歌集「猫、1・2・3・4」



目次

あめつちのはじめのうた

ロマネスクの驢馬

天の種子

猫・T

メンゲルベルクを聴きながら

<南>を憶へ

    T・辺境のオルガンについて

    U・<南>を憶へ

ジャンヌ

猫・U

江戸の日曜日

 T
 
 U
 
 V
 
 W
 
 X
 
 Y
 
 Z

みめうるはしき者たちへ

日曜の午後の弦楽

夏の森から

猫・V

寥寥と――風

ノルマンの櫂

猫・W

沙に還る

炎 祷

    T・蒼昏

    U・炎祷

    V・聖婚

あめつちのをはりのうた

解説  井辻朱美

あとがき



あめつちのはじめのうた

 寝ころびて午後のうさぎを待ちてゐるアンニュイをほそき雨は埋めつ

ロマネスクの驢馬

 幻の驢馬を飼へば干し草のごとく時間は食われゆくなり

 牛馬(うしうま)の肉食(くら)ひつつ女らは唇(くち)ひからせてゐたりけるかも

 待つといふさびしきかたち 土砂降りに耳立てて驢馬は動かざりけり

 笛を吹く天使を乗せて柱頭のロマネスクの驢馬けふも脚あぐ

 目と耳を閉ぢて眠れるものたちのために月光降るごとくなり

 行き違ふ夢のちまたをさえざえと駱駝は鈴をふりて歩めり

天の種子

 水風呂に夏の陽のさすひとときをわれは水夫の眸(め)をしてをらむ

 商人となりて死したる遠方の詩人を憶ひゐたるこのごろ

 火を食(くら)ふ男がありてわざをぎの果てしのち雑踏の中に消えたり

 熱風の河を渡りて国境の曠野に叫ぶものとなりたる

 野に放つ聲のかずかず 波斯(ペルシア)の有翼の獅子もわれもさびしき

 半時間ばかり羊を打ちてゐき 醒むれば水のごとく疲れき

 やうやくにヤコブにいたる家系図のながながしきを君は唱(とな)へき

 子はいでてゆきたりければ漁夫町のかたすみに父と船とたゆたふ

 しらずしらず老年の坂のぼりつめゐるにやあらむ父のうしろ背

 男在りき 湖上に測鉛の糸垂れて真昼のふかき水はかりをり

 追ひつめてゆく想念の一角の闇にみえざる樹樹はたちをり

 闇に立つ大樹の蔭にやどりゐて周縁に降る雨を聴きゐつ

 昼と夜のおほき時間の辻辻に標(しるし)のごとく花樹は立ちたり

 おほいなる果実の熟しゆくごとく夜は朱鷺色のつばさをひらく

 豊潤の実を結びたる一樹ありて天の植樹は成らむとしをり

 円卓に季節の花は飾られて月夜の婚の時刻(とき)を待ちゐき

 みづとりのこゑのみすなり成熟に向かふ時代の夜の川原に

 浴槽に落つる深夜の水の音しばし瀑布のごとく聴きゐむ

 イエルサレムにまた噴煙の朝がきて地の歳月をひとはうべなふ

 天界にひとつ穀物の種子置きて春の地上はどこまでも風

猫・T

 やはらかき猫のまだらにやはらかききんいろの雨ふりてゐたりき

 濡れて帰る十月の雨 なにげなき猫の仕草にはげまされゐき

 ときをりを訪ねたる猫なればややふとりしもよろこびとせむ

 三毛猫のうしろ姿に降る雨は<レッセ・フェール>の背(せな)を濡らせり

 倫敦(ロンドン)の路地裏も雨 三毛猫の生息分布図といふを視てゐき

メンゲルベルクを聴きながら

 メンゲルベルク 曇天に雪の兆す夜はつひの一曲を選びゐたりき

 マーラーの極彩の森を迷ひきてあはれ<マタイ>の岸と遇ひたり

 大伯父に似てゐしゆゑにグスタフの青筋のひたひときにしたしき

 おほいなる構造の崩れゆくごとく世紀末期の雪は来たれり

 開戦になだれむとする一夕もあはれプレストを振りつづけたり

