Top 浮世絵文献資料館浮世絵師総覧 ☆ よしわら 吉原浮世絵事典 吉原見取り図 (文政末~天保初) (東京都立図書館デジタルアーカイブ「案内吉原双六」) ☆ 享保~元文頃(1716-1740) ◯『嬉遊笑覧』下(喜多村筠庭信節著・文政十三年(1830)自序)(国立国会図書館デジタルコレクション 成光館出版部 昭和七年刊 五版) ◇巻九「娼妓」編笠(171/359コマ) 〝吉原に通ふ者 編笠着ざるやうになりしは享保より稀になり 元文に至り全くやみたり(大田南畝 余 に語りしは 原武より編笠きて顔かくすことやみたりとなり おもふに然らず おのづから止むべき時 にて昼遊びなど少くなれるなり)田町また五十軒路の左右 あみ笠茶屋は明和五年四月五日焼亡 已前 迄は両側にて廿軒有りとなり 今も『細見記』にあみ笠茶屋の部あり〟 ☆ 宝暦年間(1751~1763) ◯『女大楽宝開』月岡雪鼎画〔国文学研究資料館「艶本資料データベース」〕 〝江戸 よし原 太夫 九拾匁 入用とも かうし 六拾匁 入用とも 中さん ひるノ中 金三歩 さんちや 付まはし ちう夜 金一歩 さんちや ちう夜 金二ぶ〟〈吉原の太夫職は宝暦年間まで。格子・昼三・散茶は遊女の位。金一両は金四歩・銀六十匁〉 ☆ 明和四年(1767) ◯『寝惚先生文集』〔南畝〕①352(陳奮翰子角(大田南畝)著 明和四年九月刊) 〝江戸四季の遊び 四首 秋 七月涼み乍らに出で 舟を揚れば土手通ず 灯籠見物多く 尽(コトゴト)く大門に入る〟 ☆ 明和七年(1770) ◯『娯息斎詩文集』(闇雲先生作 当筒房 明和七年刊)(新日本古典藉総合データベース画像) ◇江戸の繁華 〝東都(とうど)の曲 (前後省略) 戯場(しばゐ)の大入暁を侵(おか)して争い 吉原の全盛は人をして驚かしむ〟 ◇吉原夜景 〝秋夜 金幸文公と同じく吉原に遊ぶ 衣紋刷(つくろ)はんと欲す極楽の辺り 三味線の声聖賢を驚かす 大門客を迎へて口舌促(もよを)し 灯籠闇を照らして菩薩連なる 大尽の居続け揚屋に潤(うるほ)い 地廻りの悪口格子に翩(ひるがへ)る 秋夜一剋価(あたい)千両 置酒(さかもり)最中禿(かぶろ)眠(ねむる)に堪へたり〟 ◇吉原青楼記 〝金龍山の北に青楼有り 吉原と号(なづ)く 前に八町の堤(どて)を抱き 隅田川の流れを帯ぶ 来たる四手(よつで)駕有り 還る頭巾有り 大尽弥(いよ/\)奢り 野暮尽すに堪へたり 此の町(てふ)に遊んでや 孔子も粋と為らんことを願い 釈迦も振られんことを恐る 親爺は後生(ごせう)捨て 息子は勘当を忘る 人として此の里に遊ばずんば則ち 偏に山家(やまが)の猿に似たり 里無主(りんす)夜無寿(やんす)の妙音を聞けば則ち 異見折檻の野暮なるを構わず 忽ち馴染み深間の切なるを楽しむ 八文字の道中は人の目を驚かす 引舟(ひきふね)禿(かぶろ)箱提灯 美を尽し禅を尽して中の町に輝く 待合(まちやい)有り口舌有り 漫々として宛(あたか)も天人の聚(あつ)まるが如し 此の里に徘徊すれば 更に夜の深(ふ)くるを知らず 已に閨中(ねどころに)入つて 独り来臨の遅き待ち兼ねて 幾回(いくたび)か心を廊下の跫(あしをと)に悦ばしむ 君徐(やうやう)来たれば狸寝いりを為す 是腐(くさ)れ儒者の知る所に非ざるなり 夜来魂胆深し 金(はな)落つること知んぬ多少 嗚呼(あゝ)吉原の楽しみ粋なるかな 或るは曰く 願はくは 京倡妓(じやうろ)に長崎の衣裳を衣(き)せ 江戸の張を持たせて 大坂の揚屋(あげや)に遊ばんとは宜(むべ)なるかな 夫れ色情の君子 江戸の倡婦(じよろう)の張に陥(はま)らずんば則ち 誰か傾城の貴(たつと)きを知らん 仮令(たとひ)蕩子(どらもの)の名を得(う)るとも 猶続けの長きに誇らん〟 ☆ 寛政元年(天明九年・1789) ◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑧303(水野為長著・天明九年(1789)正月記) 〝世間一統に倹約を相用ひ、吉原抔も金糸縫ハ法度ニ成候と、山手辺抔ニてハ申触し候処、当正月二日吉 原へ参り道中見物致候もの、数多御ざ候処、右之者の咄ニ、中々世上ニて申候沙汰之通ニ無之、成程吉 原ハ一廓内の事故、又江戸の御時節共違ふが、格別の事じやと申候由。