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浮世絵師歌川列伝 は行
☆ はりまぜえ 張交画 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p117 〝張交画は即押絵画の類なり。一代男(天和二年板)巻之三、寺泊の傀儡の家のさまをいえる條に、屏風の 押画をみれば花かたげて吉野参りの人形、板木押の弘法大師、鼠の嫁入り云々、大津追分にてかきしもの ぞかし云々、画本倭比事(西川祐信著)に、大画小画の差異をいえる條に、小押画巻物等の絵なるべし云 々。本朝画印伝に狩野家の画法をいえる條に、押画古来より十二支の図あり。又十二月の花鳥、又仙人、 禅の祖師を画く。花鳥山水許多なり。各そのもとめに従う云々。蓋し押画はおしつけたる画の意なるべし。 押字はかの金銀箔をつけるを押というに同じ。一人或は数人にて、同流の筆にて同寸法の絹および紙に画 きて、屏風または襖にはりつけたるをいう。張交画はこれと少しく異れり。さまざまの書画をまぜはるの 意にして、土佐狩野の画、詩歌の敷紙、短冊種々の寸法なるを、打ちまぜてすりたるを云。押画は古くよ り行われたるものにて、張交画は押画より出でたるものなるべし。一代男にいえる屏風の押画は、張交画 をさしていえるが如し。されば天和の頃は、張交画をも押画といいしものか。しかして張交画の名は蓋し、 寛政文化の頃より称(トナ)え来りし名なるべし。又板木押をいえるは、即板刻の押画なるべし。従来張交画 は、肉筆にあらざれば興なきことなれども、僻遠の地は名手の筆跡を請うの便よろしからず。且肉筆の価 甚だ貴ければ、この板刻の画を購いて、はりまぜとなす者多かりし也。これを画きしは、豊広のみにあら ず。堤等琳、勝川春亭、喜多川歌麿なども画きたり。一時大に行われたるものなるべし〟☆ はるのぶ すずき 鈴木 春信 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p109 〝按ずるに豊広 が俳優似貌画は、未だ嘗て見ざるなり。一説に豊広は生涯似貌画をかかざりしと、蓋し然ら ん。されどかの鈴木春信、喜多川歌麿のごとく、一見識を立て、俳優を卑しみて画かざりしにあらざるが ごとし。蓋し同門豊国が、似顔絵をよくするを以て、彼に譲りて画かざりしものか。又風俗美人画は、喜 多川歌麿におとるといえども、細田栄之にまさりて、頗(スコブル)艶麗なる所あり。されど其の風古体にし て豊国のごとく行われざりし〟 ☆ はんじもの 判じ物 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川国芳伝」p196 〝織田信長が狩野永徳に命じ、男子の棒をつきて、篦(ヘラ)を傍にすておき、箕(ミ)を片手に持ちて、側に蚊 帳をつりたる図をかかしめ、気をすぐにへらをすててかせげば、みをもつ、という意を示されし類これな り。則後世の判じ物画也〟☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重 初代 ◯『浮世絵師歌川列伝』 ◇「歌川豊広伝」p123 〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又兵 衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。中古 にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛飾北斎 のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時の風俗に して、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐なり、雪舟 なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのずから力あり。 これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり。惟歌川家にいたりては、其の本をす ててかえりみざるもののとごし。元祖豊春、鳥山石燕に就き学ぶといえども、末だ嘗て土佐狩野の門に出 入せしを聞かざるなり。