◯『街談文々集要』p21(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)
(文化元年(1804)記事「倡妓采女墳」)
〝文化元甲子六月、浅茅ヶ原鏡ヶ池ニ、傾城采女碑建
采女塚
寛文の比、新吉原雁がね屋の遊女采女がもとに、ひそかにかよふ客ありけるを、其家の長、かたくいま
しめて近づけざりしかば、その客思ひの切なるに堪ず、采女が格子窓のもとに来りて自害せり、采女そ
の志を哀ミ、ある夜家をしのび出て、浅茅ヶ原のわたり鏡ヶ池に身を沈めぬ、時に年十七にして、此里
の美人なりしとぞ、かたへの松に小袖をかけて短冊を付けたり。
名をそれとしらずともしれさる沢のあとをかゞみが池にしづめば
そのなきがらを埋しところ、采女塚とてありしに、寛政八のとし、わが兄牛門の如水子、札に書しるし
て建置しが、それさへ失ぬれば、こたび兄の志を継て、石ぶみにゑり置ものならし。
文化元年甲子六月 駿河加島郡 石川正寿建
(以下、碑陰の文あり、略)〟