岡山の文化財巡り 2017年5月4日-6日

5月4日(木)

朝イチののぞみに乗り、岡山に着いたのは9時ちょっと過ぎ。当初、高梁へは2泊3日の中日に行くつもりだったが、天気予報が下り坂なので、晴れている初日に行くことにした。岡山で伯備線の各駅停車に乗り換え、1時間ほど揺られてようやく備中高梁駅に着いた。

備中高梁

備中高梁駅
備中高梁駅(10:16)
案内板
ふいご峠の案内板(10:33)
駅からふいご峠まで乗合タクシーがあるようだが、どこから出るのかよく分からないので、とにかく駅前のタクシーに乗ってしまった。ふいご峠までは2000円でお釣りがきた。途中、早朝のマイカー規制前にふいご峠に入っていたマイカーを下ろすとのことで、その対向待ちで時間をロスした。数分のはずだが、こういう時は長く感じられるものだ。タクシーの運転手氏の言うには、真田丸のオープニングに備中松山城が使われてから観光客が増えたという話。連休中はひたすら駅と城との往復が続くということだった。

天守を目指して

石垣
石垣の間を行く(10:41)
心得
城主から心得を説かれながら行く(10:46)
車で入れるのはふいご峠まで。その先、備中松山城天守へは徒歩約20分かかる。峠には飲料自販機があったが、駅で買ったお茶ペットボトルがまだ残っていたので買い足さなかった。
山道、と言っても舗装されているので不安はない。城主からのお達しが各所に配されていた。

真田丸の岩壁

石垣
真田丸の岩(10:47)
石垣
石垣を正面から望む(10:49)
中間地点を過ぎると、突如、そそりたつ岩壁が現れた。岩壁の上には石垣が2重3重に連なっていた。こ、これは萌える。そしてそこが真田丸のオープニング映像の場所で、説明のパネルが設置してあった。
岩壁に背を向けてUターンするように枡形を進み(この石垣も真田丸だ)、門の跡地と思しき場所まで上がると岩壁が正面に向かい合うようになった。実に絵になる眺めで、写真を撮る人が多かった。土塀に沿って坂をあがっていくと、汗が噴き出してきた。公衆トイレを過ぎるといよいよ本丸に突入だ。

備中松山城本丸

石垣
この石垣を過ぎればいよいよ本丸だ(10:52)
備中松山城
備中松山城(10:54)
本丸前の石段を曲がりながら上がるとぬっと本段建築物が現れる。建築の重なるさまが素晴らしく、これまた絵になる眺めだ。戦国武将の写真撮影サービスなどもあった。
期待感満タンでどきどきしながら入城受付へ進む。入場券が何種類かあったみたいだが、気が急いているので、手っ取り早く4館共通入場券なるものを買った。

備中松山城天守

備中松山城
備中松山城天守(重文)(10:57)
小屋組
備中松山城天守(重文)の小屋組(11:04)
受付を過ぎると天守の全貌が現れた。おおおお。ひとしきり眺めてから、内部見学へ。
向かって左の付櫓のような付帯設備で靴を脱いで上がると、すぐ右手の上方に、建物本体の小さな穴が穿たれていた。急な階段(というよりほとんどハシゴ)を子供がおっかなびっくり、尻から滑るようにして降りていた。ここがまた狭く、人がすれ違うことができないほどで、この子が降りきるのを待つ渋滞が発生していた。小さな穴をくぐってようやく中に入ると、こじんまりとした1階には解説板などが少し並んでいた。2階への階段(というよりほとんどハシゴ)は、降りる人が絶えないため、これまた10人くらいの登り待ちの列ができていた。階段の中間には直角に曲がる踊り場があり、そこならなんとか人がすれ違うことができるが、手すりがない急階段なので、お年寄や子供は片側に寄ることができず、難儀していた。
2階が最上階だ。市街地の眺めはなかなかのものだったが、それ以上でも以下でもない。屋根の小屋組には照明があたっていたが、(シンプルすぎるからか)気にする人もいないようだ。天守閣内部には、どういうわけか日本中の城の天守閣の写真が絶対に飾ってあるという法則があるが、(狭すぎるからか)それもなかった。この城は外観を楽しむ城なのだと思い、早々に降りて出ることにした。が、しかし、またもや待ちの列ができていた(泣)。

