織物市場の歴史


川越織物市場の開設: 文献(1)を参考にしました。

明治時代、織物業は基幹産業の1つでした。しかし明治末期、日露戦争後期に生じた不景気のもと、川越でも金融恐慌により織物業がおおきな打撃を受けました。1910年(明治43年)に開場された川越織物市場は川越経済界の意向を調整・統括した川越商業会議所(現川越商工会議所)が手がけた経済振興プロジェクトの一環でした。

 旧川越商工会議所の建物(松江町2丁目) 大正末から昭和初期に建造
 

織物市場開設のプロジェクト案はすでに1889年(明治32年)には川越町議会で建議がなされていました。その結果,関係業者に向けて勧誘を図ることが決議され、町をあげて具体的に取り組むことが決まりました。1890年(明治33年)、商業会議所に諮問されています。川越町長からなされた検討項目は(1)川越町に織物市場を開設する可否と、(2)開設の必要があればその運営組織や方法を具体化すること、の2点でした。

そこで、さっそく商業会議所は会議所内に「織物市場設置ノ件調査委員会」を設置し、さらに、幹部クラスの4名を「織物市場視察員」に指名して、八王子、桐生、足利の3産地で運営されていた織物市場の視察を命じました。その結果は「織物市場設置ニ関スル件調査報告書」としてまとめられ、商業会議所は「織物市場はこれを設置する必要ありと認める」と決議しました。その理由は、周囲に織物産地を擁していながらも生産される織物類の多くは中心地・川越を経由することなく流通しているため、川越町の不利益が多大であるとし、その主因を織物集散地としての長い歴史を持つ川越に完全なる織物市場の設備がないからであると結論付けました。

しかしながら、織物市場の建設が実際に着手されたのは、視察した10年後でした。その理由として、市場組織を織物組合直轄の市場組合(任意組織)にするか、あるいは株式会社を設立して市場を運営するかという点において、織物業者の意見が分かれたために利害調整に多くの時間を費やさなければならなかったのではないかと推察しています(1)。10年間棚上げにされた市場開設ですが、明治末期の不況化、不景気打開策の切り札として1909年ごろに、市場開設が再浮上してきました。このとき、商業会議所が積極的に主導して、関係機関に働きかけをおこないました。

 明治43年3月3日 上棟式の様子

1909年(明治42年)12月7日に市場設計を委員会決定し、具体的な建築指示が馬場佐助(現協和木材)と鈴木徳太郎(現カワモク)に委託されました。1910年(明治43年)3月3日に上棟式、その3日後、市場組合規約の制定、そして、3月25日に開場式が挙行されました。ついに、同年4月5日、待望の初市が開かれました。


川越織物市場のその後: 文献(2)を参考にしました。

川越織物市場には市内の織物業社が荷を持ち込み、そこで取引をする対面形式の取引が行われました。開催日は5と10の日、月に6回でした。いわゆる六斎市です。

このように多くの期待を背負って開設された川越織物市場ですが、もはやくも、大正8年には、川越織物市場株式会社が解散されます。その原因は、川越周辺の織物業が手織り中心だったのに対し、世は力織機の時代に入っていたことにより、深刻な不況に見まわれたことによります。また、工賃の上昇や粗製濫造も影響して,織物業者と生産農家の関係がくずれていくことも打撃をあたえた原因となりました。織物市場衰退により、川越織物業の灯が消えることになりました。

 栄養食配給所

その後、織物市場の建物は、路地裏に忘れ去られたように存在しつづけました。市場閉鎖後は、製糸工場の女工さんの寮として利用されました。このときに、炊出し所として、隣接し現存している栄養食配給所がつくられました。その後、借家としてひっそりと利用されることにより、現在までその建物が奇跡的に残されたのです。なお、1963年(昭和38年)には三国連太郎主演の映画「無法松の一生」のロケ地として利用されました。


参考文献
(1)地域振興策としての川越織物市場 ―― 明治末期・川越商業会議所のプロジェクトとチャレンジ ――
埼玉大学 田村 均 (未発表)

(2)図説 川越の歴史
監修 小泉 功
郷土出版社 2001年