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続日本随筆大成その他(江戸)
   底本 … 『続日本随筆大成』   全十二巻 森銑三・北川博邦編・吉川弘文館・昭和54~56年        別巻「近世風俗見聞集」全十巻  森銑三・北川博邦編・吉川弘文館・昭和56~58年    ☆ あおほん 青本    ◯『寒檠璅綴』〔続大成〕③187(浅野梅堂著・安政二年頃成る)   「青本」   〝天明ノ末ノ頃三橋喜三二ガ作、文武二道万石通ト題セシ青本、行麻呂ガ画也。鎌倉ニテ頼朝、畠山重忠    ニ命ジテ文武ニタケタル侍ヲ撰マセ、文ニモ武ニモアラヌヌラクラ武士ヲバソレゾレノ好ムカタニイザ    ナヒテ、二道ニ導キ教ル手段ヲ戯作セシモノニテ、頼朝ヲバイトワカキサマニ画。重忠ノ素袍ノ紋ニ梅    鉢ヲツケ、本多次郎ノ本ノ字ノ紋、土屋三郎ノ三石ノ紋ナド、白川相公ノ初政ノサマヲ暗ニツクリ出セ    シガ、殊ノ外ニ流行シテ、再板セシコロハ、紋ハケヅリタル所多シトゾ〟    ☆ あおものさかなぐんぜいおおかっせんのず 青物魚軍勢大合戦之図    ◯『寒檠璅綴』〔続大成〕③187(浅野梅堂著・安政二年頃成る)   〝已ニ此頃ノ彦根元老浪人者ニ乱斫セラレシヲリニモ、野菜モノト魚類ノ闘争ノ図ヲ出シテ、人々例ノ推    度ニテ、冬瓜ノ鬚、題目書タル旗ノ上ニ、立花ノ紋アルヲソレ也ナンド言モテハヤシヌ。如此モノハイ    ツモイツモ制止セラルヽニ、夫マデノ二三日ノウチニ、売ドコロニテモ利嬴アリトテ、懲スマニ又モ繍    雕スル、忌々敷コトナラズヤ〟    〈歌川広景画「青物魚軍勢大合戦之図」に関する記事。伊直弼が水戸藩の浪士に殺害された「桜田門外の変」は安政七     年三月三日〉
    青物魚軍勢大合戦之図 広景画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ☆ いちまえいえ 一枚絵    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥120(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝正月元日より一枚絵草紙抔、寛政中頃迄は売歩行しが、其後此商人不来哉〟    ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶    ◯『零砕雑筆』〔続大成〕④294(中根香亭著・成立年未詳)   〝英一蝶が事    柳庵随筆に曰はく、江戸真砂【和泉屋某作宝永中の書】に云ふ、本石町三丁目、村田半兵衛・絵師応和    ・仏師式部とて、此三人其比索頭(タイコ)なり。其頃六角越前守とて、新地一万石賜はり、屋敷小川町に    在り。此越前は、桂昌院様甥の由、【姫婿】京都より下り、俄大名なり。金銀は不足なし。吉原へ右三    人召連れて通ひ給ふ。大方浅草伝法院へ、入り田甫へ抜けて通ひ給ふ。     北小路太郎兵衛藤原宗正─┬─ 道 芳     ├─ 女 桂昌院 ┌─ 資 俊     └─ 宗 資───┴─ 女六角越前室    其頃田甫に人殺ありて、六角殿申訳立たず、知行召上られ御預けとなる。其節百人女臈と云ふ書出板あ    り。是は大名方の奥方の善悪を評判したる本にて、忽ち差留らる。右詮議の処、村田半兵衛・絵師応和    ・仏師式部の作なること露顕し、伊豆の島へ流され、十七八年目に帰さる。半兵衛式部は、程なく病死    す。「元禄六年八月十五日、北条安房守掛り、十一年十二月二日遠島」、深川宜雲寺伝説、応和宜雲寺    開山卓禅和尚に参禅して、島より帰て後は、裏門脇の小奄に住せしとなり。客殿の障子の裏に画きたる    松は、島にて常に見馴し松なりとなり     淑按ずるに、一蝶が罪を得たる事は、種々に伝へ来りたれども、此の文尤も近きに似たり。但し其の     獄の初めを元禄六年としたるは如何にや。数字に誤りあらんと思はるゝに由り、他書と対校せんこと     を要す。応和は、一蝶が数号ある中の一なり〟    ◯『零砕雑筆』〔続大成〕④307(中根香亭著・成立年未詳)   〝一蝶在島中の画    七島日記【寛政丙辰の筆記】に云はく、三宅島の中に薬師堂あり。今日詣でたるに、境内広く椎楢など    大木繁り合ひ、巌には玉蔦多く、苔むして草木のたゝずまひいとものふりたり。左右の扉に仁王の画あ    り、仏前の欄間に龍の画あり、共に英一蝶の筆なり。一蝶此の島に在る内、つれ/\なるまゝに何くれ    と画きたるなりといへば、猶あるべしと尋ぬるに絶えてなし。価の貴き故に、皆江戸へ出して売りたり    といふ。又神主が秘蔵したる菅神の画、松樹の本に神像を画けり。松が枝に御衣の袖を隠したる筆ぶり、    上手のしわざうち感じぬ。又浄土宗の寺に、善導大師円光大師の対画あり。真画にていとめでたけれど    も、仏画故に残りたるなるべし。八丈島に奈良ざらしの帳子へ、源氏絵を墨のみにていと細やかに袖に    も裾にも残る所なく画きたるあり。又七福神の画、えびすの鯛をさし上げて舞ふ風情いとをかし。松に    鶴の二幅対など、皆三宅島にてかきたるなりといひし〟    ◯『零砕雑筆』〔続大成〕④311(中根香亭著・成立年未詳)   〝一蝶の小唄     待乳しづんで、梢乗り込む今戸橋、土手の相傘片身がはりの夕しぐれ、首尾を思へば、逢はぬ昔しの     細布と、思ふてけふは御ざんした、さういふことを聞きに、    右は墨水消夏録に見へたるを、拙著歌謡字数考の中に収め置きたり。近き頃木村架空同書を上梓せよと    勧め、自ら校正の労を執りてくれられたるが、其の言に、此の唄末の方誤りあるべし、自分是に似たる    唄を聞きしかど、今は碇と覚え居らず、誰にか問ふべしとの事なりしが、やがて秀英舎の職工中に、其    の唄を知れるものありきとて、其の工人の書きたるを、其の儘贈りこされたり。即ち左の如し。     柳橋から小舟でいそがせ、山谷堀、土手の夜風が、ぞつと身にしむ衣紋坂、君を思へば、逢はぬ昔が     ましぞかし、どうして、今日は御ざんした、さふいふ初音を聞きに来た。    唄の品格は下れども、斯の如くなれば、意昧は能く通ず。思ふに此の唄は、前の唄を本として、更に俗    調に改めたるものと見えたり。さすれば前の唄の末の一句は、次ぎの唄の如く、「初音を聞きに来た」    の誤りなるべし。但ししか改むとしくも、猶「細布と」の下に脱語あるに似たり〟     ☆ いなかげんじ 田舎源氏    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩178(塵哉翁著・嘉永四年(1851)記事)   〝池田屋噺    柳亭種彦といへる戯作者、文政の末より著作の稗史(サウシ)多かる中に、正本仕立といえる、歌舞妓狂言    の模様をさま/\に翻案し、画組(ヱグミ)は俳優(ヤクシヤ)似貌(ニガホ)にして、年々に編を継出して、一時    流行せり、是に続て田舎源氏といへる稗史、こも又歳々に続出(ツヅキイダ)して、天保の末まで数編大き    に行はる、其作哉(ヤ)むかし男の光る源氏を種とし、種々様々に編(アミ)替(カヘ)作り変て、勧善懲悪の意    も有と雖(イヘドモ)、男女の情慾を専にして、放蕩を導くに近し、故ありて暫く出作(シユツサク)梓(アヅサ)を    止む、時の人気(ジンキ)に叶しにや、今茲(コトシ)嘉永よつなる亥年、猿若町なる市村座にて、秋狂言に田    舎源氏を取組作意して、八代目団十郎光氏の役を勤し由、其又戯場(シバイ)にならひて、浅草福富町豪    富の商(アキ)人、光氏に出立て従者男女多く伴ひて、いとたわけたる真似して、向島辺(ワタリ)戯れ遊び、    北の御役所にめされ、掛り合の者共数多御白洲(シラス)ありて、重立し者共は手鎖(テシヨフ)、御預(アヅケ)    の身とはなれり    風聞に光氏出立の者、白無垢【白綾ともいふ】重ね着て帯刀、家来又皆両刀を帯し、側女中何れも片は    づしとかやに髪結て、夫々花やかに衣裳せしとぞ、祭のねりに似たり、     (役と演者名あり、省略)     都合二十九人、     右、翌(十一月)十八日自訴致し、町役人へ御預に成、     落着はいかゞ成しや定かに聞ざりしが、本人光氏の池田屋市兵衛は、しばらく押込られて、若隠居と     はなれりとかや〟    ☆ いろずり 色摺り    ◯『市川栢莚舎事録』巻之五〔続大成〕⑨327(池須賀散人著・明和六年(1769)序)   〝柏延いたつて親に孝心のもの也。親才牛古人となりて追善の折から、父の恩といへる集を作れり。此集    誹心の輩は能しれる所なり。然るに此集本高何程と板行摺上ヶ集出来せし折、三芝居の人々はいふに不    及、才牛迫善に預りし御方へ不残右之集を配りけり。跡則絶板にして板行の板不残火中せりとなん。殊    の外大金の掛りし集也。此集絵入にて色絵摺に工夫仕出しけり。今江戸絵に錦絵杯と工夫して出しけれ    ども、元来栢莚集に色絵摺といふ事仕出せし発端元祖也〟    〈『父の恩』は初代団十郎の二十七回忌追善集。二代目市川団十郎(才牛・栢莚)編・英一蜂、小川破笠画。享保十五     (1730)年刊〉    ☆ うきよえ 浮世絵    ◯『退閑雑記』〔続大成〕⑥35(松平定信・寛政五年(1793)記)   〝いま画といふものは、浮世絵なりといふは激論なり。されど唐の十八学士の図をみて、そのころの服を    もしるぞかし。かの春日石山の縁起、年中行事の画ありて、その頃/\の衣服宮室武器、その余の調度    の製をもしるべし。しかるに画は玩弄のものと成下りしより、芳野のけしきゑがくも、其真の山水には    よらずして、滝なきところへ滝をおとし、松なき山にまつをかいて、只彷彿たるかげをゑがくがごとし。    また今の世のけしきゑがき、すみ田川の遊舫をうかめ、梅やしきのはるのけしきなど画くは、浮世絵の    いやしき流のゑがくところにして、かけものなんどにもたゞ大体をのみ画くなり。かゝる風俗の好尚に    よりては、いまの姿は、後の世何をもてしるべき、山水とてもすでに真の事にはあらず、浪に兎をゑが    き、牡丹に獅子を画くなど、たとひ筆力不凡、彩色目をおどろかすとも、一時の玩弄にして、画の画た    る本意はうすかりけり。それよりして唯一点の墨をちらしたるを、真の山水のけしき成とて、いと高き    事とは心得るなり。さればこのうき世絵のみぞ、いまの風体を後の世にものこし、真の山水をものちの    證とはなすべし。蛮画などは写真鏡にうつしてそのまゝを画けばこそ、横文字しらざるものも、その画    によりてその製度をも察すべけれ。