備中松山城二重櫓

二重櫓
備中松山城二重櫓(重文)(11:23)
外に出て、また正面からの眺めを堪能したあと、裏手にある二重櫓が春の特別公開というので寄ってみた。普段公開されていないこともあってか、内部の展示は天守以上に簡素だったが、なんと他の城の天守閣の写真パネルが展示されていた(法則発動!!)。しかしここも内部がシンプルすぎたので、早々に出た。

再び天守前に戻る

備中松山城
天守を下から見上げる(11:27)
備中松山城
天守を横から眺める(11:44)
天守前に戻って姿を堪能。建物は天然の岩盤の上に建っていて、ゴツゴツした岩肌も露出しており、小さいながらも豪快な印象を受ける。大きさでは丸亀城天守の方が小さいという話だが、丸亀城は三層である一方、備中松山は二層ということもあってか、こちらの方がより小さく見える気がする。

二重櫓の裏へ

備中松山城
城壁と備中松山城天守(重文)(11:56)
二重櫓
備中松山城二重櫓(重文)(12:00)
山登りするといつも山小屋の記念ピンバッジを買う相棒が、売店(入城受付にあり、これがまた狭い)でピンバッジを買ったあと、本丸の壁を伝って北側へまわった。城壁越しに見る天守もまた絵になる。こちらからは二重櫓の全貌を見ることができた。人も少なくていい。弁当を食べている人もいた。

下山

土塀
三の平櫓東土塀(重文)(12:20)
石垣
何度見ても素晴らしい石垣(12:21)
元来た道を戻る。やはり真田丸の岩壁は見応えがある。城や大河ドラマに興味のない人でも、ここは素晴らしいと感じることだろう。登りのときよりも人が少なかったので、またひとしきり写真を撮った。

遊歩道を下る

腰掛石
大石内蔵助の腰掛石(12:44)
登城口
杖がたくさん置いてある登城口(13:01)
ふいご峠のバス待ちの列は長かった。しかし峠からは遊歩道を歩いておりることにしていたので無問題。
遊歩道はかつての登城道のようだが、ところどころに石垣の名残と思しき岩が転がっている程度で、まあなんというか、普通の山道だ。途中に大石内蔵助の腰掛石というのがあった。峠からゆーーっくり降りて20分ほどで登城口に着いた。そこからすぐ近くに根古屋跡があった。山城では、平常時の居館のある麓を根古屋という。跡地は今は高校になっていた。

武家屋敷

折井家
折井家(13:09)
埴原家
埴原家(13:41)
根古屋が突き当りで、そこから南東方向に道が伸びる先が、石火矢町の武家屋敷通り。折井家と埴原家の邸宅が公開されている。お城で買った共通券の対象なので、とりあえず寄ることにした。いずれも間取りは狭かった。家柄はそれほど高級ではなかったのだろうか。

頼久寺

頼久寺
頼久寺(13:45)
頼久寺庭園
頼久寺庭園(14:00)
続いてすぐ近くの頼久寺へ。小堀遠州の庭があるとのことだが、寺の由来をよくよく読むと、遠州が作庭したとはっきり記している資料は残っていないとか。厳密に言えば「伝・小堀遠州作」とするべきなのかもしれない。

高梁市郷土資料館

美観地区
紺屋川美観地区(14:14)
郷土資料館
高梁市郷土資料館(15:11)
腹が減ってきた。2時になんなんとしている。さくっと蕎麦でも食うか。駅でゲットしたちらし「ランチガイド」で近くの店を探してみると、紺屋川美観地区近くに「つくしんぼ」なる蕎麦屋があったので寄った。店に入ってみたら残り2席しか空いておらず、すべり込みセーフだった(しかも蕎麦も我々でちょうど売り切れだった)。大混雑でオペレーションが混乱しており、かなり待たされたので、店に入ってから出るまで40分近くかかった(さくっと済ますはずだったのに)。
そのあとは4館共通券の最後の施設である郷土資料館に寄った。内部撮影が禁止でちょっとがっかりしつつ、早々に出て、市立歴史美術館へと向かった。

