ハイデルベルグ(7月10日から11日)

ライン川観光の後、左岸を車で戻り、ハイデルベルグまで行きます。

ドイツ最古の大学都市「ハイデルベルグ」は、人口14万人、そのうち学生は3万人。古城街道最大の町でもあり、中心にはネッカー川が流れ、ロマンチックで知的雰囲気にあふれた古都です。

1386年にルプレヒト1世により大学が設立されて以来、現在では多くの学部が街全体に点在していて、シューマンもこの大学で学んでいる。

この町を好んだ有名人も多く、ゲーテ、ウェーバー、ターナーなどはたびたびこの町を訪れたことで知られている。

 

ハイデルベルグの街並み

この独特の色合いは、このあたりで多く取れる赤色砂岩によるもので、そんな石で作られた建物が多い町は、全体が赤っぽい色に染まっている。

               哲学の道のある丘からの遠景、ネッカー川とハイデルベルグ   ハイデルベルグ城のテラスからの街
                   ネッカー川                                 街のメインストリート

哲学者の道  Philosophenweg  

その昔ゲーテやヘーゲルなど、多くの哲学者や詩人達が歩き、思索にふけった散歩道で、この道は京都の哲学の道のモデルとなった所でもあります。

ハイデルベルグの街とネッカー川の景色が大変印象的でした。

カールテオドール橋 Karl Theodor Brucke

ネッカー川にかかる最古の橋で、またの名をアルテ・ブリュッケ<古い橋>と呼ばれる。

200年前までは屋根のある、木のはね橋が架けられていたが、オルレアン継承戦争で焼失したり、流氷に押し流されたりしたため、18世紀末に、選帝候カール・テオドールが現在の石の橋に造り替えたもの。

橋にあるバロック風の城門は13世紀にこの場所にあった城壁の一部だった。左右の塔は暗くて低い牢獄が設けられ、その塔をつなぐ真ん中の部分には、18世紀に橋の建設と共に付け加えられた、明るい牢獄がある。

窓から美しい町の風景が眺められるこの牢獄には、罪の軽い借金の支払い滞納者や負債者が入れられていた。
城門のすぐ横には市民が1788年に立てたカールテオドールの像がある。

像の台座にはヴィステルバッハ家の領地を流れる4つの川「ライン、ドナウ、ネッカー、モーゼル」をあらわす、4体の像が置かれている


橋のたもとには鏡を持ったマントヒヒの像と小さなねずみの像があります。ヒヒの像はサルの姿を見て笑う前に鏡に映った自分の姿を良く見ろと言うことらしい。ねずみの像は撫でるとどういうわけかまた来られるのだと言います。私も再来を期して撫でてみたのですが・・・。


市庁舎 Rathaus

旧市街の中心にあたるマルクト広場に面して建つバロック様式の建物。中央の部分は18世紀初めに、戦禍から復興して最初に造られたもの。

この広場では、毎週水曜と土曜の午前中には市が立ち、カラフルなパラソルを広げた露天では、野菜や果物、チーズや花などが売られるそうです。

広場の中央にある噴水はヘラクレスの噴水と呼ばれ、
18世紀中頃まではこの場所に回転式の檻が置かれており、中には軽犯罪を犯した罪人が見せしめのために入れられたとのことでした。

聖霊教会(ハイリッヒ・ガスト教会) Heiliggeistkirche

選帝候ルプレヒト3世の命によって15世紀に建てられたゴシック様式の教会。


ハイデルベルク城   Schloss Heidelberg

この城は1300年に起工されて以来ライン・プファルツ選帝候であるヴィステルバッハ家の居城として代を重ねながら拡張されてきました。

代々の王がその時々の流行の建築様式を取り入れ、出来上がった建物に自分の名前をつけており、権力の象徴とともに、彼らの芸術意識の表現でもあった。

1622年には30年戦争で、城も町も旧教側の軍隊によって破壊され、1689年にはオルレアン継承戦争でフランス軍の砲撃と火薬を仕掛けての爆破により見る影もなく破壊されました。

現在も残る破壊の跡はこの時のもので、その後、改修工事が行われていたが、
1764年に落雷によって工事は中断されてしまい、いにしえの姿を伝えている。

今は州政府の持ち物として管理、運営されていて、
現在では内部にワインセラーなどの、お土産屋などがあります。

 