いま又唐画といふものありて、かの沈南頭の写生などをよき事と心    し、山水人物のさたにもおよばず、只かの国の事のみかきて、富士のやまかくこともせず、桜花かく事    をもせざるつたなき画は、玩弄のまた次なるものともいふべからん〟     ☆ うきよえ こうり 浮世絵 小売り値段    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥61(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝役者の一枚絵、天明比迄は西之内紙三つ切、今は二つ切也、三つ切の時分は、新板の絵は一枚八文、古    板の絵は一枚六文、又は糊入紙三つ切にて、一枚二文三文と売たるもの也、今の二つ切は、一枚価何程    なるや予不知〟    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥61(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝草双紙、天明年中迄は、新作の本一冊八文にて、五枚宛綴たるもの、是を上下もの又三冊もの迚統き物    にして、尤祇は白漉の返し紙なり、表紙黄色の紙にて仕立たる物也、是を正月元日より、一枚草双紙と    て売来る、求め、子供への年玉物にしたる物也、今の草ぞうしは、何かこと/\敷致、害事も細かに長    々と書て、さま/\込入たる故、子供の慰にはならず、大人の持あつかふものなり、価も一冊一匁又一    匁五分などゝ有れば、子供の詠めものにならず、根本の訳をうしなひし事、此類近比は余多有りける〟    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥162(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝夏団扇売、寛政中頃迄は本渋うちは、奈良団扇、さらさうちは、反古団扇迚(トテ)、細篠竹に通に売来る    ものなるが、近頃来らざるや、四月上句より六月中売歩行たるもの、役者絵の新板ものなら一本十六文、    其外一通りの絵なら十二文十四文位、其頃迄は、今有る所の一本四十八文三十六文など売はなし〟    ☆ うちわうり 団扇売り    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥162(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝夏団扇売、寛政中頃迄は本渋うちは、奈良団扇、さらさうちは、反古団扇迚(トテ)、細篠竹に通に売来る    ものなるが、近頃来らざるや、四月上句より六月中売歩行たるもの、役者絵の新板ものなら一本十六文、    其外一通りの絵なら十二文十四文位、其頃迄は、今有る所の一本四十八文三十六文など売はなし〟    ☆ えんま 閻魔    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩35(塵哉翁著・弘化四年(1847)記事)   〝焔魔の眼    武の四ツ谷なる内藤新宿大総寺に、安置の焔魔王あり、其像大にして凡一丈余り、年古き像と云、文化    の頃火災にみぐし計持退て、体は其後あらたに建立せしとぞ、今年三月半頃、此焔王の眼を彫抜し者あ    り、片眼抜取ていかにしけん、高きより落て気絶し、その物音に人々折合て捕らへしに、最寄なる鳶の    者といへる職人成よし、水晶の玉とこゝろえ、盗取たる成べしと、様々諸説ありしか共、実は愛児の疱    瘡全快を焔王に祈願せし甲斐もなく、失ひぬる歎の余り狂乱して、其恨をかへせし由也、元より玉眼に    もあらざれど、焔魔王なる故に、さま/\の浮説有しもおかし、      舌をぬく焔魔が娑婆で眼をぬかれうそで内藤評判は大総寺〟     ☆ えんめいいん 延命院    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑨39(塵哉翁著・文政十二年(1829)自序)   (享和三年・1803)   〝僧侶の女犯          谷中日蓮宗 延命院 日道 四十歳    右之者、、一寺住職たる身分を不レ顧、淫慾を恋し、源太郎妹又は大奥部屋方下女ころと及二密通一其    外屋形向女両三人へ艶書を送り、右女参詣之節密会、或は通夜杯と申成し、寺内に止宿致させ、殊にこ    ろ儀懐姫之由承り、堕胎之薬を造、破戒無悲の所行、其上寺内作事の儀、奉行所へ申立候趣と引違、勝    手次第の儀に建直し候儀、重々不届の至に付、死罪申付候者也、     (中略)    右享和三亥年七月廿五日、申渡相済候、脇坂淡路守殿御掛り也、但召捕は五月廿二日なりとかや、延命    院日道は、戯場役者尾上菊五郎が子にして、丑之助とて、安永天明の頃子方にて、舞台へも出て美童な    りし由、いかにして僧とは成けん、此寺の住職と迄なりて、美僧のきこへありしが、かゝる事さへ仕出    して死罪とはなりぬ(以下略)〟     ☆ おかばしょ 岡場所    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥123(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝寛政中頃迄は隠売女所々有之、本所回向院前、牛込赤城社内、芝神明社内、是等は金猫銀猫とて、其外    本郷大根畑、深川清住町、芝田町、本所亀沢町、本郷丸山片町、此外所々有之候て、皆取払となりける、    其頃は下谷御橋左右表裏町とも、ケコロとて二百札の切売繁昌せし、是も同様御取払被仰付、今有所根    津門前、深川八幡門前、音羽観音門前、谷中感応寺門前、一ツめ弁天門前、是等は残りけり、其余は厳    敷御取払被仰付ける〟    ☆ おうぎうり 扇売り    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥35(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝扇売、安永年中迄は、元朝より扇々と云て、正月十四五日迄売来るもの、又天明年中よりは此商人止み    て、払扇箱買ふと云て、元日より来るなり、昔の商人は扇を売計、今の商人は払ひ扇箱買ふと云て、買    たり売たり、扱々賎しき商人の風義にぞなりける〟    ☆ おきないなり 翁稲荷    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩130(塵哉翁著・嘉永二年(1849)記事)   〝三途川老婆    江府大久保表番衆町西の末南頬(ガワ)に、芝三縁山増上寺末にて、妙龍山正受院と云浄土寺あり、小寺    にして小き阿弥陀堂の内に、焔羅王脱衣婆を安置せり、元来淋しき寺なり、此脱衣婆、予覚て享和文化    の唄、小児のくつめき、咳の平癒を祈るに利益(リヤク)あり迚、偶々は参詣もありしが、追々に流行出て、    去年嘉永と改たる秋の頃より、わきて譜願利益ありとて、遠方よりの参詣日々に増り、六の日を縁日と    して、月の三度はわきて群集(クンジユ)とかや、利益の風説さま/\に奇を伝へ、霊験(レイゲン)有由な専    らに伝へあえり、今茲(コトシ)卯月九日、新町なる牡丹の花見の序、正受院に立寄しに、常の日ながら参    詣多くして、狭き堂内へ入事難ければ、遠く拝して過ぬ、地内もいとせまきに、百度参りの男女も十人    計群集せり、     (中略)    日本橋四日市なる翁稲荷も、此二とせ三とせの時行神にて、こも又参詣群集とぞ、此翁に大久保の右婆    を取合せて、さま/\なる戯れの一枚絵摺出して、錦画ひさぐ見世先にも、又多く人足を止む〟     ☆ おにくま 鬼熊    ◯『寐ものがたり』〔続大成〕⑪29(鼠渓著・安政三年(1856)序)   〝鎌倉河岸、豊嶋屋ニ鬼熊と云男あり。大力にて百貫目の石をかつぐ。本所回向院にある熊遊と彫し石な    り〟     ☆ かおみせ 顔見世    ◯『豊芥子日記』〔続大成・別巻〕⑩446(石塚豊芥子・文化十一年(1814)十一月記)   〝顔見世戯話    文化十一戊十一月顔見世、中村座へ若女形中村大吉下り、尾上松助梅幸と改名、入替番附に中村大吉の    足のゆび六本に画きしとて、此故に火に崇ると世間の評判なりし、当座組歌右衛門、市蔵、梅幸、三津    五郎、立役揃て女形少し、市村座へ嵐三五郎、中山舎柳など下り大当り、中村座不入にて、其節何もの    か、      名人が三人よりて狐けん今助化され客はこん/\    市村座大名題「世界花菅原伝授」天神記書替なり、大切浄るり「御摂花吉野拾遺」清元延寿太夫相勤、    富本斎宮改名、    ことし市村座へ嵐三五郎、其外京より下り役者多く、座頭市川三舛も木挽町へ行べき杯聞えて、大名題    の絵にも、三五郎、【金岡】幸四郎、【渡唐天神にて天蘭漢】半四郎【膿藤原時平】のみにて三枡はな    し、然るに霜月四日に、団之助助高屋の絵な画たし、又々三枡天神の荒の所を、絵馬やうの物を画きて、    看板の上につけし、いかなることにやおかしく、江戸わらんべの口ずさみに「座がしらを吹とばしたる    大嵐あたりはづれて三五十八」「市川の七代もてる鉄扇でとく打くだけ嵐三五樹」「看板は荒神様のお    絵馬かとよく/\見れば天神の荒」      嵐三五郎の狐の所作事、【吉野拾遺御目見え狂言に】       名人か何かしらねど野狐の飛あがるほどたかひ給金     市川三枡の三役       天神もすくね太郎も正行もよしの拾遺の雪の大入     (鎌と◯の図あり)かまわぬといへども真の座頭は嵐にまけぬ花の江戸ツ子〟    ☆ かたきうち 敵討ち    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑨32(塵哉翁著・文政十二年(1829)自序)   〝寛政十二申年十月九日、浅草御蔵前片町甚内橋向町屋側横町入口にて、敵討有之、      奥州岩城郡小泉杉之町長三郎忰 長松事       当時浅草片町伊勢屋幾欣郎召仕     敵 喜兵衛【申年四十二】      同国名取郡北方根岸村長町      当時下谷御徒町      一ツ橋御徒櫛淵弥兵衛方に同居       徳力貫蔵【申年二十八】    右は、寛政五丑年二月廿四日、貫蔵母を差殺、立去候〟    ☆ かなりや カナリヤ    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥145(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝カナアリヤ、ジウシマツ唐烏也、天明の始め献上となり、夫迄は唐人共旅館に飼置、帰唐之砌は染馴し    女郎などにくれて行けり、夫より此烏ふへて日本に多なりける、外の小烏と違、雌雄飼置けば、籠之内    にて子をなす故珍敷烏なり、明和比迄は此烏江戸にはなし〟    ☆ かんかんおどり カンカン踊り  ◯『寐ものがたり』〔続大成〕⑪77(鼠渓著・安政三年(1856)序)   〝むかし茸屋町河岸に、かん/\踊りと云、唐人をどりの見世もの出しことあり。蛇ミ線 蛇の皮にて張    りし三味線のごときモノ またかゝる形のかねでこしらへしものを(図あり)たゝきたてゝはやす。    そのうた、     かん/\のふきうのれすきわきですさんしよならへさいほうにいかんさんいつひんたい/\やあァん     ろめんくかおはうてひいかんさん ハウハウトテツルツン/\とはやすなり。    踊り仕舞て 言葉 もゑもんとはぴいハウ/\と云。    又     てツかうにいかんさんきんちうめしいなあちうらいひようつほうつらあさんばちいさいさあんはひい     ちしさいハウトテツルツン    又朝貌はやりし頃なれば、     かん/\の垣根にからむ朝かほのとてつると/\はしたをハウ/\〟    ☆ かんばんかき 看板書    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥145(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝看板書云事、寛政頃より町方看板行燈など書歩行、最初は障予行燈之類張替置て、来るを待て為書たり、    今は紙を持来たり、張たり書たり、次第に世話もなきやうに調法にぞ有ける、なれども看板書計の商内    にて、妻子をやしなひ立派に暮を見れば、書せる人の銭はへるなり、皆此類世上に近年甚多なりける〟    ☆ きくづくり 菊造り    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥216(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝文化十年の秋、染井巣鴨植木屋にて、菊植たる侭にて、さま/\の形ちを造り、初めの内は手奇麗にて、    見ものにぞ有たるが、後には家根の上まで鉢植の菊を以、大造に不二山など作りたる故、見苦敷形など    出来て、初めの内のやうにはなし、最初は一本の菊に枝多、花も三百輪も附て、孔雀、鳳風など造る故、    見ものにぞ有けるゆへ、見物群集する程出たるよし、夫より家毎に茶見世を出し、茶を出しても、家数    四五十軒も右造りもの有る故、誰茶を呑ものなく、左迄茶代にもならぬ故、ひと年切りにて数多造る事    は止みけり、初めの内通りなからば、幾年も見物歓ぶべきに、不手際の品も有たる故、いまはさらにな    し〟    ☆ きよなが とりい 鳥居 清長    ◯『豊芥子日記』〔続大成・別巻〕⑩306(石塚豊芥子・文化十年(1813)五月記)   〝森田寿永続    文化十癸酉五月、森田座百五十余年相続寿狂言相勤、五月十三日、江戸町々へ摺物を配る、同二十日よ    り日数五日間のすり物、     三番叟、寿狂言仏舎利、鳥居清長画、口上左之通、     (以下、口上あり。略。また「寿狂言仏舎利 摺ものゝ写し」あり。