丁子やの丁山、又ハ滝川、七越、 今の瀬川抔いへる美婦など不怪美服のよし。七越の衣装に、縄簾を金糸ニて縫候由。かいどり一ぱいニ 縁すだれ御ざ候が、其縄のふとさ三寸廻り程も御ざ候て、皆々金糸のよし。御時節故にや、終々目立候 と申さた〟 ◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑧350(水野為長著・寛政元年(1789)四月記) 〝吉原も不怪質素ニ相成、かんざしを十本さし候処五本ニ相成、七本が三本ニ相成候て、其外衣装るいこ との外節倹ニ相成候ニ付、此辺まで御政事御行届の事じやと申候さたのよし。尤武士方、町方共ニ活計 奢も無之事故、をのづから女郎も繰廻しあしく、頭の錺手形も出来兼可申よし〟 ☆ 寛政三年(1791) ◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑨253(水野為長著・寛政三年(1791)二月記) 〝此節ハ吉原へもせこ入候て、三蒲団ハ二ツに成、二ツふとんハ一ツニ相成候由。享保時分でも夫ほどに ハなかつたとさ仕候よし〟 ◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑨355(水野為長著・寛政三年(1791)十一月記) 〝吉原俄八月より今以仕り殊外はやり、俄計ニて客も相応ニ参候由。近頃玉や、額河や抔申其外弐三軒の 大店不繁昌ニ参候由。御時節がら客一向無之、中々大店は持こたへられず由、扇や、丁子や抔も潰かゝ り候由。松葉屋計ハ堪へ居候由〟 ☆ 寛政四年(1792) ◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑨427(水野為長著・寛政四年(1792)八月記) 〝吉原灯籠大繁昌、其上舟も夥敷暮頃より出候由。すべて当年ハ船遊山多く、午年以来当年程船出候は無 之と船宿共申候位のよし〟〈午年とは天明六年、田沼意次の執政下である〉 ☆ 寛政十一年(1799) ◯『天明紀聞寛政紀聞』〔未刊随筆〕②294(著者未詳・寛政十年記事) 〝(四月)末之頃より吹上御庭ノ中へ御物数寄を以新規ニ御茶屋御出来、色々風流を尽されし内、昔すだ れ揚縁等ハ吉原仲之丁ノ茶屋之体を御移し被遊候由にて、志有人々はいかゞの御好也とて眉をひそめら れけり〟 ◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)(ARC古典籍ポータルデータベース画像) 〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉 〝柳 くしがたの月もさしたる夕化粧えもん阪より見かへり柳 ふられたる客ををかしと見かへりの柳のめさへふき出してけり 見かへりの柳の客はうかれ女のうそのなみだといふべかりけり〟〈見返り柳〉 〝花 かねにちるさくらうつして花にまた金をちらせし吉原の廓 糸竹に四方のさくらを引よせて吉野に似たる花のよし原 大門のうちは月夜の仲の町桃灯さくらさき揃ふみゆ〟 〝初鰹 酒の池肉のはやしのよし原に松てふ魚もめでずやはある〟 〝吉原 うかれ女がこゝろの鬼やなげくらん客も手をきる羅生門かし 扇やの骨とみえけりかんざしを十二本ほどよそふうかれ女 