 機甲師団寄せてくるけはひ 天(てん)澄みてもはや誰も歌を口にせざりき

 くりかへす弦のさざなみ 灰色の港湾都市の夜を満たせり

 ミリタリー・マーチをかなでゐるときもしなやかに若し少女奏者は

 血管の透きたる脚を組みかへてアングロ・サクソンのすゑの女ら

 とほく聴く四声のカノンいづこよりまじりきたれる一声ありき

 国境の雪にまぎれて一挺のチェロを負ひたるひとかげも越ゆ

 北海に睡る藍鮫 ゆふぐれの雪降り鎖しゆく市街(まち)あらむ

 マエストロを泣いて追放せしといふアムステルダムの雪をおもへり

 ながきながき<マタイ>の宵も終曲のふかき楽章に至りけるかも

 ゆるされし者の如くにひざまづきゐたりき ロ短調の岸辺に

<南>を憶(おも)へ

 T 辺境のオルガンについて

 精神の夕昏れはきて老医師の部屋に満ちゆくJ.S.Bach

 中世の森吹くごとくオルガンの構造に吹く風をおもへり

 帰りゆく土地の如くにみんなみの熱き半球を思ひたゐたりき

 辺境のオルガン響りいづる朝を喚ばるるごとく起ちゆきにけり

 夕闇に追はるるごとく辺境の河いくたびも越えしならむか

 闇を映す河のいづこに炎天の鰐のたぐひはひそまりをらむ

 存在の夜の河岸 選ばれし闇に言葉はしづかに立てり

 ドミナント踏み込むペダル<存在の重み>にきしみゐたりけらずや

 U <南>を憶へ

 雲騒ぐ一夜ひそかに南下せる寒流の帯 島を巻きたり

 目瞑りて想ふみんなみ 夏海は雲噴きあげてゐたりけるかも

 豊穣の闇を見据ゑてゐし人の立ち去るごときさみしさに覚む

 曇天の雲の断(き)れ間をながれつつはためきてゐるか幻の帆は

 南(みんなみ)の天のつりがね かなしめるひと渡りゆく朝を鳴りいづ

 たたかひの過去に渡りし緯度線をあまたの贖罪の群は越えゆく

 曖昧にうなづきて村の喧噪を立ち去るレヴィ=ストロースの横顔

 南(みんなみ)へ飛び去りしもの――還らざる一機を待ちて空港ともる

 世界の闇に南方郵便機 赤く漂流の灯をともしゐる

 ゆたかなる闇のかなたに青々と陽をたたへゐる――<南>を憶へ

ジャンヌ

 あるいはジャンヌのごとく睡れるきみのためしづかにそよぐ森もありたり

 伝説のごと旅たたむ 遠森(とほもり)をわたりてさやぐ風聞こゆなり

 地の王はたちてあらそひ天涯は百の春秋をむかへゐるなり

 星のこゑ木のこゑ森の水のこゑ 汝が一身に降るごとくあり

 くぐもりて啼く木?よ暮れゆけば森のそこひの泉聴きゐむ

 中世の森を映してしづもれる湖ありき 鳥も忘れき

 水の辺にゆらめく女 生きてなほはかなきことにかかはるならむ

 ふゆぞらに朱の実をかかぐる果樹ありて時のしるしのごとくかがやく

 裏切りの実を結びたるひともとも昏れて真冬の森となりたり

 中世の雨はあがりて深深と森をささふる水脈聞こゆ

 冬の陽の差しゐるセピア色の森わけ入ればわれも透きて漂う

 雫する楡の一樹を隠す森 窓打つ雨のはてにみえゐき

 風立てば翳るこころのみづぎはに黒き喪服の王子たちたり

 オルレアン村を囲める軍勢のひしひしと夜は冷えゆく鎧

 刑場へ少女を乗せてゆきたりしみづびらしの馬おもほゆるかも

 みづがねの天にまなこをむけながら沈黙はつねにきみの城壁

 天国は冬のゆふばえ 雲間よりジャンヌの白き旗みゆるかな

 <神が覚えてゐるあひだだけ……>彗星のごとく歴史をよぎりゆきたり

 冬の色まとひゆく森のみづを過ぎ汝が一身もきはまりゆかむ

 伏流のみづのかなたをひとむらの風あらむ 海のごとくへ湛へて