署名は「清長筆」)〟    ☆ きらん りつじょうてい 栗杖亭鬼卵    ◯『寐ものがたり』〔続大成〕⑪48(鼠渓著・安政三年(1856)序)   〝遠州見付宿に栗杖亭鬼卵といふ人あり。年とりて仏卵と改む。著述モノ多し。又画もよかりしとぞ。平    生最面白き人物也。近辺へ噺しに行、飯時に皈り(ママ)成り、カヽア殿ナニカお菜(カズ)があるかと間。    妻女、しか/\と答ふ。扨うまくないものばかりだな、どりやお菜を拵へて来ませうと云て出行。ヤヽ    暫くして帰宅し、食事をするに何の菜も持来らず。妻女、お菜はと問へば、イヤ味よき物をたんと拵へ    て来れり、うまし/\と云て快く食しぬ。所謂、ひもじゐ時のまずいものなしなるべし〟    ☆ くさぞうし 草双紙    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥61(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝草双紙、天明年中迄は、新作の本一冊八文にて、五枚宛綴たるもの、是を上下もの又三冊もの迚統き物    にして、尤祇は白漉の返し紙なり、表紙黄色の紙にて仕立たる物也、是を正月元日より、一枚草双紙と    て売来る、求め、子供への年玉物にしたる物也、今の草ぞうしは、何かこと/\敷致、害事も細かに長    々と書て、さま/\込入たる故、子供の慰にはならず、大人の持あつかふものなり、価も一冊一匁又一    匁五分などゝ有れば、子供の詠めものにならず、根本の訳をうしなひし事、此類近比は余多有りける〟    ◯『寒檠璅綴』〔続大成〕③185(浅野梅堂著・安政二年頃成る)   「草双紙」   〝初ハ赤本トイヽテ、赤キ表紙ニ白外題ヲハリテ、丈阿ナド云作者ノ名ヲバ出サズシテ、ナント子供衆合    点カ合点カト云書入セシモノ也。夫ヨリ黒本ニウツル。鳥居清信ナド云画工、芝全交、恋川春町ナド云    作者アリ。其後黄色ナル褾紙ニ赤紙又ハ白紙ニ彩色シタル画外題ヲ押テ、是ヲ青本、マタ黄表紙ナド唱    タリ。作者ハ唐来三和、通笑、可笑、喜三二、芝甘交ヨリ、三馬、京伝、馬琴ナドノ類、画工ハ鳥居清    秀、清重、富川吟雪、同房信、田中益信、石川豊信、北斎、辰政、北尾重政、喜多川歌暦、、勝川春章、    春潮、春林、春好、春常、春鶴、久川春英ニ至ル。是ヨリ馬琴ノ金瓶梅、種彦ノ田舎源氏ニ至テ、豊国、    国貞、英泉ノ画精繊ヲキワメ、表紙モ廿遍摺位ノ彩色ノ緻縟ヲ尽セシモノトナレリ。天保ノ末質素ノ制    アリテ、カヽルモノモ禁ゼラレ、墨ガキバカリノ画表帋ニテ、大学笑句ナド云草紙出来タリシガ、夫モ    ワヅカニ年バカリノウチニテ、田舎源氏ノ跡モ名ヲカへテ足利絹ト題シ、又朧月猫双紙、朝貌双紙、大    和文庫、大晦日曙双帋ナド云草紙イクラモ出来テ、繊麗ハ愈巧ヲツクセリ〟      〝草双紙ニ作者ノ名ヲ出スハ、和祥ハジメ也。喜三二ハ酒落タル事ヲ作リ、通笑八平常ノ事ノ穴サガシヲ    旨トス。近時三馬ノ浮世床、浮世風呂世態人情ノ酒落穴サガガシトモ尽セシモノニテ、岡山鳥ガ廿三夜    待卜云モノ、屋敷方ノコトヲウガテリ。一九ガ膝栗毛六十冊、実二滑稽ノ巨擘、人ヲシテ笑倒セシムト    云べシ〟    ☆ くじら 鯨    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥161(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝寛政七年三月、品川沖へ鯨流寄けり、何方にて突たる鯨なるか沖に浮たり、見物のもの船にて参りしが、    臭気つよく鼻を閉て舟より見るなり、予も見物に参しが、一向魚の形はしれず、大なる敷紙の浮たるや    うに見へける、甚く臭気有りて寛々とは見られず、其時官医橘立花殿の狂歌に、      打寄する波は御浜のおにはぞと鯨の汐をふくは内うみ〟       ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑨23(塵哉翁著・文政十二年(1829)自序)   〝寛政十戊午年五月朔口、品川浦へ鯨魚流れ来る、尤死して流れよりし也、浜御庭先へ引寄て上覧あり、    此夏団扇絵手ぬぐひ等に、鯨を画くもの甚流行せり、鯨魚種類多し、其中せみ鯨とかいへる也とぞ、      品川の沖にとまりしせみ鯨みなみん/\と飛で来るなり  しかつべ真顔      袖が浦の丈を鯨にとりかぢや船でみはゞの前うしろ哉   芝光々    品川洲崎浦鯨魚之図、長洲鯨の類也、    頭四問、背通り九間、眼長さ六寸、玉一寸六分、上腮短く下腮長し、歯なくして鰭尾なり(以下略)〟    ☆ くにさだ うたがわ 歌川 国貞    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑨140(塵哉翁著・文政十二年(1829)自序)   (文政十年・1827)   〝傚顔見世番附小伝    淫婦小伝(インフコデン)といへるは、天明寛政の頃、芝に名高きお伝と云し義太夫節の名人あり、そが門弟    にして其業にも秀(ヒイデ)たれば、師の名を継で小伝といふ、今や戯場役者秀佳【古是の業の男、三代    目板東三津五郎】が妻たり、抑(ソモソモ)淫婦にしてみそか男多かる中に、路考【三代目路考養子、菊三    郎が男、六代目瀬川菊之丞】に密通して其事かくれなく、世の中の噺草とはなりぬ、さるを何人か戯れ    つくりけん、顔見世の入代り番附に似せて、其たわれ男の数々を、浮世絵師歌川国貞が筆して写し出つ、    桜木に載せて専らにもてあそぶに、程無く其判を禁じらる、此番附摺出すの費(ツヒヘ)、百金に余れりと    かや、又利を得る事二百金に過たりと、痴呆(タワケ)たる事にしはあれど、大江戸の広き、他国にはあらじ、    予も亦痴漢(タワケ)の数に入て、乞見て爰に写し、後の笑草とはなしぬ    (顔見世番付風小伝の写しあり。署名は「不器用絵師 出茂又平筆」)〟     ☆ くにもり うたがわ 歌川 国盛    ◯『寐ものがたり』〔続大成〕⑪33(鼠渓著・安政三年(1856)序)   〝歌川国盛といへる絵師、其頃は【蓬莱春升といふ】青山辺より出火して高輪迄焼シ時、麻布日ヶ窪・永    坂辺にて人多く死す。春升、永坂の裏屋に住ける。彼が親は中風の気昧にて、行歩ちと不叶ひなり。四    ツ谷戒行寺と云寺に居たりしが、ちんばひき/\駈来り見れば、永坂辺は真ッ風下にて、既に危き時分    也。早々春升が宅へ来り見れば、春升二階にて自若として絵をかき居たり。親父あきれて、イヤ早とん    だ人哉、早く迯ぬか、焼死ぬぞといわれ、春升、先に表へ出て人に聞し時、気遣ィなしと申たりしがと    言ながら、筆をもつた侭下へおりると、最早五六軒脇まで焼来る。父子連立、ヤツト高稲荷の山へ迯て    命ばかかりは助りける〟    〈『武江年表』によると、青山から出火して高輪辺まで焼失したのは弘化二年(1845)の火事〉    ☆ くによし うたがわ 歌川 国芳    ◯『寒檠璅綴』〔続大成〕③187(浅野梅堂著・安政二年頃成る)   〝天保ノ末、浜松相公罷政ノ時、頼光土蛛退治図三枚ツヾキノ錦絵出板シ、頼光ハ曲彔ニ倚テ居眠リ、青    海波ノ模様ノ素袍キタル季武、水車ノ模様キタル六曜ノ星ヲ裏銭ヲ并べタル如ク模様取タル四天王ノ輩、    肱ヲ張空ヲ脱ルモアリ、碁盤ニ凭テ眠ルモアルガ、大キナル土蛛ノ頂ノ斑ハ暗ニ矢部駿河ガ紋所ニ似タ    ル黒点ヲナシ、妖魔ノ眷属坊主アリ、山伏アリ、梵天ノ旗ヲタテ、ソロ盤ノ甲ヲ着、岡場所ノ売女、十    組ノ問屋、女髪結ノ類、異類異形ノ怪物ヲ画キタリ。コレハ国貞ノ門人国芳後【後ニ二代目国貞トナル】    卜云モノカケリ。殊ノ外ニハヤリテ、金ヲ以テコレヲ購ニイタル。絶板ニナリテハ、愈狩野家ノ名画ヨ    リ尊シ。コレヨリ事アル度ニ、何トモワカラヌ怪シゲナルモノヲ画タル錦絵ハヤリテ、観者サマザマニ    推度シ、牽強附会シテコレヲ玩ブ〟    〈浜松侯は老中水野忠邦。天保十四年春の出版、一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」(大判三枚続・伊場屋板)     である〉    ☆ けころ    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥141(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝寛政二三年迄は、上野大師朝参り迚、三日十八日には明七ツ時より、参詣群集しけり、其頃は広小路裏    表ともに両側、夫より五条天神表裏折廻し、仏店とて、一円にけころと名付切売の売女あり、何も娘風    俗にして、十五六より二十二三を限りて、いかにも譁(ヤサ)がたにして、二百文の切売繁昌しけるが、隠    売女一統御取払の砌、是も取払になりける、夫よりして上の大師朝参りは、いつとなく朝参る人さらに    なし、さすればけころへの参詣にて、大師は附たりか、誠に有信増進はなく、物見遊山なるか、今浅草    観音参詣朝参りもあれど、多く遊山の心より発して、参詣の心になる人多し、信より発し参詣する人、    百に一人もありや〟    ☆ けん 三人拳    ◯『豊芥子日記』〔続大成・別巻〕⑩306(石塚豊芥子・文化十年(1813)正月記)   〝此頃の流行にて、潮川にて三人打寄りて、     猫と雉子と狐の鳴くらべ     アレきかさんせ/\/\     アレ化しやんせ/\/\     ニヤン/\/\フウ/\ケン/\/\     ケン/\コン/\コンケンニヤンの     ケン/\/\コンニヤンフウケンコン     クワイ/\/\ヲニヤニヤンヲケン     スココン/\ト    是酒興にて一座打寄り、同音にはやし戯れ笑ひしもの、酒をとふべる事、拳と同断なり〟    ☆ こうかん しば 司馬 江漢    ◯『石亭画談』初編〔続大成〕⑨206(竹本石亭著・明治十七年(1884)刊)   〝死人不言 司馬江漢    司馬江漢、名は一峻、字は君岳、春波楼と号す。江漢の時洋画いまだ開けず、蘭人僅に外科医法を伝ふ    るのみ。独江漢始て洋画を学び、銅板の画を製す。後世洋画の盛なる詢(マコト)に江漢を先学者と為也。    江漢曾て事故ありて、偽り已(スデ)に死せりとなして芝某町に潜居す。或人途上にて江漢の後背を見追    て共名を呼、江漢足を逸(イツ)して走る。追もの益呼て接近甚迫る。江漢首(コウベ)を回し目を張て叱(シ    ツ)して曰、死人豈言を吐(ハ)かんやと。再び顧(カヘリミ)ずして復走ると云〟    ◯『寐ものがたり』〔続大成〕⑪12(鼠渓著・安政三年(1856)序)   〝司馬江漢 油絵に名あり と云る絵師、老後わが宿の向の家にかゝり居たり。折節父の許へ咄しに来り、    寒暖汁の筋引て給われと頼みし事あり。則引て与へしかば、その礼心にや、画を呉ぬ。表具して掛たり    しを幼少の時見たりしが、絹地に墨絵の富士也【江漢が画しなり】其後江漢、またその絵を外人に望れ、    召使し姥を以て、先達て進らせし富士の絵、御不用と見へてろく/\礼も申されず、返さるべしと、一    ト通り江漢のロ上を述、さて跡にて、かの姥気の毒そふに、私には右様の御使には参り難しと申けれど    も何分聞ず、一旦進上せしものを還せなどゝ誠にわからぬ老人也とて、散々に誹謗しける。それに搆し    事もなければ、右の図をとり出し帰シ遣りぬ。姥持帰り、江漢に渡しければ、江漢何と申されしぞと問。    何共申されずと云。江漢気の毒にや思ひけん、紅毛の松明とか云ものを、又姥に持せて、これは表具な    されしかわりなりとて遣シけるを、わが父請給わず、持て還るべしと云。かの姥むりに置て帰りぬ。返    して来よと、われらに申付られし故、又持て江漢の許へ行、返しければ、何やら小箪笥の引出しより出    し、これはおまへの持遊ぴに進ると云。われら幼少ながら、取ては悪しかりなんと思ひ、入り候はずと    云て暇乞して帰る跡より、又姥に彼品もたせ遣し、足非受納あれといふ。父なる人、面倒なり貰て置と    いわれしかば、礼いふて帰しぬ。江漢、姥の帰り遅しと待かね、どふした取たか/\と問。姥答へて、    礼言て御請被成しと云ければ、夫でよし/\漸く安心したりと云たるよし。    彼品は鉄にて作りし香箱の如き物也。至て麁品なれども紅毛細工のよし 今に所持。      江漢、元は芝新銭坐に住しが、子細ありて女房は離別し、娘一人もてり。