ゴールデンラッキー回想録




 私がゴールデンラッキーと出会ったのは、昭和の時代に終わりを告げ平成の御世となり、私自身も高校生になった頃だった。
 その年は贔屓にしている「大福ラーメン」も屋台での営業から、店を構えての営業に移行した年である。私はいつものように、その真新しい店内に入ると「大盛と唐揚げな」と言いながら席についた。そしていつも読む「サンケイスポーツ」を読もうとしたのだが、あいにく冴えない40過ぎのオッサンが通勤電車に乗ってるわけでもないのに、「おはようサンスポ」を必死に読みふけっていた。しょうがないので退避用のビッグコミックオリジナルを取ろうとしたのだが、これは明らかに土建屋とおぼしきツナギを着たにーちゃんが、「あぶさん」を見ながらチャーハンをパクついていた。

 実は私もラーメン食いながら新聞や漫画を読むのが大好きである。家でも新聞見ながらメシを食ってると「あんたな、そんなんしてたら食べたもんがちゃんとおなかに入らへんで」とオカンがうるさい。食ったものが腹に入らなければどこに入ると言うのだろうか。
 「甘いものは別腹」とよく言うし、実際私の人生経験則として、お腹いっぱいになって「ワタシ、もう食べられな〜い」といいつつも、デザートでマンゴーのシャーベットやら、レアチーズケーキが出てくると、「おいし〜い、モグモグ」とのたまう。
 確かに別腹というのは、世の淑女には存在するらしいのだが、ワタシは男だし甘いものは特に好きなわけでもない。甘いラーメンなどあって貰っては困る。鶏がらや豚骨の換わりに、サトウキビから作られたりすると困るだろう。そういうものだ。

 で、サンスポもオリジナルも無いので、他の雑誌はなにかないかと思い、見回すとあまり普段見慣れない雑誌があった。いつも置いてないのに、お客さんが忘れていったとかで置いてあった雑誌「週間モーニング」。初めて見かけるその雑誌をなんとなく手にとってみる。「しょうがないから、これでも見よう」と思い席についたのだが、今から思えばこの一瞬が人生の分水嶺である。人生いたるところに青山あり。



 モーニングのページをパラパラ捲る川やん少年。内容はハッキリとは覚えていない。10年以上も前の話なので勘弁していただきたい。だが、なんかワタシに直接「ルックアットミー」と自己主張してくる漫画があったのである。それが「ゴールデンラッキー」だった。

 かまくらが走る!宇宙人来襲!カエルも死ぬ!ハーモニー母さん熱唱!クマちゃん乱舞!

 この異様な世界のキャラクター達はなんなんだろうか。4コマ形式なのだが、こんなに訳わかんない漫画ははじめて見たというのが読後の感想であった。変、明らかに変。恐らくネパール人はこの漫画を読んだあと、確実に「ナマステ〜」と言わなくなるであろう。

 不思議なもので後から知ったのが、これが「ゴッキー」初回掲載号だったらしい。そう考えると大変意義深いんだか、浅いのかよくわからないが、私の人生が後に確実に世間様とやらの常軌から脱線していくには十分すぎるほどのカルチャーショックであった。これは因縁なのだろうか。10年以上も前に偶然にラーメン屋で見つけて読んだ「モーニング」が、「ゴッキー」初掲載号。かまくらやカエルなどが繰り広げる脳内ドーピングシーン満載の「変な漫画」にハマった川やん少年は、底なし沼に際限なくハマって行く。ついには榎本俊二に地獄の一丁目へと案内され、「えの素のえ」という、傍から見ればちょっとヤバイ&狂気の沙汰としか思えないファンサイトまで作ってしまったのである。ル・ミゼラブル。



 最初は「変」「訳わからん」と、悪評に近いことを思っていた若かりし川やん(尊師すみません)。だが、確実にワタシのハートをガッチリキャッチしていたのである!
 木曜日には必ず「モーニング」を買うようになってしまったのである。まだ高1ならば、当時人気ナンバーワンの「ジャンプ」や「マガジン」を愛読している頃だ。なのに「課長島耕作」「沈黙の艦隊」「代打屋トーゴー」などが表紙の「モーニング」を買っていく高校生。渋すぎるぜ、オレ。ヒュー

 とにかく「体が求める」のである。「女やもめの体がうずく夜もあり」と詠んだのは与謝野晶子であるが(ウソです)、それに近いというか・・・。熱狂とはこういうことを言うんですね。しかも最初こそ「なんじゃこりゃ!?」と好奇心というか怖いもの見たさで読んでたのであるが、そのうち「ハハハ」と笑ったりして、徐々に面白さが判ってきた。また、読めば読むほどじわりと笑いが込み上げてくる。