猫・U

 猫抱いて寝床にをれば懐中の猫は耳もてわが腹を鼓(う)つ

 薄明に訣れし男 千尺の青き大魚を狩りにゆきけむ

 魚釣ればかなしきうつつ みじろぎもせぬみづぎはの猫とわたくし

 一竿を収めむとする水昏れて天は祝宴のごときゆふばえ

 千尺の糸を降ろして待ちてゐる明日の獲物は掛からむとするか

 めつむりて想へばゴッホの跳ね橋はなつのみぎはにゆらぎやまざり

 〈描く〉という文字をしばしばあやまちて〈猫〉と書きては笑ひゐたりき

江戸の日曜日

T

 西海に平氏なだるる時の間をなみだつごとき天のゆふばえ

 中天に朱の残りゐる夕暮れを忍者さやぎてゆくにやあらむ

 夕闇の八百八町の町並にしばしたゆたふもののかげみゆ

 落日の平家も遠くなりたれば近世都市には灯はともるなり

 太平の三百年の歳月に耐へて熟れゆく都市はありたり

U

 百万人都市の治安の一隅に歌詠み溜むる千蔭おもほゆ

 花曇る弥生の江戸の休日を与力千蔭はいかにありけむ

 隅田川午後の汐さすころほひを親しもよ 泥鰌屋の黒格子

 歳月の天(そら)に吊らるる花の枝を打ちてしやまぬ四月の雨は

V

 卓上に淡海の地図をひろげ置き雪映すみづのおもておもへり

 眼を病みし子をいたはりて花白き近江の春をゆきしかあはれ

 晩年といふ残照に耐へながらあはく越えゆく志賀の花々

 幾千の櫻を詠みて逝きたるか 享和二年の花は見ざりき

 小林秀雄に

 宣長を語る己が生涯の鎮石(しづし)となししひとも去りたり

W

 まぼろしの城をめぐりて吹く風の音聴きけむか近江の芭蕉

 まなこくらきたびびとのすゑ 五箇荘塚本村をわれも過ぎゆく

 夏蝉の森を過ぎゆく自転車のかがやく脚はいつまでも見ゆ

 さざなみの近江の夏をゆくひとはだれもさざめくごとくゆきたり

 類型のはざまに去来するものを手つきあやふく掬ひあげにき

X

 日常のほとりをあゆむ青鷺の脛うつみづもあやまたず見き

 湿潤の国の抒情はためらはず水にかかはる比喩を好みき

 鍋煮えてひと待つのみぞ夜半亭主日とはいづこまで行きにけむ

 おぼろなる富小路の花あかり〈近世〉の猫闇をよぎりき

Y

 夜となればたちまちきらめく街ありてくらきあまたの眼を憩はしむ

 浮世絵の眉のゆがみを想ひつつ深更都市の細部おもひき

 月を見る平次の腰にくろがねの〈交換価値〉の束はゆれをり

 ほろびゆく今宵の悪ぞ 四文銭硬貨の〈使用価値〉はきはだつ

 膝をつくまでの一瞬 流し目を逸らさず言ひき「持病の癪が!」

 〈近世〉のおどろに賊を見失ふ下つ引き八五朗のためいき

Z

 〈近世〉の暗き小路の珊瑚樹の蔭に俯(うつぶ)す時雄おもひき

 庇髪伴(つ)れて時雄のくだる坂 かがやくばかり〈近世〉暮るる

 〈一八六八年〉年表に引かれし一線を越えたるあまた

みめうるはしき者たちへ

 ある時期にかかはりて聴く一曲のブレスあやふき中島みゆき

 捨てられる女といふを笑ひつつ時代といふを笑ひゐたりき

 歳月と云ふ残酷に耐へながらホームにみゆき立つにやあらむ

 俳人の父死すまでの曲折を西下列車の窓に読みゐつ

 茄子畑(なすはた)にうつぶす老(おい)の泣きがほのごときも見えてゆきすぎにけり

 病室の隅にひそかに置かれたるなみだちやすき水のおもては

 極私的抒情あやつる真盛(まさか)りの男も濡るる雨の豊橋

 沿道にみづいろの傘干しゐるは件(くだん)の女友達である

 〈様式〉の青きふかみを見おろしてしばしさざめきゐたりけるかも

