2002年3月23日 川越織物市場講演会
    埼玉大学助教授 田村 均さん 講演より

「唐桟から二タ子縞へ
 幕末・明治の流行ファッションをリードしたおしゃれの発信地・川越」


川越織物、その存在は学会でさえ、いままではあまり知られていませんでした。けれども川越の名前を冠した川越唐桟があり、また交ぜ織りという織物がありました。その絶頂期は慶応:明治10年代でした。近代化の洗礼をうけた他の地区の台頭により、明治30年代には低迷期を迎え、40年代にはさらに深刻な不景気ましたが、武州の歴史ある城下町−川越の地位を再度回復することを願い、町人たちの手で織物市場が設立されました。

 江戸時代、日本は鎖国体制にあったわけですが、そのときにもわずかながら外国産の織物が輸入されていました。たとえば、東京国立博物館には開国以前の唐桟の見本帳が残されています。唐桟という織物は、綿で織られた縞柄模様の織物の総称です。不思議なことに、縞柄の織物は日本では生産していなかったため、くっきりと鮮やかな縞柄の唐桟は大変人気がありました。ただし、輸入量はすくなく舶来物のため高価で庶民の手に入るものではありませんでした。
(ここで東博本の写真)

 当然、舶来物のまねをして唐桟をつくってみようという動きがありました。京都西陣でもくっきりとした縞柄を表現するために、糸、染料、織り機の研究がおこなわれています。また、足利、桐生、尾西といった織物産地、さらに川越でも、大衆を狙ったものをつくっていました。しかしながら、まねをしてつくった唐桟は、いちおう縞柄ではありますが、舶来ものに比べて、縞がはっきりせずよい色も出ませんでした。どうも「びしっ」とこない、粋でない。
(国産品の写真)

    「高価な舶来品に代えて、どうにかして安い美しい縞を提供したい」、その先鞭をつけたのが中島久兵衛という人でした。1856年の横浜開港により、輸入できるようになった唐桟を、50年代には、久兵衛が入間で取り引きしていた記録がのこっています。その久兵衛は国産品の開発にも着手しました。さらに、久兵衛は唐桟よりもさらに、日本人の好みの縞柄織物の開発にも着手しました。これが、タイトルにもある「ふたこおり」です。
    「ふたこおり」とはいっても3種の「ふたこおり」に分類できます。これを、「二タ子織」「双合織」「二子織」と文字で表現します。このうち、川越が全国に先駆けて高級木綿を生産したものが「二タ子織」、または「二タ子縞」です。横浜から輸入化学染料、糸を持ってきて、これから縞柄を作る方法を川越で研究し、入間で生産しました。研究を遂行するには多額の資金が必要です。川越の底力が感じられるところです。二タ子織を開発するために用いた糸は、イギリス:マンチェスター産の糸です。埼玉県蕨市には、久兵衛があつかったのと同等の輸入糸のラベルがのこっています。また、染料はドイツ製です。発色のむづかしい「緑」と「赤」。これを輸入化学染料で実現したのです。
(川越産の写真)
    
    このように江戸期の遺産を引き継いで繁栄し、舶来原料を用いて開発した商品で、流行の先端を行った川越ですが、明治30年代になるとその力が落ちていきます。幕末からつづく豪商の交代があり、さきの中島久兵衛でさえ破産しました。その背景には、入間地区の台頭を指摘できます。飯能、所沢、入間川(現狭山市)ではもっぱら大衆品を生産していました。川越は大衆品の勢いに押されたのです。
    明治19年には川越染色講習所を設立し、研究、化学染料の研究の構想がありましたが、実際には建設されませんでした。そうこうするうちに、明治30年に入間市に入間郡立染色講習所が設立され、その構想を盗られてしまいます。さらに、30ー40年代を襲った経済恐慌により、川越織物産業は沈下してしまいます。このなかで、川越織物産業は、川越周辺の入間の織物産業とは手を結ばずに、浦和の組合と強調しはじめます。ますます川越が孤立していきます。本家本元の意地が先行してしまった結果ともいえます。孤立し、沈下してしまった織物業の主導性を取り戻したい。その願いで、川越織物市場の構想が生まれます。
(その後の経緯は本ホームページ「織物市場 歴史への誘い」をご覧ください。)

まとめ:

1:幕末明治前期には、川越は全国屈指の流行織物の集散地でした。
2:川越は都市市場向けのファッショナブルな絹/綿交ぜ織り、および絹織物の領域でリードしていました。
3:しかし、大衆化、経済恐慌により弱体化してしまいます。
4:不況下でも織物市場建設により、勢力晩回を企画しました。
5:今の残る織物市場建築の貴重性を以下のように指摘できます。
 1:川越の繁栄を如実に物語っています。
 2:明治期に行われた地域振興政策の遺産です。