 ただ、何回読んでも(今でも)本当に理解不能な漫画もあったりして、「オレはアホなのだろうか?」と自問自答してのた打ち回ったこともあった。なぜなら、しばらくして気づいたのだが「ゴッキー」は榎本俊二その人なのである。最終回で榎本俊二の脳みそから全キャラクターが飛び出すのだが、まさしく「ゴッキー」は掛け値なしの彼自身なのである。つまり、一般の人たちには判らなくても、彼の脳内ではそれぞれ一話づつ完結しているのである。榎本俊二はギャグを描いているのだから、彼が「面白い」と思っているものを漫画にして世に問うているのだ。それを「面白い」と思うのなら、彼と同じ感覚であり思考なのであろうが、そうじゃなかったり、あるいは「わからん」という事になると、由々しき事態なのだ。つまり、彼の判断基準と自分が相違していることの証明になってしまうのだ。そりゃ、人間千差万別なんだから、違って当たり前なのだけれど、それが判らないのが若気の至り、若さの特権階級。

 榎本俊二のめくるめく世界を堪能したいがために、何度も繰り返し読んだ。夢にジェイコブやスピール夫が出てきたことも何度だってあるのさ。そうすると、神のお告げか突然視界が開けたかのように、理解できる漫画がポツポツ出てきた。石をも穿つ執念である。
 そのうちに妹から「お兄が漫画読むときメッチャこわい。漫画を読む態度じゃない」と恐れられるようになってきたのである。殺気立ってゴッキーを繰り返し読み、たまに「ははは」と笑う。これで何か大きな事件でも起こせば「やっぱりな」で片付けられている所だが、幸いなことにそれは無かった。家で、阪急電車の中で、甲子園で、大学で、彼女の部屋でもゴッキーを手放さない。これが参考書だったり「必ず出る必須英単語」であったりすれば、親も安心したはずなのだが・・・。ワタシは親不孝者決定です。

 そしてワタシはついに、友人に「ゴッキー読め!」と半ば強制的にコミックを貸して布教に努めるという暴挙に出たのである。これは下手をすると友人を失いかねない事態なのだが、そんなことはお構いなし&知ったことではない。私の中では、榎本俊二=神であり、「ゴッキー」は経典であり、ワタシはその祭りの司祭という所か。愚劣な民衆どもを正しい教えに導かねばならぬ。ある意味「ジハード」を連発しまくるイスラム教徒過激派である。

 ワタシが如何なる熱狂の渦に巻き込まれていたか、もう皆さんはお解かりでしょう(とっくに知ってると思うが)。友人たちは「あれなぁ、よう判らんわ」と口を揃えていった。別に口裏を合わせたわけじゃないんだろうが、それから「ゴッキー」を判らん奴=アホという偏見すら持つようになった。由々しき事態である(今はそんなこと無いんで、ご安心ください)。



 みなさんは「ゴッキー」で好きなキャラ居ますか? ワタシはケロ(カエル)が一番好きなんですね。なぜカケロ? とよく言われるんですが、あの可愛さ加減は半端ではありません。松竹梅で言ったら松、並・上・特上で言えば特上です。榎本俊二の描く動物と女の子はかわいいと、よく言われますが、ケロなんてその極地でしょうね。体の半分を占めんかという、あの大きい瞳。半開きの口、お行儀よくチョコンと据わった、あのポーズ・・・。フオ〜!

 それに結構コイツはいい奴なんです。居残りでグランドを慣らしている、高校球児に「ケロケロ」と声援を送ったり、ガケで落ちそうな少年を助けてやったり・・・。まあ、いずれも結果はダメなんですけどね。でも結果よりもその気持ちがうれしいじゃないですか。辛く悲しいときも、ケロの笑顔を見ると吹き飛ぶんですね。

 ですが、ケロと言ったら、なんと言ってもあの見事な死に様抜きでは語れませんよね。榎本ワールドでは、死ぬと白骨化したり黒色化したりするのは皆様ご承知置きかと存じますが、ケロの場合は「アニマルせんべい」と化します。せんべいというかまんじゅうというか・・・。とにかく丸くなっちゃうんです。
 例えば「蛇に追われ、必死に逃げるケロ(全然必死そうじゃないが)。ジャンプ一番助かったと思われたが、住職が鐘を撞いてしまった!」とか、「殺しの現場をケロに見られてしまった!目撃者であるケロを「なると」でおびき寄せて殴打!」とか、いくらでもあります。また、前後を天敵の蛇にはさまれてしまい、ケロ絶体絶命! その時ケロの人生が走馬灯のように蘇るが、いずれもせんべいにされてしまったことばかり・・・。


というわけで今回はこの辺りで。次回をお楽しみに。