 滾(たぎ)つ瀬のあき子をめぐる水脈の怒涛の寄せはしのぎがたしも

 後退りする風景の一角につねあをあをと西方のみづ

 ザムザムの井戸よわが汲む水桶はあまた乾ける砂をすくひき

 みゆきより智恵子におよぶ韻律の水界なればつねに迷ひつ

 君かつて〈エロイカ〉緩徐楽章の弦のきはみを語りやまずき

      *

 されば手をのべてためさむ 後れ馳せながらコロンブスの詞書

日曜の午後の弦楽

 賢治死後半世紀を経し今日(けふ)、と云ふあやふき比喩に曳かれきたりぬ

 みんなみへくだる一塊の雲ありて山系越ゆるとき蒼みたり

 出奔の朝の街路の雨あがり 発端はつねみづみづしきを

 教材用石灰質土壌断面図 つぶさに描(か)きし賢治おもほゆ

 かなしみの一矢のごとくしろがねの機体は睡眠火山越えたり

 雪の来る兆しに空は蒼みたり いのち細りてゆくまでは視む

 髪蒼みゆくまでこらへゐたりしが雪降るあした喚ばれゆきたり

 風花の軽きがゆゑにかるがるとはこばれゆきしはてをおもへり

 死を選びゆくものあれば遠き近き親族(うから)つどひて餐を頒(わか)てり

 如月をまちて逝きしを 寒の水吸ひてあたらしき花もて埋む

 死にかかる話題に触れてしばしばをことばたゆたひゐたりけるかも

 緊密を増しゆく年譜とぎれたり 〈晩年〉といふ時の加速は

 日曜の午後の弦楽 北辺に生きいそぎたる者を慰む

 〈ふるさと〉を写せる航空写真図はかなしきまでに克明なりき

 死して残すもののかずかず 落書きの猫の絵なども飾られありぬ

夏の森から

 朝雲の朱(あけ)に滲める遠森(とほもり)を風わたるなり こころ靡かむ

 *

 曼珠沙華ひとたば燃ゆる炎天の峡(かひ)ゆけば冥界の如くあかるし

 かつて歴史の前線にしてはなぎし都市を遠巻く雷雲ありき

 雷鳴にまぎれゆくまで天翔ける機の爆音を見送りてをり

 ふりおろす鮮黄の槌とほく見ゆ 雨に向かひて立つ鳥あらむ

 雷鳴の襲へる都市を幾千の他人の顔はあらはなりしか

 肩濡れて行く町並みのいづこにも雷避けてゐる沈黙ばかり



 ひとしきり雷雨襲へる境内を遁れきて怒髪の神と真向きつ

群衆と呼ぶまぼろしの権力へ投げてみよ因陀羅(いんどら)の金剛杵

 拝殿へ向かふ黒衣の一隊は甲虫のごと息ひそめたり



 騒乱の前夜 畿内をよぎりたる雨雲の蒼(あを)かげりつつ見ゆ

 そばだちて聴きゐる百の耳あれば八(や)つの鼎(かなへ)は鳴りいづるなり

 鳴り騒ぐ水の面(おもて)をわたりきて鼎(かなへ)賑(にぎ)わす烹殺のこゑ



 蝉の屍(し)の落ちてしづまる日盛りを地に幾億とひそめるものよ

 雨後の森へつづける路はかたはらに蟻塚ひとつ置きてあかるし

 薄羽の羽音するどき黄の蜂の蝉狩り終ふるまでを視てゐつ

 美しく英雄の屍(し)は飾られてあらむか はなやぎつつ昏るる森

 触覚は闇のふかさを測りゐむ 月暗き森を犇くものら
 
 つくよみに濡れて夏夜を飛来する甲虫軍の千の眼(まなこ)は
 
 *
 
 夜半(やはん)旅立ち 緊(し)まるが如く蒼みたる空は西よりゆるびつつあり
 
 猫・V
 
 アマデウスと名付けし猫は灰色のねずみの死者を夜毎おそれき
 
 灰色の雪降る町に灰色の少女たちゆめのごとくあらむか
 
 誰もゐぬ椅子の描(か)かれてあるごとく簡明に来る晩年おもふ
 
 黎明に聴くレクイエム かなしみの澄みゆくきはを覚めゐたりけり
 
 サリエリのこころをおもふ チェンバロに俯(うつぶ)して哭く男のこころ
 
 寥寥と――風
 
 炎天に井戸掘る人夫 その耳の奥深く青きみづを聴きゐむ
 