その娘に持参三十両付て、わ    れら男子なき故、老後に引とり呉よと云約束にて、所惣左衛門と云人の許へ縁付し由也。聟惣左衛門、    先二没しぬ。その跡へ入夫して、これも惣左衛門と名乗。その男は越後者にて古今の俗人なり。或時江    漢に、惣左衛門はいかにと問ば、右様なる男といふは阿蘭陀にもなしと言り。    江漢、紅毛絵を画き、又蘭語も少々は知りて居たり    江漢の唱しに、平賀源内はおもしろき男なり、或時儒者来り、源内ニ対し、われら学文にては中々足下    には負まじと思へども、人足下を知りてわれを知らず、如何なる事ならんと云、源内答へて、名を高ふ    せんには著述をするがよし、貴所の学力にて著述せられなば暫時に名はあがるべきと云、彼儒者、著述    せんにも金子無くては叶わずといへば、それは人に借るがよしとと云、借りても返す事難しといへば、    返ず時分になりなば、外より又借りて返すがよし、又其金返す期にならば、ヌかりて返すべしと云、夫    にては始終借金になり、埋方なるまじといへば、源内面を正し、其内には貴所が死るか、借たる人が死    かして仕舞へしと云〟      ☆ ごがく やしま 八島 五岳    ◯『零砕雑筆』〔続大成〕④232(中根香亭著・成立年未詳)   〝五岳の今様     淋しき庵の冬ごもり、味噌する音もおもしろし。あるじは客にはたらかせ、峰の白雪置き炬燵    五岳は詩も画も善くして、世間に儘あれど、斯かるたぐひのものはいとめづらし〟     ☆ こけまる さけのうえの 酒上 こけ丸    ◯『寐ものがたり』〔続大成〕⑪69(鼠渓著・安政三年(1856)序)   〝酒の上のこけ丸とて、ちとたらわぬ男あり【西丸御馬乗市川七郎兵衛】浅草市に行、買物して返り見れ    ば、つとの内に海老なし。いづくへか落せしならん。こけ丸とりあへず      伊勢海老もいつかつとからぬけ参り道も賑ふたい/\とかや    年始に出しとき、ある所にて、市川さんあがれ/\といわれ、      市川は奴凧とや見られけん風もないのにあかれ/\と    書画の会席にて、久保町辺より来りし狂哥師のよしにて南堤といふ画師に、なにかとつけもなき物をか    きて呉よといふ。南堤、弐ッ三ッ規を画き、かたわらへ塞をかきければ、彼男いつ迄もながめてばかり    居てなともいわず。我らかたわらより      双六の塞はみやこへのほるのに吾妻へくたる業平蜆〟    ☆ こでん 小伝    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑨140(塵哉翁著・文政十二年(1829)自序)   (文政十年・1827)   〝傚顔見世番附小伝    淫婦小伝(インフコデン)といへるは、天明寛政の頃、芝に名高きお伝と云し義太夫節の名人あり、そが門弟    にして其業にも秀(ヒイデ)たれば、師の名を継で小伝といふ、今や戯場役者秀佳【古是の業の男、三代    目板東三津五郎】が妻たり、抑(ソモソモ)淫婦にしてみそか男多かる中に、路考【三代目路考養子、菊三    郎が男、六代目瀬川菊之丞】に密通して其事かくれなく、世の中の噺草とはなりぬ、さるを何人か戯れ    つくりけん、顔見世の入代り番附に似せて、其たわれ男の数々を、浮世絵師歌川国貞が筆して写し出つ、    桜木に載せて専らにもてあそぶに、程無く其判を禁じらる、此番附摺出すの費(ツヒヘ)、百金に余れりと    かや、又利を得る事二百金に過たりと、痴呆(タワケ)たる事にしはあれど、大江戸の広き、他国にはあらじ、    予も亦痴漢(タワケ)の数に入て、乞見て爰に写し、後の笑草とはなしぬ    (顔見世番付風小伝の写しあり。署名は「不器用絵師 出茂又平筆」)〟    ☆ さござい    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥61(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝さござい/\、天明の末寛政始めは、正月元日よりさござい/\迚(トテ)往来へ来たり、子供を集め宝引    迚、細き紐五六十本一把にして、中一本へ分銅とて橙を結付、銭一文に五六本宛売附置て、分銅の付た    る一縄を引ければ、当り人一人有り、是へは草ぞうし又はびいどろのかんざし、共外さま/\子供の好    みの品ども持来りて為取ける、勝負事にはあれども、正月始より、往来是にて扨(サテ)々賑かにて、子供    など此声を聞く時は、急行て楽しみたるものなりしが、後には銭など取らせたる事にや、厳敷停止とな    りけり、いまに辻々へ、年暮に宝引無用と云張札出しは、此事なり、尤此頃は辻博突と云ふて、田舎道    は申に及ばず、柳原辺其外盛場には、出て往来の人の金銭を取る事専らなり、松平越中守殿御役より、    此類厳敷停止となりけり〟     ☆ さつき のぼり 皐月幟    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥51(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝五月内幟は、天明の末より寛政始比、専らとなりける、誠に手軽の工夫なりしが、次第奢に長じ立派を    尽しける故、今は外幟よりも、価高直なるも有りけるとなん〟    ☆ さるわかちょう 猿若町    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩216(塵哉翁著・嘉永七年(1854)記事)   〝戯場焼失    嘉永七甲寅十一月五日夜、浅草聖天町裏家より出火して、猿若街三町戯場、中村市村河原崎の三座とも    に類焼し、聖天町、山の宿、三谷、花川戸川端まで焼出て、其火小梅村に飛移りて、水府御下屋鋪類焼、    御時節柄厚く御用意の焔硝蔵、防留専らにして、御殿向其外残なく焼失とぞ〟    ☆ さんはこ 三箱    ◯『寐ものがたり』〔続大成〕⑪40(鼠渓著・安政三年(1856)序)   〝田舎(デンシヤ)と云る男、さそくのよき男にて色々の事を案ジ一枚画に出し流行らせる。或時、三組の盃    といふ物を拵へける。是は、当世に名高き文人、其外碁・将棋・絲竹の道迄も撰み、其内最モ達したる    を三人ヅヽ出しけり。仮令ば、狂句師祖山・株木・縫惣などゝ撰しなり。三箱元より田舎と善(ヨ)かり    しが、三組盃ニおのれが名をのせざるを憤り、さま/\に誹謗せしを、田舎きゝて笑居しが、又或時、    田舎工夫して神仏相撲図といふものを出したり。三途川の姥 四ツ谷 と翁稲荷 四日市 とすもうをとり、    其外の流行神は皆たまりニ扣居る、その中に呼出し奴、うしろ向の図に(四角に「ハコ」の字を配した    紋様図あり)かやうの紋を付しは三箱とみへたり。扨、上の処角力取組の如く筆太に書しは、世に憚る    事を隠してそれと知られるやうにせし也。譬ば、遠近山【北町奉行遠山也】三ツ柏【南町奉行牧野】。    田舎、三箱の許へ来り、此絵はいかにと言て一枚与へける。三箱見るより、その趣向には頓着せず、只    わが姿のありしを見て大きに悦、是は必流行べしといふ。神仏の角力になんでわが身の這入しや、一円    わけもわからず、たど錦絵に出たるを悦びけるもおかし。    田舎、右の絵のことにつき、奉行所ぇ呼れ、神仏角力と申絵を出せしは其方なるやと御尋、私なりと云。    遠近山とはいかなる訳ぞと尋られ、都て加様の品は遠近ニ張りませんければもうけに相成ませぬ故、其    縁起にて遠近山と為書候也といふ。然ば三ツ柏とはいかに、恵比寿さまの紋所なりと答ければ、馬鹿者    めが、あれは蔓柏だぞと言て叱れたりと、田舎笑ながらかたりき〟    〝三箱(サンハコ)は三田通り新丁、已前は箱屋なるよし。名は伊三郎、異名を達磨といふ。刺(ママ)髪して自    ら座禅堂といふ 狂句師又モノハの点者なり〟    ☆ じがみうり 地紙売り    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥25(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝明和七八年迄は、四月より七月中比迄、地紙売とて扇の地紙を売歩行て、好む人あれば直に折て、骨を    さし行たるもの、此男の風俗は至て花形にて、羽織を腰に挟み白足袋をはきて、何れも若き男計り、老    人は歩行ず、其頃は地紙売の一枚絵出たるもの也、薄き扇杉の組箱を肩に乗て、地紙々々と声を引て売    歩行しが、安永の比よりいつとなく止みにけり〟    ☆ じせい 辞世    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩193(塵哉翁著・嘉永五年(1852)記事)   〝非人辞世    嘉永いつゝのとし文月半、下谷広小路に、四明堂とかやよべる卜者(ボクシヤ)あり、夫が床店(ミセ)の際に、    日を贈りぬる乞食(コツジキ)ありて、名を六と呼、夜は其床の内に寝て朝またきに起出て、店を開らき掃    除して、卜者の来るを待、夜に入店仕舞頃、又朝のごとくに取片付、しかして後に来り臥(フス)事、日々    夜々前の如し、卜者も馴(ナレ)て目をかけしに、或日店のひらかざれば、卜者来りて開きみるに、いつし    か六は絶(タヘ)入て、傍らにめんつう一つあり、其器の裏に一詩を書(カケ)り、      一鉢千家の飯        孤身幾度の秋       空しからざれば還た食はず  楽しみ無ければ亦た憂ひ無し      日々暖かし堤頭の草     風涼し橋下の流      人如(モ)し此の六に問はゞ   明月水中に浮く(がごとしと答へん)〟     ◯『豊芥子日記』〔続大成・別巻〕⑩456(石塚豊芥子・文化十一年(1814)十一月記)   〝市栗蔵辞世    文化十一戌十一月、市川男女蔵弟子、中役者市川栗蔵終る。      辞世  そめわけの手綱かはつてぜんのつな弥陀の浄土へかえる実役〟    ☆ しちごさん 七五三    ◯『【寛保延享】江府風俗志』〔続大成・別巻〕⑧18(著者未詳・寛政四年(1792)十一月記)    (寛保(1741~1743)~延享(1744~1747)年間の風俗記事)   〝水茶屋も寛保頃迄は、浅草観音地内、神田明神、芝神明、あたご或は両国等に有計にて、町中には無之    事也、道路にては何程休度思ひても、右の場所迄も行届かざれば、茶見せは曾て無之事也、たま/\は    端々に有所の茶屋といへ共、床机一つ二つに、土へつつゐに古茶釜【茶わんはきん形のお室やき、年玉    茶わん】にて、渋茶の事にて有し、今(寛政期)の如く奇麗に成たる初は、芝切通しに一ぷく一銭とて、    唐銅茶釜をたぎらかし、其侭りん/\と鳴し、茶碗等より奇れいして、況や茶芽久保宇治等を用ひたる    事也、夫より諸々沢山出来たる事也、延享の末に新橋朝日といへる見世出来、又其頃にしがらき抔出来    て、此頃より下々にても上茶飲覚えて、殊外はやり、夫故おごり付て唐茶はやりしが、是は除り気づよ    き抔いふてすたりし也〟     ☆ しゅんしょう かつかわ 勝川 春章    ◯『退閑雑記』〔続大成〕⑥75(松平定信・寛政八年(1796)記)   〝春章となんいふ、うき世絵かく人は、いと心たかくて、すでにこの春章がかいたる画は、殊に高料にな    る事なりしを、いとはぢて、ひなびたる画はかくまじとて、友どちに乞て米銭少しとりあつめ、甲州の    山へみとせ計もかくれて、もはらふるき画をのみ学び、乙卯の春のころまた出ぬ。それよりはいかにい    ふとも、うき世絵はかゝざりしとぞ。たしかなる物語なり。春章の気象ことにすぐれておかしけれ〟     〈乙卯は寛政七年。