高梁市立歴史美術館

駅を通り過ぎて、高梁市歴史美術館へと向かう。美術館は、文化交流館なる公共施設の中にある。駅から徒歩数分のその建物は、出来立てのように真新しかった。交流館の1階ホールでは地元の美術サークルの絵画展が開催されており、いかにも公共の空間らしい雰囲気だった。美術館へは2階へと上がる。2階の半分ほどが美術館で、残り半分はイベントなどに使われそうな、多目的スペースとでもいった感じの空間だった(が、使用されていなかったので、薄暗くひっそりとしていた)。
受付前のロビーにディスプレイが置いてあって、ここに来た目的である赤韋縅鎧の解説ビデオが垂れ流しになっていた。実物を見てからあとで確認しようと、とりあえずビデオは見ずにそのまま会場に入った。会場入口の来訪者地図を見ると、関東の人が多いようだった。
赤韋縅鎧は入口からほぼ正面に鎮座していた。いまは岡山県立博物館に保管されているが、もともと高梁に伝わったものとかで、里帰り展示を謳っていた。しかし市民の関心は薄いのか、中はがらっがらだった。まあ、その方がじっくり見られてありがたいのだけど。
はぼろかった。しかし革の威の完品はほかにないという。そこが評価されての国宝指定なのだろう。修理されるといいんだろうけど、それだと同館内にある復元品のように軽々しくなってしまうかもしれない。年月を経たものが醸し出す重みというか、雰囲気というものがあるのだ。
展示室を一通り見たあと、ロビーの解説ビデオを見た。するとこれがまたディープな内容で、ただ展示を見ただけでは分からないことまで説明していたのだった。曰く、革と鉄の小札が交互に配されているとか。でも、背中の小札は革だけとなっており、これは背中を見せて逃げる相手を背後から襲わないという当時の武士道精神の表れなのではないかとか。また、展示室の説明板に「実戦で使った」と書いてあって、そんなことどうして分かるんだ、と思いつつ見ていたが、このビデオによると、首もとの凹みが刀のあとなのではないかと。なるほどそういうことだったのか。ビデオを見なくちゃそこまで分からない。
首の凹みを確認したくて、受付の人にお願いしてもう一度中に入れてもらって、今一度じっくり観察したのだった。

高梁駅へ

備中松山城
駅近くから望む備中松山城(15:31)
高梁駅にはツタヤとスタバの複合店舗が入っていた。都心の店と同じような雰囲気だった。物凄い行列ができていた。
岡山へ、また1時間かけて戻る。16:56発の電車は高梁始発で、確実に座れた。

岡山の夜

仔羊
フランス産仔羊をいただく(20:12)
岡山は大都会である。自分は、駅前に地下道があるかどうかを、その土地が都会と言えるかどうかの判断基準に勝手にしているが、ここ岡山はあるとかないとか言うレベルを超えて、大規模だった。雨の日は大助かりだろう。
ホテルにチェックインしたあと、予約しておいたレストラン「クロワサンス」で夕食をとった。まったく偶然だが、ホテルのすぐ裏手だった。メニューはおまかせのコースのみで、いろんな組み合わせのソースが楽しめる、面白い料理だった。メインが羊肉というのでありきたりだなあと思ったら、なんとフランス産の仔羊とかで(よく見るのはNZとかオージーなのに)、これがミルキーでたいへん美味であった。最近になって何年ぶりかで禁輸が解けたんだそうな。

5月5日(金)

2日目は岡山近郊の2つの国宝を訪ねる。ノープランのまま岡山駅まで行き、そこでようやく交通を調べる気になった。調べてみると、旧閑谷学校は、バスが1時間に1本程度とあまり交通の便が良くないので、こちらから先に行くことにした。
まだ朝飯を食っていないが、スマホのお告げでは、5分後の電車がバスとの接続がよいというので、とりあえず飛び乗った。これを見送ると、またバスを1時間待たねばならなくなるのだ。