 かなしみのごと溢れくる井戸ありて月かげひとときをふかく射す
 
 〈王様の耳は……〉ひそかに呟けば井戸の底ひに風の音すも
 
 耳塚と云ふをすぎたりさやさやとかたへに群れて咲く葱の花
 
 さりげなくわれの呪言を聴きをらむ秋ふかき野の耳塚のみみ
 
 いくたびの地獄と遇ひてこし耳か 今宵寥寥と風響りわたる
 
 憎しみのとよもす夜はひえびえと地中の白き耳を懐へり
 
 千の耳闇にひらきて聴きをらむやがて昂(たかぶ)りゆく平家琵琶
 
 みをささへゐる風のなかわが耳よかなたひかりの降る音聴かむ
 
 硝子扉の外はまばゆき朝なれば裁かるるごと風に入りゆく
 
 〈耳〉とのみ書かれしメニューありしこと夜半(やはん)におもひいでておそれき
 
 ノルマンの櫂
 
 編年史のかなたに青き水ありき かつてラインを渡りし者たち
 
 夜の淵に戦ぐ葦群(あしむら) もののふは息ひそめつつ河辺越えたり
 
 風の夜の夢のうつつにまぎれざる一群ありき 明日は敗れむ
 
 夜の海へつづける径(みち)のほのしろく星河なだるる沖を指しゐつ
 
 北方へそよぐ地の髪 ノルマンの櫂の備へをおもひつつをり
 
 断崖に立つもののふのまなこ冷ゆ 闇に見えざる島もたちたり
 
 海峡に浪とよむ午後 夏雲はながれていづこを指せども海へ
 
 たゆたひてあるいはとほき戦(たたかひ)に連なる水を船立ちゆけり
 
 潮騒の沖にひしめく軍船のわれにむかひて漕ぐ櫂の音
 
 天の弓ひきしぼられてわが額(ぬか)を射むとしゐるか視野はくらみつ
 
 ささめきて待ちゐたるもののなにならむ黄昏を黒き帆の船還る
 
 戦(たたかひ)のいづれはかなき結末を問はむか面輪きびしき使者に
 
 風そよぐみぎはに楡はゆふぐれて漂着を待つかたちまもれり
 
 海に降るひかりさざめきゐたりけりしばしを過去に額(ぬか)埋め来つ
 
 猫・W
 
 〈猫〉と云ふ諜報部員ありしこと此の世のほかの日常なりき
 
 まぶたなき猫を想へり 漆黒の闇をへだててみじろがずゐる
 
 〈哲学〉といふ薄闇の街角につねおびえつつ猫眠りをり
 
 普遍的に存在する猫!をおもひゐつ 哲学と云ふはかなしかりけり
 
 髪型のことなど言へばなにげなくそばだちてゐる耳ありしかな
 
 欧州型思考を好む猫ありて鏡像フーガ聴きつつ眠る
 
 風あらふ高層ビルに思考する猫のごとくも棲みたまひけり
 
 ふくろふを待ちて睡れる猫あれば川端町は暮れ残るなり
 
 沙に還る一瞬に過ぐれば冥き夏なりき ふりむかば炎沙のごと海あらむ
 
 絢爛と孔雀あゆめり 灼熱の秋を王朝滅びしのちも
 
 碧瑠璃の眼(まなこ)ひらきてほろびゆくあかるさを視よ 宝冠弥勒
 
 流燈のほむらかはもにゆらぐまで十万億土をふきくるかぜよ
 
 沙に還る王女の髪のひとすぢの夢まぼろしのはてに触れるかな
 
 目瞑れば生・老・病・死の門あらむ 何処(いづへ)のかたにいでゆかむとす
 
 透明の明日へつづける路ありてひそかに死者の門ひらきをり
 
 水底のごとくものみなゆらぎつつみゆるを青き塔そびえをり
 
 管弦の音あでやかに行き違ふ婚礼の列 葬送の列
 
 愛執のさやけきゆふべ幾千の塔ゆらぐなり 阿育王忌を
 
 黄砂降りつづける夜の僧院を火焔のごとく琵琶はあらむか
 
 目?連まなこ伏せつつあゆみ去る夜なればしばしば覚めてあるべし
 
 弥勒降臨ささやく声す ふりむけば夜のはてまでもかぎりなき青
 
 愛は沙のかずほどもあれ 恒河のみなもに蒼く月光降るらむ
 