この記事によれば、寛政四年~六年まで三年間甲州に隠居修行していたことになるが、春章は寛      政四年(1792)十二月八日没である〉    ☆ しょうじょう 猩々    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑨253(塵哉翁著・文政十二年(1829)自序)   (天保六年(1835)七月)   〝猩々似童        豊前国宇佐郡宇佐八幡社領小浜村猟師之由                善助忰 岩 八 十一歳                  喜 八 八歳     (中略)    右両童子は、頭髪甚赤く、もろこしの毛にひとしき由、世にいふ山師といへる者買取て来り、頭毛の赤    きより思ひ附て、狸々に仕立見世物にせんとて、専らに踊など仕込おるを、廻り方の役人聞得て、町奉    行所へ呼出し吟昧ありしとて、右の書物は得たり、童が伯父といへる者彼山師なる歟、    附説して曰、猟師善助が妻くに、ある日山に行て薪を取帰らんとするに、忘(ママ)然として暫く人事を覚    へす、やがて心附て我宿に帰る事あり、共頃より懐任して射八を産り、又年立て後も薪を山深く取の日、    同じくして喜八をうむ、是山精山鬼のたぐひ、交りて此童等を産したるか、かゝる奇怪の児を二人迄も    ふけたるを恥て、何国へか竹衛知れずなりけんと、    翁思ふに、もし山鬼のたぐひ交りて、体をなせしものならんには、毛髪の赤きのちみならん哉、外に人    間にたがへる処あるべき也、世に白癩といふもの、頭髪赤くして面色は白艶なるもの也、もしくは其た    ぐひにや〟     ☆ じょうるり 浄瑠璃    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥24(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   (明和年間の浄瑠璃)   〝土佐上下に外記袴、半太羽織に義太が股引、豊後可愛や丸裸かと皆申けり、其頃は土佐節、外記節、半    太夫節、義太夫、豊後、何も流行たるものなり。明和比迄は長唄めりやすなどは、狂言の相に少しまぜ    て唄たるもの、今の様に長唄流行はせざるなり〟    ☆ しらまゆみ ひたえもん 白真弓 肥太右衛門     ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩216(塵哉翁著・嘉永六年(1853)記事)   〝新相撲      丈同さ六尺八寸 飛騨国出生 白真弓肥太右衛門 丑年二十歳     貫目 四十貫五百目    今年勧進冬相撲より出る、力量七八人に対するとや、丈高く肉合よく、稽古よく整はゞ、大関たらんと風    評あり、弘化の末年平戸の産のよし、生月鯨太左衛門と言て、其頃十八歳とか、嘉永元酉(ママ)年冬、勧進    に出て土俵入計、丈は六尺五六寸、脊(セイ)高き計肉少く、階子(ハシゴ)を押立たる如くにて、稽古あれども    取組ならずして、始終土俵入計にて子年の末没せり、彼とは事変りて、白真弓(シラマユミ)はよき力士ぞと評    判あるによりて、贅して後の幕入を待、      かゝる札のありとは誰も白真弓生れし国の名も肥太右衛門      白真弓ひくや贔屓のちから弦(ツル)その給(タマ)ものはたしか関脇                              戯文堂狂    (略)    街々にひさぐ姿絵には、飛騨の国大野郡木谷村の産にして、力量五十人力余としるせり、浦風門人といふ〟    ☆ しんふじ 新富士    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥36(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝新富士を築立事、安永七年より初て、高田に水稲荷と云境内へ築立ける、夫より所々へ出来せり、護国寺    山内、深川八幡、鉄砲洲稲荷、白山境内、青山辺四ツ谷辺、数ケ所築立ける、江戸の富士と云は、駒込村    寛永年中築立、其後浅草竹門裏道、根津七軒町、近比迄は此三ケ所なり、元祖と云は駒込不二、夫故富士    前町と申、外に此町名なし〟    ☆ すけのぶ にしかわ 西川 祐信    ◯『豊芥子日記』〔続大成・別巻〕⑩433(石塚豊芥子・文化十一年(1814)十月記)   「第十一謎々大流行」   〝(謎の本)中本一冊、西川祐信筆、外題不知    「謎背紐」序【一名謎遊び】【享保十二年の序文あり/同十三年の年上梓】    (序文と謎々の例あり、略)     享保十三年戊申正月吉日        四条寺町西入 めとぎや勘兵衛〟   〝「謎絵東文字理」上下二冊、序     霞たつ山の端に、春をぞ告る鶯の梅に来なけば、とりまぜて吉原雀も、明方をしらするとさへづりま     はるもじり口、東からあみしあづまのなぞ、とりあつめかきあつめ、西川氏の艶なる筆にうごきをよ     せて、児様達の御なぐさみの、絵づくしとなす而己、      于時酉あつめたる春の始、           吉原堂雀囀軒     (謎々の例あり、略)     享保十四年正月吉辰               江戸日本橋南二丁目  小川彦九郎               大坂心斎橋筋久太郎町 瀬戸物屋伝兵衛               京西堀通下立売下る町 井筒屋堀井軒〟     〈酉は享保十四年(1729)、西川氏は西川祐信か〉    ☆ すめひめ 寿明姫    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩159(塵哉翁著・嘉永三年(1850)記事)   〝嘉永三庚成年、右大将家祥公御簾中澄心院様御逝去、一条殿姫君寿明君、御祥日六月廿四日、御内実は    六月四日暁、御出棺七月三日、御別当春性院    去酉年九月十五日、京都御出輿、十月三日御着城、同十五日御縁組御弘被仰出、十一月廿二日、西丸御    入輿御婚礼〟    ☆ すもう 相撲    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩89(塵哉翁著・嘉永元年(1848)記事)   〝嘉永元年申年於本庄回向院勧進角力 幕の内一連      東     江戸 剣山谷右衛門   村松 鏡岩 浜之助     江戸 小柳 常吉    丸亀 稲川政右衛門     庄内 常山 五良吉   丸亀 厳島関右衛門     仙台 荒熊 力之助   姫路 武蔵野 門太     江戸 杣ヶ花淵右衞門  姫路 広ノ海富五良      西 横綱     盛岡 秀ノ山雷五郎   江戸 荒馬吉五良     平戸 御用木歌右衛門  延岡 友綱 良助     江戸 天津風雲右衞門  因幡 猪王山森右衞門     相良 熊ヶ嶽 猪助   肥後 雲生嶽霧右衞門     江戸 君ヶ嶽助三郎   八戸 階ヶ嶽龍右衞門        雲早山            勧進元 追手風喜三郎           差 添 雷 権太夫            世話役 鏡川浪右衞門                宮城野馬太郎〟                   ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩130(塵哉翁著・嘉永二年(1849)記事)    〝吹上相撲     嘉永二酉年四月十八日、吹上十三間御門外に於ゐて、上覧相撲百四十番、外稽古地取十五番、并御好十     八番、都合百七十三番、御中入前後七十番宛、二段目相撲より追々取上     (取組・勝敗あり、略)〟    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩216(塵哉翁著・嘉永六年(1853)記事)   〝新相撲      丈同さ六尺八寸 飛騨国出生 白真弓肥太右衛門 丑年二十歳     貫目 四十貫五百目    今年勧進冬相撲より出る、力量七八人に対するとや、丈高く肉合よく、稽古よく整はゞ、大関たらんと風    評あり、弘化の末年平戸の産のよし、生月鯨太左衛門と言て、其頃十八歳とか、嘉永元酉(ママ)年冬、勧進    に出て土俵入計、丈は六尺五六寸、脊(セイ)高き計肉少く、階子(ハシゴ)を押立たる如くにて、稽古あれども    取組ならずして、始終土俵入計にて子年の末没せり、彼とは事変りて、白真弓(シラマユミ)はよき力士ぞと評    判あるによりて、贅して後の幕入を待、      かゝる札のありとは誰も白真弓生れし国の名も肥太右衛門      白真弓ひくや贔屓のちから弦(ツル)その給(タマ)ものはたしか関脇                              戯文堂狂    (略)    街々にひさぐ姿絵には、飛騨の国大野郡木谷村の産にして、力量五十人力余としるせり、浦風門人といふ〟    ☆ せきしょう 石菖    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥169(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝文政七年八月より十二月廿日頃迄、石菖の鉢植流行せり、先年の立花の如し、さま/\替りたるもの出来、    斑入又は異形の品等分たる事二三十種を過たり、中にも高金之品は、有栖川、政宗、黄金、虎の巻、雪山、    黒龍、腰蓑、黄島、虎髭、昼夜などゝ申て大造に流行ける、其品々今に間々有之けるが、今は雨落或は泥    腐の淵などに植置なり、誰振向見るものもなし、流行と云ふものは何の訳やら、人々移り気たるものなり、    其時予根津薮下植木や勇蔵方にて、流行始めに政宗と云片身替り之石菖七鉢にて、金一両一分に買、両三    日過染井花や茂右衛門来りて、金四両二分に買度よし申故、金五両に売遣ける、直さま翌日彼茂右衛門、    四ツ谷大木戸相馬何某方石菖会へ持参し、金七両に売ける、又有栖川と申を八寸ぐらいの香炉に植付有之    を、予植木や清助より金十両に買受、直さま番町七郎左衛門殿と申御旗本へ、十三両二分に売けり、是を    売たるは十二月十六日、同廿日頃より俄直段下落して、損せしものも有り、予は仕合よく、僅十四五日之    問に彼是八九両徳分有ける、流行と云もの、手廻し能く慾少くすれば損はせまじ、夫をまご/\と引張居    ると損をするなり、流行ものは面白物也、是は若ひ丁簡でなければ出来ぬ也〟    ☆ せんざん 七世 沾山    ◯『寐ものがたり』〔続大成〕⑪24(鼠渓著・安政三年(1856)序)   〝沾山墓は、麻布六本木、光専寺 浄土宗 にあり。    高サ壱尺七八寸位の硯なり。図のごとし。    左リ脇に、仁誉越山智海居士 嘉永四 辛亥 年十一月十一日    背面ニ 五行左の文あり、    合歓堂七世沾山は北越魚沼郡の産にして位法眼に叙し連哥漢和を学び俳諧の奥義に至りしは是泰平国恩    の徳沢を蒙りし物なるべし    右脇に、      極楽に百とせ住し終りには小松野石と化して千代経ん    此石、小松とやらいふ石のよし、彫工は石斎なり〟    ☆ せんじゃふだ 千社札    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥51(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝神社仏閣千社参の札な張る事は、天明年中、椛町十二丁目てんかうと云男、参詣せしを覚への為めに張    たるを、其後同五丁目吉五郎と申男、是も又天紅同様に張たるなり、寛政中比より此札を張る事名聞と    なりて、参詣拝もせず、唯いたづらに、張歩行なり、近頃見れば下谷三枚橋御橋の本にて、三月十八日    或は晦日、此連中と見へて互に札を取替する也、是を思へば其人々、最寄々々へ互に張遣す事と見へけ    る、何事も唯名聞のみ流行て、芸者風又は物知り顔計で、腹に物なき人多かりき〟    ☆ たこ 凧    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥199(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝安永の中比迄は、かわらけ鳶と云凧有り、紅売にてぬりたる鳶凧有りしが、其後見掛ず〟      〝同年比より奴凧と云を張出し、今有所の奴凧也、其比迄は土器鳶四ツ谷鳶とて、口嘴の付たる、又すほ    うにて染などしたる鳶凧、さま/\の鳶凧類有りしが、いまは何れもなき也〟      〝角凧、寛政比迄は四枚張位迄は、横骨二本筋違二本立骨一本、都合骨五本にて張たるが、此比より一枚    張にても骨多、糸目も古へは一枚張は三ツ糸目、二枚以上は四ツ糸目とて、糸は四本にて済、三ツ糸目    は糸三本にて済たるもの也しが、今の糸目は何かこと/\敷多く致し、骨も多く、何の為なるや〟    ☆ たちばな 立花    