Top             浮世絵文献資料館            浮世絵師総覧           ☆ よしわらとうろう 吉原灯籠        浮世絵事典  ◯『若樹随筆』林若樹著(明治三十~四十年代にかけての記事)   (『日本書誌学大系』29 影印本 青裳堂書店 昭和五八年刊)   ◇巻七(歌川国芳と弟子たち)竹内久一談 p185   〝絵かきの収入といへば 板下や地口行燈等であるが 吉原の灯籠は一種の広告故 これは身銭を切つて    画いたものだ    浮世絵師は凡て絵かきと言つて 絵かきといへば浮世絵師を指したもので 本絵の方は絵師といつたも    のだ〟    〈絵かき(浮世絵師)にとって、吉原の灯籠絵は別格のようで、身銭を切ってでも腕を振るいたいものらしい。我が名を     世に知らしめる絶好の機会と捉えていたのである〉  ☆ 享保十一年(1726)    ◯『増訂武江年表』1p130(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (享保十三年・1728)   〝七月、吉原仲の町に灯籠を出す(角町中万字屋の名妓玉菊といへるもの、享保十一年午三月二十九日死    せり。今年三回忌にいたり、盆中霊をまつるとて、仲の町俵や虎文、揚屋町松屋八兵衛などいへる者、    此の事をはじむ。始めは切子どうろうにてありしが、小川破笠が奇巧より次第にたくみになりしといへ    り。ことし「玉菊追善袖さらし」といへる河東節の上るり、竹婦人作にて行はれたり)     筠庭云ふ、此の灯籠、玉菊が追善に始まれりとは、普くいへることながら、非なるべし。其の考「嬉     遊笑覧」にあり。開き見るべし〟    〈ここにいう破笠の灯籠は文脈から判断するに作画ではなく細工物である。上掲、林若樹が竹内久一(歌川芳兼の実子)     の談として伝える、浮世絵師と吉原灯籠との親密な関わりは幕末のことである。そうした関係がいつの頃から始まっ     たものか、定かではない〉    ☆ 明和四年(1767)  ◯『寝惚先生文集』〔南畝〕①352(陳奮翰子角(大田南畝)著 明和四年九月刊)   〝江戸四季の遊び 四首 秋    七月涼み乍らに出で 舟を揚れば土手通ず 灯籠見物多く 尽(コトゴト)く大門に入る〟  ☆ 明和七年(1770)  ◯『娯息斎詩文集』(闇雲先生作 当筒房 明和七年刊)   (新日本古典藉総合データベース画像)   ◇吉原夜景   〝秋夜 金幸文公と同じく吉原に遊ぶ    衣紋刷(つくろ)はんと欲す極楽の辺り 三味線の声聖賢を驚かす    大門客を迎へて口舌促(もよを)し   灯籠闇を照らして菩薩連なる    大尽の居続け揚屋に潤(うるほ)い   地廻りの悪口格子に翩(ひるがへ)る    秋夜一剋価(あたい)千両       置酒(さかもり)最中禿(かぶろ)眠(ねむる)に堪へたり〟  ☆ 寛政四年(1792)     ◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑨427(水野為長著・寛政四年(1792)八月記)   〝吉原灯籠大繁昌、其上舟も夥敷暮頃より出候由。すべて当年ハ船遊山多く、午年以来当年程船出候は無    之と船宿共申候位のよし〟    〈午年とは天明六年、田沼意次の執政下である〉  ☆ 弘化二年(1845)    ◯『藤岡屋日記 第二巻』②533(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記)   〝七月、新吉原、例年之通玉菊が追善之灯籠、当年は大仕掛にて、芸州宮島の風景、大門の内に鳥居を建、    中の町廻廊にて、水道尻は拝殿也、同揚屋町は京都清水観音舞台景也     吉原に宮島の景を移す前に 船を繋(ウカ)べて客を乗す     多くは皆芸州の湊入込 終は身上灯籠の如くになる      清水の地主の桜と詠むれど 冬枯時は同じ柴かな〟    ☆ 弘化四年(1847)    ◯『藤岡屋日記 第三巻』③173(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)   〝(七月)新吉原灯籠も、始めは評判悪敷候処、盆後替りて至て評判宜敷、中にも江戸町一丁目分、中の    町茶屋若水屋常七灯籠、忠臣蔵初段より十一段目迄残らず小く致し拵る也、亭主常七の作にて大評判な    り。次に京町一丁目分、中の町小竹屋彦兵衛たぬき茶の湯の作りもの、是も評判なり、其外、盆後の灯    籠至て評判よし〟    ☆ 嘉永三年(1850)    ◯『藤岡屋日記 第四巻』(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   「嘉永三庚戌年 珍話 正月より七月迄」    ◇吉原灯籠番附(作品名のみ。制作出展した店名は省略)④146    〝戌六月晦日より七月十五日迄 新吉原灯籠之番附     大門入右側江戸町一丁目         軒灯籠竹取物語図  ギヤマンの灯籠  釣りもの養老の滝  同絵合人形雪見の図       釣し物四季見立て  同深川八幡    同牛若十二段     大門入左側同二丁目分          伊勢物語兵庫屋の絵 筒井筒業平    井筒姫の図     江戸町一丁目入口    義経千本桜人形     同続、揚屋町木戸際迄         三河八ッ橋図    十六むさし見立て うちはおしゑ  浄るり外題   二幅対懸物     同右側揚屋町木戸より京町一丁目木戸迄   浅草寺境内図  三保の松原体  江戸名所図     同二丁目入口      昔し咄し見立てぢゝ・ばゝ     同続、角町木戸際迄   軒灯籠 名所尽くしの見立     同左側角町木戸先    内灯籠 向じまの景    内灯籠・軒灯籠・絹張武者・硝子細工・竹細工・善尽美尽・家毎に提灯・ぼんぼり十二三宛、花やかな    る事いわんかたなし〟     ◇吉原灯籠(作品名のみ。