 土器ありき かつてうからの糧みたし夜は月下に言葉あふれき
 
炎 祷
 
 T 蒼昏
 
 猫の眸(め)にひかりしづかに點(とも)れるを 蒼くいづこへつづくゆふぐれ
 
 石鹸の泡いく億の沈黙を閉ざし 浴槽のなかにはたそがれ
 
 蛍光灯いなづまのごとく點(つ)くゆふべ とほきひとつの死を懐ひいづ
 
 残聴のごとく夜の雨ふりしきる窓よ いづこの海へつづかむ
 
 夜の雨あがれば軒に水滴の落ちる音 ゆるぎなくアンダンテ
 
 自転車の轍らせんを描きつつ海へつづけり めぐる季節を
 
 なにを視てゐる眼なるらむ 能面の奥には海のごとき沈黙
 
 無言にて向きあひてゐる終バスに あはれひとたびの視線もあはず
 
U炎 ?
 
 緑青の硬貨は昏き水底へ沈めて 青銅時代は畢はる
 
 かぜかをる皐月、水無月 浄らかなる少女は太陰暦を愛せり
 
 己が死をとほく命(さだ)めし日もあれよ ユリウス暦につづく七曜
 
 クォ=ヴァディス=ドミネ……夜更けの殉教をめざせる朱きポムプ軍は過ぐ
 
 熔鉄のほむらは鉱爐の底に燃え尽きて わがあこがれのポムペイ
 
 幻のごとく馬賊はよぎれるか 銅色(あかがねいろ)に月かかる夜を
 
 汗血の馬奔り去るたまゆらをゆらげよ 炎?のごとくかげろふ

 蜃気楼の美しき日を ムスリムの偶像否定はなほかたくなに

 幾億の唇(くち)は聖句を唱へむか 屈伏すべきものわれにあれよ

 結晶は虚空(そら)より沈殿せしならむ 塩湖みづいろのひかりに盈ちて

 ぺルシアンブルーに織りいだす絨緞 海知らざれば海より碧く

 むらさきの月かかる夜は盲目の天文学者となりて睡らむ

V 聖婚

 ひとたばの花にて充つる瓶なればいまだみたざる夢をこそおもへ

 ほろびつつ生くるがごとし さしのぶる掌をうしなひたる菩薩像

 問ひつむるべき明日あればたづねこし弥勒菩薩の目の黙秘権

 慈悲と云ふあるいは殺気のごとくにて 独鈷にびいろのひかりを放つ

 伐採のフォークリフトよ しめやかに神の骸のさやけきを負へ

 無性世代といふはやさしも 透明のかぜふけば羊歯の胞子を降らす

 族内婚おごそかなれば わが神よ 混血を拒みてさやかなれ

 だんらんのはてに沈黙のあるごとく 夜を森閑と咲きつぐ櫻

 胸中を白くひそかに零(お)ちゆくか 錠剤の翳 花びらのかげ

 百億の華獨の径よ 婚畢へて白き辛夷の宵を還らむ

あめつちのをはりのうた

 あるいは愛の詞(ことば)かしれず篆刻のそこだけにかすれゐたる墓碑銘


あとがき

 一九八〇年(昭和五十五年)四月から、一九八四年(昭和五十九年)九月にかけての四年半の制作のうちから、二百五十八首を収録して第一歌集としました。年齢でいえば二十一歳の春から、二十五歳の秋までにあたります。
 十七篇の連作を小単位として逆編年に(すなわち新しい作品を前に置いて)構文してあります。時間と空間の日本の座標軸のうえに散らばるいくつかの世界の風景を蒐めた、いわば宇宙の地図帳のようなものを作ってみたかったのです。
 雑誌「かばん」・「詩歌」・「短歌研究」・「短歌現代」等に発表した初出時のものとは、字句の表記や連作の構成などの点で若干の異同がありますが、巻末に置いた「炎祷」に関しては、ほぼ原典にそって再録してあります。
 解説をお願いした井辻朱美さん、装丁の小宮山景右さん、そして出版のための万端の準備をととのえてくださった遊星舎主人・篠田 和さんには、ひれふしてお礼を申しあげます。
  一九八四年十月八日
                               中山 明