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥167(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝寛政七八年より、立花と云小さき藪かうじの様なる植木流行せり、黄の実、白実又丸葉杯、或はたやら    喋、縮緬葉、斑入葉、凡百種も分り、大造に流行たるもの、実生一本にて代金五両七両位の品も有之、    余り高金珍敷もの故、後は盗賊など右りて、御咎等有之故、右高金には売申間敷と御触有之て、高金は    停止となりける、なれど今に一本一分二分之品は有之ける〟    ☆ だついばば 脱衣婆    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩130(塵哉翁著・嘉永二年(1849)記事)   〝三途川老婆    江府大久保表番衆町西の末南頬(ガワ)に、芝三縁山増上寺末にて、妙龍山正受院と云浄土寺あり、小寺    にして小き阿弥陀堂の内に、焔羅王脱衣婆を安置せり、元来淋しき寺なり、此脱衣婆、予覚て享和文化    の唄、小児のくつめき、咳の平癒を祈るに利益(リヤク)あり迚、偶々は参詣もありしが、追々に流行出て、    去年嘉永と改たる秋の頃より、わきて譜願利益ありとて、遠方よりの参詣日々に増り、六の日を縁日と    して、月の三度はわきて群集(クンジユ)とかや、利益の風説さま/\に奇を伝へ、霊験(レイゲン)有由な専    らに伝へあえり、今茲(コトシ)卯月九日、新町なる牡丹の花見の序、正受院に立寄しに、常の日ながら参    詣多くして、狭き堂内へ入事難ければ、遠く拝して過ぬ、地内もいとせまきに、百度参りの男女も十人    計群集せり、     (中略)    日本橋四日市なる翁稲荷も、此二とせ三とせの時行神にて、こも又参詣群集とぞ、此翁に大久保の右婆    を取合せて、さま/\なる戯れの一枚絵摺出して、錦画ひさぐ見世先にも、又多く人足を止む〟     ☆ たろういなり 太郎稲荷    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥161(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝寛政八九年の頃、浅草新堀端立花出雲守殿下屋敷内に、太郎稲荷迚(トテ)諸願成就せしとの事、誰申触ら    せしや、両三年の間大造に参詣群集せし、後には留守居之切手無之ては、屋敷内へ入ざるやうになりけ    る、尤其頃は出雲守殿は若年寄御勤役中なり、何故か御役上り、本所端すへの方へ居屋敷下され、夫よ    りしていつとなく参詣止けり〟    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑨52(塵哉翁著・文政十二年(1829)自序)   (文化元年)   〝今年(文化元年)浅草新堀立花左近将監殿(添え書き〝筑後国柳川の城主十一万九千六百石〟)下屋内    稲荷、流行参詣群集す、午の日井三ン日門を開らく、常の日は立花家より切手出る、屋敷内奉納のはた    数千本、其外木石の烏居手水鉢等筆に尽し難し、往来神酒、備餅、油揚など商人おびたゞし、太郎稲荷    といふ〟    ☆ たんざくうり 短冊売り    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥145(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝七月短冊紙光、享和年中迄は、短冊紙や色紙とて、丸紙の侭売歩行しが、此頃よりさま/\形ちを裁て、    書計に仕立売ゆへに、以前の紙売は止みけり、又近頃は形に裁たる其裁屑なをぜて、十枚四文三文位に    売歩行なり、此末十年も過なば、短冊又は五月の柏餅など、月見の団子之類は家毎にはせまじ、何事も    それ/\の家風も、皆略すやうになりて、正しき事は次第止みけり〟    ☆ だんじゅうろう いちかわ 五代目 市川団十郎    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑨58(塵哉翁著・文政十二年(1829)自序)   (文化三年記事)   〝五代目市川白猿、幼名幸蔵、始松本幸四郎、後市川団十郎、又改蝦蔵、寛保改元のとし月日、江戸にお    いて生誕す、宝磨四年戊春、中村勘三郎座へ松本幸蔵とて出る、是はつ舞台也、同年霜月幸四郎と改名、    明和七寅年霜月市川団十郎と改、寛政三亥年蝦蔵と改名、同八辰年霜月、一世一代名残狂言、同十二申    年霜月、元祖団十郎才牛百回忌に付、追善として再勤す、此年市川新之助十歳にして団十郎と改【白猿    七代目是也】市村羽左衛門座舞台にて白猿披露、其后牛島に閑居し、今文化三寅年十月廿九日、齢ひ六    十六成こして、惜べし黄泉におもむく、三縁山中常照院に葬す、辞世の句あり、      ありがたや弥陀の浄土へ冬龍    白狼一世の芸評手がら、あげて数へがたし、焉馬著述の艸紙にくわしけれぱ、こゝにもらしぬ、法号還    誉海木艸遊信士といふ、      極楽は江戸を去る事遠からず十万おくどあゝつがもなひ 杏花園赤良     (以下略。白猿の肖像あり)〟    ☆ ちちのおん 父の恩    ◯『市川栢莚舎事録』巻之五〔続大成〕⑨327(池須賀散人著・明和六年(1769)序)   〝柏延いたつて親に孝心のもの也。親才牛古人となりて追善の折から、父の恩といへる集を作れり。此集    誹心の輩は能しれる所なり。然るに此集本高何程と板行摺上ヶ集出来せし折、三芝居の人々はいふに不    及、才牛迫善に預りし御方へ不残右之集を配りけり。跡則絶板にして板行の板不残火中せりとなん。殊    の外大金の掛りし集也。此集絵入にて色絵摺に工夫仕出しけり。今江戸絵に錦絵杯と工夫して出しけれ    ども、元来栢莚集に色絵摺といふ事仕出せし発端元祖也〟    〈『父の恩』は初代団十郎の二十七回忌追善集。二代目市川団十郎(才牛・栢莚)編・英一蜂、小川破笠画。享保十五     (1730)年刊〉    ☆ ちゃや 茶屋    ◯『【寛保延享】江府風俗志』〔続大成・別巻〕⑧18(著者未詳・寛政四年(1792)十一月記)    (寛保(1741~1743)~延享(1744~1747)年間の風俗記事)   〝水茶屋も寛保頃迄は、浅草観音地内、神田明神、芝神明、あたご或は両国等に有計にて、町中には無之    事也、道路にては何程休度思ひても、右の場所迄も行届かざれば、茶見せは曾て無之事也、たま/\は    端々に有所の茶屋といへ共、床机一つ二つに、土へつつゐに古茶釜【茶わんはきん形のお室やき、年玉    茶わん】にて、渋茶の事にて有し、今(寛政期)の如く奇麗に成たる初は、芝切通しに一ぷく一銭とて、    唐銅茶釜をたぎらかし、其侭りん/\と鳴し、茶碗等より奇れいして、況や茶芽久保宇治等を用ひたる    事也、夫より諸々沢山出来たる事也、延享の末に新橋朝日といへる見世出来、又其頃にしがらき抔出来    て、此頃より下々にても上茶飲覚えて、殊外はやり、夫故おごり付て唐茶はやりしが、是は除り気づよ    き抔いふてすたりし也〟    ☆ ちょうちん 提灯張り替え    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥186(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝文政三年より、提灯張替迚(トテ)商人来る、是は調法なる商人なり、直さま紋印等を書、油を引て直に用    立ける、価も下直仕立て百文なり、是は宜工風なり〟    ☆ つちぐも 土蜘(「源頼光公館土蜘作妖怪図」)    ◯『寒檠璅綴』〔続大成〕③187(浅野梅堂著・安政二年頃成る)   〝天保ノ末、浜松相公罷政ノ時、頼光土蛛退治図三枚ツヾキノ錦絵出板シ、頼光ハ曲彔ニ倚テ居眠リ、青    海波ノ模様ノ素袍キタル季武、水車ノ模様キタル六曜ノ星ヲ裏銭ヲ并べタル如ク模様取タル四天王ノ輩、    肱ヲ張空ヲ脱ルモアリ、碁盤ニ凭テ眠ルモアルガ、大キナル土蛛ノ頂ノ斑ハ暗ニ矢部駿河ガ紋所ニ似タ    ル黒点ヲナシ、妖魔ノ眷属坊主アリ、山伏アリ、梵天ノ旗ヲタテ、ソロ盤ノ甲ヲ着、岡場所ノ売女、十    組ノ問屋、女髪結ノ類、異類異形ノ怪物ヲ画キタリ。コレハ国貞ノ門人国芳後【後ニ二代目国貞トナル】    卜云モノカケリ。殊ノ外ニハヤリテ、金ヲ以テコレヲ購ニイタル。絶板ニナリテハ、愈狩野家ノ名画ヨ    リ尊シ。コレヨリ事アル度ニ、何トモワカラヌ怪シゲナルモノヲ画タル錦絵ハヤリテ、観者サマザマニ    推度シ、牽強附会シテコレヲ玩ブ〟    〈浜松侯は老中水野忠邦。天保十四年春の出版、一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」(大判三枚続・伊場屋板)     である〉    ☆ てあそび 手遊び    ◯『【寛保延享】江府風俗志』〔続大成・別巻〕⑧15(著者未詳・寛政四年(1792)十一月記)    (寛保(1741~1743)~延享(1744~1747)年間の風俗記事)   〝予供の手遊は、浅草堺町、芝神明抔多き所にて、一枚絵双紙はりこ人形土人形等也、一枚絵は丈長厚紙    にて、多く武者絵、彩色砂箔置、黒き所は漆絵とて黒光也、芝居役者の絵は稀なる事也、本も赤本とて    金平地獄廻り、鼠嫁入、花咲ぢ々抔、かなのよみ本はから紙表紙にて、五すいでん或は牛若十段抔のや    う成類にて有し、人形は下りの赤塗鋸(オガ)くず煉、同猿の子持又はちいさき木地猿、土人形女□等一    文、首大成るは青色の悪公家、のろまの首などにて、今(寛政期)の如き結構成手遊はなかりし也、堺    町浅草には下りの遣ひ人形有り、是は上物なれ共、今の日にては、甚鹿相成事にて有し、尤大名方の手    遊は、木地人形ぬり立に金箔上彩色、はだか人形猫狗等、けし人形小豆程にして、金箔仕立のいかにも    念入たる細工有し、今も替らぬは猿の水車、赤もよふの経木作りの小き傘のみ、扨今の大き成起上り小    坊主(コボシ)、安永の頃より次第々々大きく成しは、扨々手遊(ダルマ)とは云がたし、況や近年男根のはり    こ、扨々驚入し不遠慮、是を調あてがふ親、何といふ心ざしにて有しやいぶかしゝ〟    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥141(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝寛政三年六月迄は、夏になると盆太鼓迚(トテ)、手遊を売来る、さし渡し五六寸位に、竹の輪に西之内紙    にて張り、阿膠を引あやしき公家の絵を書、持所を長さ五寸程の柄を付、箸にて打ながら、盆太鼓々々    々と云ふて売来しが、其後さらに不来、一ツの価十文十二文位に売けり、是を女子ども盆歌を唄ひ歩行、    町に音頭の子供打歩行、手を引合ふて譁(ヤサ)しき物なりしが、今の子供は手を引合て、歌は唄へど物あ    らく、兎角喧嘩好むやうにて、悪口など云ふて、女子遊びとは見えず、男童べの遊びに似たるものか〟      ☆ でんしゃ 田舎    ◯『寐ものがたり』〔続大成〕⑪40(鼠渓著・安政三年(1856)序)   〝田舎(デンシヤ)と云る男、さそくのよき男にて色々の事を案ジ一枚画に出し流行らせる。或時、三組の盃    といふ物を拵へける。是は、当世に名高き文人、其外碁・将棋・絲竹の道迄も撰み、其内最モ達したる    を三人ヅヽ出しけり。仮令ば、狂句師祖山・株木・縫惣などゝ撰しなり。三箱元より田舎と善(ヨ)かり    しが、三組盃ニおのれが名をのせざるを憤り、さま/\に誹謗せしを、田舎きゝて笑居しが、又或時、    田舎工夫して神仏相撲図といふものを出したり。三途川の姥 四ツ谷 と翁稲荷 四日市 とすもうをとり、    其外の流行神は皆たまりニ扣居る、その中に呼出し奴、うしろ向の図に(四角に「ハコ」の字を配した    紋様図あり)かやうの紋を付しは三箱とみへたり。扨、上の処角力取組の如く筆太に書しは、世に憚る    事を隠してそれと知られるやうにせし也。譬ば、遠近山【北町奉行遠山也】三ツ柏【南町奉行牧野】。    田舎、三箱の許へ来り、此絵はいかにと言て一枚与へける。三箱見るより、その趣向には頓着せず、只    わが姿のありしを見て大きに悦、是は必流行べしといふ。神仏の角力になんでわが身の這入しや、一円    わけもわからず、たど錦絵に出たるを悦びけるもおかし。    