑の少年小説は、いつでも善と悪の対照的な人物を登場させ、その周辺に数種類の副人物を配するという構成を取っている。彼はこの固定した人物配置を動かさないで、物語を終末まで運んでいく。作品の背後に流れるモラルも、一貫している。人道精神と立身出世主義をこねまぜた混合型のモラルなのである。彼の作品の畳みかけるような迫力は、こうした単純な構造から生まれている。

「血脈」に姿を現す登場人物は数え切れないほど多い。その多数の人物が数種類の類型に区分けされ、それらに対する作者の評価は最初から固定して変わらないのである。主役を務める佐藤紅緑・サトウハチロー・シナも、常に同じ角度から眺められ、彼らへの解釈と評価は判で押したように一定している。

紅緑は人一倍高い理想を持ちながら、どうすることも出来ない情念の力に押されて、我と我が理想を踏みにじってしまう男だった。ハチローは感じ易くセンチメンタルで、無邪気な人間であるが、その一面、鋼鉄の冷たさと子供のエゴイズムを剥き出しにした。

これが、佐藤紅緑とサトウハチローを描く時の愛子の変わらぬ視点である。そして、この二人をあまり厳しく断罪しすぎたと感じると、彼らを持ち上げにかかる。そのやり方も、パターン化されている。

(自分は父の小説を造り物だと批判し、ハチローの詩を嘘つきの詩だと軽蔑していたが、欲望に流された紅緑も本当の紅緑なら、情熱籠めて理想を謳った紅緑も本当だった。ハチローにしても、そのエゴイズムには無邪気でナイーブな感情が背中合せになっていた)という具合に弁護してみせるのである。

佐藤愛子の作家としての出発点は、ジュニア(中高校生)向けの青春ユーモア小説を書くことだった。彼女は二番目の夫がこしらえた借金を返済するために、必死になってこの種の小説を量産しつづけた。そのジュニア小説を読んだことがないけれども、内容についてはおよその見当がつく。作品中の人物位置を父佐藤紅緑から学び、ユーモアの方は異母兄サトウハチローの手法を真似たのではないか、と。ハチローも、子供向けのユーモア小説を書いていたから、彼女は異母兄に反発を感じつつも、模倣すべきところは模倣したのだ。

佐藤愛子が作家として認められるようになったのは、二度に及ぶ自身の離婚を題材にして、一種の私小説を書いたからだった。作品のポイントになっているのは、最初の夫の麻薬中毒、二番目の夫の借財という俗耳に入りやすい事柄で、これを歯に衣着せぬ調子で真っ正直に書いたから、世の注目を集めたのだった。

彼女の出世作となったこれらの私小説は、「麻薬に溺れるのは許せない」「やたらに借金を重ねるのはどうかしている」という世間的な常識に依拠している。そこには麻薬から抜け出せないで苦しんでいる夫を思いやる姿勢はないし、第二の夫が作家の身でなぜ事業に手を出して借金をふくらませて行ったのか、その理由について理解しようとする姿勢も見られない。更に彼女がそうしたダメ夫たちと何故結婚したのかという問題についての反省も、皆無なのだ。

「血族」にしてもそうである。彼女は異母兄や甥たちの問題行動を世間的な視点から克明に描き出している。そのため白と黒の対照があまりハッキリしすぎて、作品の印象を薄手なものにしてしまっている。

佐藤愛子は、世間的な常識と通俗的なモラルで最後まで押し通すという点で、父佐藤紅緑と同じ生き方をしている。こうした生き方をしていたら、一族間の複雑な葛藤の中に投げ込まれても、あれこれ想い悩むこともないにちがいない。島崎藤村は、その自伝的作品で一族の歴史を描いている。抑制された淡々とした叙述で、人生の深淵をかいま見せるのだが、佐藤愛子の本は一族の恥を洗いざらいさらけ出しながら、一向に陰惨な感じがない。問題を常識的なモラルで明快に割り切り、あとに疑問やためらいを残さないからだ。

「血族」に顔を出した兄や姉、そして数多くの甥や姪などは、今ではほとんどいなくなってしまっている。佐藤愛子も、今や自分だけが生き残ってしまったと述懐している。佐藤愛子が生き残ったのは、彼女が哲学や思想を持たず、すべてを常識で処理して、実人生において疑問や悔いを残さなかったからだろう。「血族」を書くに当たって、彼女は当事者としてではなく「記録者」として、実録風な書き方をしている。彼女は創作上の手法としてそうしたのであるけれども、これは一族に対して臨む彼女の現実的で冷たい姿勢をもあらわしているに違いない。

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