一世豊国の盛なるに及びては、みずから純然独立の浮世絵師と称し、殆ど土佐狩 野を排斥するの勢いあり。これよりして後の浮世絵を画くもの、また皆本をすてて末に走り、骨法筆意を 旨とせず、模様彩色の末に汲々たり。故に其の画くところの人物は、喜怒哀楽の情なく、甚だしきは尊卑 老幼の別なきにいたり、人をしてかの模様画師匠が画く所と、一般の感を生ぜしむ。これ豈浮世絵の本色 ならんや。歌川の門流おなじといえども、よく其の本を知りて末に走らざるものは、蓋し豊広、広重 、国 芳の三人あるのみ。豊広は豊春にまなぶといえども、つねに狩野家の門をうかがい、英氏のあとをしたい、 終に草筆の墨画を刊行し、其の本色を顕わしたり。惜しむべし其の画世に行われずして止む。もし豊広の 画をして、豊国のごとくさかんに世に行われしめば、浮世絵の衰うること、蓋(ケダシ)今日のごとく甚しき に至らざるべし。噫〟〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そしてそれ を保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その題材故に 陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけた「骨法筆意」 があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉守一、清長、歌麿、 北斎、そして歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉 ◇「歌川広重伝」p153
「歌川広重伝」 ◇「歌川国芳伝」p208 〝無名氏曰く、画は真を写すを要とすといえども、筆意を添えざれば、唯これ真を写すのみにて画に非ざる 也。画は筆意を要すといえ共、真を写さざれば、唯これ筆意を示すのみにして、画に非ざる也。写真と筆 意と二つながら、其宜敷を得て始めて、画と称すべし。一立斎広重 、嘗て絵事手引草を著し、其序文に謂 て曰く、画は物の形を本とす。故に写真をなして、筆意を加うる時は即画也。と至れる哉言や〟 ◇「歌川国芳伝」p209 〝歌川家 の画法における、元祖豊春以来西洋の画法により、写真を主とし刻出し、寸法を専とせしが、其弊 終(ツイ)に筆意を顧ざるに至り、かの人物の骨相、衣服の模様、及び彩色の配合等の如きは、頗る精巧の域 に至るといえ共、筆軟弱にして生気甚乏しき所あるが如し。嘗歌川家画く所の板下画を見るに、屡(シバシ バ)削り屡補いて恰(アタカモ)笊底の反古の如し。筆意のある所を知らざる也。又嘗人物を絹本に画くを見る に、屡塗抹して屡これを補理す。恰かの油画を画きし者の屡塗て屡改め画くと一般にして、常に筆意を顧 ざるものの如し。是豈(アニ)絵画の本色ならんや。〈中略〉唯豊広、広重 、国芳、三人は超然、歌川の門牆 をこえて、普く諸流を伺い、専ら筆尖の運動に、注目せるものの如し〟☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重 二代 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川広重伝」p182 〝広重の先妻の名詳ならず。早く死す。後妻其の名また詳ならず。一女を設く。広重の没するや、門人重宣 をこの女にあわせて家を継がしむ。これを二世広重 とす。立祥といい、喜斎と号す。山水花鳥を画くおな し。よく一世の筆意を守りて失わず。その落款一世と異なることなし。ゆえに人おおくは一世二世を弁ず る能わざるなり。落合氏(芳幾)いわく、二世広重は好人物なり。予は屢(シバシバ)彼に出逢いしが、性正 直にして事に処する甚だ謹慎なりし。或は世事にうとき所なきにあらざれども、画道におきては頗る妙所 あるがごとし。惜しむべしと。後に故あり家を出で横浜に赴き、再び重宣と号し、絵画を業とせしが、幾 ならずして没せしという。二世の家を出ずるや、同門重政代りて家を継ぐ。これを三世広重とす〟☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重 三代 ◯『浮世絵師歌川列伝』 ◇「歌川豊広伝」p121 〝明治二十年、豊広が六十回忌に、三世広重 、豊広が肖像を画きたる摺ものを配布し、法会を執行し、一碑 を墨陀堤下に建てたり。其摺物の文に、 亡父立斎広重翁の師祖豊広翁は一柳斎と号し、歌川家の元祖豊春翁の門人なり。