制作出展した店名は省略) ④153   〝七月十五日より三十日迄 新吉原灯籠二の替り番附     大門入右側江戸町一丁目         内灯籠書画会のてい  同三井寺さくらつりがね班女       軒灯籠釣物角灯籠押絵 同額行灯島原の画    同釣り芝山二王境内図       内灯籠顔見世     同屏風へ鶴岡の画切ばり     江戸町二丁目入口            軒灯籠不破名古や押絵 通天閣の図       両国涼みの体  おしゑ五人男の見立       釣しものすわこ水   宇治川戦陣の体人形二つ 和藤内虎狩の体     同続揚屋町木戸際迄       釣しもの吉原古画の図 内灯籠春日見立     軒灯ろう廿四孝御殿場  和藤内       鉢の木最明寺どの   三幅対     同右側 揚屋町木戸より京町一丁目迄       軒灯ろう花車     遠見の画        紅葉の画    懸物三幅対       大津絵        秋の七草        切込灯籠            大門入左側二丁目分    軒灯籠秋の野虫籠釣しもの     同二丁目                    軒ギヤマンつるし一つ くす玉釣し  くじら汐ふき  両国見世物       軒灯籠釣し 蘭丸・光秀人形 八文嶋の体  梅やしきの体  床の間三福対  十二ヶ月見立     同続角町喜木戸際迄       軒灯籠桃太郎     天拝山図   秋の七草    軒灯籠三幅対  妹背山の段       内灯籠狐子わかれ   軒灯籠三幅対 ほたる狩体     同左側角町木戸より先       内灯籠鎌倉御所    忠臣蔵三段目 瓢簞棚人形   髪ゆい床    国姓爺紅流       廿四(以下字を欠く)    右之外、種々の灯籠有之候〟  ☆ 嘉永五年(1852)  ◯『藤岡屋日記 第五巻』⑤129(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記)   ◇吉原灯籠    〝七月、新吉原灯籠【六月晦日より七月十四日迄】十弐日間    中の町、江戸町壱丁目、二丁目分茶屋、両側残らず軒灯籠絹張にて、絵兄弟見立、同右側揚屋町木戸際    迄、四ッ目垣に切子灯籠、同左側角町木戸際迄三面絵合、左側角町木戸より先銘々内灯籠色々在、右側    揚屋町木戸より京町壱丁目木戸迄、軒灯籠伊加保八景なり。     同七月十五日より二の替り灯籠    江戸町壱丁目・二丁目分、両側家別にて人形の類ひ多し、同町続き揚屋町木戸際迄、軒灯籠縁日商人尽    し之見立之処、吉原も不景気にて、家台見世を茶屋にて出し候との大不評判也。    其外、硝子細工、竹細工、人形等有之〟  ☆ 嘉永六年(1853)  ◯「新吉原灯籠番附」(番付 花柳還蔵板 嘉永六年七月刊)   (江戸東京博物館蔵)   〝大門入右側江戸町一丁目分     軒とうろう      井戸替の画 かしまをどりおしゑ 仲の丁の画  はし渡りそめの画     田うゑの画 道中 茶やの図   三めぐりの画     山口巴や かめや 長崎や ますや えびや 栄喜や するがや〟   〝同 江戸町一町目入り口     軒とうろう 釣しもの 二ふくつゐ かけ物の画     (店名省略)   〝同 続き揚屋町木戸きは迄     軒釣し がくとうろう(店名省略)   〝大門入左側 江戸町二丁目分     軒とうろう 二ふくつゐ(店名省略)     ふしみ丁入り口     かけ物の画(店名省略)〟   〝同 江戸町二丁目入口     かけ物の画(店名省略)〟   〝同 続き角町木戸きは迄     軒とうろう 耕作の画(店名省略)〟   〝同 大門入左側 角町木戸より先     内とうろう 芝居の図     軒とうろう 五節句の見立 手あそびもの(店名省略)〟   〝同 右側 揚屋町木戸ヨリ京町一丁目木戸迄     内とうろう     軒とうろう ふじ見 名所の画(店名省略)〟   〝内灯篭 軒灯籠 絹張或は硝子細工 竹細工 善尽美尽 家毎に提灯篭ぼんぼり 十二三宛はなやか成    事いはんかたなし〟       新吉原灯籠番附(江戸東京博物館 デジタルアーカイブズ)     ◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之二十二「娼家下」③356   (喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   〝(吉原)仲の町、灯籠    毎年七月朔日より仲の町茶屋の檐(ノキ)に、毎戸必ず灯籠を出し、十五日には再び新たに改め造りて晦日    に至り終る。その始原は、角町中万字屋勘兵衛が名妓玉菊なる者、享保十一年三月二十九日死す。同年、    仲の町俵屋虎文、揚屋町松屋八兵衛等議して、玉菊追善七月新盆を祭るためにこの行あり。その後、連    年これを行ふなり〟  ☆ 明治十三年(1880)     ◯「読売新聞」(明治13年5月29日付)   〝今年の吉原の灯籠の趣向は諸国名所絵合(えあわせ)といふ題で、景色は例の広重の筆にて人物が芳年、    光我(くわうが)、雪浦(せつぽ)、国(くに)としの四人にて、画賛は諸大人の和歌、発句、狂歌、川柳で    あるといふ〟