田舎、右の絵のことにつき、奉行所ぇ呼れ、神仏角力と申絵を出せしは其方なるやと御尋、私なりと云。    遠近山とはいかなる訳ぞと尋られ、都て加様の品は遠近ニ張りませんければもうけに相成ませぬ故、其    縁起にて遠近山と為書候也といふ。然ば三ツ柏とはいかに、恵比寿さまの紋所なりと答ければ、馬鹿者    めが、あれは蔓柏だぞと言て叱れたりと、田舎笑ながらかたりき〟    〝三箱(サンハコ)は三田通り新丁、已前は箱屋なるよし。名は伊三郎、異名を達磨といふ。刺(ママ)髪して自    ら座禅堂といふ 狂句師又モノハの点者なり〟    ☆ でんぜん あおうどう 亜欧堂 田善    ◯『退閑雑記』〔続大成〕⑥185(松平定信・寛政九年(1797)記)   〝予が領中須賀川に善吉といふ商家あり。ことに画を好みて寝食をも忘れければ、業にもうとく成り侍る    をもていたくいましめけり。それより画かく事やめて年月経しが、業をもつとめ覚へければ、画かきて    んと筆とりてかくに、はじめよりことに上達しけり。いかにとたづぬるに、筆もて画はかゝざれども、    只いぬるとき心のうちにてゑがく事かうがへ侍りぬと言ける。この者の志すぐれければ、かの谷文晃の    弟子にしける。今いろ/\の紙に銅板または木理を摺出しぬるもこのものなり。その子また奇男子なり。    書画をこのみけるが、あきなひの道にもさとかりければ、善吉も産の事は其子にまかせ置けるが、此者    国々ありきて書画まなびたきとのこゝろざしせちなり。その妻ことにうれいて産をもうち捨て、まよひ    出給ふ心こそたのもしからね。幾としそひ侍るべしとも覚えずとて家を出ける。こはいかにと驚きてあ    りきいづる事やめ侍るべしとの設け事なりしが、このものあへておどろく心もなかりけれぱ、術尽てそ    の妻またかへり住む。つゐに此もの産業にてたくはへしこがね、みな/\とり集めふんしをきて善吉へ    奉るてふかきをき、そのうち二分とり出し、旅行の用にし侍ればたまはりねとかきそへて家をたち出け    る。善吉折しも白川に居けるが、このよしきゝてあはてふためき家にかへり、たゞなきに泣て別れをし    たひける。かくでもあらじいそぎおふてみるべしと、心きゝたるもの五たり六たり、あとしたひて出け    るが、つゐにうつのみやにて追付とらへかへりけり。此事予もきゝつたへければ、ゆるして書画ならは    したらば、長く孝子の名をも失はじ、兎や角してこれもまた文晃の弟子にしたりけり。それより文晃の    家に行て寝食を忘れて画のみまなびけり。この家の隣りに伶人すみて、ひる過る頃よりいつも楽するな    り。文晃かれに楽はおもしろきやとたづねしに、露しらずけふもまたあるべししらせ侍らんと言たるが、    例のころ楽はじまりければ、それとてつげしらせたるにぞ、はじめてきゝたりしとぞ、世には奇なるも    のもある者なり。只かくの如き奇なるものありても、武夫と生れば弓いる事もすべし、剣つかふ道も学    ぶべし、馬のるわざも習ふべしといふにぞ、さま/\の事につかはれて、弓馬剣槍の業もすぐれず、た    ま/\ことに好む事も得しとげず、常人にて捨る類ひ少なからず、一芸すぐれたらば何しらずともあり    ぬべし。今の人さま/\の事にうとからじとおもふにぞ、何事にもうとく成行ぞなげかしけれ〟    ☆ どうはんが 銅版画    ◯『退閑雑記』〔続大成〕⑥44(松平定信・寛政六年(1794)記)   〝銅板鏤刻、蛮製にあれど、我国にてなすものなし。司馬江漢といふものはじめて製すれども細密ならず。    ことにいといたう秘してわれのみなすてふ事をおふなり。さるに備中松山の藩中にこのころなすものあ    り。殊に細みつ蛮製にたがはずとぞ。予もむかしこゝろみしが、蛮書などにあるを訳させてこゝろみし    によからず。人をもてかの士へたづね問たるに、銅板に炭の粉をもてみがき、その板を火のうへにのせ、    せしめうるしといふをことにうすく銅色のみゆるほどにぬるなり。さて其板を三日ほどかはかし下絵か    きて、ほそきたがね又は針なんどにて其うるしをほりうがち、日のあたる所へ出し、薬を筆にて三四度    もつけ、紙に酢をひきてその紙をもて銅板の表にあて、一夜屋の下などへ置、あつき湯をもてそのうる    しを去て墨もて摺なり。     薬方    墨は鹿角象牙などを焼たる其粉に、ゑの油を交、其銅板に糊うすき紙をもてその墨をよくぬぐひ、猶手    にてもよくその墨をとれば、墨そのくされたる画なんどの方にのみのこるなり。紅毛の紙をよく水にて    濡はせ、またうるほはざる紙と二つかさねあはせて、銅板のうへにのせ、しめ木にてしむるなり。かの    土の言には、墨は油煙を用ひたるがよしと云、ホイスシヨメールなんどにも、銅板の製す事しるしあれ    ども、かの蛮書の一失にて、その簡要にする事はことに略して書をけば、其泣による事あ.たはざるな    り。せしめうるしつくるは、かの士の考なり。白蝋に松脂を交へてつくるは、蛮書にものせ侍るとなり〟       ☆ にしきえ 錦絵    ◯『【寛保延享】江府風俗志』〔続大成・別巻〕⑧15(著者未詳・寛政四年(1792)十一月記)    (寛保(1741~1743)~延享(1744~1747)年間の風俗記事)   〝錦絵は享保十四年象来りし時、長崎より象遺ひ権平次と云者、江戸土産とて長崎摺錦絵持参したるが、    紅あひ黄の三色摺にて有し、夫より元文頃に至り、漸々江戸にて仕覚たる也、然共甚不手ぎわ成、段々    と是も結構にはなりぬ〟    ◯『退閑雑記』〔続大成〕⑥61(松平定信・寛政七年(1795)記)   〝寛政七年の頃より、錦画てふ画、又はうちはの画などに、ものゝ名又は謡歌などを隠語のやうに画もて    かきし事行はれそめけり。南部の盲暦のたぐひにしたるものなり〟    ◯『寒檠璅綴』〔続大成〕③186(浅野梅堂著・安政二年頃成る)   「錦画」   〝錦画ト云一枚摺ノ画、安永頃ヨリ次第ニ鮮麗ニナリ、当時ニ至テ極レリ。金銀泥ヲ用ヒ、紅紫ニテ纐纈    ノ濃淡ヲ摺ワケタルナド、筆ニハ及ヌ手際ナリ。歌舞伎役者ノ似顔ト云モノハ柳文調ヨリ始リ、柱カク    シノ女絵ハ、湖龍斎ト云モノカキ始ム。歌川一龍斎ヨリ豊春、豊広、豊国トツヾキテ、国貞ニ至リテ巧    妙タグヰ無、国貞ノ筆ハ絹地エガキヲロシタルモノ実二精彩、土佐ノ古キ名手ニ抗衡スべシ。広重ト云    モノ、景勝ヲ画ニ妙ニシテ「江戸百景」(傍注「」の四字原本ナシ)五十三駅ノ景、其陀(ママ他?)多ク    摺出セリ〟    ☆ びやぼん    ◯『零砕雑筆』〔続大成〕④255(中根香亭著・成立年未詳)   〝ビヤボン      ビヤボンと吹けば出羽どん/\と金がものいふあぢな世の中    文政六七年頃金属にて作りたるビヤボンといふ小箱流行したるときの歌にて、執政沼津侯水野出羽守を    譏るりたるなりといふ〟     ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑨132(塵哉翁著・文政十二年(1829)自序)   (文政七年・1824)   〝津軽笛、今茲文政甲申の秋の頃、びやぼんと云鉄にて造りたる笛を、童等専らに翫ぶ、其笛此頃初て造    り出したるにはあらず、津軽笛と云其形(図あり)此の如あし、薩摩にてはホヤコンと云、亦シユミセ    ン共いへり、笛の唱歌あり、     チウサノべントト、カヂキノべントト、ノドクビトラへテ、ピヤコン/\    或人の云、チウサは中山にて琉球の事か、カヂキは加治木にして、筑紫の地名なるべしといへり、べン    トは人物の方言なるべく、ノドクピトラエ、と訳する時は、喧嘩などの事ならん歟〟    ☆ ひらが げんない 平賀 源内    ◯『寐ものがたり』〔続大成〕⑪12(鼠渓著・安政三年(1856)序)   〝江漢の唱しに、平賀源内はおもしろき男なり、或時儒者来り、源内ニ対し、われら学文にては中々足下    には負まじと思へども、人足下を知りてわれを知らず、如何なる事ならんと云、源内答へて、名を高ふ    せんには著述をするがよし、貴所の学力にて著述せられなば暫時に名はあがるべきと云、彼儒者、著述    せんにも金子無くては叶わずといへば、それは人に借るがよしとと云、借りても返す事難しといへば、    返ず時分になりなば、外より又借りて返すがよし、又其金返す期にならば、ヌかりて返すべしと云、夫    にては始終借金になり、埋方なるまじといへば、源内面を正し、其内には貴所が死るか、借たる人が死    かして仕舞へしと云〟    ☆ ひろかげ うたがわ 歌川 広景    ◯『寒檠璅綴』〔続大成〕③187(浅野梅堂著・安政二年頃成る)   〝已ニ此頃ノ彦根元老浪人者ニ乱斫セラレシヲリニモ、野菜モノト魚類ノ闘争ノ図ヲ出シテ、人々例ノ推    度ニテ、冬瓜ノ鬚、題目書タル旗ノ上ニ、立花ノ紋アルヲソレ也ナンド言モテハヤシヌ。如此モノハイ    ツモイツモ制止セラルヽニ、夫マデノ二三日ノウチニ、売ドコロニテモ利嬴アリトテ、懲スマニ又モ繍    雕スル、忌々敷コトナラズヤ〟    〈歌川広景画「青物魚軍勢大合戦之図」に関する記事。伊直弼が水戸藩の浪士に殺害された「桜田門外の変」は安政七     年三月三日〉
    青物魚軍勢大合戦之図 歌川広景画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ☆ びんさし 鬢さし    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥36(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝女の鬢さし迚、安永年中竹にて拵へ、髭へさす事始る、其後竹にてそげなどするとて、鯨にて拵へける、    是より次第に大者となり、銀又は鼈甲などにて作りしが、寛政比より鬢を出す髪の風止みて、いま有る    所のぐるり落しとやら、扨々たぢやくの風俗流行せり、何事も皆かくのごとく、女は常の帯〆るも、唯    ひとへ結んで前もろくに合ざるやう、見苦敷事也〟    ☆ ふじこう 富士講    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩147(塵哉翁著・嘉永二年(1849)記事)   〝富士講    嘉永二酉九月、若年寄本庄安芸守道貫御渡、    富士講の儀に付ては、度々町触の趣、并文化度猶又内々にて、富士信仰の先達と唱へ、不取止儀を講釈    抔致し、俗の身分として行衣を着し、望候者へは護符を出し、或は加持祈祷、且人集等致し候始末、愚    昧よりの事には候得共、右の内には身分を不顧其席へ立交り候族も有之由、風俗にも不宜、第一は触面    を不相用段不届に付、急度咎にも申付候条、此以後右体の義及見聞候はゞ、差押早々可申出旨、町触有    之候処、近米猶又御府内外の者共、講仲問を相立、追々信仰の者不少哉に相聞、不届の事に侯(中略、    以上触書)    (以下、塵哉翁の記事)    富士講の所業予見し事あり、焚上祈祷の節は、さま/\の幅物を掛ならべて檀様に飾かまへ、供物、神    酒、備餅、祥水は大きやうなる鉢に盛て備ふ、外に供物はなき様に覚えし、講中行衣を着て、七宝をつ    らねたる大珠数と鈴とを各携て、先達の者正座して、講中に其左右後を取巻、鈴を鳴らして唱文同音に    声高く、然して後、冨山の詠歌をよみ上る事、其数甚多し、此内に大火鉢にて線香を夥しく焚く、是を    焚上といふ、共ほのふの中え病者の名、生年を認たる紙札を投じ入れば、ほのふの火気にて上へ舞昇る、    其有様にて吉凶を言、なか/\にりゝ敷いさましき躰也、    行衣は年々登山のみぎり門出より着して行、白木綿の半衣也、先達の者は其祖々より代々伝へたる、度    々登山の行衣にて、白きも黒の冨山のかな印甚多く、是を以信者の巧とせり、珠数は登山の折たすきに    懸るとや、珠を連て美事立派也、懸念仏の登山多人数、花やかにこそ〟    ☆ ぶっさきばおり ぶっさき羽織     ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥366(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝野羽織、俗云ぶっさき羽織、是は遠足又は弓馬稽古着の衣服に限りたるものなり、近頃は袴勤の人達は、    