☆ 安永四年(1775)
◯「黄表紙年表」鱗形屋板(安永四年刊)
『金々先生栄花夢』恋川春町作・画 /『春遊機嫌噺』恋川春町作・画
『三人禎者真敵討』鳥居清経画 /『水車智恵篁』鳥居清経画
『善知鳥物語』 鳥居清経画 /『児女智恵海』鳥居清経画
『吉原饅頭』 鳥居清経画 /『金紙屑』 鳥居清経画
『富突始』 鳥居清経画 /『豊年俵百噺』清経画
『道つれ噺』 清経画 /『韛祭望腹皷』署名なし
『悟乳柑子』 鳥居清満画
◯「重版事件」(「江戸の出版資本」今田洋三著・『江戸町人の研究』第三巻所収)
五月、鱗形屋手代・徳兵衛の重板事件発覚
徳兵衛が売り出した『新増節用集』は、大坂の柏原屋与左衛門と村上伊兵衛が板株を持っていた
『早引節用集』の重版であるとされて、板木および売れ残り分二千八百冊が没収となる
十二月、処罰決定
重板人 徳兵衛 家財欠所 十里四方追放
売人 鱗形屋孫兵衛 不埒之由 急度叱 過料鳥目廿貫文
孫兵衛手代 与兵衛・次兵衛 手鎖百日
〈徳兵衛は家財没収・江戸追放。孫兵衛は叱責・罰金銭廿貫文(金五両)。金1両=銭4貫(4000)文)。板元にとって、重板
は自らの権益を蹂躙する行為であるから、なぜ一線を越えたのか理解に苦しむ。また、手代が主人を差し置いて重板
を主導するなどということがあるだろうかとも思う〉
☆ 安永五年(1776)
〈昨年5月から12月まで手代徳兵衛の重板事件に連座して叱責・罰金刑に処せられたものの、以下の黄表紙の出版状況
をみると、ダメージはさほど大きくなかったように思える〉
◯「黄表紙年表」鱗形屋板(安永五年刊)
『高慢斎行脚日記』春町作・画 /『唐倭画伝鑑』春町作・画
『化物大江山』 春町作・画 /『其返報怪談』春町作・画
『天狗初庚申』 北尾政美画? /『花鳥確蓮坊』清経画
『吉原たん歌』 清経画 /『初笑福徳噺』清経画
『恋娘昔八丈』 清経画 /『後家気質』 清経画
『踊濫觴』 清経画 /『石部金吉』 清経画
『頓作万八噺』 清経画 /『夜明茶呑噺』清経画
◯『半日閑話』巻十三(大田南畝 安永五年正月記事)⑪396
〝今年より鱗形屋草双紙の絵并に表紙の標書共に風を変ず。表紙の上は例年青紙に題号をかき、赤き紙に
に絵をかきしが今年は紅絵摺にす【すべての絵双紙、いにしへは唐紙表紙の金平本、又は土佐上るり本
なりしが、享保の頃より鱗形屋にて萌黄色の表紙にて、今の鳥居流の絵をかへて、一種の風を変ず。是
を青本と云。予が家に三冊蔵め置けり。そのうち萌黄変じて黄色の表紙となる。今黄色本を人なお青本
と呼は是よりのゆへ也。その年の新板を黄色の表紙にして、その年過れば黒き表紙をつけて分かつ。是
を黒本といふ。赤き表紙の赤本はむかしよりありと云】絵も鳥居風の絵を変じて、当世錦絵風の絵とな
す。表紙の標書(ウハカキ)を紅摺にする事は、宝暦十年庚辰の春、通油丁丸小山本九兵衛が家の草双紙、丈
阿戯作の本を始とす。それより所々の草双紙の題号みな紅摺となりしが、鱗形屋には古風を失はず、人
もまた是を見る事を愛せしが、今年古風を変ずることいかゞ
☆ 安永六年(1777)
◯「黄表紙年表」鱗形屋板(安永六年刊)
『南陀羅法師柿種』春町画 喜三二作 /『花見帰嗚呼怪哉』春町画 錦鱗作
『桃太郎後日噺』 春町画 喜三二作 /『三舛増鱗祖』 春町作・画
『月星千葉功』 春町画 鈴木吉路撰 /『鼻峯高慢男』 春町画 喜三二作
『珍献立曾我』 春町画 気三二作」 /『女嫌変豆男』 春町画 喜三二作
『親敵討腹鞁』 春町画 喜三次作 /『寿春袋』 清経画 喜三二作?