閑谷へ

伊里へは約50分。岡山から離れるにつれ、車窓がどんどん田舎になっていく。そして腹も減ってくる。電車は遅れだした。バスは間に合うか。伊里は無人駅だったが、JRから委託された人がきっぷ精算をしていた。岡山駅では急いでいたので Suica で乗ったのだが、(途中の田舎ぶりを見てうすうす勘付いてはいたのだが)当然そんなものは使えず、手動精算で手間取り、その間、バスに待ってもらってしまった。
バスとはいっても、10人乗りのワゴン車で運用している地域バスである。乗客は我々のほかにはいかにも旅行者の夫婦連れだけで(お待たせしてすみません)、途中で地元の若い女性がひとり乗ってきて(お待たせしてすみません)、閑谷学校で夫婦連れと我々が下車した。

旧閑谷学校

閑谷学校
旧閑谷学校講堂(国宝)と小斎(重文)(09:45)
飲室
旧閑谷学校飲室(重文)の内部(09:52)
バス停から閑谷学校までは徒歩数分。駐車場は、まだ午前の早い時間なのに、かなりの車がとまっていた。やがて建物が視界に入ってきた。備前焼の屋根瓦が実に美しい。特徴的な石塀と、広々と美しい芝生とが相まって、開放的な印象だった。
駐車場の車の多さに反して、中は混雑というほどのことはなかった。それだけ広いということなのだろう。人の写りこまない写真が撮れるくらいだった。講堂にあがってみると、なんと実際に、論語の講義をしていた。広間に4、5人ほどの聴講生が1人の講師と対峙していた。外周廊下を一周しながら時折耳に入る声を総合すると、どうやらどこかの会社の新入社員に心構えを説いているようだった。
講堂は建物群の主となる建築で、飲室習芸斎小斎がくっついている。小斎は、藩主が来たときの御成の間ということで、講堂の内部が見渡せるようになっていた。他にも、敷地内には聖廟などの重文建築が20件以上もある。

旧閑谷学校資料館

石塀
石塀(重文)(09:57)
資料館
旧閑谷学校資料館(09:58)
講義中はさすがに内部の写真が撮れないので、敷地奥にある資料館に行くことにした。裏手文庫と、火除山の芝生が、青空に映えて美しかった。火除山は石塀のすぐ近くまで張り出してきていて、山と壁の間が資料館への通路なのだが、人がすれ違うことができる程度の幅しかなかった。
資料館は、明治時代の古い校舎が使われていた。展示品のほとんどは複製品で、そういう点では面白くないが、学校の成り立ちや、卒業生の事績を学ぶことができたのはよかった。そういうことって、ネットで調べりゃわかるんだろうけど、こうして実際の展示を見ないと体系的につかみにくかったりする。
資料館のある場所は江戸時代は寄宿舎のあったところで、火事も出たことがあるという。文庫の裏の火除山はきっと有効だったのだ。印象深かったのは、勉強時間が夜の10時までだったということ。電気のない時代、夜遅い時間に本を読むのはたいへんだったろう。「夜10時」と解説にはあったが、江戸時代は不定時法だったわけで、じゃあ実際はどんな時間割だったのだろうか、と、へんなところが気になった。

閑谷学校を後にする

講堂
旧閑谷学校講堂(国宝)内部(10:30)
講堂
花頭窓がデザインのアクセントになっている(10:31)
講堂に戻るとすでに講義は終わっていた。堂内やらその他の建物やらの写真を撮りまくった。石塀越しに見る講堂が美しかった。
なんだかんだ朝から何も食ってない。学校を出て、バス停までの間の衆楽館なる食事処で朝昼兼用の食事とした。名物だという醤油ぶっかけソフトクリームをやたらと推してくるが、ここは腹減りなのでカレーをいただいた。備前黒牛なるものと備前いちじくジャムのキーマなんだとか。相棒は備前地あなご丼。
食事のあと、バスで山陽本線の吉永駅へと向かった。岡山に戻る。