御城内へ袴羽織に、此野羽織を不構用ひける、安永比迄は決て不用、寛政度より御城内へ用ひ候に成け    る〟    ☆ ぶんちょう 文晁    ◯『零砕雑筆』〔続大成〕④252(中根香亭著・成立年未詳)   〝文晁の狂歌      七十七下からよめど七十七中からよみし時もあつたが    是は柴田是真翁の所蔵にて、短冊に書しあり〟    ☆ まいないつぶれ 賄潰れ    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑨137(塵哉翁著・文政十二年(1829)自序)   (文政八年・1825)   〝青木評説      まいないつぶ(潰)れ 銭出せ金出せ けんか(権家)ゞあるぞ    此虫沢瀉の葉より生じて、なく声一々太鼓の調子にかなへり、    沢瀉は御老中羽州、太鼓は御用御取次御側衆林肥後守役所也、当時出頭一にして、勢ひならぶ者なし、    よりてかゝる戯を何人かなしけん      川柳 栗(丹波)の銭茄子(駿河)の銭ほどもふからず       亦 つかむ銭(水野羽州)つかまぬ銭(青山野州)の裏おもてさしに通せば百は百なり〟     ☆ まねきねこ 招き猫    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩188(塵哉翁著・嘉永五年(1852)記事)   〝浅草の猫    (前略)去年(嘉永四年)の冬浅草寺の境内、隋身門の内に店を開きて猫(今戸焼)を売出すに、聞伝    へ言伝へて、請(ウケ)求(モトム)る者お猫さまと号して、初尾と唱へ、或は願望成就の神酒代備物代として、    奉納銭を置ぬ、子年(嘉永五年)の春に至りては、さま/\の小蒲団迄製し添て売るとなん、猶猫の大    小製作の麤密(ソミツ)、張子なども追々に増ぬらん    かゝる戯れ事は、多くは北廓(ホツカク)吉原町、猿若町などの遊所の者より流行(ハヤリ)出す事になん、売妓を    猫と唱へたる方言もあれば、なほよしとせん歟〟    ☆ みせもの 見世物    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩158(塵哉翁著・嘉永三年(1850)記事)   〝(蛇体小童・金太郎)面部常体に有之、髪の内に両耳有之、脇の下より青々有之、惣身鱗付、蛇体の様    に相見へ、異体に御座候。(以上、町名主の町奉行宛報告書)(以下、塵哉翁の記事)    三月末頃より両国広小路にて見せ物に出たり、一端は見物群集と聞へしが、其の半病て死せりとかや〟     〈この蛇体の童子。金太郎は当時七歳。奥州二本松百目木村の百姓甚兵衛の養女きその忰〉    ☆ みつご 三つ子    ◯『豊芥子日記』〔続大成・別巻〕⑩363(石塚豊芥子・文化十年(1813)十一月記)   〝三男子御届    西九若年寄月番有馬左兵衛様へ御届、西御丸御小姓組佐藤美濃守組、青木新五兵衛知行所、                        摂州島下郡西河原村百姓 忠蔵 酉四十歳                                  妻 みよ 三十三歳    右忠蔵女房、当十月二十六日出産仕候、男子三人出生仕候旨、知行所所差出候家来より申越候段、新五    兵衛申聞候、此段御聞置可被下侯、已上、    文化十酉年十一月十八日    此度出生の男子  松次郎 竹蔵 梅太郎〟    ☆ もくぎょこう 木魚講    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥216(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝木魚講中、文化年中より、俗人木魚の大なる事、四斗樽程の丸さにひとしき物を首に掛け、座布団いか    にも立派に仕立、金欄天鷲繊抔に金銀の縫など致し、三枚四枚づゝ重ね、念仏も六宗分らず、歌唄ふが    ごとく、何の勧化と云ふ事なく、毎夜々々市中を歩行ける、次第に増長し、町年寄より留たる事なれど    も、その講中内に死たるもの有る時は、彼木魚を首に掛て、打ながら葬送の前へ立て、念仏申ながら行    也、是はいまに折々見掛けける〟    ☆ もめんうり 木綿売り    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥34(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝木綿売高荷辻、明和比迄はいかにも荷高く積上げて、脊負て売歩行たるもの       ☆ よしわら 吉原    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩214(塵哉翁著・嘉永六年(1853)記事)   〝娼妓(ヂヨロフ)報条(ヒキフダ)    浅草寺の乾(イヌイ)なる千束(チツカ)の里、吉原てふ一廓(クハク)は、三都に魁首(クハヒシユ)たる遊里なるに、世    の盛衰とは云ながら、嘉永四亥年春の頃、京町二町目なる大和屋石之助、角町万字屋茂吉、小見世とは    言ながらに、娼妓(ヂヨロウ)直下(ネサゲ)せしも一笑なるに、当時廓中一二と呼るゝ娼家玉屋山三郎、江戸    町一町目にありて、天保末のこほひより、大まがき大見世は、此一楼のみなりしに、今歳嘉永六丑年暮    の頃とや、又報条(ヒキフダ)せし由、こは娼妓の直下にはあらざれども、廓に名だゝる大見世にて、斯(カ    カ)る業(ワザ)あるは笑ふに絶たり、其報条は見ざれ共其事や、      揚代金一分、酒五合、吸物、口取肴      揚代金二分、酒一升、吸物、口取肴、二つもの      揚代金三分、酒一升五合、吸物二、口取肴、二つ物      芸者金一分に付酒五合、    下戸の御方様へは、煎茶、薄茶、干菓子、蒸菓子、念入会席御可差上と記したりとかや、前に言、直下    引札とは、少しく趣(ヲモムキ)たがいて半切摺(ハンキリスリ)のよし也、去ぬる天保丑寅の変革の後、世の中続    て不景気なるに、異国船度々の渡来わきて、今年は亜墨利加(アメリカ)、魯西亜(オロシヤ)の冦船渡り来りて、    世上騒がしく、台命によりて、国持の諸侯防禦警衛の武備専らにして、在府の諸藩士遊戯の暇なければ、    かゝる遊廓の淋しきもむべなるべし、しかはあれど知らぬ、元禄明暦のむかしは暫らく捨て、近く文化、    文政、天保の半まで全盛なりしに、思ひ合すれば、殊なる廓の衰微ぞかし、    天保なかばの衰へより、廓の燈籠俄(ニハカ)の番附、花に月に四季折々の品定めせし細見などいえるもの、    巷に鬻(ヒサグ)声さへも絶て聞ず、なほ後々はいかに成行らむ、齢なければ見によしなく、聞によしなし、    噫々(アア)〟    ☆ よしわら かりたく 吉原 仮宅    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥36(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝吉原仮宅は、安永年中吉原焼失の時、始めて浅草辺、両国橋向前共、御蔵前辺一円に願ひ叶ひて、仮宅    商売致たるもの也、此前は焼失すれば、面々の持寮にて商売せしが、此時より他所へ仮宅始りけり、又    寛政年中焼失より、山の宿聖天町辺、深川八幡前町、此場所に限り外は皆停止となりける〟      ☆ よしわら にわか 吉原 俄    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥51(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝吉原俄の始めは、明和年中予二十三歳の時なり、最初は張抜の大天窓(アタマ)など冠りて、さま/\の異    形にして、男芸者踊歩行たるもの、今有る茶番狂言のごとし、見物の笑ひを歓たるものなるが、近比色    々様々工風をなし、祭礼同様しなして、古への俄の趣意はうしなひける〟     ☆ よたか 夜鷹    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩35(塵哉翁著・弘化二年(1845)記事)   〝辻君再興    天保丑の冬、世上に有来(アリキタ)りたる遊女共、悉く制禁ありて、皆吉原の中へ移さるゝによりて、辻君    も辻に立ことかたく止られて、夜鷹てふ烏の巣のよし田町も荒果ぬとや、今年弘化巳なる秋の初の頃、    いかにしけん願済たり迚(トテ)、両国橋の辺りをはじめ、有来りたる端々に出る事にぞなりぬ、御免のよ    たかとかや云触て、売初より賑ひ繁昌なりと、其中に築地采女が原に出るは、枕付と云物あるよし、秋    の末に深川の端に居(スワ)り、夜騰といへるもの出来たりと聞ぬ、こや是迄切見世(キリミセ)と唱へ、長屋と    呼、また鉄砲などゝ仇名せし、吉原に云局見世(ツボネミセ)の類のものも、同じころ止(ヤミ)たるを、再興の    手始ならんか、    説に、辻君は文治の乱に平氏亡て、官女共世渡のたづきなくして始りぬる由を、世俗に 云伝ふをもて、    願立たりと、辻君、立君、夜発(ヤホツ)、そうか、夜鷹、江戸にて云にや、    寛政の末享和の頃まで、船鰻頭(フナマンヂウ)と云しもの有、小き船に苫かけて河岸々々に漕寄つゝあやし    き声して客をよぶ辻君のたぐひにして、劣たるものとぞ、今は絶てきかず、    因に云、京摂に臭屋(クサヤ)、間短(ケンタン)、蹴倒(ケタホシ)など云は、前に曰、切見世・長屋の類か、寛享の    頃けころとて、茶屋女体の遊女ありし、けころは蹴ころばすの略にして、蹴倒に同じ、東叡山下広小路    抔(ナド)にありしは、とんだ茶釜と通名せし由、予稚(オサナキ)ころおばろに見たり、切見世遊女の一段よ    ろしき歟、    船鰻頭    舟は繋ぐ辻番の傍   値(アタエ)賤(ヤスシ)鼻落んと欲す    雛(シハ)は深し振袖の情 人を留ること更に幾度り    右は、明和七年梓行娯息斎狂詩集に見ゆ、因に記して笑証とす〟    〈天保丑年は天保十二年。三月に岡場所(私娼)禁止令〉    ☆ らくだ 駱駝    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑨130(塵哉翁著・文政十二年(1829)自序)   (文政七年・1824)   〝駱駝はハルシヤ(百尓西亜)国の産なるよし、文政四辛巳年六月、阿蘭陀人長崎へ持渡、同未年六月下    旬より、難波新地に於いて諸人に見せ物とし、同申年五月頃江戸に下だし、両国橋・横山町広小路にて    是を見する、子一日戯に是をみる、其形真ならずといへ共、左に図する如し、肉峯相並びて、鞍の形を    なすといへるは非也、其毛なみ牛に似て、色又赤牛といふものに似たり、又牛の香あり、鈍獣也、牡の    方前足太く、眉毛かまつ毛か、多く黒き毛生て、眼中をわかたず、笛太鼓にておかしく拍子を取、是を    もて進退す、説に此獣交易にならざる故、蘭人丸山の遊女にくれたりしを、やましとか云者の手に渡り    たるとかや、(以下略)〟   (天保四年・1833)    〝天保四巳年春の末、駆舵を再度両国広小路にて見する、此度一疋なり、共模様前の如し、八月なかば市    谷八幡宮地内へ持参りて見する、      一たび山師の手に落て 日々見物多し 却て野飼の時を思ふ 食ず貧駱駝    駱駝の評判近来頻なり 錦絵却て役の者新に勝る 異国の畜生何ぞ怪むに足らん    世間限り無し背虫の人 半可山人【俗称植木大八三郎、享和文化間、太(ママ)田蜀山人南甫(ママ)老人に類    す】〟     ☆ わたぼうしうり 綿帽子売    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥28(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝綿帽子売、安永初め比迄、昔しより正月初より二月末迄、売歩行たるもの也、小さなる革籠を脊負て、    綿ぼうし/\と声を引て売たり、共比迄は武家町人の差別なく、女子一人も連たる人は、此ぼうしを冠    りて年始に出たるもの、いまに富家町人には適には見へけるが、其外にはさらになし、都て田舎には此    例残りて、折々長百姓には見へけり〟       
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