WASP : Women Airforce Service Pilot

 1939年、独軍のポーランド侵攻直後、一人の女性からエレノア・ルーズベルト大統領夫人宛に、女性パイロットの陸軍航空隊への登用を示唆する一通の書簡が送られた、差出人は当時米国で最も著名な“女性飛行家”ジャクリーン・コクラン(1)である。ルーズベルト大統領の非公式な依頼うけたコクランは、1941年7月、女性パイロットによる補助飛行部隊の創設プランを作成(2)する。
 陸軍航空隊総指揮官“ハップ”アーノルド将軍はこのプランに大きな関心を示したが、当時米国の世論は参戦に否定的であり、結局この計画は実現されなかった。アーノルド将軍から“将来陸軍航空隊が女性パイロットを採用する場合、彼女をその管理者とする”という約束を得たコクランは、民間の女性パイロット25人を組織し、英空軍にフェリーサービスを提供していたBOAC(British Overseas Airways Corporation)と18ヶ月間の契約を結び、英国へ軍用機を空輸する作業(3)に従事するため渡英する。
 一方陸軍航空隊内部でも女性パイロットの採用に関するプランが動き始めていた。将来的に起こるであろうパイロットの不足に備えて、輸送コマンド指揮官ロバート・オルズ将軍はナンシー・ラブ(4)に女性パイロット採用に関するリサーチを命じる。ラブは民間ライセンスを保持する女性に軍用機の操縦訓練を施し、支援任務に就かせるプランを提出する。1941年12月、日本軍による真珠湾奇襲により太平洋戦争が始まると、パイロットの不足も現実の問題となり、ラブのプランは“WAFS:Women's Auxiliary Ferrying Squardron(5)”として実行に移されることとなる。
 これを知ったコクランは急遽帰国しアーノルド将軍に面会を求めた。アーノルド将軍はコクランに女性パイロット養成プログラムの実行を許可し“WFTD:Women's Flying Training Detachement(6)”がスタートする。WAFSが候補を民間ライセンス所有者に限定していたのに対し、WFTDは広範囲に志願者を公募したため、訓練生の募集には25,000名を超える応募が集まる事になった。トレーニングは1942年11月から1944年12月まで18クラス(7)に分けて行われ、1,830人(8)が訓練を受け、最終的に1,074人が課程を修了し輸送コマンドの指揮下で任務に就いた。
 こうして個別にスタートした2つのプログラムは1943年8月、アーノルド将軍の命により統合され“WASP:Women Airforce Service Pilots(9)”と呼ばれることになる。
 WASPの目的は男性パイロットを非戦闘任務から解放することにあり、彼女達の任務は主に戦闘機の空輸(10)や物資輸送、連絡等に限られていたが、中には新型機のテストフライトや対空射撃訓練用航空標的の曳航(11)など決して安全とは言えない任務に就いた者もあった。
 WASPの操縦した軍用機はAT-6、AT-10、AT-11などの練習機、C-47、C-54、C-60といった輸送機は言うに及ばず、P-38、P-40、P-51等の戦闘機、A-25、A-26等の攻撃機やB-24、B-29等の爆撃機等にまで及び(12)、総飛行距離は6千万マイルに達した。
 WASPの女性パイロットはすべて民間のボランティアであり、身分としては“軍人”ではなく“公務員”として扱われた。コクランはWASPを正規の軍組織として認めるよう求め、これに応じてアーノルド将軍は議会にWASPを軍事組織化するための議案を提出する。しかし、ヨーロッパでの戦闘が収束の兆しを見せ始め、男性パイロットの損耗も当初の予想を大きく下回ることが確実となったため、この議案は却下され(13)、1944年10月4日、同年12月20日をもってすべてのWASPパイロットを解雇することが決定されてしまう。このためWASPパイロットは退役軍人として認められず、任務中に死亡した39人のパイロットの遺族に対しても、いかなる保証も行われなかった。元WASPパイロットたちがウィニングメダル(14)を手にしたのは、終戦から40年近くをを経た1984年(15)の事であった。

1)Jacqueline Cochran
フロリダ出身。4歳で孤児となる。ニューヨークのビューティーサロンで美容師となり、ここで実業家フロイド・オーブラム(Floyd Oblum)と出会い結婚。1930年代前半にいくつかの飛行記録を樹立し、米国を代表する女性飛行家となる。

2)既に英空軍では女性パイロットが輸送等の支援任務に就いておりATA:Air Transport Auxiliaryと呼ばれていた

3)米国は英軍に対し軍用機の供与やパイロットの訓練等の軍事協力を行っていた。

4)Nancy Harkness Love
フィラデルフィアの裕福な医師の娘として生まれる。パイロット・ライセンスを収得し、民間委託のテストパイロットなどを行っていた。米議会陸軍航空隊輸送コマンド代表の筆頭補佐官ロバート・ラブ(Robert Love)婦人。

5)1942年9月12日、ニューカッスル・エアフィールドに31人の訓練生を集めて発足、6週間の訓練中に3人が不的確とされ、28人が空輸コマンドに雇用された。

6)1942年11月1日テキサス州ヒューストンで319th WFTDとして活動開始。1943年2月、訓練基地がテキサス州スイートウォーターのアベンジャー・フィールドへ移動するのに伴い318th WFTDと改称。最初の2クラス(43-W-1及び43-W-2)のみが319th WFTDとして卒業。第3期(43-W-3)はヒューストンで訓練過程を終了したが、卒業時には既に318th WFTDに改称されていたため318th WFTDの最初の卒業生となった。なお第4期(43-W-4)はアベンジャー・フィールドとヒューストンの両方でスタートしたため全18クラス中最大人数のクラスとなった。

7)1943年度に8クラス(43-W-1から43-W-8)1944年度に10クラス(44-W-1から44-W-10)の合計18クラス。

8)訓練生の中には数名の中国系アメリカ人が含まれていたが、政治的な理由でアフリカ系アメリカ人は採用されなかった。

9)WASPの正式な組織名は公文書でも“Women Airforce Service Pilots”と“Woman's Airforce Service Pilots”の2種が使用されている。元々WASP=蜂の語呂合わせの意味合いが強い名称なので、どちらが正しいとも言えないのだが、ここでは“Women Airforce Service Pilots”で統一した。

10)工場で完成した航空機を陸軍航空隊基地まで操縦して輸送する任務。フェリー・フライトと呼ばれる。

11)通常、牽引索に取り付けられた吹き流し状の標的を曳航して飛行する。実弾訓練時には非常に危険な任務となる。

12)極端に過敏な操縦特性が災いし“空飛ぶ棺桶”と呼ばれたB-36マローダーや“未亡人製造器”とあだ名されたP-39エアラコブラ等、男性パイロットが操縦を拒否した“問題”機もWASPによって空輸された。

13)欧州から帰国した男性パイロットとって、WASPは自分たちの仕事を横取りする“邪魔者”と思われた。

14)戦勝記念メダル。終戦時に第二次大戦に従軍した米軍将兵に授与された。

15)1977年に法案が議会を通過した後、軍に対する貢献度の調査が行われ、1984年に“退役軍人”として正式に認定された。

※以上の文章は私が個人的に収拾した資料を基に構成した物ですが、なにぶんにも資料がほぼ全て“英文”であるため、私の乏しい英語力では誤訳、誤解等がないとは言い切れませんので、その点をご了承のいただいた上お読み下さい。なお、間違いにお気付きの方はご一報いただければ幸いです