『金父母』 清経画 錦鱗作 /『上総七兵衛』 清経画
『芭蕉花』 清経画
☆ 安永七年(1778)
◯「黄表紙年表」鱗形屋板(安永七年刊)
『安永七郎犬福帳』春童画 物愚斎於連作
『芋太郎屁日記』 春町作・画 /『三幅対紫曾我』春町作・画
『辞闘戦新根』 春町作・画 /『間違曲輪遊』 春町作・画
『柳之夫婦龠』 清経画 /『酒呑宝易占』 清経画
『熊坂伝記』 清経画 /『夢中海原』 清経画
☆ 安永八年(1779)
◯「黄表紙年表」鱗形屋板(安永八年刊)
『心能春両噺』 鳥居清経画 鼎我(ママ)書 /『七人芸浮世将門』鳥居清経画
『案内手本通人蔵』恋川春町画 喜三二戯作」 /『妖怪仕打評判記』恋川春町画?
『腹京都食物合戦』恋川春町画? /『甚左紅絹由来』 恋川春町画?
『親父否早学問』 蘭徳斎春童画 物愚斎於連戯作
『旭縁起那須野俤』春町画 喜三二作 /『安房洲里見合戦』画工・作者未詳
☆ 安永九年(1780)
◯「黄表紙年表」鱗形屋板(安永九年刊)
『温泉縁起』鳥居清経画
☆ 天明元年(安永十年・1781)
◯「黄表紙年表」鱗形屋板(天明元年刊)
未確認
◯『絵草紙評判記(菊寿草)』四方山人(大田南畝)跋 安永十年刊
「北条の三鱗を一寸葛西の太郎月」
〝(前略)ここにふじの牧狩のお馬を出せし町のほとりに、うろこやといふうとくなる町人あり。としご
ろ鎌くらの諸大名へお出入多く、けふは梶原様の御用、あすは和田様の御酒宴と、草ずりのひく手あま
たなる中にも、北条家の御屋敷へは久しいお出入得意場にて、大殿時政さまより政の字を下され、政兵
衛と名乗、物前などの御用をたせしが、御用人の佐野源左衛門どの、すかんぴんからおとりたてにて、
にはかにおごりがつき、いでその時の全盛は、けはい坂にて指折の、加賀屋の梅がへ、越中屋の桜井、
上野屋の松ゑだといふ玉そろへを一座にて、牽頭(たいこ)末社にいざなはれ、酒宴遊興にふけりしかば、
あげくの果には北条の家につたはる金の三つうろこをとり出し、うろこやを頼み、七難そくめつとやら
かしたり。そも/\この三つうろこは、北条の大殿様まだおわかい時分、江島の弁天の開帳の時、北条
の北の字のてうちんにて朝参りをなされしに、さすがべん才天は女体にて、くらまぎれの水茶屋へ御出
現まし/\、ちよんの間の出合の折から、起請せいしの神かけて、爪のかはりにこけをへがし、あたへ
給ひし三つうろことかや。
かゝる大切の代物でも、七つ屋が手にわたり、八ヶ月のなはめに及びしが、去年の夏の洪水が月切レ
にて、利根川の利上もみかさまさり、番頭殿のきれ文にて、むざんやうろこはながれにけり。此事殿へ
ももれきこへ、源佐衛門はもとの浪人、うろこやはお出入とまり、魚鳥留の門前を肴売が通るやうで一
向はじまらず、何とぞ三つ鱗のゆくえをたずね、ふたゝびお屋しきの御用をたし、もとのごとくの分限
とならんと思へども、質のながれと人のゆく衛、たとへゆく衛がしれたればとて、うけもどす金はなし、
近年は無間の鐘もつきてがふえて、こゝに三ヶ所、かしこに五ヶ所、水いなりはわりがわるいの、第六
天はかすりだのと、二百人講四百人講、入相の鐘に花も実も、取つたか見たかの世の中なれば、中々も
つて思ひもよらず。
〈鱗形屋は、旗本某の用人の遊興費を捻出するために、主家重宝の質入れを仲介した廉で、江戸払いに処せられる。上
掲の戯文はそれらを暗にふまえるのだが、洪水で質草が流れたという「去年の夏」とはいつなのか。黄表紙の出版状況
を見ると、安永四年以来活発だった出版が、安永九年・同十年(店名元年)は皆無。これを踏まえるとこの質草騒動が
起こったのは安永八年のことと思われる。ただ質草の流れた「去年の夏の洪水」に注目して『武江年表』に当たってみ
ると、安永九年の記事として「六月、大雨降り続き、二十六日より江戸近在、利根川荒川戸田川洪水」とあるものの、
安永八年に洪水記事はない。とりあえずここでは保留して新たな史料の出現を俟ちたい。なお『太平記』によると、
建久三年(1190年)、北条時政、子孫繁栄を祈念して江の島の御窟(岩屋)に参籠したところ、弁財天が現れ、時政の願