同門豊国と其の名とも に行わる。後画風一家をなし、生涯俳優の似貌を画かず、敵討読本のさし画はこの翁に始れりとぞ。画 く所枚挙に暇あらず。就中京伝、馬琴両翁の著作にかかるもの多し。実子豊清氏早世し、嫡孫豊熊氏あ りしかども、次ぎて夭せり。師翁は文政十一年没す。本年本月六十回忌に相当せるをもって、将に追遠 会を営み、辞世を碑に刻し、墨陀の辺に建て、永く其の芳名を後世に遺さんとす。仰ぎ願くは四方有志 の諸君、偏に賛成補助を賜らんことを、二世立斎広重敬白 又碑面には、かの辞世の歌死んでゆくを刻して、二世広重建立とあり、裏面には明治二十年丁亥四月良辰 とありて、売薬家守田宝丹が書せし所なり。 按ずるに、三世広重が摺ものの文および碑面に、二世広重としるしあれど、曩(サキ)に二世広重ありしこ とはよく世の中の知るところなり。いかなれば三世広重自ら二世と称するや疑うべし。また亡父立斎広 重とあるは誤りなり。一世広重は一立斎と号し、立斎をいいしことなし。二世広重はじめ一立斎と号せ しが、後にゆえありて立斎と号せしなり。今一世の号を立斎とするは疑うべし。また敵討読本のさし画 はこの翁にはじまれりというは非なり。敵討よみ本のさし画は、古よりこれあるなり。惟(タダ)豊広は 楚満人が久しく廃れたる敵討を再興せしによりて、専ら画き出でたるのみ。蓋しこの摺ものの文は、他 人代りて綴りたるものならんか、さるにても三世広重が疎漏の罪免るる事能わざるなり(【また敵討読 本のさし画は以下「小日本」になし)〟 ◇「歌川広重伝」p182 〝二世広重の家を出ずるや、同門重政 代りて家を継ぐ。これを三世広重 とす。又よく山水を画く。嘗て 伊勢、大和、大阪、京都を廻り、また常陸、下総に遊び、行々山水をうつし、其の志し一世の工に出でん を欲せしが、不幸にして病に罹り、明治廿七年三月廿八日没す。惜むべし。友人清水氏後事をおさむ。 三世広重、辞世の歌、うかうかと五十三とせの春を迎へしことのおもてふでとれば、汽車よりも早い 道中双六は月の前を飛に五十三次。俳諧師夜雪庵金羅、代りて此歌を帛紗にしるし、三十五日にこれ を旧友より配布せり。今は(明治廿七年十月三日)金羅も病にかかりて没せり。(此の註、「小日本」 にはなし) 按ずるに、三世広重、自二世と称す。何の故を知らず蓋理由ありしならん。過ぐる日これを聞かんとて、 広重のもとに至りしに、既に病にかかり言語不通、きくによしなく、止むを得ずして帰る。遺憾なり〟☆ ひろつね うたがわ 歌川 広恒 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p121 〝〈豊広〉門人多し。広昌(駿洲沼津の旅店太平屋某なり、錦画二三種あり)、広重、広恒 、広政等、皆 傑出の名あり。広重最も世に著わる〟☆ ひろまさ うたがわ 歌川 広昌 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p121 〝〈豊広〉門人多し。広昌 (駿洲沼津の旅店太平屋某なり、錦画二三種あり)、広重、広恒、広政等、皆 傑出の名あり。広重最も世に著わる〟☆ ひろまさ うたがわ 歌川 広政 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p121 〝〈豊広〉門人多し。広昌(駿洲沼津の旅店太平屋某なり、錦画二三種あり)、広重、広恒、広政 等、皆 傑出の名あり。広重最も世に著わる〟☆ ぶせい きた 喜多 武清 ◯『浮世絵師歌川列伝』「一世歌川豊国伝」p91 〝〈山東京伝〉さきに優曇華物語の出像を、唐絵師に誂えて後悔せしに桜姫全伝の作よりして豊国に画かせ、 特に時好にかないしかば、これより豊国と親しく交りて、功を譲ること大かたならず。 按ずるに唐絵師は喜多武清 なり。武清は俗称栄之助、字は子慎可菴と号す。谷文晁の門人、作者部類京 伝の條に優曇華物語を綴る云々、趣向の拙きにあらねども、さし画の唐様なるをもて、俗客婦女を楽ま しむるに足らず。此故当時評判不の字なりき。京伝ひそかにこれを悔いたりとあり〟〈山東京伝作の読本『優曇華物語』は喜多武清の挿画で文化元年の刊行。『【桜姫全伝】曙草紙 』は文化二年刊〉 ☆ ほくさい かつしか 葛飾 北斎 ◯『浮世絵師歌川列伝』 ◇「歌川豊広伝」p118 〝文化年間の戯作者、浮世絵師の見立相撲番付に、東西の大関は京伝豊国、関脇は三馬国貞、小結一九北 馬等にして、行事は馬琴を中にし、右に北斎 、左に豊広 を載せてあり。