朝かへりつれは上野か浅草へ二ッになりしきぬ/\のかね 一よさも妹背の山とちぎるらんたつるながれのよしや吉はら 縫ものゝわざにはうとき傾城もつとめにはりをもてるよし原 九郎介の稲荷まゐりもその里の白き顔には化されやせん 花の香はたもとにしみて朝かへりさくらにしらむ山口巴 花にあそぶ客には小蝶と狂ふても露のなさけにかよふよしはら 秋ふかく染るもみぢの赤蔦に松の太夫のめだつよし原(画賛) 夜ひるのへだてわすれて大門は日月速し花のよしはら 禿らに火取の灰やかけられんろうかにさがる猫の髭くろ 山吹の花ちらさねばなか/\に実のなきあそびされぬよし原 けさははや玉の春たつ色みえて孔雀長屋もそよぐ門まつ 吹かよふ風もすゞしき仲の町軒ばの荻江さわぐゆふぐれ おいらんのはだへは雪とみせながら守れる神はくろすけ稲荷 足袋はかぬ島もよそほふ夕汐により来る客も千鳥足なる かざり松竹のはやしの仲の町配るあふぎも七けんの茶や 伊達にふるさとのいきぢは陸奥(みちのく)のこがねに目をもくれぬたはれ女 絵馬にする額たはらやのうかれ女は鳥居が画くよりは美くし 金銀をちらすあそびもよし原にたから尽の玉屋丁子屋 見かへりの柳がもとにまれ人のかはほり(蝙蝠)羽おり目たつたそがれ〈かはほりは蝙蝠〉 振袖にあまの羽衣縫つけしすがた美し美保の松葉屋 小手まきのしづか玉やにいくそ度くりかへし見る◯のかず/\ くたかけもはめなんと恨むよし原に狐のをどるとしの暮かな〈くたかけは鶏〉 仲の町めづるは茶屋の七けんにかけしすだれの竹のこの君 居つゞけになどおらざるやよし原の花を見すてゝかへる雁がね〟〈羅生門河岸 九郎介稲荷 仲の町 扇屋 玉屋 丁子屋 松葉屋 山口巴屋(引手茶屋) 孔雀長屋は吉原近く の浅草田圃にある 後朝の鐘〉 〝八朔 八朔ににぎはふさとの女郎花にはかにさわぐ萩の上かぜ うぐひすのねぐらの竹のはるぞとて軒はへ梅もかをる八朔 八朔の小袖の雪のあかり窓ふみよむ部屋もみゆきよし原 八朔にふりつむ雪のよし原はかねのあしだでふみわけてゆく 灯籠のつらゝしまへばそのあしたにはかに雪のみゆる八朔〟〈吉原の八月一日、この日花魁は白無垢の小袖を着て仲の町を道中し客を迎える。「かねのあしだ」を履く花魁も いたようである。鉄製の高下駄であるからかなり重たかったのではないか〉 〝年市 としの市ぬけがけしたる武士の矢大臣門からはしる吉はら〟〈浅草年の市〉 ☆ 嘉永四年(1851) ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩175(塵哉翁著・嘉永四年(1851)記事) 〝新吉原京町二丁目入口角 現金 大和屋 遊女大安売 引き手なし 一、御客様方益御機嫌克被遊御座、恐悦至極奉存候、随て私見世の義、以御蔭年来遊女屋渡世相続仕、 冥加至極難有仕合奉存候、然る処近年吉原町日増に不繁昌相成申候、其根元は遊女屋仲間人気甚悪敷粗 成、廓内寛政度の議定不相用、自分勝手之渡世いたし、客人送り侯茶屋へ、揚代金二朱に付三百銅三百 五十銅、又はニツ分け抔と申、引手銭差出し候故、新規茶屋是迄より三百軒余も相増候得ば、自然と御 客様方へ麁末の品差上候様に付、此度商内の仕法替仕、茶屋付客人一切請不申、現金売正札附直段引下 げ、御徳用向遊女沢山仕入、多分の引手銭差出候心得にて、御酒肴夜具等に至迄吟昧仕差出、御手軽に 御遊興被遊侯様専一に心懸候間、御客様方被仰合、不限昼夜御賑々敷御光来の程奉希上候、猶御懇意様 方へも、御風聴被成下候様、偏に奉願上候、以上、 一、座敷持遊女 金一分の処 引き下げ 三朱 万字やは十二匁 一、部屋持遊女 金二朱の処 同 二朱 同 六匁 一、揚新造 金二朱の処 引き下げ 一朱 一、内芸者 金二朱の処 同 一朱 同 六匁 右揚代金の内にて、御酒は正宗印極上品召上り次第、御肴吟昧仕、沢山に差上申候、 