飛騨古川&飛騨高山

高山と同様、江戸時代に天領となった飛騨古川。

伝統ある城下町には、出格子の商家や白壁の土蔵が続き、鯉の泳ぐ清らかな瀬戸川のせせらぎが聞こえます。

市街中心部にはほかにも、壱之町、弐之町、三之町といった古い町並みが残り、飛騨の匠の技と心意気が息づいています。

また町中には和ろうそくの老舗や、切り絵工房、伝統工芸・一位一刀彫の工房、美術館なども点在。

気の向くままに立ち寄りながら、ゆっくりと町歩きを楽しめます。

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屋台蔵
普段はここに屋台が収納してあります
白壁土蔵と瀬戸川 川にすむ鯉 瀬戸川
町のモニュメント 三嶋和ろうそく店 美しい町並み 古川祭りに使う起し太鼓
飛騨古川まつり会館のからくり人形 飛騨高山・宮川の紅葉 高山の町でのお遊び


中山道・馬篭宿&妻籠宿

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馬籠宿

中山道69宿のうち木曾谷には11の宿場が置かれており、馬籠宿は板橋を1番目とすると43番目になります。
ここは江戸からの距離は
83里(333km)余りだそうですが、街道が山の尾根に沿った急斜面を通っており、
その両側に石垣を築いては屋敷を造っていることから「坂のある宿場」が特徴となっています。

旧 中 山 道
宿 場 内 の 様 子

 

高札場 

宿や村の庶民に法令を徹底させる手段として高札場が設けられていて、高札場の管理は厳重で、
古くなって墨文字が薄くて墨入れを必要とするようなときでも藩の指示を待たねばならなかった。

現在馬籠では当時の場所に忠実に復元してあり、その内容は正徳元年(1711)の記録のものだそうです。

藤村記念館 

藤村の出生地、馬籠の本陣島崎家の跡地に建ち、当時を再現した冠木門をくぐり敷地に入る。
代表作の一つ「夜明け前」はここ馬籠宿を舞台にした歴史小説。


男滝・女滝  

馬籠峠から石畳の道をしばらく下ると滝の水音が聞こえてくる。
そこは、吉川英二の小説「宮本武蔵」の中にも登場した男滝・女滝がある。
小説では、武蔵とお通が出会う男垂滝として登場している。


妻籠宿

江戸と京を結ぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから木曽街道とも呼ばれていました。

中山道69次のうち江戸から数えて42番目となる妻籠宿は、中山道と伊那街道が交叉する交通の要衝として古くから賑わいをみせていました。

中山道・木曽路と言えば『妻籠宿』と言われるほど、木曽路十一宿の中でもとりわけ江戸時代の面影を色濃く残している宿場。

その町並にひとたび足を踏み入れると、江戸時代にタイムスリップしたような気持ちにさせてくれます。

本陣・脇本陣

当時、本陣・脇本陣は共に公儀宿泊休憩のための施設として
宿場には必ず設けなければならなかったようです。
多くは世襲制で一種の家格となっており、

本陣だけでは受け入れ収容に支障があるので脇本陣を置いた。
脇本陣は建物や規模などは本陣に準じており本陣同様世襲になっていました。

松代屋

現在でも宿場内にある宿屋。

創業1804年 今より200年以上前に建てられ当初は木賃宿(きちんやど)であったそうです。


春 の 白 川 郷

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1995年12月6日「白川郷・五箇山の合掌造り集落」は”世界 遺産”として登録されました。
国内では、白神山地、屋久島、姫路城、法
隆寺、京都に次いで6番目の世界遺産。

現在白川村の白川郷には荻町地区に五十九軒の合掌集落があるのをはじめ,村内全体で百十二軒の合掌家屋があります。

滋賀・長浜&安土城城址

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長浜は、秀吉が一国一城の主になった最初の拠点で、彼の城下町経営の基本パターンを醸成したところです。

長浜城歴史博物館

現在の長浜城は1983年に市民の寄付などで再建され、現在は長浜城歴史博物館となっています。

太閤井(長浜城)