ゲーテ記念碑 

ゲーテは亡くなるまでに8回ここハイデルベルクを訪れ、詩を読んだり、絵を描いたりしたそうです。

この石碑には、恋多きゲーテの最後から二番目の恋人マリアンヌが、ゲーテに対して書いた詩が刻まれています。

当時ゲーテは
66歳、マリアンヌは24歳。この石碑は二人の愛を記念して後からつくられたものだそうです

ロンデル

ルードウィッヒ5世は、ロンデル「半円砲塔」を築き、城の西側の防御とし、大砲なども設置していたが、このあたりを、後のフリードリヒ5世が妃のために、「遊園化」したために、プファルツ継承戦争のとき攻め込まれることになったそうです。

エリザベスの門

別名「一夜の門」と呼ばれ、ルードヴィッヒ5世が、妃エリザベスの為にたった一晩で作り上げた門だそうです。

この庭はエリザベスのお気に入りの散歩道で、彼女は毎朝ここを歩いていた。誕生日の朝、いつものように散歩をしていると、昨日までなかった門があり、それが妃を驚かせ、喜ばせるために造られた王からの誕生日プレゼント。

 この門をバックに写真を撮ると、そんな二人にあやかり、幸せ になれるとか。


城門塔

堀の上にかかる石橋は、昔は跳ね橋でした。城門塔は、度重なる戦争にも耐えて唯一残った塔で、高さ52m、奥行き13,5mあり、時計がとりつけられているところが、4階です。

庭と城との間には、深い堀があり、平和なときには、鹿などを飼っているが、非常時には、水を満たすことができ、山側からの敵の攻撃に対する防御になっていたそうです。


城門に向かって右側の橋の欄干の上にゲーテの名を刻んだ、一枚のプレートが埋め込まれています。

ゲーテは
34歳の時、スイス旅行の途中にここハイデルベルクへ立ち寄り、この場所から城の右手に見える「崩れた塔(15c)」の写生をしています。

プレートはそれを記念して埋め込まれたもので、文豪ゲーテがこれをスケッチしたことにより、皆実物を見るためにハイデルベルクへやって来るという、町の観光の火付け役になりました。

中庭を取り囲む建物

ルプレヒト館

中庭に入りまず左手にあるのは、この城で一番古く、今から600年ほど前に作られたルプレヒト館です。

建造にあたったルプレヒト3世の印である、帝国の鷲の紋章がその入口の左側に残されています。

ルプレヒト3世は旧市街にある聖霊教会
(ハイリッヒ・ガスト教会)の起工者でもあり、どちらも当時流行のゴシック様式を用いています。

 

フリードリッヒ館 

1607年にフリードリッヒ4世によって建てられて以来、代々の選帝候達の住まいとして使われてきた館です。

ファサード
(正面の装飾)の黄金の砂岩で作られた立像は、建造主フリードリッヒ4世並びに、彼のヴィステルバッハ家出身の有名な祖先達。


オットーハインリッヒ館

城の中で一番印象的な建物と言われる。

宮殿風ファサードは、ドイツルネッサンス様式の模範建築と言われ、ヨーロッパ各国のルネッサンス様式の様々な要素を、芸術性豊かに統合しています。

 

テラス

浮気者の足跡 

テラスの中央あたり、建物よりの床に足跡がある。

伝えによると、「王様があまりに浮気をするので頭にきた妃が復讐をしようと、王が狩りに出た留守中に若い騎士を部屋に呼び込んだ。
ところが狩りに出たはずの王が急に帰ってきてしまい、慌てた騎士は鎧をつけたまま妃の部屋の窓から飛び降りた。
その時にできた足跡がこれで、この足形に足がぴったり合う人は、プレイボーイの末裔と言われる」
とのことです。

でも意外と小さく大人の足ではあわないようでした。

ワインの大樽

このワイン樽は、1751年カール・テオドールが造ったもので、直径7m、長さ8,5mあり、222,000リットルの容量で、木製の樽としては世界一のものだそうです。

城の最盛期には、常時500−600人の人がいて、一日約2000リットルくらいワインが消費されたという。ワインは、ポンプでくみ上げることができ、それは階上の宴会場である「王の間」に運ぶことができ、合理的に造られていました。

ツムリッター Zum Ritter(ハイデルベルグでの宿泊ホテル)  

1592年にフランドルから移り住んだ、呉服商シャルル・ベリエによって建てられたルネッサンス様式の商館で、17世紀末の2度の戦禍を逃れた唯一の建物です。

リッターとはドイツ語で騎士のこと。

ファサード
(正面外壁)は、段々になった破風をもつフランドル風の凝った造りで、様々な彫刻で飾られています。18世紀頃から騎士の館と呼ばれていました。

現在1階はレストラン、2階から上は
40室ほどの部屋数を持つホテルとして使われています。

ホテルの看板・騎士の館の名前のとおり馬上の騎士でした  レトロなエレベータの扉・ドアノブを手で開けます。        リラックスできる部屋    鎧も飾ってありました。

本日の夕食


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