豊広をして北斎に対せしむるは、 少しく当たざるが如し。これ等の番付を見て、画工の腕力を評するは、恰もかの九星を算えて人の一生 を卜するがごとし。愚もまた甚し。然れども当時の世評を知らんとするは、蓋しこの番附にしくものな かるべし。抑(ソモソモ)相撲の行事は関関脇と異なり。よく古実を知り、又よく撲手を知るものにあらざれ ば、善くする能わざるものなりとぞ。今この番附に、北斎、豊広を、行事の所におくものは、二人の画 道における、和漢古今の諸流は皆実の手中にありて、よく骨法に通じ、用筆に達せるをもてなるべし。 豊広は固より北斎に及ばずといえども、画理に精しくして、画く能わざるものなし。殊に浮画をよくし、 各地の勝景および宮殿楼閣の遠景を画くに巧なり。又細密なる刻板の画を善くし、微細の所におきて、 更に筆力をあらわせり。かの豊国、国貞のごときは、よく時好に投じ、一時世に行わるるといえども、 関のみ、関脇のみ。其の実地老練の力に至りては、みな豊広に及ばざるなり。豊広を推して、行事の席 にあらしむるは、これ蓋し過誉にあらざるべし〟「文化十年見立相撲番付」 ◇「歌川豊広伝」p122 〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又兵 衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。中古 にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛飾北斎 のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時の風俗に して、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐なり、雪舟 なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのずから力あり。 これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり〟〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そしてそれ を保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その題材故に 陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけた「骨法筆意」 があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉守一、清長、歌麿、 北斎、そして歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉 ◇「歌川国芳伝」p190 〝按ずるに、国芳が画道を研究するや、己は豊国の門にありといえども、自ら以て足れりとせざるなり。よ りてひそかに、葛飾および勝川の諸流をしたい。其の長所をとりて己れが有となさんとす。其の熱心なる 実に賞すべし。露木孔彰氏いわく、国芳嘗て独楽廻し竹沢藤治の画看板を画きしとき、葛飾北斎門人大塚 道菴といえる人を雇い、この看板画を補筆せしめたり。国芳この道菴によりて、北斎 に面会せんことを請 う。北斎曰く、余は国芳に面会すべし。されど一面の後しばしば往来するは彼のためによろしからず。如 何となれば彼は歌川家屈指の妙手なり。然るに今屡(シバシバ)我が家にきたらば、人或は画法を変じ、葛飾 風とならんを疑うべし。且人の子弟を引きて、我が門に入らしむるは我が欲せざる所なりと。国芳終に北 斎に面会し画法を談ずるの図を画きたり(此の図今某の家にあり)。類考に国芳の画風は、北斎の風あり というは、国直が画風によれる故なりといえるは非なり。国芳が画風、国直に似たる所あるは、論を俟(マ) たざれども、北斎の風もまたこれあるなり。これ深く北斎をしたいしをもてなり。国芳嘗て北斎を塚原卜 伝に比し、宮本武蔵に己を比して、二枚続きの錦画を発行せんとせしが、北斎これを拒みたるをもて、終 に止めたることあり。これ等即(スナワチ)国芳が北斎を慕いし一証とすべし。事は拙著葛飾北斎伝に詳なり〟