吉備津神社

吉備津神社
吉備津神社本殿・拝殿(国宝)(13:33)
お釜殿
吉備津神社お釜殿(重文)(13:51)
岡山からは吉備線に乗り、吉備津駅で下車。なかなかの人数が降り、みんな同じ方向へ歩く。駅から神社へはL字に道を進むだけで、迷うことはない。
北随神門をくぐり石段を登る。拝殿から左に出た広場から本殿を眺めるが、建物の巨大さの割に近すぎて、写真を撮ろうとしても超広角レンズでようやく収まるくらいだ。入母屋のふたつ連続した形が珍しい。やや傾斜している土地に建っているのが凄いと思った。

岡山に戻る

地酒
イオンの地酒コーナー(16:33)
吉備津神社を後に、岡山に戻ったらまだ15時。宿に行ってもいいが、まだちょっと時間が早い。偶然、駅地下街直結のイオンに日本酒コーナーがあることを発見し、岡山の地酒を有料試飲で楽しんだ。
夕食は駅直結のホテルの和食ダイニング厨なる店で和食をいただいた。

5月6日(土)

帰りの新幹線は岡山発が13:28なので、午前中に市内を見物することにした。

岡山県立博物館

博物館
岡山県立博物館(09:04)
最初に、国宝山鳥毛を見に、後楽園のすぐ隣の(と言うより中にあると言った方がいいのか)岡山県立博物館へと向かう。ゲームのおかげで最近はあちこちの博物館に刀女子が群れるようになったので、ここも早い時間に見た方がいいという考えだ。博物館へは岡山駅からはバスが至便だが、乗るにはちょっと短い距離。歩くと20分くらいと、これまた微妙。迷って結局、歩くことにした。桃太郎通りなる大通りを真っ直ぐ行って、お城の手前で左折して、橋を渡ると後楽園の入口に向かい合うように博物館が建っていた。ロビーは閑散としていた。ここまでは刀女子の勢力は達していないようだ。
受付を済ませて、1階展示室に入るとすぐそこに山鳥毛があった。上杉謙信が所持していたとかで、謙信ゆかりの上越市が買い取り予算を議決して、地元で賛否を呼んでいるという。上越市には展示する具体的計画がないとも報じられており、すると買い取り後はなかなか見られなくなってしまうのではないかと勝手に思っているのだが、もしそうなったら残念なことだ。
刃文が華麗、というか派手で、我々素人にも親しみやすい。その辺にいっぱい解説があり、それによると刃こぼれがあるので実戦で使われたのではないかという。謙信がこの刀を戦闘で振り回していたのか、と短絡的に発想してしまったが、そんな単純な話ではないだろう。
山鳥毛は、手持ちの本だと「やまどりげ」とあるので、ずっとそう読んでいたのだが、博物館のポスター類は「さんちょうもう」と書いてある。ここで上杉景勝の書状を見ると「さんてうまう」とあった。本が間違っているのか、あるいは有職読みみたいに、どちらでもいいのかもしれない。

後楽園

後楽園
後楽園と岡山城(10:10)
岡山城
岡山城天守(10:24)
山鳥毛を観たのであとはもう大きな目標はない。すぐ近くの岡山城と後楽園を見物することにした。後楽園を通って搦手側から岡山城天守へ向かう。

岡山城

岡山城
岡山城天守:初層の形に注目(10:29)
岡山城
デコ天守(10:36)
岡山城天守は初層が五角形の不思議な形をしている。江戸時代の天守は太平洋戦争の空襲で失われ、今はコンクリ天守だ。この日はなんちゃらキャンペーンで本丸側の壁が色とりどりにデコられていた。意外に合う、と思った。内部の展示はさして面白いものでもなく、すっと通過してしまった。
岡山駅まで歩く途中で備前焼の店に入り、大皿やら猪口やらを買い込んだ。
​駅では地下の食堂街で、大典白菊の純米吟醸を呑みつつ定食を食べ、新幹線でのんびり帰った。
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