湖岸にある長浜城の井戸跡。 
満潮時には周囲を海水で囲まれてしまいます。

安土城天主信長の館

織田信長が築城した今は亡き幻の名城「安土城」の最上部を復元展示したもの。
発掘された当時の瓦を焼きあげて再現した庇屋根、金箔
10万枚を使用した外壁、
狩野永徳一門が描いたと伝えられている金碧障壁画の再現を鑑賞できるようになっています。


安土城址
織田信長が天正4年(1576年)丹羽長秀に命じ、約3年の歳月をかけて完成した安土城。

現在、石垣のみが残っており、特別史跡にも指定され、発掘調査が進められています。

安土城跡はハ見寺(臨済宗)の私有地でわたしたちが行ったときは見学無料でしたが、2006年9月より有料だそうです。

本丸への道 伝羽柴秀吉の屋敷跡 安土城配置図


京都・上賀茂神社

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上鴨神社、下鴨神社の総称は賀茂社と云い、祭神は神社の北に在る神山(こうやま)に降臨して坐しているとのことです。

現在神社が有る場所は本来は遥拝の場所にあたるそうで、上鴨・下鴨とは、地形によっての上下で、神社の地位を表すものではありません。

 京都3大祭りの一つ「葵祭」は、江戸期になって祭りの参加者全員が葵の葉を身に付けた事からの名称で、

祭りの正式名は上社、下社の賀茂祭
(かもさい)と云い、昔は祭りといえば賀茂祭のことを指していたと伝わっています。

桜 門 と 玉 橋 本殿入り口

立て砂

神代の昔、円錐形の神山に御祭神が最初に降臨したと伝わることから、
上賀茂神社細殿前には白砂が二つの円錐形に盛られ「立て砂」や「盛砂」と呼ばれている。
細殿・土屋

入母屋造り平入り。ともに着到殿に相当する。
細殿は板敷き、回縁、高欄を付けて、天皇、太上天皇の御着到殿にあてられ、
土屋は土間で神官以下の着到所であった。

京都・八 幡 市 散 策

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石清水八幡宮

九州の宇佐神宮、関東の鶴岡八幡宮とともに日本三大八幡のひとつにあげられている神社。

社名は、男山の中腹に涌き出ている霊泉「石清水」に因んだもので、全国屈指の厄除けの神社として有名です。

また、創建以来公家・武家の信仰が篤く、とりわけ源氏が氏神と崇め、必勝の神社としても知られています。 

本殿入り口 境 内
エジソン記念碑

エジソンが白熱電灯のフィラメントの材料を世界中に求めた結果、石清水八幡宮境内の真竹が最も優れているのを見出し、この竹を用いて初めて実用的な白熱電灯を完成したといわれている。

 このことを顕彰するため、神社の境内に昭和9(1934)に最初の記念碑が建てられたようであるが、
その後、昭和
59年に現存の新しい「エジソン記念碑」が再建されました。

安居橋(あんごばし)

安居橋は、大谷川が放生川と名を変える八幡平谷の買屋橋から
京阪電車踏切手前の全昌寺橋までの約200メートルの間の中ほどに架かる反り橋です。

松花堂庭園

松花堂庭園は、寛永時代に活躍した石清水八幡宮の社僧、松花堂昭乗ゆかりの庭園です。

2万2千平方メートルの規模を誇り、一たん足を踏み入れると、静寂な空間が広がり、外の喧騒が嘘のようです。

庭園内の茶室前

流れ橋(ながればし) 

木津川に架かる八幡市と久御山町を結ぶ上津屋橋の通称です。

全長約
356.5mあり現存する最長級の木橋で、昭和26年に架けられましたが、当時永久橋を架ける予算がなく、
かといって普通の木造橋では増水の度に流されてしまう。そこで水の流れに逆らわない構造の橋が架けられました。

つまり、木津川が増水して橋板まで水に浸かると橋板が自然に浮かび、
八つに分割してワイヤーで繋がれた橋板が吹き流しのように流れる「流れ橋」です。
水が引けばワイヤーを引っ張り橋板をたぐり寄せ元にもどす構造になっています。

この付近一帯は木津川の砂地の河原が広がり、コンクリート護岸や電柱もなく、
橋をバックに時代劇のロケーション等に頻繁に利用されています。あなたもテレビや映画で見たことがあるのではないでしょうか。

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