いを叶える旨告げたあと、大蛇に変身して海に消え、あとには三枚の鱗が残されていたので、時政はこれを家紋にし
たとされる。四方山人の戯文はこれをふまえる〉
(以下、夢中に出現した料亭葛西太郎の洗鯉の台詞。鱗形屋の草双紙出版の来歴を述べる)
つたへ聞北条家には、おらがおかさん江島の弁天のさづけ給ひしみつうろこありと聞。これこそは最
くつ竟、きたさのさのゝ源左衛門が皮骨にわけ入、酒色を以てかれをまどはし、汝をたのんで質物に入、
去ぬる大水にながれし時、かりに鯉川春丁と名のり、人間のすがたと変じ、ふるくちきの浮木にのり、
なんなく鱗はとり得たれど、おれ一人天上して、わいらが方に天上見せるはあまり一国なものなれば、
向ふの牛のごぜんを頼み、さてこそ汝をよびよせたり。
〈『古朽木』朋誠堂喜三二作・恋川春町画 西村与八 安政九年刊。〉
それ鱗はこけ也。こけはすなはち不通なり。今天下に大通の道行はれ、こけはさら/\入用なし。上
は北条のおれき/\、下は汝らごときの町人、貴賤上下ひつくるんで、皆大通へみちびかんと、こけや
うろこは此方へせしめうるしと出かけたり。
しかれども汝が家はふるき家にて、源のより信の御内にまいりては、から紙表紙一重へだてゝ、竹つ
な金平の用をもきゝ、花さき爺が時代には、桃太郎鬼が島の支度を請負、舌きり雀のちうを尽し、兎の
手からの数をしらず。そのゝち代々の記録をつかさどり、青本/\ともてはやされ、かまくらの一の鳥
居のほとりに住居し、清信きよ倍清満などゝ力をあはせ、年/\の新板世上に流布す。
〈唐紙表紙の金平本(浄瑠璃本)時代から草双紙の赤本・青本の出版を経て〉
しかるに中むかし、宝りやく十年辰のとし、丸小が板、丈阿戯作の草紙に始て作者の名をあらはし、
外題の絵を紅摺にしていだせしを、その比はまだ錦絵もなき時代なれば、めづらしき事に思ひ、所々よ
り出る草紙の外題、みな色ずりとなりたりしが、汝ばかりは古風を守り、赤い色紙に青い短冊、たいの
みそずによもの赤、のみかけ山のかんがらす、大木のはへぎはでふといんの根、がてんか/\位のしや
れなりしも、思へば/\むかしにて、二十余念の栄花の夢、きん/\先生といへる通人いでゝ、鎌倉中
の草双紙 これがために一変して、どうやらこうやら草双紙といかのぼりは、おとなの物となつたるも
おかし。見やうみまねに近比は、汝が家のさうしまで、上書を紅摺にして久しいなじみをかゑしたり。
〈安永四年刊『金々先生栄花夢』(恋川春町自作・画 鱗形屋板)の出現で、草双紙が大人向けの読み物となる〉
今われ鱗を得たるかはりに大通の奥義をさづけん。此一巻を所持なす時は、よろづの事に通達して、
見通しの辻法印のかん通よりすぐれ、通用通屈の自在を得、通の又通、ふう通の帯より長き一通也。今
よりなんぢ高慢斎と名乗り、諸国行脚は先さしをき、近刻の絵双紙に眼をさらすべし。すべてゑざうし
の作、年/\歳/\穴相似たり。その出来たるをほめ、その不作をわらひ、髪ゆひ床や銭湯のむすこ株
のうけがよいか、又はとのさまかみ様たち、椽から落ちたおちの人、若殿様の御意に入る歟、この大通
のまき物は、汝がための天眼通、芝居通の頭取となつて、そのよしあしを定むべし。ほめるもそしるも
高が絵双紙、とはいふものゝ、多くの本の名をよび出して、かひに来るたねともならば、大きな板元の
仕合なるべし。
〈安永五年刊『高慢斎行脚日記』(恋川春町自作・画 鱗形屋板)。諸国行脚から鱗形屋の江戸払いを想起させる〉
陰徳あれば陽報あり。ふたゝび故郷へ立帰り、錦絵をひるがへせと、いふかと思へば夢さめて、かた
へに一つの巻物あり。これ大通の巻物ならん、大願成就かたじけないと、ぐつとのばした腕は伸、大あ
くびして目をさませば、これも又夢にして、火鉢にくべし粟餅の、まだやけぬ内に、例のかし本屋が門
口から、モウ評判記は明ましたか
安永十年はつ春〟
〈「ふたゝび故郷へ立帰り、錦絵をひるがへせ」とある。この戯文を認めた安永九年の時点では、鱗形屋はまだ帰還して
いなかったのだろう。その後下掲のように、天明二年に一点、三年に四点と、黄表紙の出版を再開しているので、おそ