【万字やは御肴会席真似合と書けり】 一、御馴染金御祝儀は御思召次第 一、茶屋船宿送り客一切請不申候 角 大和屋石之助 御気に入不申遊女は、取替差出申候、 角町万字屋茂吉も同じ引札を出す、引直段前に朱書のごとく、其外替る文体なし、前記万字やと記せる 分朱書なり (中略) 吉原町遊女安売の引札とて板行せしを、四月末頃何某氏携へ来てみるに、世上売物の引札にひとし、さ れど世間へ配りて歩行たるにはあらざるべし、いと珍らしき事にして、唯に世の末とはなりにきと笑ひ 過せしに、六月の半頃には、世上を売ありく、盛り場或は橋々のたもと杯に立居て売しと、若き人々は 買もて遊ぶなるべし、(略) 天保丑の世上の一変に、御府内諸所の隠し売女と唱ふるもの、おごそかに禁ぜられて、皆此廓に集り住 り、其故に娼家軒数以前には十倍せしに、客の歩行は遠近大方の限りあればにや、遊客少く、商ひ貧し く、不景気とは聞えけれど、かゝる有様に成行んとは、大江都繁栄に治りたる頃よりして、娼妓の直下 げ引札とは、輿のさめたる噺にして、時代とは言ながら江都の外分とやいわん、余りにあきれにたれば、 又かの贅に記して、後の嘲りをのこしぬ〟〈天保丑年は天保十二年。三月に岡場所(私娼)禁止令〉 ☆ 嘉永六年(1853) ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩214(塵哉翁著・嘉永六年(1853)記事) 〝娼妓(ヂヨロフ)報条(ヒキフダ) 浅草寺の乾(イヌイ)なる千束(チツカ)の里、吉原てふ一廓(クハク)は、三都に魁首(クハヒシユ)たる遊里なるに、世 の盛衰とは云ながら、嘉永四亥年春の頃、京町二町目なる大和屋石之助、角町万字屋茂吉、小見世とは 言ながらに、娼妓(ヂヨロウ)直下(ネサゲ)せしも一笑なるに、当時廓中一二と呼るゝ娼家玉屋山三郎、江戸 町一町目にありて、天保末のこほひより、大まがき大見世は、此一楼のみなりしに、今歳嘉永六丑年暮 の頃とや、又報条(ヒキフダ)せし由、こは娼妓の直下にはあらざれども、廓に名だゝる大見世にて、斯(カ カ)る業(ワザ)あるは笑ふに絶たり、其報条は見ざれ共其事や、 揚代金一分、酒五合、吸物、口取肴 揚代金二分、酒一升、吸物、口取肴、二つもの 揚代金三分、酒一升五合、吸物二、口取肴、二つ物 芸者金一分に付酒五合、 下戸の御方様へは、煎茶、薄茶、干菓子、蒸菓子、念入会席御可差上と記したりとかや、前に言、直下 引札とは、少しく趣(ヲモムキ)たがいて半切摺(ハンキリスリ)のよし也、去ぬる天保丑寅の変革の後、世の中続 て不景気なるに、異国船度々の渡来わきて、今年は亜墨利加(アメリカ)、魯西亜(オロシヤ)の冦船渡り来りて、 世上騒がしく、台命によりて、国持の諸侯防禦警衛の武備専らにして、在府の諸藩士遊戯の暇なければ、 かゝる遊廓の淋しきもむべなるべし、しかはあれど知らぬ、元禄明暦のむかしは暫らく捨て、近く文化、 文政、天保の半まで全盛なりしに、思ひ合すれば、殊なる廓の衰微ぞかし、 天保なかばの衰へより、廓の燈籠俄(ニハカ)の番附、花に月に四季折々の品定めせし細見などいえるもの、 巷に鬻(ヒサグ)声さへも絶て聞ず、なほ後々はいかに成行らむ、齢なければ見によしなく、聞によしなし、 噫々(アア)〟 ☆ 明治三年(1870) ◯『増訂武江年表』2p232(斎藤月岑著・明治十一年成稿) 〝(四月頃)吉原町娼楼に於いて遊女の踊はやる。錦絵に多く印行せり〟 ☆ 明治十三年(1880) ◯「読売新聞」(明治13年5月29日付) 〝今年の吉原の灯籠の趣向は諸国名所絵合(えあわせ)といふ題で、景色は例の広重の筆にて人物が芳年、 光我(くわうが)、雪浦(せつぽ)、国(くに)としの四人にて、画賛は諸大人の和歌、発句、狂歌、川柳で あるといふ〟