らく天明元年中には江戸に戻っていたと思われる〉
☆ 天明二年(1782)
◯「黄表紙年表」鱗形屋板(天明二年刊)
『染直鳶色曽我』恋川春町画 喜三二作
☆ 天明三年(1783)
◯「黄表紙年表」鱗形屋板(天明三年刊)
『亀屋万年浦嶌栄』恋川春町画 錦鱗戯作 /『金山寺大黒伝記』恋川春町(自作自画)
『変名用文章』 恋川春町画」 錦鱗戯作 /『吝坊吝寝取』 恋川春町画 鄰生作
☆ 天明四年(1784)
◯「黄表紙年表」鱗形屋板(天明四年刊)
『鞍馬天狗三略巻』春道画 杏李作 /『出雲皿屋敷』勝春道画 宮村杏李作
『出世太平記』 勝川春道画 /『日城藪入始』春道画
『日城藪入始』 春道画 /『時行諺問答』勝川春道画 宮村杏李作
『桃太郎再駈』恋川春町画 喜三二戯作/『其昔龍神噂』恋川春町自作自画
『大黒上富来福神』蘭徳画
☆ 天明五年(1785)~ 天明七年(1787)
◯「黄表紙年表」鱗形屋板(天明五-七年刊)
未確認
☆ 天明八年(1788)
◯「黄表紙年表」鱗形屋板(天明四年刊)
『亀子出世』蘭徳画 /『六玉川流栄』喜多川行麿画 喜三次作
『鎌倉太平序』恋川春町(自作自画)〈『黄表紙總覧』前編の備考は天明三年刊の可能性もありとする〉
〈以下二点は天明四年刊の改題再摺再板本〉
『板垣三郎出世寿』勝春道画 宮村杏李作〈『出雲皿屋敷』〉
『蝦夷渡義経実記』勝春道画 宮村杏李作〈『鞍馬天狗三略巻』〉
〈新作三点(うち一点は天明三年の可能性あり)、再板本二点〉
☆ 寛政元年(天明九年・1789)
◯「黄表紙年表」鱗形屋板(寛政元年刊)
『十千万両貨殖金』蘭徳画 深川錦鱗作 /『世の中承知重忠』哥川とよ国画 和歌林泉作
〈以下三点は改題再板本〉
『大福帳点雉犬狐』蘭徳斎春童画 物愚斎於連作〈安永七年刊『安永七郎犬福帳』の改題再摺再板本〉
『徳本養老瀧』春道画 〈天明四年刊『日城藪入始』の改題再摺本〉
『新建哉亀蔵』蘭徳斎画〈天明八年刊『亀子出世』の改題再板本〉
〈新作二点、再板本三点〉
☆ 寛政二年(1790)
◯「黄表紙年表」鱗形屋板(寛政二年刊)
この年以降未確認
☆ 寛政九年(1797)
◯「黄表紙年表」鱗形屋板(寛政九年刊)
『和荘兵衛一代物語』作者未詳 鱗形屋板 寛政九刊
〈「国書データベース」所収の画像に三鱗の版元印あり、但し刊記なし〉
◯『塵塚談』〔燕石〕①289(小川顕道著・文化十一年(1814)成立)
〝京都草紙屋八文字屋の浮世双紙五冊物、役者評判記三巻の事、自笑、其碩といふ者述作にして、毎年正
月二日定式にて、大伝馬町鱗形屋孫兵衛といふ絵草紙問屋売出せり、(中略)
延享、寛延の頃は、両書とも、皆人待兼見る事にて有しが、五冊物は宝暦の末より絶て、梓行なし、評
判記は、京都にて作りて、今以出れども、正月二日よりは出ず、程過ぎ江戸へ来る也、其故に、折節、
江戸にて江戸役者計の評判を拵へ、梓行し売れども、江戸作は人々更に賞翫せず〟
◯『川柳江戸名物』(西原柳雨著 春陽堂 大正十五年刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝鱗形屋の宝船 151/162
大伝馬町の絵双紙屋である
数万艘鱗形屋で暮に摺り(天明)
とある通り、元日の夜の枕の下に敷いて初春の吉夢を祈る 例の宝船とて舟に乗りたる七福神の絵は、
元日早々に売出したものである
竜宮武鑑板元は鱗形(不明)
竜宮は鱗族の王城であるから、若し武鑑が出るなら 鱗形屋が専売店となるだらうとの穿(うが)ち〟
◯「川柳・雑俳」団扇(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)
1 数万艘うろこがたやは暮にすり「柳多留22-6」天明8【川柳】注「宝船を」
〈鱗形屋は江戸の地本問屋の老舗。正月二日の初夢に向け、鱗形屋は縁起ものの宝船の絵を年
の瀬に数万枚も摺るのだと〉
2 板元も鱗形屋も北条記 「柳多留166-4」天保9-11【川柳】注「三つ鱗の紋に掛ける」
〈鱗形屋も北条家も紋は同じで三つ鱗〉